「先生」と呼ばれる人まで「支配と服従」では、非常に困ります。
p360の3行目途中から。
この文脈でアインシュタインは、ユダヤ教の神が「迷信を単に否定するものであり、迷信を除外したイメージの結果」であることをジックリと考えます。それならば、道徳を、恐怖だとか、残念で信じがたい試み[恨みと恥]だとかに基礎づける試みでもあります。でもね、ユダヤ民族の強烈な道徳的伝統は、恐怖から大幅に自由のなっているように私の眼には見えます。「仕える神」は「仕える生活」と等しいことも明らかです。また、ユダヤ民族の中の最高の者たち、すなわち、預言者やイエスは、「仕える生活」のために戦いました。「結局、アインシュタインは、恐怖の真逆な、詩編にたくさん出てくる見事な表現にある何某か、すなわち、この世が美しく、しかも、大きいことにウキウキして、悦び、感動すること」を、「素敵だね」と称揚するんですね。それから、ここにこそアインシュタインは、現代的な精神につきものの一文を付け加えんですね。「この悦びこそ、真の科学研究がそのスピリチュアルな栄養素を引き出す感じなんです」と。
最も先進的な科学も、その基にあるものは非常にスピリチュアルなものであることが分かります。400年前のケプラーだけがスピリチュアルな人であったのではなくて、現代のアインシュタインも実にスピリチュアルな悦びを、科学研究の基としていたことが、今日のエリクソンで明確になりましたでしょ。
益川俊英教授や小林誠教授らがかつて所属したN研の坂田昌一名古屋大教授も、この悦びを知っていたと思いますね。なんせ「教授でも大学院生でも、議論において対等」と言っていたんですから。それは坂田昌一教授がその師、仁科義男教授から受け継いだものだそうですね。仁科教授は、ヨーロッパ留学で、日本の上意下達の大学と異なり、ヨーロッパのやり取りのある人間関係に感動したということらしい。その伝統なのでしょう。
まあ、科学でもその基にはスピリチュアルな悦びがあることは、覚えておきたいことですね。
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