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■ 柴原温泉 「菅沼館」 【閉館】

この施設は2010年秋に閉館しています。

秩父屈指の名湯といわれた柴原鉱泉「菅沼館」は、2010年10月に閉館しています。
筆者は温泉仲間とともに閉館1ヶ月前の2010年9月に宿泊していますが、ネタが多すぎるためついつい放置プレーとなり(笑)、気がついたら12年が経過してしまいました。
一念発起して、記録の意味でレポをUPします。

柴原温泉 「菅沼館」
住 所 :埼玉県秩父市荒川贄川2050
電 話 :日帰り入浴不可/2010年10月閉館
時 間 :同上
料 金 :同上

秩父には、江戸時代から「秩父七湯」と呼ばれるいで湯がありました。
 1.新木の湯 (新木鉱泉)
 2.鳩の湯 (鳩の湯温泉、温泉施設は閉館)
 3.柴原の湯 (柴原温泉)
 4.千鹿谷の湯(千鹿谷温泉、温泉施設は閉館)
 5.鹿の湯 (白久温泉、温泉施設は閉館)
 6.梁場の湯 (現存せず)
 7.大指の湯 (現存せず)
うち、5.6.7は早くに廃湯となり、2.4は近年閉館して温泉施設の営業はありません。
「菅沼館」は3.柴原の湯 (柴原温泉)の湯治宿でしたが、2010年10月に閉館しています。

柴原の湯 (柴原温泉)は旧小野原村と旧贄川村の境にあって、『新編武蔵風土記稿』の小野原村の項には「温泉 小名芝原ニアリ 村の北方ニシテ贄川村界の谷間ニテ 両岸ニ湯潭一ヶ所ツゝアリ 共ニ大サ五尺ニ二尺五六寸ハカリ 石モテ積立シ潭ナリ 其由来ヲ尋ヌルニ イツノ頃ヨリ湧出ルコトニヤ知モノナシ 慶安五年(1652年)村ノ水帳ニモ此邊ヲ湯本ト記セシヨシ 其古キ●ヲシテ知ヘシナレト 諸方ヘ聞ヘテ賑ヒシハ近世ノ事ナリト云 今ニ年々三四六七ノ四ヶ月ハ分テ賑ヒ群集スト云リ 此湯ノ効験ハ打身疝気或ハ虚分●気其外 諸病ニ益シト云 瘡毒癩瘡ノ如キニ至リテハ 甚タコレヲ禁ストナリ 両村ノ地ニ跨リ民家六戸アリ イツレモ病客ノ往来スルヲ以テ業トセリ」とあります。

谷間に湯つぼがあり、慶安五年(1652年)の村の資料にも記載され、近世には大いに賑わい湯治宿が6軒あったことなどが記されています。

『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)の(小野原鎮座)稲荷神社の項には「柴原は古くから鉱泉で有名であり、その湯本には昭和36年に焼失した本社(稲荷神社)の社殿建築と同じ宮大工が造ったという、見事な彫刻が施された湯権現社が祀られている。なお、同社の建築年代は江戸中期と思われる。」とあり、すでに江戸中期には湯本守護神としての湯権現社が祀られていたことがわかります。


【写真 上(左)】 三峯神社
【写真 下(右)】 三峯神社の御朱印

Web上には出所不明ながら「柴原温泉は三峯神社の登拝口として賑わった」という記事がいくつかみつかります。
気になったので少し調べてみました。

『荒川村贄川における集落機能と生業形態の変化』(河野敬一氏・平野哲也氏/1991年)には「(贄川は)甲州、信州への交通路、三峰山への参詣路、荒川渡船など、交通の要衝に存在」、「昭和5年(1930年)には対岸の白久に秩父鉄道の三峰口駅が開設された。(中略)秩父参詣者は秩父鉄道を利用し、三峰口駅から白川橋を渡り贄川宿を通らずに参詣できるようになった。」とあります。

また、「三峰山は修験の山で、江戸時代中期以降、農業や火伏せ盗賊除けの神として庶民の間で信仰が盛んになり参詣客が増加した。(中略)参詣を終えるとすぐに下山し、贄川の宿屋を利用するものも多かった。明治期の贄川には『角屋』『角六』『丸太』『逸忠館』『小櫃屋』『油屋』という6軒の旅館が存在した。」
「近世期以来、(贄川の)町分の東の入口には三峰神社の一の鳥居が存在し、三峰神域の入口とされていた。贄川から三峰神社までの約10㎞は、険しい山越えのルートだったため、参詣の前夜に贄川で一泊し、翌朝早く発って三峰神社へ参拝し、夕方再び贄川へ戻り、さらに一泊して帰郷するという行程が一般的であった。」という記載もあり、昭和5年の秩父鉄道開通以前、三峯神社参詣者は贄川経由の登拝がメインであったことを示唆しています。

『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)の(贄川鎮座)八幡大神社の項に「贄川の宿は、三峰山への登拝路における最後の宿場としても大きい役割を担ってきた。当時、登拝日の決まっていた(三峰)講社に対して、神社からの使者がこの贄川の宿まで講社の人々を出迎え、道中の労をねぎらった。帰路に当たっても、使者が講社の人々を贄川まで送り、別れの盃を交わし、道中の無事を祈るとともに、翌年の参拝が約束された。こうした贄川の宿を中心とした三峰神社と講社との結びつきが、三峰講を支える大きな柱の一つとなっていた」とあります。

また、同書の(白久鎮座)熊野神社の項に「三峰詣の登拝順路にあたる当地は、三峰山の信仰と関連するところが多い。なお、この登拝路は、紀州熊野詣の形に類似しているともいわれ、彼地九十九王子に、猪鼻王子が現在でも残っている。」とあります。

いまの地理感から考えると三峰神社からかなり離れた麓の贄川に、登拝口や一の鳥居があったのは不思議な感じもしますが、『江戸における三峰信仰の展開とその社会的背景』(三木一彦氏/2001年)によると、江戸小日向(現・文京区)からの三峰詣ではじつに9泊10日の行程を要していたそうですから、贄川(柴原)~三峰間の10㎞強程度は「すぐ下の麓」という感覚だったのでしょう。

また、三峰山麓には熊野信仰の影響を受けて九十九王子が奉安されていたようで、神域内に(九十九王子を奉安するための)ある程度の距離が必要だったのでは。

贄川と柴原は、道筋こそことなるものの距離的にはさほど離れていません。
上記のとおり三峰講と贄川の宿の結びつきが強かったとすれば、表立って柴原の湯宿に泊まることは憚られたのかもしれませんが、帰途であれば精進落としの意味もあって、温泉で疲れを癒すニーズもあったであろうことは容易に想像できます。

実際『(埼玉県)宮代町史』には、三峰講による三峰神社への代参は毎年4月、川崎市資料にも「多摩区生田の土淵では、4月に代参者2名を(三峰講として)秩父の三峰神社に送った。」とあり、『新編武蔵風土記稿』の「(柴原温泉は)年々三四六七ノ四ヶ月ハ分テ賑ヒ群集ス」という記事と符合しています。

ただし、柴原の湯の本分は湯治であったこと、また、三峰講と贄川宿の強固な関係からして、柴原の湯で参詣客の利用があっても大っぴらにできなかったため、三峰講絡みの記録が少ないのかもしれません。

三峰講は関東平野を中心に多くの代参講が組織されており、(参考:関東平野における三峰信仰の展開(三木一彦氏/2005年))そのほとんどは徒歩による参詣だったので、三峰山麓の宿泊需要は旺盛だったと思われます。

田植え期間をのぞく春~初夏の三峯参詣繁忙期には、贄川の6軒の宿では足りず柴原の湯の宿に送客したこともあったのでは?
ただし、三峰講の旅程はおそらく地元の講元で管理されており、贄川が満杯で柴原の湯に泊まったとしても記録としては贄川泊になったと思われます。
こうした点からも三峰講と柴原の湯のつながりが残りにくかったのかもしれません。

秩父札所三十四ヶ所観音霊場との関係も考えられます。
秩父札所三十四ヶ所観音霊場は文暦元年(1234年)開創と伝わる古い霊場で、長享二年(1488年)の秩父札所番付が実在することから、室町時代後期には定着していたとされます。
西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所とともに日本百番観音に数えられるメジャー霊場で、江戸時代に入るといよいよ盛んに巡拝されました。


【写真 上(左)】 第30番 法雲寺
【写真 下(右)】 第30番 法雲寺の御朱印


【写真 上(左)】 第32番 法性寺
【写真 下(右)】 第32番 法性寺の御朱印

柴原は第30番瑞龍山 法雲寺と第32番般若山 法性寺を結ぶ道筋にあり、秩父札所の巡拝者が泊まりに利用した可能性があります。
(直接関係ないですが、秩父札所に曹洞宗寺院が多い理由を考察した興味ぶかい論文がみつかりましたのでご紹介します。→こちら(『武蔵国秩父札所三十四観音霊場の形成にみる中世後期禅宗の地方展開』(小野澤眞氏/2012年)

以上からすると、柴原の湯 (柴原温泉)は江戸時代から、湯治客、三峰講、秩父札所という集客3チャネルを持っていた可能性があり、これが山あいの湯場ながら6軒の湯宿を支えた背景なのかもしれません。

大正14年刊の『埼玉県秩父郡誌』にも柴原鉱泉は以下のとおり記載されています。
「柴原鉱泉は其の発見江戸時代初期にあり。現今浴客を収容するの設備漸く完全ならんとす。」
明治維新後も大正くらいまではかなりの浴客を迎えていたことがわかります。

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前置きが長くなりました。


【写真 上(左)】 柴原温泉
【写真 下(右)】 右手おくが「菅沼館」

柴原温泉には、2010年時点で「かやの家」(旧称:白百合莊)「柳屋」「菅沼館」の3軒の湯宿がありました。(「きくや」もまだ営業中だったかもしれませんが詳細不明。)
かつての6軒の湯宿は3軒になっているものの、「かやの家」は”日本秘湯を守る会会員宿”、「柳屋」は名物の手打ち蕎麦と日帰り入浴、「菅沼館」は湯治宿とうまく棲み分けしていました。

わけても「菅沼館」のお湯はコアな温泉マニアのあいだで定評があり、日帰り入浴不可ということもあってナゾ多きお湯となっていました。
(じつは、筆者はダメもとで突入し日帰り入浴を乞うたことがあるのですが、「ここは湯治宿なので・・・」とやんわりお断りされた過去があります。)

この温泉マニア垂涎の「菅沼館」が廃業するという情報が出たのはたしか2010年春頃。
これを受けて温泉仲間が廃業直前に貸し切りのオフ会を設定してくださり、これに参戦するかたちでついに初入湯を果たしました。
湯治宿ですが、1泊2食付での宿泊としました。


【写真 上(左)】 庭内エントランス
【写真 下(右)】 庭先のサイン


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 帳場棟

「かやの家」「柳屋」は湯宿としてわかりやすい外観ですが、沢にかかる小橋を渡った最奥の「菅沼館」は湯治宿だけあって民家的な構え。
「柳屋」の裏手的な立地でややわかりにくいですが、庭先に「菅沼館」の看板が出ているので迷うことはありません。


【写真 上(左)】 玄関扁額
【写真 下(右)】 客室棟から帳場棟


【写真 上(左)】 客室棟-1
【写真 下(右)】 客室棟-2

正面が切妻屋根一層の帳場棟。そこから手前に向かってL字型に2層の客室棟が伸びています。築300年の歴史をもつようです。
玄関にはきっちりと宿名扁額を掲げて好ましげなたたずまい。
1階の帳場まわりもいい意味で年季が入って風格さえ帯びています。


【写真 上(左)】 帳場まわり-1
【写真 下(右)】 帳場まわり-2


【写真 上(左)】 1階
【写真 下(右)】 1階廊下

泊まったのは2階。湯治宿らしい開放感あふれる外廊下。
山あいの9月の涼やかな風が、網戸ごしに心地よく吹き込んできます。
窓からは手前に「柳屋」、すこし離れて「かやの家」が望めます。


【写真 上(左)】 階段
【写真 下(右)】 2階廊下


【写真 上(左)】 2階客室-1
【写真 下(右)】 2階客室-2

部屋数はすみませぬ覚えていません。
貸し切りだったので、ふすま開け放しで広々とつかいました。


【写真 上(左)】 館内の扁額
【写真 下(右)】 湯治宿の趣

湯治宿ですが部屋のつくりはよく、床の間に掛け軸も。
すみずみまで清掃が行き届いてきもちがいいです。


【写真 上(左)】 格言の扁額
【写真 下(右)】 句碑


【写真 上(左)】 スリッパ
【写真 下(右)】 室番

館内各所に格言や句、趣味のいい風景画などが掲げられ、ご主人は相当な風流人では?
スリッパの文字は館名ではなく「ゆもと」。湯元宿としての矜持が感じられます。

写真の撮影時間からすると、入浴は早朝から20時まで。
夕食は18時、朝食は7時半からだったと思います。
入浴20時まで、朝食7時半からは、さすがに保守本流の正統派湯治宿。なんちゃって系ではありません(笑)


【写真 上(左)】 夕食
【写真 下(右)】 朝食

食事は家庭料理的メニューでしたが、素材と味つけがよく、予想以上に満足いくものでした。

浴室は広くなく宿泊人数がそれなりにいたので忙しい入浴となりましたが、それでも夕・朝ともにこの名湯を満喫できました。


*************
入湯レポの前に、すこしく柴原温泉の泉源について触れてみます。
柴原温泉の泉源地は、沢沿いに建つ「柳屋」の玄関向かって左手のパイプが引かれた小径を沢沿いに遡ったところにあります。


【写真 上(左)】 柳屋
【写真 下(右)】 柳屋の脇の道です


【写真 上(左)】 淵
【写真 下(右)】 湯大権現宮入口

9月の頃合いでは草木が生い茂り、よほどの好き者でない限り探る気にはならないかと。
「柳屋」脇の小径をしばらく登ると「湯大権現宮入口」の標柱と祠?があらわれます。
このあたりの沢は淵となっていて小滝が流れ込んでいます。


【写真 上(左)】 登ります
【写真 下(右)】 乗っ越した先の沢と林相

ここから急な登りとなりますが、道沿いにパイプが数本引かれているので泉源に向かっていることがわかります。

小さな高みをひとつ乗っ越すと、再び沢沿いとなりここにも数本のパイプが見えます。
ここまで基本は沢沿いの道で徒渉はないですが、ところどころ苔で滑りやすいので要注意。
あたりはうっそうと木々が茂り、沢音だけが響きます。


【写真 上(左)】 湯大権現宮が見えてきます
【写真 下(右)】 湯大権現宮

ひとしきり沢を遡上すると切妻造妻入木造一部ブロック造トタン覆の建物が見えてきます。
こちらが「湯大権現宮」の覆屋です。

よこに説明板がありましたので転記します。
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荒川村指定有形文化財 湯大権現宮 平成二年四月九日指定
この社は江戸時代の嘉永年間(1848-1854年)に磐若村(現在の小鹿野町磐若)の神田雄七郎という大工棟梁によって建立されたもので、彫刻なども見事であるが一部欠けたりしており、聞く所によると盗難にあったといわれている。
社のわきに掘られている井戸は、柴原温泉に使われる湯がわき出している。
この湯は、弱アルカリ性硫化水素がふくまれており、ゆで玉子に似たにおいがする。
この井戸がいつ頃掘られたかは、湯元・菅沼館に口伝されている所によると、鎌倉時代とも藤原時代ともいわれているという。
以前、菅沼館では湯治客が自炊をしていたので、その火のために何度か火災に会い(ママ)、文書は焼失し口伝だけが残っているのだという。
この社には大己貴神(大国主命)と少彦名命の二神が祭られている。
荒川村教育委員会 
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【写真 上(左)】 湯大権現宮社殿
【写真 下(右)】 湯大権現宮と手前が菅沼館泉源

「湯大権現宮」の覆屋には「●有者菅沼館」の木板が掲げられていました。
覆屋内には神田雄七郎作と伝わる社殿が安置され、市指定有形文化財に指定されています。
市の公式Webには「社の脇にある井戸からは、鉱泉が湧き出ており、温泉郷の湯元となっている。現在の社は、嘉永・安政年間(1848~1860)、般若村(現小鹿野町)の棟梁神田雄七郎の手によるもので、規模は小さいが、重厚で格調の高い風格を備えている。」とあります。
小ぶりながら千鳥破風、軒唐破風を備え、水引虹梁まわりに精緻な彫刻が施されたすばらしい社殿です。


【写真 上(左)】 菅沼館泉源
【写真 下(右)】 菅沼館泉源の内部

この「湯大権現宮」のすぐ脇にある井戸が、おそらく菅沼館の泉源と思われます。
内部は暗くよく見えませんが、フラッシュ撮影すると壁面は白い硫黄の湯花に覆われ、ほぼ透明の源泉がたまり、そこにホースが挿し込まれていることがわかります。
見た目からするとかなり強めのイオウ臭(甘たまご臭)が香り立ちそうですが、不思議なことにイオウ臭はさほど感じませんでした。


【写真 上(左)】 最大の泉源
【写真 下(右)】 最大の泉源の内部

「菅沼館泉源」のひとつ上の井戸はもっとも大規模で横穴式。
こちらの内部は見やすく、やや白濁気味で金属のパイプが延びていました。
こちらでは「菅沼館泉源」より明瞭なイオウ臭を感じました。


【写真 上(左)】 ナメ状の沢
【写真 下(右)】 泉源井戸がいくつも見えます

ここから奥の沢沿いにもいくつかの井戸が見えます。
そこまでは河床いっぱいの流れなのでナメ状の河床を徒渉しないとたどり着けませんが、せっかくの機会なので突入してみました。(滑りやすいのでおすすめしません。)

 
【写真 上(左)】 上部の泉源-1
【写真 下(右)】 上部の泉源-2


【写真 上(左)】 上部の泉源-3
【写真 下(右)】 上部の泉源の内部

上部の泉源井戸にもパイプが挿入されています。
位置関係からして、いずれの井戸も河床より低いレベルまで掘り下げ、石積みできっちり組み上げられています。
探索時にモーター音はしませんでしたが形状からすると自然流下はむずかしそうなので、間欠的なポンプ送湯はあるかと。

メモには「徒渉先に泉源5or4+タンク」とあるので、徒渉前の2つと併せると計7の泉源ないし、6の泉源+貯湯槽(タンク)があることになります。
江戸時代の湯宿の軒数は6軒と伝わるので、湯宿毎に自家井戸をもっていたのでは。

また、メモには「パイプ出ているのと出ていないのあり、一番おくがかやの家、手前が柳屋」とあるので、写真には残っていませんが所有を示す何かがあったのかも。

パイプを合流しているものもあるので、複数の泉源を併せて使っている宿もあるかもしれません。
また、もったいなくも漏れているパイプもありました。

*************
さて、いよいよ入湯です。
浴場は1階に1箇所。広くはないのでおそらく時間を譲りあっての入浴となります。
浴場に近づくにつれイオウ臭が強まり、期待が高まります。


【写真 上(左)】 浴場入口
【写真 下(右)】 浴場のサイン

脱衣所は木棚にプラかご。狭く簡素ながら使い勝手のいい脱衣所です。


【写真 上(左)】 脱衣所
【写真 下(右)】 温泉分析書


【写真 上(左)】 浴室
【写真 下(右)】 浴槽から脱衣所

浴室は崖下に位置し、昼間でも薄暗いですがそれだけに落ち着いた空間になっています。
天高はさほどないものの、浴槽よこに開け放ちの窓があるのでこもりは感じられません。
黒い石の内床と白&ピンクのタイル壁が不思議なコントラストを見せています。


【写真 上(左)】 浴槽-1
【写真 下(右)】 浴槽-2

浴槽は扇型で、伊豆石or三波石の枠に青いタイル貼浴槽が嵌め込まれています。
2人も入ればいっぱいでしょうか。


【写真 上(左)】 湯溜め槽
【写真 下(右)】 湯溜め槽の湯口

浴槽手前に鉄平石造の湯溜め槽があり、壁から突き出た塩ビパイプから冷たい源泉が数L/minほど(変動あり)常時投入され、槽内の源泉には白い湯の花を浮かべていました。
この湯溜め槽から浴槽への直接投入はなく、上部スリットから排湯されてそれを青いバケツで受けています。
バケツは3つあり、順に満杯にしていきます。
湯溜め槽はかなり深く、相当量の源泉を溜めることができます。


【写真 上(左)】 バケツに溜められる源泉
【写真 下(右)】 バケツからの源泉投入

泉温は低く、湯溜め槽から浴槽にそのまま落とし込むと浴槽の湯温が下がってしまうので、バケツに溜め、必要に応じてバケツの源泉を浴槽に注ぎ込む方式になっているのだと思います。

槽内壁面からの熱湯注入はあるものの槽内吸湯口は見当たらず。
湯溜め槽のなかに吸湯口があるか、別系統で源泉を引きそれをボイラー加温して浴内注入しているのかもしれません。
じっさい、ボイラーとみられる施設に外から引かれたパイプ(源泉ライン?)が接続されていました。


【写真 上(左)】 ボイラーよこの源泉ライン?
【写真 下(右)】 硫化したカラン

なので、湯づかいは源泉加温かけ流しということになります。
泉温11.3℃、湧出量1.8L/minのスペックでは、このようにするしか方法はないのかもしれません。

真っ黒に硫化したカラン×4。石鹸はおいてありました。

保温用の樹脂パネルの蓋3枚を外していよいよ入ります。
お湯はかなりぬるめ。これは温泉好きがつづけて入っていたので、冷たい源泉をバケツでばりばり投入し、オーバーフローさせていたためと思います。(湯溜め槽がかなり減っていた(笑))


【写真 上(左)】 湯色
【写真 下(右)】 オーバーフロー時の湯色

浴槽のお湯はうすく黄緑がかって、うす茶の浮遊物を浮かべています。
浴槽のお湯は秩父らしい甘いたまご系のイオウ臭がメインですが、湯溜め槽の湯口では明瞭なしぶ焦げイオウ臭が香ります。
秩父の硫黄泉はほとんど甘たまご系イオウ臭なので、このしぶ焦げイオウ臭はめずらしいもの。

しぶ焦げイオウ臭なので、浴後肌にイオウ臭が残りそうな感じもしますが、水硫イオン(HS^-)系の硫黄泉のためかほとんど残りませんでした。
それでも浴中はイオウ臭のバリエーションが楽しめるので、イオウ臭中毒者(笑)にはたまらんお湯かと。

湯溜め槽の湯口は重曹味+たまご味+微苦味で、典型的な重曹硫黄泉のそれ。
かなりつよいツルすべと、肌にまとわりつくようなとろみ、そしてイオウ泉特有のスルスルとした湯ざわりは秩父のお湯でもイオウ分強めの「新木鉱泉」の源泉槽を軽く凌駕しています。

あたたまりはさほど強くないですが、入るほどにあとを曳くような絶妙な浴感があり強く記憶に残ります。
なるほどこれは文句なく秩父一の名湯かと。

基本の湯づかいはさすがに安定していて、夕・朝ともに湯質の大きな変化はありませんでした。

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最後に宿主さんにお伺いしたメモが残っているので、記録のためにアップしておきます。

・信じられないでしょうが昔は本当に賑わっていて、1間6畳に9人までも泊めた。
・繁忙期は部屋数が足りず、布団部屋にもお客を泊めた。
・泊まり客は近在のお百姓さんたちがメインだったが、遠来の客もおり、そのようなお客は予約なしでも泊めた。
・繁忙期はさながらお祭りのようで、庭で旅芸人の興業が催されることも。
(たしかに宿の前庭は興業も開けそうな広がりがありました。)
・宿泊客たちは湯治を終えると、秩父音頭を謡いながら帰っていった。
・300年の歴史を閉じるのは残念だが、これもいたしかたないこと。
などなど・・・。

■ 秩父音頭(小沢千月)


時代の変遷とともに客層が先細り、閉館を余儀なくされたということでしょうか。
それにしても噂に違わぬ良泉。
閉館目前のこの宿泊は、温泉好きとして会心の一湯となりました。


〔 源泉名:不明 湧出地:荒川村大字贄川湯ノ入2の35の8号 〕 <S30.3.9分析>
単純硫黄冷鉱泉(Na-HCO3型) 11.3℃、pH=8.4、1.8L/min自然湧出、固形物総量=335.05/kg
Na^+=不明、Ca^2+=3.55、Cl^-=3.40、SO_4^2-=51.91、HCO_3^-=不明
総硫黄=7.99mg/kg
療養適不試験の結果適と認定する 但し以上の検査は温泉小分析法による

主要成分が一部不明なので全体の成分バランスがわかりませんが、総硫黄=7.99mg/kgなので堂々たる「硫黄泉」であることがわかります。
(「温泉法」規定では総硫黄=1mg/kg以上で温泉、「鉱泉分析法指針」では総硫黄=2mg/kg以上で「硫黄泉」です。)

くわしくは→こちら(温泉分析書の見方 (うつぼ流・初級編))

〔 2022/10/13UP (2010/09入湯) 〕


【 BGM 】
■ 月ひとつ - See-Saw


■ This Love - Angela Aki
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