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■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印【補強・追加版】

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印ですが、まだまだ書くべき人物が残っているので、継続して追加していきます。
■ 鎌倉殿の御家人

当初の記事の踏み込みが甘いので、補強も含めて追加していきます。

5.甘縄神明宮 〔源氏・安達盛長〕の補強版です。

5.甘縄神明宮 〔安達藤九郎盛長〕
神奈川県鎌倉市長谷1ー12ー1
主祭神:天照大神
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:甘縄院(臨済宗)

鎌倉の御家人のなかでも別格だった存在に安達盛長がいます。
常に頼朝公に寄り添い、数ある政争のなかでも安定した存在感を示して、幕府重鎮の地位を保ったまま往生を遂げています。

頼朝公の逝去は正治元年(1199年)、盛長は翌正治二年(1200年)の没と、頼朝公のあとを追うように世を去っています。
頼朝公逝去後、出家して蓮西と号し十三人の合議制に名を連ねましたが、わずか1年で逝去したため出家後の事績はあまり残っていません。

『吾妻鏡』『源平盛衰記』などには”藤九郎盛長”という武士がしばしば登場しますが、この”藤九郎盛長”が安達盛長です。

”藤九郎”は藤原の九郎を示すとされますが、Wikipediaでは小野田三郎兼広(藤原北家魚名流)の子という説が紹介され、父は藤原忠兼あるいは小野田盛兼としている史料もあり、いずれ東国に移住した藤原氏(小野田氏)の流れとみられます。

兄は藤原遠兼(足立遠元の父)ともいわれ、そうなると安達盛長は足立遠元の叔父ということになります。
ただし史料からすると安達盛長よりも足立遠元の方が年長と推測されるので、この関係を疑う見方もあります。

なお、安達姓は文治五年(1189年)の奥州合戦後に新恩の地となった陸奥国安達荘(福島県二本松市)からという説が有力です。(それ以前は藤原姓、ないし小野田姓を名乗っていたのでは?)

盛長の室は、頼朝公の乳母・比企尼の娘の丹後内侍です。
丹後内侍は京で二条天皇に女房として仕え、和歌にも長じていたため京の公家衆と親交が深かったといいます。
盛長が伊豆配流の頼朝公にいちはやく仕えたのは、妻の母・比企尼の意向を受けたためともみられています。

盛長は伊豆の地で頼朝に仕え、挙兵までの雌伏の日々を支えました。
『曽我物語』には、頼朝公と北条政子の仲を取りもったのは盛長との記載もあります。

治承四年(1180年)夏の頼朝挙兵に従い、下総の千葉常胤を説得して味方につけました。
以降も一貫して頼朝公側近の地位を占め、『吾妻鏡』の公式行事の段には必ずといってよいほど”藤九郎盛長”の名が見られます。

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東京都三鷹市の井之頭弁財天は、「頼朝挙兵に際しては、その使者・安達盛長の夢枕に立って大願成就を予言したことから、『勝ち運の銭洗い弁天』として知られる。」(武蔵野市観光機構Web資料から)とされます。

孫引きになりますが、「近世都市周辺の宗教施設の由緒と『名所』化の動向(PDF)」(法政大学多摩論集編集委員会 2020-03)に引用されている『神田御上水源井之頭辨財略縁起』には下記のとおりあります。

「源頼朝公承安年中の頃、伊豆の国に配居し玉ふ時、平家追討の事を謀り玉ひて江戸・笠井・比企・河越の武士召さん迚安達藤九郎盛長使者なりし時、此所の小社に至り暫く休息し頻りに計畧をめくらし思慮未決せさる時、忽然として一人の美人立あらわれ盛長に告て曰、我汝か志願尤大なる事を知る、必本意を達すへし苦思することなかれ、斯謂我ハ源家厚く信仰し玉ふ開運天女の使なりと語り終りて忽に失玉ふ、盛長深く是を感し恐々とし奇異の思ひをなす、是より信心肝に銘し其跡を礼し誓願して謂らく我君速に平氏の一類を追罰し玉ハゝ、此所に一宇の宮殿を建立し奉るへしと一念し、程なく使者の趣を達し帰参の後此事を言上す、頼朝公深く是を感し信心祈誓し玉ひて後建久八年に至り終に宿願を遂玉ひて即此所に宮社を建立し神像を安置し奉れは(以下略)」

伊豆の頼朝公の意向を受け江戸・笠井(葛西)・比企・河越などの武蔵の有力氏族を味方に引き入れるため在所に向かう盛長が当地に休息したとき、御本尊の辨財天女が出現されて本意成就を告げられ、これを聞いた頼朝公は辨財天尊を信心祈誓、宿願成就ののちに宮社を建立し神像を安置したとの由。

頼朝公挙兵前から、盛長が武蔵の有力豪族の懐柔に動いていたことをうかがわせる内容です。
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【写真 上(左)】 井之頭辨財天
【写真 下(右)】 井之頭辨財天の御朱印


盛長の邸宅は鎌倉の甘縄(現・甘縄神明神社付近)ないし扇ガ谷の無量寺谷付近とみられます。
当時の「甘縄」は無量寺谷までも含んでいたとされるので、無量寺谷説が有力かも。
(無量寺谷(むりょうじがやつ、現・鎌倉歴史文化交流館周辺)には安達氏の菩提寺とみられる無量寿院や安達氏邸があったと考えられ、発掘調査では鎌倉時代後期の遺跡が見つかり研究が進められています。)

しかし盛長の当初の本拠地については定説がみられません。

埼玉県鴻巣市糠田の糠田山 放光寺にはかつて安達盛長の館だったという伝承があり、南北朝時代制作とされる伝・安達盛長座像を所蔵しています。
鴻巣市糠田は足立氏の本拠に近く、盛長は足立遠元の叔父としてこの地に拠っていたということも考えられます。

放光寺の山内説明板には以下のとおりあります。
「放光寺の開基は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長とされ、本堂にはこの盛長の坐像が安置されている。(略)安達藤九郎盛長は、治承四年(1180年)源頼朝の挙兵に応じて相模の地で功を挙げ、同国を安堵された。その後、盛長の所領は相模、下総、武蔵にまで及んだ。さらに建久五年(1194年)には頼朝の信任をうけて鶴岡八幡宮の奉公人となった。正治元年(1199年)1月の頼朝の死後出家したが、その後も北条時政や大江広元等とともに重要訴訟の調査・裁決などに係わるなど幕府の要職にあり、三河の守護に就いた。正治二年(1200年)に66歳で没した。」


【写真 上(左)】 放光寺
【写真 下(右)】 放光寺蔵の伝・安達盛長座像(山内説明板より)

放光寺の御朱印は通常不授与ですが、TVドラマ放送を記念し、2022年5月28日(土)14:00~16:00の2時間限定で開催された「安達藤九郎盛長坐像(埼玉県指定有形文化財)」の御開帳イベントでは御住職直筆の御朱印を複写したポストカードが限定配布された模様です。

御朱印イメージは → こちら
御朱印尊格は大日如来。
主印は金剛界大日如来の種子「バン」(蓮華座+火焔宝珠)のようです。


華々しい逸話は少ないですが、雌伏の頼朝公をはやくから支えて千葉常胤を説得して味方につけ、あまたの合戦でも順調に戦歴を重ねていることから、並みの技倆ではなかったと思われます。
梶原景時の変ではとりまとめ役を果たしたという説があり、頼朝公逝去後、十三人の合議制に名を連ねていることからも相応の実力と人望を有していたのでは。

盛長の嫡男・景盛は宝治元年(1247年)の宝治合戦(北条時頼と三浦氏の抗争)で重要な役割を果たして北条氏の勝利・覇権確立に貢献。
幕閣での地位を高め、景盛は3代将軍実朝公と政子の信頼も厚かったといいます。

景盛の嫡男・義景(秋田城介)、その嫡男・泰盛は、北条氏と姻戚関係を強めたこともあり幕政の中枢を占めましたが、「新御式目」など幕政改革をめぐる御家人の内紛をきっかけに弘安八年(1285年)秋に勃発した「霜月騒動」の旗頭となって敗北し、安達一族はここに失脚しました。

泰盛党として蹶起したのは足利氏、小笠原氏、伊東氏、武藤氏(少弐氏)、宇都宮氏、吉良氏、足立氏などの有力御家人層で、この敗戦によりいずれも幕閣での政治力を失い北条得宗を中心とする専制が強まりました。

安達氏および関連氏族とされる大曾根氏は、江戸時代まで活動の記録がみられますが、最盛期は泰盛の代とされています。


上記のとおり、安達盛長の当初の本拠ははっきりせず、ゆかりの寺社も多くはみられません。
安達盛長の館と伝わる鴻巣・放光寺は御朱印不授与なので、ここでは邸宅跡と伝わる甘縄神明宮をご紹介します。

『新編鎌倉志』の藤九郎盛長屋敷に「甘縄明神の前、東の方を云。【東鏡】に、治承四年(1180年)十二月廿日、武衛御行始めとして、藤九郎盛長が甘縄の家に入御し給ふとあり。其後往々見へたり。」とあります。
頼朝公以来、将軍の来臨もしばしばあったといいます。

この邸址に御鎮座と伝わる甘縄神明宮は和銅三年(710年)行基の草創、染谷太郎太夫時忠の創建と伝わり、鎌倉最古のお社ともいわれます。
染屋時忠は山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立したといいます。

永保元年(1081年)源義家公が社殿を再建、以降も源頼朝公、政子の方、源実朝公などの崇敬が篤かったとされます。
源頼義公が相模守として下向の折に当宮に祈願して八幡太郎義家公が生まれたとも伝えられ、源家とつよいゆかりをもちます。

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【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 参道-1

江ノ電「長谷」駅から長谷寺、鎌倉大仏へ向かう道は観光客で賑わいますが、長谷寺山門前から鎌倉駅方向へ向かう長谷小路は生活道路で、観光客の姿は少なくなります。

甘縄神明宮はこの長谷小路から参道が伸びていることもあって、人影のすくない落ち着いた神社です。

長谷小路沿いに木柱の社号標があるものの、目立たず見過ごしがちです。
それでも路地正面には石造の神明鳥居が見えています。

ここはちょうど由比ヶ浜の海岸からつづく平地が山手に差しかかるところで、鳥居おくに4つの階段を連ねています。


【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 邸址碑

踊り場に建つ「安達盛長邸址」碑には「盛長ハ藤九郎ト称ス 初メ頼朝ノ蛭ヶ島ニ在ルヤ 克ク力ヲ勠セテ其ノ謀ヲ資ク 石橋山ノ一戦源家ガ卜運ノ骰(さい)子ハ全く黯黮タル前途ヲ示シヌ 盛長頼朝ニ尾シ扁舟濤ヲ凌イデ安房ニ逃レ 此処ニ散兵ヲ萃(あつ)メテ挽回ヲ策ス 白旗鎌倉ニ還リ天下ヲ風靡スルニ及ビ 其ノ舊勲ニ拠ツテ頗ル重用セラル子彌九郎盛景 孫秋田城介義景邸ヲ襲グ 頼朝以来将軍ノ来臨屡々アリ 此ノ地即チ 其ノ邸址ナリ」とありました。

石灯籠二対のおくは急な階段となり、のぼりきると正面が銅板葺神明造(ないしは入母屋造流れ向拝)の拝殿です。
周囲はうっそうとした社叢におおわれ神さびて、長谷小路から少し入っただけなのにあたりの空気はまったく異質なものです。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額

拝殿前に立派な二対の狛犬。
拝殿向拝の水引虹梁の装飾はシンプルですが、すこぶる均整がとれて風格があります。
向拝正面は板戸で閉扉。その上に「甘縄神明宮」の扁額。


【写真 上(左)】 五社神社
【写真 下(右)】 秋葉神社

境内社として五社神社と秋葉神社が御鎮座です。

境内掲示の略誌には、
御祭神 天照大神
伊邪那岐尊(白山)
倉稲魂命(稲荷)
武甕槌命(春日)
菅原道真公(天神)
とあるので、伊邪那岐尊以下の神々は五社神社祭祀かもしれません。

境内には北条時宗産湯の井があるようですが、超うかつにも写真を撮りわすれました。
北条時宗は鎌倉幕府第8代執権で、室の堀内殿は安達義景の息女。
北条時宗は安達景盛の息女・松下禅尼の邸で産まれ、それがこのあたりといいます。
松下禅尼の子、経時は第4第執権、時頼は第5第執権なので、この時代、安達氏は北条執権の外戚として絶大な権力を握っていたものと思われます。

なお、『徒然草』184段に松下禅尼が障子の切り貼りを手づからしてみせ、時頼に倹約の心を伝えたという逸話がみえ、国語教科書にも取り上げられていたそう。
鎌倉武士の質実剛健の心構えは、安達氏から北条執権家累代にもしっかり伝わっていたようです。

拝殿前には「当宮では御朱印は行っておりません」の掲示がありますが、大町八雲神社にて拝受できました。


甘縄神明宮の御朱印


41.(飯田)足立神社 〔足立右馬允遠元〕
埼玉県さいたま市西区飯田54
御祭神:天神七代尊、地神五代神、日本武尊、市杵島姫命、多岐都比売命、猿田彦命、大国主神、天手力男神、菊理姫命、倉稲御魂命、応神天皇、菅原道真公
旧社格:村社、延喜式内社論社(足立郡足立神社)
元別当:

武蔵国の御家人を代表する一人に足立右馬允遠元がいます。
足立氏は武蔵国足立郡に拠った豪族で、遠元の父・藤原遠兼が当地に土着し遠元の代から足立姓を名乗ったといいます。

『尊卑分脈』では藤原北家魚名流・藤原山蔭の後裔で、安達盛長は遠兼の弟としています。
そうなると安達盛長は足立遠元の叔父になりますが、史料からすると安達盛長よりも足立遠元の方が年長と推測されるので、この関係を疑う見方もあります。

『足立系図』(東大史料編纂所データベース)では、遠元は藤原北家勧修寺流・藤原朝忠の後裔となっています。
Wikipediaによると、武蔵国造家の流れで承平天慶の乱の時代の足立郡司・武蔵武芝の子孫とする説もあるようで、盛長以前の足立氏の系譜は錯綜しています。

諸説いずれも藤原氏ないし天孫系で、足立氏は自らの出自に矜持をもっていたと思われます。

多くの事績を遺しながら、足立遠元の生没年は伝わっておりません。
ゆかりの地の少なさも、鎌倉幕閣重鎮としては異例なほどです。
そのなかでも、桶川市はWebでよくまとまった資料を公開していますので、この資料やその他史料をベースにまとめてみたいと思います。

遠元は平治元年(1160年)の平治の乱で源義朝公に従って右馬允に任ぜられ、源義平率いる17騎の一人として活躍しました。

治承四年(1180年)夏の頼朝公旗揚げでは、頼朝公が下総から武蔵に入った10月2日に豊島清元・葛西清重父子らとともにいち早く参上し、武蔵国足立郡を本領安堵されています。
これは、頼朝公が東国武士に本領所有権を譲渡した最初の事例とみられています。

建久元年(1190年)、頼朝公上洛の際に右近衛大将拝賀の布衣侍7人(三浦義澄、千葉胤正、工藤祐経、後藤基清、葛西清重、八田知重、足立遠元)のうちに任ぜられ供奉。
鎌倉御家人の頂点のポジションを占めています。

頼朝公逝去後には十三人の合議制に名を連ね、晩年も相当の実力と人望を保っていたことがわかります。

母は秩父氏系の豊島康家の息女で、足立郡司職は豊島氏から承継との見方があります。
娘は畠山重忠、北条時房に嫁いで、有力御家人と縁戚関係を築いていました。
なお、畠山重忠に嫁いだ菊の前は、元久二年(1205年)、重忠が北条時政の謀略により討たれたときに自害と伝わります。

別の娘は後白河法皇の近臣の藤原光能に嫁ぎ、京との繋がりも深めています。
光能は永万元年(1165年)下野守に任ぜられているので、そのときに面識をもったのかもしれません。
この時点で院の近臣と縁戚関係をもった東国武士は少ないとされ、これも遠元のオリジナルな強みとなった可能性があります。

後世、どちらかというと文官的な捉え方をされる人物ですが、その武勇は『平治物語』の一幕からひしひしと感じられるので、長くなりますが抜粋引用してみます。

『平治物語/六波羅合戦事』
「金子ノ十郎家忠は(略)真先懸けて戦ひけり。矢種も皆射尽し、弓も引き折り、太刀をも折りければ、折太刀を提げて、あはれ太刀がな、今一合戦せんと思ひて駈け廻る処に、同国の住人足立右馬允遠元馳せ来れば、是れ御覧候へ、足立殿、太刀折れて候。御帯添(戦場で腰につける予備の太刀)候はば、御恩に蒙り候はんと申しければ、折節帯添なかりしかども、御邊が乞ふが優しきにとて、先を打たせたる郎等の太刀を取りて、金子にぞ与へける。家忠大ニ悦びて、又駈け入りて、敵数多討ちてけり。足立が郎党申しけるは(略)是程に見限られ奉りては、(略)既に腹を切らんと、上帯を押し切りければ、遠元馬より飛んで下り、汝が恨むる所尤も理なり。然れども、金子が所望黙止がたさに、御邊が太刀を取りつるなり。軍をするのも主のため、討死する傍輩に乞はれて、与えぬ者や侍らん。(略)」暫く待てといふ所に、敵三騎来りて、足立を討たんと駈け寄せたり。遠元、真前に進みたる武者を、能つ引いてひやうと射る。其の矢誤たず、内兜に立ちて、馬より真倒に落ちければ、残りの二騎は馬を惜んて駈けざりけり。遠元軈て走り寄りて、帯きたる太刀を引き切っておつ取り、汝が恨むる所尤なり。太刀とらするぞとて、郎党に与へ、打ち連れてこそ又駈けけれ。」

要約すると、武勇の士・金子家忠が激闘で太刀を失ったので、同輩の遠元に予備の太刀を貸してほしいと頼んだところ、予備の太刀のない遠元は郎党の太刀を取りあげてこれを家忠に与えました。
主君に太刀を取られた郎党は面目を失い切腹しようとするも、遠元はこれを押しとどめ、太刀を失った同輩(家忠)を見殺しにするわけにはいかぬ、しばし待てと諭しました。
そこへ討ち懸かった敵騎を遠元はすぐさま強弓一矢で射落とすやその太刀を取り上げ、郎党に「お前が恨みに思うのももっともだ。それ、太刀をとらすぞ」と、敵から取り上げた太刀を郎党に与え、気迫を取り戻した郎党とともに戦陣に駈け戻ったということです。

平治の乱の六波羅合戦といえば、名だたる武将がしのぎをけずった激戦です。
そのなかでこの逸話がとりあげられた足立遠元の戦ぶりは、戦場でも際立っていたのでは。
じっさい、平重盛との「待賢門の戦い」でも源氏17騎の一人として活躍しています。

これほどの武勇をもちながら公文所寄人に抜擢されるなど、文武両面に秀でた遠元は、しばしば京からの来賓の接待役に任ぜられています。

元暦元年(1184年)秋、公文所が設置されると5人の寄人(中原親能、二階堂行政、藤原邦通、大中臣秋家、足立遠元)の一人に選ばれています。

奥州合戦の勲功として頼朝公に御家人10人の推挙が与えられた際は、その一人に入り左衛門尉に任ぜられています。
とくに10人の推挙者は鎌倉御家人を代表する顔ぶれ(千葉常秀(父常胤→)、梶原景茂(父景時→)、八田知重(父知家→)、三浦義村(父義澄→)、葛西清重、和田義盛、佐原義連、小山朝政、比企能員、足立遠元)で、遠元は御家人屈指のポジションを占めていました。

奥州合戦勲功推挙の10人(武人の代表)と公文所寄人(文官の代表)、いずれにも名を連ねたのは足立遠元ただひとりで、ここからも文武両面から貢献する遠元の存在感がみてとれます。

遠元の記録は承元元年(1207年)3月で途絶えており、ほどなく世を去ったとみられています。
弘安八年(1285年)の霜月騒動で遠元の嫡曽孫・足立左衛門尉直元が安達泰盛側につき自害しているので、足立氏は霜月騒動までは安達氏と連携して勢力を保っていたのでは。

なお、この霜月騒動までには、足立氏の足立郡司職は北条氏に移ったとみられています。

霜月騒動で失脚した足立氏ですが、承久三年(1209年)、遠元の孫・遠政は丹波国氷上郡佐治庄の地頭職となり、佐治庄小倉に移っていました。
同地の山垣城(現・兵庫県丹波市青垣町)に拠った遠政は大いに勢力を張り、丹波の名門足立氏の祖となりました。

丹波足立氏は天正七年(1579年)5月に織田信長の丹波攻めを受け、山垣城は羽柴秀長と明智光秀の軍勢に攻められてついに落城。
丹波足立氏は戦国大名としては没落しましたが、いまも丹波の名族として知られています。
なので、足立氏ゆかりの史跡は関東よりも丹波に多く残ります。

遠元の本拠地は明らかになっていませんが、桶川市資料によると、遠元の館跡と伝わる場所は4か所あるそうです。

1.さいたま市西区内
2.桶川市川田谷の三ツ木城跡、
3.桶川市神明1丁目の諏訪雷電神社東側付近
4.末広2丁目の総合福祉センター付近
ただし、いずれの地も決定的な史料は見つかっていないそうです。
4は「一本杉」と呼ばれ、「新編武蔵風土記稿」の桶川宿の項に遠元館と伝わる地として記載されています。

ここでは、境内由緒書に「豪族足立氏が奉斎する氏神」と明記されている、さいたま市西区飯田の足立神社をご紹介します。

新編武蔵風土記稿には下記のとおりあります。
植田谷本村 足立神社
「名主勘太夫カ屋舗ノ内ニアリ(略)相傳ヘテ 延喜式神名帳ニ載スル足立神社ハ 即當社ナリト云 此説モシ然ランニハ 當國風土記ニ 神田六十束 四圍田 大日本根子彦太日天皇御宇二年戊子所祭猿田彦命也 有神戸巫戸等ト記スモノニシテ最古社ナリ(略)或ハ云シカハアラス當所ハ藤九郎盛長ノ領地ニシテ 在住セシヨシナレハ 盛長没後其靈ヲ祀リユヘ 足立ノ社ト號セシヲ 稱呼ノ同シケレハ誤リ傳ヘテ 神名帳ノ足立神社ト定メシモノナラント 是コト牽強ノ説トイウヘシ 盛長カ當郡ニ住セサルコトハ前ニ辨セルカ如シ モシクハ足立右馬允ヲ誤リ傳ヘシニヤ サレトソレモ慥カラル據ナキ時ハウケカヒカタシ」

「前ニ辨セル」とはおそらく植田谷本村の項で、以下のとおりあります。
「領主ハ詳ナラサレント 右大将頼朝ノ頃ハ藤九郎盛長此邊ヲ一圓領セシ由イヒ傳フレトオホツカナシ コレ恐ラクハ足立右馬允遠元ヲ誤リ傳ヘシナラン 此人當郡ヲ領セシコト且盛長ハ安達氏ニシテ足立氏ナラサルコト等ハ(略)」

まとめると、植田谷本村付近は鎌倉初期に藤九郎(安達)盛長の領地という言い伝えがあるが、これは誤りで、足立右馬允遠元の領地であるとしています。
そして、当初の領主は足立氏であり、安達氏ではないと念を入れています。

また、「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)には下記のとおりあります。
「『延喜式』神名帳には、武蔵国足立郡内の神社として、氷川神社・足立神社・調神社・多気比売神社の四社の名が記されている。これらの諸社のうち、足立神社は、古代における殖田郷に鎮座し、この殖田郷を本拠地とした在地の豪族足立氏が奉斎した神社であったものと思われる。」

さらに境内掲示の説明書には以下のとおりあります。
「足立神社は、平安時代にその名が見える古い神社です。植水地区を中心とした殖田郷に本拠をおいた平安時代の豪族足立氏が奉斎する氏神でしたが、崇敬者も増え朝廷の『延喜式神名帳』に登載されるほどになりました。この神名帳にみえる足立神社だとする社が、浦和市・鴻巣市・市内宮原町にもありますが、『新編武蔵風土記稿』では足立氏の子孫と伝える植田谷本村の名主小島勘太夫家屋敷内にあった足立神社をそれと記しています。
この足立神社は明治40年に植田谷地内の12社を合祀して、氷川神社の社号を足立神社と改称したものです。」

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【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標

(飯田)足立神社は、所沢と大宮を結ぶ県道56号さいたまふじみ野所沢線沿いに御鎮座です。
荒川と鴨川に挟まれた低湿の地ですが、水利はよさそうです。

県道に面して社号の幟旗がはためいていましたが、これは正月だったからかもしれません。
県道に面して玉垣、右手に「総社 足立神社」の社号標とその先に石造の神明鳥居。
鳥居前には「足立遠元公」の幟がはためいています。


【写真 上(左)】 参道と鳥居
【写真 下(右)】 参道

そこからまっすぐ拝殿に向かって参道が伸び、二の鳥居は朱塗りの明神鳥居です。
全体に社叢がすくなく、明るく開けた雰囲気の境内。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 扁額

拝殿は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁はシンプル。
向拝上には社号扁額が掲げられています。
本殿はおそらく大がかりな一間社流造銅板葺で、身舎の朱塗りが鮮やか。


【写真 上(左)】 拝殿と本殿
【写真 下(右)】 御嶽神社

境内には立派な御嶽神社も御鎮座です。

参道向かって右手に社務所。
こちらは原則、正月や祭礼時のみの御朱印授与のようですが、正月に参拝したので社務所は開き、御朱印も直書で授与されていました。


【写真 上(左)】 御朱印案内
【写真 下(右)】 御朱印

足立遠元ゆかりで御朱印を授与されている寺社はこちらしか確認できておらず、しかも限定授与なので遅くなりましたが、ようやく記事にまとめることができました。


【 BGM 】
■ I.G.Y. - Donald Fagen


■ Oh Yeah! - Roxy Music


■ Our Love - Michael McDonald


■ Isn't It Time - Boz Scaggs


■ Both Sides Now - Marc Jordan
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