関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
〔 温泉地巡り 〕 (旧)川原湯温泉
このところ、休廃業となった施設レポへのアクセスがやたらに目立つので、ダム湖の底に沈んでしまった旧・川原湯温泉の記事を10年振りにアゲてみます。
【写真 上(左)】 2003年の聖天様露天風呂
【写真 下(右)】 2007年の温泉街上部
【写真 上(左)】 2007年の川原湯神社境内
【写真 下(右)】 2011年の笹湯
川原湯はかなり通ったので、それなりに写真が残っています。
記録の意味も含めて随時追加していきたいと思います。
なお、現在川原湯温泉は移転し、新たな歩みを始めています。
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2013-02-23 UP
吾妻の名湯、川原湯温泉。「八ッ場(やんば)ダム」建設をめぐり揺れ動く温泉地ですが、先日(2013/02)ひさびさに訪れたので、最新の情報をまじえリニューアルUPします。(前回UPは2007/04/09)
【写真 上(左)】 吾妻川対岸からの主要部 (2011/02)
【写真 下(右)】 サイン (2013/02)
<プロフィール>
川原湯温泉は、上州、吾妻渓谷を見おろす歴史ある温泉地。JR吾妻線「川原湯温泉」駅から川原湯神社へ登る細い坂道の両側に共同浴場、旅館、お店などが並び建ちこぢんまりとまとまった集落を形成していました。
川原湯温泉は八ッ場(やんば)ダムの完成により、近い将来ダムの底に沈む予定とみられていましたが、政権の交代など(諸説あり)により、現在その方向性は不明瞭なものとなっています。
1966年、実施計画調査が開始(調査出張所開設)されたこのダム計画は、激しい反対運動と必要性をめぐる議論を巻き起こしながら、1994年関連道路の工事に着手。以降、周辺工事が進捗しています。
現在の川原湯温泉はダムの底に水没し、山側のダム湖畔に移転・再建(現地再建方式(ずり上がり方式))される計画です。
脱ダムの流れのなか建設される「八ッ場ダム」。これにより水没し温泉地の再生を強いられる可能性がある川原湯温泉の将来に、全国から多くの視線が注がれています。
(なお、群馬県の公式Webでは、工期は昭和42(1967)年度~平成27(2015)年度、2012年8月時点での工事進捗状況は用地取得進捗率89.3%、家屋移転進捗率は95.3%、付替鉄道進捗率は73.8%、付替国道・県道進捗率は91.3%となっています。)
なお、国土交通省八ッ場ダム工事事務所Webでは、現在の川原湯地区の工事実施状況はこちら、川原湯地区の方々が主として移転する予定の「打越地区」における利用計画はこちらに掲載されています。
【写真 上(左)】 新川原湯温泉の計画掲示 (2013/02)
【写真 下(右)】 温泉地上部の造成状況 (2013/02)
計画の方向性は不明瞭ながら、現地では建物の撤去や道路の付け替えなどが進み、数年前とは趣を一新しています。
【写真 上(左)】 上手旅館群があった頃の温泉街 (2007/01)
【写真 下(右)】 多くの建物がなくなった温泉街(「山木館」下から) (2013/02)
鉄道でのアプローチはJR吾妻線「川原湯温泉」駅。ダム建設にともなう線路の付替えにより駅の移設が行われ「新川原湯温泉(仮称)」駅として新設される計画があります。
温泉地の玄関駅らしく駅舎内には温泉分析書が掲出されています。
ここから徒歩でアプローチできる距離ですが、登り坂がつづくので荷物をもっての移動はなかなかきびしいかも。
【写真 上(左)】 「川原湯温泉」駅 (2006/07)
【写真 下(右)】 「川原湯温泉」駅舎の分析書 (2006/07)
【写真 上(左)】 駅構内 (2006/07)
【写真 下(右)】 駅舎内の旅館案内 (2006/07)
「川原湯温泉」駅の温泉寄り上空には、代替路の一部である湖面1号橋の橋脚がそびえ立ち、一種独特な景観をみせています。
坂ののぼり口にある温泉街入口のゲートは以前よりむしろ立派になっています。
この周辺にはPが点在しているので、上のPが満車の場合はここに停めることになります。
【写真 上(左)】 川原湯温泉入口 (2013/02)
【写真 下(右)】 そびえ立つ橋脚 (2013/02)
途中クランクを抜け小沢を超えると坂が急になり温泉街に入ります。
左方の高みには人気の共同浴場「聖天様露天風呂」があります。
もすこし上ると「山木館」下でふたたび小沢を渡ります。このあたりからのロケーションは「渓ばたの湯」「崖湯」を彷彿とさせるものがあります。
【写真 上(左)】 小高いところにある聖天様露天 (2013/02)
【写真 下(右)】 「崖湯」の風情 (2013/02)
ダム建設計画があったためか温泉地ながら全体にインフラ整備は進んでおらず、数年前まで古びた温泉街の佇まいを色濃く残していましたが、いまは建物の取り壊しや集落の移転が進み、かなり見通しがよくなっています。
【写真 上(左)】 建物が建ち並んでいた頃の下部 (2007/01)
【写真 下(右)】 すでに温泉街の面影はない下部 (2013/02)
【写真 上(左)】 建物が折り重なる往年の川原湯 (2003/8)
【写真 下(右)】 すっきりとした温泉街 (2011/02)
昭和36年10月発行の国鉄時刻表、平成4年発行JTB温泉案内いずれも、下記の旅館が掲載されています。(*は後者のみ)
養寿館、柏屋旅館、敬業館みよしや、山木館、山木星、丸木屋*。
絶景風呂として知られていた「養寿館」は2001年7月31日をもっていちはやく閉館し、以降、「敬業館みよしや」「高田屋」「柏屋旅館」が漸次閉(休)館・撤去となっています。
【写真 上(左)】 「柏屋」と川原湯神社 (2011/02)
【写真 下(右)】 「柏屋」跡地 (2013/02)
【写真 上(左)】 「柏屋」と「高田屋」 (2007/01)
【写真 下(右)】 上手旅館跡地と新源泉 (2013/02)
【写真 上(左)】 「みよしや」 (2007/12)
【写真 下(右)】 「みよしや」跡地 (2011/02)
笹湯周辺は移転が進み空き地が目立ちます。
以前は建物が密集した路地を抜けてのわかりにくいアプローチだった共同浴場「笹湯」周辺は次第に建物がまばらになり、いまは笹湯だけがぽつんと残っています。
その「笹湯」も2011年10月7日をもって閉鎖されています。
閉鎖を告げる貼り紙にあった「新天地への移転」という文字が印象に残りました。
【写真 上(左)】 建物に囲まれていた「笹湯」入口 (2003/02)
【写真 下(右)】 かつての面影はない「笹湯」へのアプローチ (2013/02)
【写真 上(左)】 孤軍奮闘で稼働をつづけていた「笹湯」 (2011/02)
【写真 下(右)】 寂しくなった「笹湯」のまわり (2013/02)
【写真 上(左)】 閉鎖された「笹湯」 (2013/02)
【写真 下(右)】 「笹湯」閉鎖の案内 (2013/02)
もともと民宿を含めると20軒ちかくもあったとされる湯宿は数年前には数軒に減り、今回(2013/02)、確実に営業が確認できた旅館は「山木館」と「丸木屋」(その他は未確認)。民宿系は数軒営業継続している可能性がありますが詳細不明。
【写真 上(左)】 山木館 (2013/02)
【写真 下(右)】 丸木屋 (2013/02)
【写真 上(左)】 やまきぼし (2013/02)
【写真 下(右)】 ゆうあい (2013/02)
「王湯」のまわりは上手の建物がなくなり明るくなりましたが、なんとなく淋しそう。
やっぱり背後に「柏屋」を配したかつての姿の方が安定感があるような・・・。
【写真 上(左)】 背後に「柏屋」を配した往年の「王湯」 (2011/02)
【写真 下(右)】 上手が空いて明るくなった「王湯」 (2013/02)
【写真 上(左)】 建物に囲まれていた「王湯」の露天 (2007/01)
【写真 下(右)】 基礎だけになった王湯の裏手 (2013/02)
また、川原湯神社よこから上手に抜ける道は旧「高田屋」のあたりに付け替えられ、ここをいくと山手を走る新道に抜けられます。
その合流点の傍らには「薬師堂」が鎮座しています。
【写真 上(左)】 新道脇の薬師堂 (2013/02)
【写真 下(右)】 鬱蒼とした川原湯神社境内 (2003/08)
【写真 上(左)】 タンク設置前の川原湯神社境内 (2007/01)
【写真 下(右)】 同(タンク設置後) (2013/02)
新源泉がある川原湯神社境内は以前は鬱蒼と木々が茂り厳かな雰囲気でしたが、その後、足湯や温泉タンクが設置され開けた感じになっています。
現在、往時の姿を比較的よく保っているのは「山木館」から「王湯」にかけての一画のみです。
【写真 上(左)】 往時を比較的残す「丸木屋」前 (2013/02)
【写真 下(右)】 「王湯」から温泉街 (2013/02)
【 2007/04/09UP時 】
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温泉地移転に向けて徐々に建物が取り壊されています。展望が開け、道からもところどころ吾妻渓谷が見おろせるようになりましたが、温泉地としての風情は次第に薄れていってしまうのでしょう。
川原湯温泉のパンフに「昔日の湯治場へ。幻となる前に・・・」とあるように、この往年の名湯を偲ぶのに、いまが最後のチャンスなのかもしれません。
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一般客が入浴できる共同浴場は「王湯」、「笹湯」、「聖天様露天風呂」の3軒(ジモ専的な「笹湯」まで開放されているのはありがたいことでした。)ありましたが、上記のとおり2011年10月7日をもって「笹湯」は閉鎖されています。
なお、「やまた旅館」のWebによると、「笹湯」は、かつては王湯の露天風呂のところにあって、王湯の露天風呂が出来る前は郵便局だったそうです。
そのためか、今も「王湯」露天前には赤いポストがあって温泉街のいいアクセントになっています。
【写真 上(左)】 王湯の看板 (2007/01)
【写真 下(右)】 王湯の内湯 (2007/01)
【写真 上(左)】 笹湯 (2003/02)
【写真 下(右)】 笹湯の浴槽 (2007/04)
混浴の「聖天様露天風呂」は高みにあってロケ抜群なのでとくに人気が高く、週末の昼間で人がいないことはほとんどなく、今回も数人の客でにぎやかでした。
【写真 上(左)】 聖天様露天 (2004/04)
【写真 下(右)】 聖天様露天の浴槽 (2011/02)
吾妻渓谷に面する山肌に張りつくように連なる独特なロケーションで、「崖湯」とネーミングされた浴場をもつお宿もあります。
冬場は雪雲が流れてくるエリアで、雪化粧していることも。凛と引き締まった冬の川原湯は独特の風情があります。
【写真 上(左)】 足湯設置前の新源泉 (2003/08)
【写真 下(右)】 新湯(新源泉)&足湯 (2007/01)
温泉街の上手、川原湯神社の境内には新源泉が開発され足湯が設置されています。その上の湯槽ではよくたまごが茹でられています。約15分で茹で上がるそうです。
そこから上手に階段をのぼると川原湯神社が鎮座しています。厳冬の早朝に行われる「湯かけ祭り」は奇祭として有名です。(詳細下記)
<歴史> (川原湯温泉観光協会資料他を参考)
約800年の歴史をもつという川原湯温泉には、ふたつの開湯伝承があります。
[ 伝承1 ]
「800年ほど昔、上湯原の不動院を旅のお坊さまが訪れ一晩の宿を乞うた。不動院のお坊さまが中に迎え入れると、旅のお坊さまは薬師如来像を取り出し、お経を唱えはじめた。不動院のお坊さまが身の上をたずねると『私の名は川原朝臣権頭光林。帝にお仕えした家に生まれたのですが体が弱くお勤めもできませんので、こうして諸国の霊場霊地を廻って歩いているのです。』といわれた。その夜のこと、光林が眠っていると、薬師如来が夢枕に現れ、『ここから東へ八・九丁行ったところの岩陰に熱い湯が湧いている。その湯に入ると病が治り、長生きすることは間違いない。』とのお告げがあった。光林がその岩陰に行くとお湯が湧いていてその湯に毎日入るとすっかり健康になった。その後、村人たちもこの湯の恩恵を受けることになり、川原朝臣権頭光林の名にちなみ『川原湯』と呼ばれるようになった。」
[ 伝承2 ]
「建久四年(1193)(建久三年とも)、源頼朝公が浅間山麓での狩りに赴く折り、今の川原湯を通りがかった。その時、山の中腹から湯けむりがあがっているのに気づき、発見されたのが川原湯温泉。このとき頼朝公は、そばにあった大きな石を王石(衣掛石)と名づけられた。」
この伝承にちなんでか、「王湯」の玄関には源氏の紋所”笹竜胆”が誇らしげに掲げられています。
【写真 上(左)】 笹竜胆 (2013/02)
【写真 下(右)】 川原湯神社の扁額 (2013/02)
[ 湯かけ祭り ]
「源頼朝公の発見から約400年が過ぎたある日のこと、川原湯温泉のお湯が突然出なくなってしまった。困り果てた村人達は、かつて湧いていたお湯がニワトリの卵を茹でた匂いがしていたことから、ニワトリを生贄にしてお祈りしたところ、あら不思議、お湯が再び湧き出た。村人は豊かに湧いた熱いお湯を『お湯わいた』『お祝いだ』といいながらお互いに掛け合い祝った。これがいまもおこなわれる奇祭『湯かけ祭り』の始まりといわれている。」
毎年正月20日、大寒の早朝におこなわれる「湯かけ祭り」は、ふんどし一つの裸姿でお湯をかけ合う祭で、関東を代表する奇祭として有名です。
【写真 上(左)】 奇祭、湯かけ祭り (2013/02)
【写真 下(右)】 湯かけ音頭 (2013/02)
[ 湯かけ音頭 ] 豊田嘉雄 作詞
1.ヤアー 正月二十日にゃ どなたもおいで
サテ 上州川原湯 湯かけの祭 ソレ
(囃子) メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン
囃子にある「シャンシャンシャン ソレ オシャシャンのシャン」という拍子は、祭りの手締めにもつかわれるもので、「川原湯シャンシャン締め」といわれ川原湯独特の手締めとされています。
なお、湯かけ祭りについては、「やまた旅館」のWebで詳細に説明されています。
川原湯の社のすだれ
古りたれど入りて拝めば
肩ふれて鳴る
与謝野 寛(晶子)
【写真 上(左)】 川原湯神社 (2013/02)
【写真 下(右)】 句碑 (2011/02)
江戸期の温泉番付にも「川原湯」「河原の湯」としてしばしば登場し、別格の草津、伊香保の次点クラスに沢渡、四万などとならんでランクされているので、相応の評価を得ていたものと思われます。
また、「草津の仕上げ湯(直し湯)とされていた」という資料もみられます。
「錦絵にみる日本の温泉」(木暮金太夫氏著/国書刊行会)収録の「上州川原湯温泉之図(墨摺)萩原太郎右衛門板」には、大湯、笹湯、留湯の浴場が記載され、滝の湯、目の湯、虎の湯という浴場ないし源泉があったようです。
絵図をみると現在より下手の吾妻川沿いまで浴場が描かれています。
【写真 上(左)】 川原湯下の吾妻川 (2011/02)
【写真 下(右)】 吾妻渓谷 (2007/11)
維新後、”関東の耶馬渓”といわれる景勝地、吾妻渓谷をひかえて文人の来訪も多く、大正九年に著された若山牧水の「渓ばたの温泉」には川原湯温泉が描写されています。
「上州中之条町で渋川から来た軌道馬車を降りた客が五人あった。うち四人は四万温泉へ向かひ、私はただひとりそれらの人たちと別れて更に五里ほど吾妻の流れに沿うて遡り、その渓ばたに在る川原湯温泉にやって来た。・・・」(川原湯温泉Webより)
また、昭和初期には、老舗「山木館」に「のらくろ」の作者・田河水泡画伯が滞在、原稿を講談社へ送っていました。(「山木館」Webより。)
【写真 上(左)】 「元の湯」の泉源 (2007/01)
【写真 下(右)】 たまごが茹でられる高温泉、新湯(新源泉)
<温泉>
takayamaさんの「群馬の温泉ページ」に掲載されている県薬務課作成の温泉統計(平成11年度温泉利用状況)によると、川原湯温泉で源泉総数6(すべて自噴、内 利用源泉5)となっています。確認できた源泉と利用状況は以下のとおり。(TIM=イオン計、TSM=溶存物質計、TS=総硫黄、成分濃度・TSの単位はg/kg)
■元の湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 71.6℃ pH=7.1 TIM=1.82 TS=2.2 <新湯との混合泉データ>
「王湯」(内湯のみ?)
■元の湯・新湯混合泉 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 71.6℃ pH=7.1 総計=1.96 TS=2.2
「聖天様露天風呂」「柏屋旅館」「丸木館」「高田屋」
■新湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 78.9℃ pH=7.3 総計=1.89 TS=4.1
「笹湯」
■虎湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 59.5℃ pH=7.6 総計=1.69 TS=4.89
「敬業館みよしや」「山木館」
■養寿館(廃業)* S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 -℃ pH=7.7 TSM=1.77
■ますや* Na・Ca-Cl・SO4冷鉱泉 -℃ pH=8.4 TSM=1.67
「民宿ますや」?
■新川原湯(上湯原)温泉 泉質未詳
(* やませみさんデータ)
「元の湯」の泉源は「王湯」母屋の真下、「新湯(新源泉)」の泉源は川原湯神社境内、本殿階段下にあり、よこにたまご茹で場と足湯があります。
新湯(新源泉)は温泉地移転後も利用されるとみられますが、他の泉源については不明。
【写真 上(左)】 王湯の内湯湯口 (2007/01)
【写真 下(右)】 析出&硫化バリバリの王湯露天湯口 (2007/01)
上述の「錦絵にみる日本の温泉」で「大湯」「笹湯」「留湯」「滝の湯」「目の湯」「虎の湯」のうち、「滝の湯」以降の効能は別になっているので、源泉が違うのかも。
推測ですが、「王湯」「笹湯」「留湯」は現「元の湯」、「虎の湯」は現「虎湯」につながるものかもしれません。
また、「丸木屋」の館内掲示によると、ここは「智与の湯(通称・丸木屋目の湯)」という台帳登録源泉をもっているようなので、これは上の「目の湯」の系譜かもしれません。
【写真 上(左)】 新源泉の標識 (2013/02)
【写真 下(右)】 かなりの硫黄成分を含んでいます(新源泉足湯) (2013/02)
泉質は硫黄含みの含芒硝土類食塩泉系。アブラ臭としぶ焦げイオウ臭が醸し出す独特な”川原湯臭”が特徴です。
うすく黄色味がかった透明の熱湯に白~灰色の羽毛状の湯の花を浮かべ、きしきしととろみを帯びた肌に喰い入るような力強いお湯で、強い温まり感があります。
温泉王国群馬のなかでも第一級に入る、文句なしの名湯です。
【写真 上(左)】 「山木館」の内湯 (2003/02)
【写真 下(右)】 「丸木屋」の浴場 (2013/02)
〔 源泉名:川原湯温泉 新湯 〕 <H23.6.6分析>
含硫黄-Ca・Na-塩化物・硫酸塩温泉 79.3℃、pH・湧出量=記載なし、成分総計=2.15g/kg
Na^+=352.00mg/kg、Ca^2+=341.00、Fe^2+=0.05
Cl^-=680.00、HS^-=2.60、SO_4^2-=579.00
陽イオン計=701.00、陰イオン計=1314.00、メタけい酸=87.9、メタほう酸=39.1、硫化水素=1.9
「元湯」「元湯・新湯混合泉」「新湯」「虎湯」と入っていますが、お湯のイメージに大差はありません。
熱湯の絞りかけ流しが多いので、泉質の微妙なちがいより、むしろ加水やお湯のなまり加減に影響を受けるのだと思います。
【写真 上(左)】 なお稼働をつづける「王湯」 (2013/02)
【写真 下(右)】 案内板 (2013/02)
今後については八ツ場ダム次第ということになりそうですが、数百年の歴史とたぐい希な名湯は、ほかでは得ようとしても得られない資産です。
魅力あふれる温泉地として再生し、繁栄することを願っています。
【写真 上(左)】 2003年の聖天様露天風呂
【写真 下(右)】 2007年の温泉街上部
【写真 上(左)】 2007年の川原湯神社境内
【写真 下(右)】 2011年の笹湯
川原湯はかなり通ったので、それなりに写真が残っています。
記録の意味も含めて随時追加していきたいと思います。
なお、現在川原湯温泉は移転し、新たな歩みを始めています。
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2013-02-23 UP
吾妻の名湯、川原湯温泉。「八ッ場(やんば)ダム」建設をめぐり揺れ動く温泉地ですが、先日(2013/02)ひさびさに訪れたので、最新の情報をまじえリニューアルUPします。(前回UPは2007/04/09)
【写真 上(左)】 吾妻川対岸からの主要部 (2011/02)
【写真 下(右)】 サイン (2013/02)
<プロフィール>
川原湯温泉は、上州、吾妻渓谷を見おろす歴史ある温泉地。JR吾妻線「川原湯温泉」駅から川原湯神社へ登る細い坂道の両側に共同浴場、旅館、お店などが並び建ちこぢんまりとまとまった集落を形成していました。
川原湯温泉は八ッ場(やんば)ダムの完成により、近い将来ダムの底に沈む予定とみられていましたが、政権の交代など(諸説あり)により、現在その方向性は不明瞭なものとなっています。
1966年、実施計画調査が開始(調査出張所開設)されたこのダム計画は、激しい反対運動と必要性をめぐる議論を巻き起こしながら、1994年関連道路の工事に着手。以降、周辺工事が進捗しています。
現在の川原湯温泉はダムの底に水没し、山側のダム湖畔に移転・再建(現地再建方式(ずり上がり方式))される計画です。
脱ダムの流れのなか建設される「八ッ場ダム」。これにより水没し温泉地の再生を強いられる可能性がある川原湯温泉の将来に、全国から多くの視線が注がれています。
(なお、群馬県の公式Webでは、工期は昭和42(1967)年度~平成27(2015)年度、2012年8月時点での工事進捗状況は用地取得進捗率89.3%、家屋移転進捗率は95.3%、付替鉄道進捗率は73.8%、付替国道・県道進捗率は91.3%となっています。)
なお、国土交通省八ッ場ダム工事事務所Webでは、現在の川原湯地区の工事実施状況はこちら、川原湯地区の方々が主として移転する予定の「打越地区」における利用計画はこちらに掲載されています。
【写真 上(左)】 新川原湯温泉の計画掲示 (2013/02)
【写真 下(右)】 温泉地上部の造成状況 (2013/02)
計画の方向性は不明瞭ながら、現地では建物の撤去や道路の付け替えなどが進み、数年前とは趣を一新しています。
【写真 上(左)】 上手旅館群があった頃の温泉街 (2007/01)
【写真 下(右)】 多くの建物がなくなった温泉街(「山木館」下から) (2013/02)
鉄道でのアプローチはJR吾妻線「川原湯温泉」駅。ダム建設にともなう線路の付替えにより駅の移設が行われ「新川原湯温泉(仮称)」駅として新設される計画があります。
温泉地の玄関駅らしく駅舎内には温泉分析書が掲出されています。
ここから徒歩でアプローチできる距離ですが、登り坂がつづくので荷物をもっての移動はなかなかきびしいかも。
【写真 上(左)】 「川原湯温泉」駅 (2006/07)
【写真 下(右)】 「川原湯温泉」駅舎の分析書 (2006/07)
【写真 上(左)】 駅構内 (2006/07)
【写真 下(右)】 駅舎内の旅館案内 (2006/07)
「川原湯温泉」駅の温泉寄り上空には、代替路の一部である湖面1号橋の橋脚がそびえ立ち、一種独特な景観をみせています。
坂ののぼり口にある温泉街入口のゲートは以前よりむしろ立派になっています。
この周辺にはPが点在しているので、上のPが満車の場合はここに停めることになります。
【写真 上(左)】 川原湯温泉入口 (2013/02)
【写真 下(右)】 そびえ立つ橋脚 (2013/02)
途中クランクを抜け小沢を超えると坂が急になり温泉街に入ります。
左方の高みには人気の共同浴場「聖天様露天風呂」があります。
もすこし上ると「山木館」下でふたたび小沢を渡ります。このあたりからのロケーションは「渓ばたの湯」「崖湯」を彷彿とさせるものがあります。
【写真 上(左)】 小高いところにある聖天様露天 (2013/02)
【写真 下(右)】 「崖湯」の風情 (2013/02)
ダム建設計画があったためか温泉地ながら全体にインフラ整備は進んでおらず、数年前まで古びた温泉街の佇まいを色濃く残していましたが、いまは建物の取り壊しや集落の移転が進み、かなり見通しがよくなっています。
【写真 上(左)】 建物が建ち並んでいた頃の下部 (2007/01)
【写真 下(右)】 すでに温泉街の面影はない下部 (2013/02)
【写真 上(左)】 建物が折り重なる往年の川原湯 (2003/8)
【写真 下(右)】 すっきりとした温泉街 (2011/02)
昭和36年10月発行の国鉄時刻表、平成4年発行JTB温泉案内いずれも、下記の旅館が掲載されています。(*は後者のみ)
養寿館、柏屋旅館、敬業館みよしや、山木館、山木星、丸木屋*。
絶景風呂として知られていた「養寿館」は2001年7月31日をもっていちはやく閉館し、以降、「敬業館みよしや」「高田屋」「柏屋旅館」が漸次閉(休)館・撤去となっています。
【写真 上(左)】 「柏屋」と川原湯神社 (2011/02)
【写真 下(右)】 「柏屋」跡地 (2013/02)
【写真 上(左)】 「柏屋」と「高田屋」 (2007/01)
【写真 下(右)】 上手旅館跡地と新源泉 (2013/02)
【写真 上(左)】 「みよしや」 (2007/12)
【写真 下(右)】 「みよしや」跡地 (2011/02)
笹湯周辺は移転が進み空き地が目立ちます。
以前は建物が密集した路地を抜けてのわかりにくいアプローチだった共同浴場「笹湯」周辺は次第に建物がまばらになり、いまは笹湯だけがぽつんと残っています。
その「笹湯」も2011年10月7日をもって閉鎖されています。
閉鎖を告げる貼り紙にあった「新天地への移転」という文字が印象に残りました。
【写真 上(左)】 建物に囲まれていた「笹湯」入口 (2003/02)
【写真 下(右)】 かつての面影はない「笹湯」へのアプローチ (2013/02)
【写真 上(左)】 孤軍奮闘で稼働をつづけていた「笹湯」 (2011/02)
【写真 下(右)】 寂しくなった「笹湯」のまわり (2013/02)
【写真 上(左)】 閉鎖された「笹湯」 (2013/02)
【写真 下(右)】 「笹湯」閉鎖の案内 (2013/02)
もともと民宿を含めると20軒ちかくもあったとされる湯宿は数年前には数軒に減り、今回(2013/02)、確実に営業が確認できた旅館は「山木館」と「丸木屋」(その他は未確認)。民宿系は数軒営業継続している可能性がありますが詳細不明。
【写真 上(左)】 山木館 (2013/02)
【写真 下(右)】 丸木屋 (2013/02)
【写真 上(左)】 やまきぼし (2013/02)
【写真 下(右)】 ゆうあい (2013/02)
「王湯」のまわりは上手の建物がなくなり明るくなりましたが、なんとなく淋しそう。
やっぱり背後に「柏屋」を配したかつての姿の方が安定感があるような・・・。
【写真 上(左)】 背後に「柏屋」を配した往年の「王湯」 (2011/02)
【写真 下(右)】 上手が空いて明るくなった「王湯」 (2013/02)
【写真 上(左)】 建物に囲まれていた「王湯」の露天 (2007/01)
【写真 下(右)】 基礎だけになった王湯の裏手 (2013/02)
また、川原湯神社よこから上手に抜ける道は旧「高田屋」のあたりに付け替えられ、ここをいくと山手を走る新道に抜けられます。
その合流点の傍らには「薬師堂」が鎮座しています。
【写真 上(左)】 新道脇の薬師堂 (2013/02)
【写真 下(右)】 鬱蒼とした川原湯神社境内 (2003/08)
【写真 上(左)】 タンク設置前の川原湯神社境内 (2007/01)
【写真 下(右)】 同(タンク設置後) (2013/02)
新源泉がある川原湯神社境内は以前は鬱蒼と木々が茂り厳かな雰囲気でしたが、その後、足湯や温泉タンクが設置され開けた感じになっています。
現在、往時の姿を比較的よく保っているのは「山木館」から「王湯」にかけての一画のみです。
【写真 上(左)】 往時を比較的残す「丸木屋」前 (2013/02)
【写真 下(右)】 「王湯」から温泉街 (2013/02)
【 2007/04/09UP時 】
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温泉地移転に向けて徐々に建物が取り壊されています。展望が開け、道からもところどころ吾妻渓谷が見おろせるようになりましたが、温泉地としての風情は次第に薄れていってしまうのでしょう。
川原湯温泉のパンフに「昔日の湯治場へ。幻となる前に・・・」とあるように、この往年の名湯を偲ぶのに、いまが最後のチャンスなのかもしれません。
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一般客が入浴できる共同浴場は「王湯」、「笹湯」、「聖天様露天風呂」の3軒(ジモ専的な「笹湯」まで開放されているのはありがたいことでした。)ありましたが、上記のとおり2011年10月7日をもって「笹湯」は閉鎖されています。
なお、「やまた旅館」のWebによると、「笹湯」は、かつては王湯の露天風呂のところにあって、王湯の露天風呂が出来る前は郵便局だったそうです。
そのためか、今も「王湯」露天前には赤いポストがあって温泉街のいいアクセントになっています。
【写真 上(左)】 王湯の看板 (2007/01)
【写真 下(右)】 王湯の内湯 (2007/01)
【写真 上(左)】 笹湯 (2003/02)
【写真 下(右)】 笹湯の浴槽 (2007/04)
混浴の「聖天様露天風呂」は高みにあってロケ抜群なのでとくに人気が高く、週末の昼間で人がいないことはほとんどなく、今回も数人の客でにぎやかでした。
【写真 上(左)】 聖天様露天 (2004/04)
【写真 下(右)】 聖天様露天の浴槽 (2011/02)
吾妻渓谷に面する山肌に張りつくように連なる独特なロケーションで、「崖湯」とネーミングされた浴場をもつお宿もあります。
冬場は雪雲が流れてくるエリアで、雪化粧していることも。凛と引き締まった冬の川原湯は独特の風情があります。
【写真 上(左)】 足湯設置前の新源泉 (2003/08)
【写真 下(右)】 新湯(新源泉)&足湯 (2007/01)
温泉街の上手、川原湯神社の境内には新源泉が開発され足湯が設置されています。その上の湯槽ではよくたまごが茹でられています。約15分で茹で上がるそうです。
そこから上手に階段をのぼると川原湯神社が鎮座しています。厳冬の早朝に行われる「湯かけ祭り」は奇祭として有名です。(詳細下記)
<歴史> (川原湯温泉観光協会資料他を参考)
約800年の歴史をもつという川原湯温泉には、ふたつの開湯伝承があります。
[ 伝承1 ]
「800年ほど昔、上湯原の不動院を旅のお坊さまが訪れ一晩の宿を乞うた。不動院のお坊さまが中に迎え入れると、旅のお坊さまは薬師如来像を取り出し、お経を唱えはじめた。不動院のお坊さまが身の上をたずねると『私の名は川原朝臣権頭光林。帝にお仕えした家に生まれたのですが体が弱くお勤めもできませんので、こうして諸国の霊場霊地を廻って歩いているのです。』といわれた。その夜のこと、光林が眠っていると、薬師如来が夢枕に現れ、『ここから東へ八・九丁行ったところの岩陰に熱い湯が湧いている。その湯に入ると病が治り、長生きすることは間違いない。』とのお告げがあった。光林がその岩陰に行くとお湯が湧いていてその湯に毎日入るとすっかり健康になった。その後、村人たちもこの湯の恩恵を受けることになり、川原朝臣権頭光林の名にちなみ『川原湯』と呼ばれるようになった。」
[ 伝承2 ]
「建久四年(1193)(建久三年とも)、源頼朝公が浅間山麓での狩りに赴く折り、今の川原湯を通りがかった。その時、山の中腹から湯けむりがあがっているのに気づき、発見されたのが川原湯温泉。このとき頼朝公は、そばにあった大きな石を王石(衣掛石)と名づけられた。」
この伝承にちなんでか、「王湯」の玄関には源氏の紋所”笹竜胆”が誇らしげに掲げられています。
【写真 上(左)】 笹竜胆 (2013/02)
【写真 下(右)】 川原湯神社の扁額 (2013/02)
[ 湯かけ祭り ]
「源頼朝公の発見から約400年が過ぎたある日のこと、川原湯温泉のお湯が突然出なくなってしまった。困り果てた村人達は、かつて湧いていたお湯がニワトリの卵を茹でた匂いがしていたことから、ニワトリを生贄にしてお祈りしたところ、あら不思議、お湯が再び湧き出た。村人は豊かに湧いた熱いお湯を『お湯わいた』『お祝いだ』といいながらお互いに掛け合い祝った。これがいまもおこなわれる奇祭『湯かけ祭り』の始まりといわれている。」
毎年正月20日、大寒の早朝におこなわれる「湯かけ祭り」は、ふんどし一つの裸姿でお湯をかけ合う祭で、関東を代表する奇祭として有名です。
【写真 上(左)】 奇祭、湯かけ祭り (2013/02)
【写真 下(右)】 湯かけ音頭 (2013/02)
[ 湯かけ音頭 ] 豊田嘉雄 作詞
1.ヤアー 正月二十日にゃ どなたもおいで
サテ 上州川原湯 湯かけの祭 ソレ
(囃子) メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
オヤ オシャシャンのシャン
囃子にある「シャンシャンシャン ソレ オシャシャンのシャン」という拍子は、祭りの手締めにもつかわれるもので、「川原湯シャンシャン締め」といわれ川原湯独特の手締めとされています。
なお、湯かけ祭りについては、「やまた旅館」のWebで詳細に説明されています。
川原湯の社のすだれ
古りたれど入りて拝めば
肩ふれて鳴る
与謝野 寛(晶子)
【写真 上(左)】 川原湯神社 (2013/02)
【写真 下(右)】 句碑 (2011/02)
江戸期の温泉番付にも「川原湯」「河原の湯」としてしばしば登場し、別格の草津、伊香保の次点クラスに沢渡、四万などとならんでランクされているので、相応の評価を得ていたものと思われます。
また、「草津の仕上げ湯(直し湯)とされていた」という資料もみられます。
「錦絵にみる日本の温泉」(木暮金太夫氏著/国書刊行会)収録の「上州川原湯温泉之図(墨摺)萩原太郎右衛門板」には、大湯、笹湯、留湯の浴場が記載され、滝の湯、目の湯、虎の湯という浴場ないし源泉があったようです。
絵図をみると現在より下手の吾妻川沿いまで浴場が描かれています。
【写真 上(左)】 川原湯下の吾妻川 (2011/02)
【写真 下(右)】 吾妻渓谷 (2007/11)
維新後、”関東の耶馬渓”といわれる景勝地、吾妻渓谷をひかえて文人の来訪も多く、大正九年に著された若山牧水の「渓ばたの温泉」には川原湯温泉が描写されています。
「上州中之条町で渋川から来た軌道馬車を降りた客が五人あった。うち四人は四万温泉へ向かひ、私はただひとりそれらの人たちと別れて更に五里ほど吾妻の流れに沿うて遡り、その渓ばたに在る川原湯温泉にやって来た。・・・」(川原湯温泉Webより)
また、昭和初期には、老舗「山木館」に「のらくろ」の作者・田河水泡画伯が滞在、原稿を講談社へ送っていました。(「山木館」Webより。)
【写真 上(左)】 「元の湯」の泉源 (2007/01)
【写真 下(右)】 たまごが茹でられる高温泉、新湯(新源泉)
<温泉>
takayamaさんの「群馬の温泉ページ」に掲載されている県薬務課作成の温泉統計(平成11年度温泉利用状況)によると、川原湯温泉で源泉総数6(すべて自噴、内 利用源泉5)となっています。確認できた源泉と利用状況は以下のとおり。(TIM=イオン計、TSM=溶存物質計、TS=総硫黄、成分濃度・TSの単位はg/kg)
■元の湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 71.6℃ pH=7.1 TIM=1.82 TS=2.2 <新湯との混合泉データ>
「王湯」(内湯のみ?)
■元の湯・新湯混合泉 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 71.6℃ pH=7.1 総計=1.96 TS=2.2
「聖天様露天風呂」「柏屋旅館」「丸木館」「高田屋」
■新湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 78.9℃ pH=7.3 総計=1.89 TS=4.1
「笹湯」
■虎湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 59.5℃ pH=7.6 総計=1.69 TS=4.89
「敬業館みよしや」「山木館」
■養寿館(廃業)* S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 -℃ pH=7.7 TSM=1.77
■ますや* Na・Ca-Cl・SO4冷鉱泉 -℃ pH=8.4 TSM=1.67
「民宿ますや」?
■新川原湯(上湯原)温泉 泉質未詳
(* やませみさんデータ)
「元の湯」の泉源は「王湯」母屋の真下、「新湯(新源泉)」の泉源は川原湯神社境内、本殿階段下にあり、よこにたまご茹で場と足湯があります。
新湯(新源泉)は温泉地移転後も利用されるとみられますが、他の泉源については不明。
【写真 上(左)】 王湯の内湯湯口 (2007/01)
【写真 下(右)】 析出&硫化バリバリの王湯露天湯口 (2007/01)
上述の「錦絵にみる日本の温泉」で「大湯」「笹湯」「留湯」「滝の湯」「目の湯」「虎の湯」のうち、「滝の湯」以降の効能は別になっているので、源泉が違うのかも。
推測ですが、「王湯」「笹湯」「留湯」は現「元の湯」、「虎の湯」は現「虎湯」につながるものかもしれません。
また、「丸木屋」の館内掲示によると、ここは「智与の湯(通称・丸木屋目の湯)」という台帳登録源泉をもっているようなので、これは上の「目の湯」の系譜かもしれません。
【写真 上(左)】 新源泉の標識 (2013/02)
【写真 下(右)】 かなりの硫黄成分を含んでいます(新源泉足湯) (2013/02)
泉質は硫黄含みの含芒硝土類食塩泉系。アブラ臭としぶ焦げイオウ臭が醸し出す独特な”川原湯臭”が特徴です。
うすく黄色味がかった透明の熱湯に白~灰色の羽毛状の湯の花を浮かべ、きしきしととろみを帯びた肌に喰い入るような力強いお湯で、強い温まり感があります。
温泉王国群馬のなかでも第一級に入る、文句なしの名湯です。
【写真 上(左)】 「山木館」の内湯 (2003/02)
【写真 下(右)】 「丸木屋」の浴場 (2013/02)
〔 源泉名:川原湯温泉 新湯 〕 <H23.6.6分析>
含硫黄-Ca・Na-塩化物・硫酸塩温泉 79.3℃、pH・湧出量=記載なし、成分総計=2.15g/kg
Na^+=352.00mg/kg、Ca^2+=341.00、Fe^2+=0.05
Cl^-=680.00、HS^-=2.60、SO_4^2-=579.00
陽イオン計=701.00、陰イオン計=1314.00、メタけい酸=87.9、メタほう酸=39.1、硫化水素=1.9
「元湯」「元湯・新湯混合泉」「新湯」「虎湯」と入っていますが、お湯のイメージに大差はありません。
熱湯の絞りかけ流しが多いので、泉質の微妙なちがいより、むしろ加水やお湯のなまり加減に影響を受けるのだと思います。
【写真 上(左)】 なお稼働をつづける「王湯」 (2013/02)
【写真 下(右)】 案内板 (2013/02)
今後については八ツ場ダム次第ということになりそうですが、数百年の歴史とたぐい希な名湯は、ほかでは得ようとしても得られない資産です。
魅力あふれる温泉地として再生し、繁栄することを願っています。
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