goo

■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-6

Vol.-5からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第18番 獨鈷山 光明寺 愛染院
(あいぜんいん)
新宿区若葉2-8-3
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第18番
司元別当:
授与所:庫裡ないし本堂前

第18番はいきなり四ッ谷に飛びます。
開山について『ルートガイド』と史料類で異なるので、まずは『ルートガイド』から要旨を引用してみます。

天正年間(1573-1592年)、加藤清正の実弟・正濟上人が麹町貝坂のあたりに開いたといいます。
慶長十六年(1611年)麹町から四谷に、寛永十一年(1634年)に現在地に移転しています。

ところが 『寺社書上』『御府内寺社備考』および、それらを典拠とした「四谷区史」はさらに古い縁起を伝えています。

弘仁年中(810-824年)、弘法大師が関東巡錫の折に現在の麻布善福寺の地に創建、本尊五指量愛染尊を安置され「八祖相承之獨鈷」を納められたといいます。

その後慶長十六年(1611年)正斎上人(加藤清正の実弟?)が麹町貝塚の地に中興、寛永十一年(1634年)現在地に移転といいます。

たしかに麻布善福寺の公式Webには「麻布山善福寺は、平安時代の天長元年(824年)、唐に渡り真言を極めて帰国した弘法大師によって、真言宗を関東一円に広めるために高野山に模して開山されました。」と明記されています。
(のちの鎌倉時代に真言宗から浄土真宗に改宗)

『寺社書上』には「然に当院は右奥之院にて、御守本尊五指量愛染尊を安置し、大日如来より八祖相承之獨鈷を納め給」とあり、愛染院が善福寺の奥之院であったことを伝えています。


【写真 上(左)】 麻布善福寺
【写真 下(右)】 麻布善福寺の参拝記念印
↑ 参拝記念印に「弘法大師開山」とあります。

加藤清正の実弟という正濟(斎)上人についてもほとんど情報がとれません。
清正公は熱心な日蓮宗の信徒として知られています。
兄弟が同じ信仰とは限りませんが、日蓮宗の重要人物の実弟が密寺を中興とは、すんなり頷けないものはあります。

『寺社書上』をみると、弘法大師創建を物語る数々の寺宝が列挙されています。(下記)
弘法大師の御作、御筆の寺宝だけでも実に5点以上を数え、しかも「開祖 弘法大師」と明記されています。
故なきところにこれだけの縁起や寺宝が残るのは不自然ですから、やはり愛染院は真言宗時代の麻布善福寺となんらかの関係があったのでは。

現時点ではこれ以上の史料がみつからないので、ここまでにしておきます。

現地の案内書には沿革として『四谷区史』(文政寺社書上の引用部)が掲載され、同書には中興開山の正斎は寛永十五年(1638年)の寂とありました。

御府内霊場の開創は宝暦年間(1751-1764年)頃とされ、愛染院の現在地への移転はそれ以前の寛永十一年(1634年)。
江戸八十八ヶ所霊場でも同番の第18番ですから、御府内霊場開創時からの札所とみられます。

-------------------------
【史料】
『寺社書上 [44] 四谷寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.63』
大塚護持院末 四ッ谷南寺町 獨鈷山 光明寺 新義真言宗 愛染院
当寺開闢之儀は、人王五拾弐代嵯峨天皇御宇 弘仁年中(810-824年)弘法大師關東弘法之為、當國一宇御建立、今之麻布善福寺之地也。然に当院は右奥之院にて、御守本尊五●量愛染尊を安置し、大日如来より八祖相承之獨鈷を納め給、故に山号を獨鈷山と申候。愛染尊は秘法にて、不能住職之僧も拝、其後星霜相移り、年月相知れ不申候

開祖 弘法大師 中興 正済(?)上人 中興二世 實盛 寛永十二年(1638年入寂)
本尊 両部大日如来
両脇士 不動尊 愛染尊 智證大師作
増長天 廣目天 持國天 多聞天
弘法大師木座像弐尺弐寸● 厨子入 興教大師 厨子入
辨財天 附十五童子 弘法大師作
阿弥陀如来 恵心僧都作

八祖相承獨鈷 但弘法大師●持ト●
四處明神 寛平法皇(宇多天皇)
弘法大師 右御同筆
愛染明王 弘法大師筆
五大明王 興教大師筆
愛染明王 嵯峨天皇御筆
般若心経 弘法大師筆

愛染堂
本尊 愛染明王 弘法大師作 丈二寸余
脇立 不動明王 愛染明王

大聖天三躰
本地十一面観音 弘法大師作 丈一尺八寸厨子入

鎮守社 稲荷 金毘羅 愛宕

寺中弐ヶ院
光明院 本尊 大威徳明王 開山不知
蓮花院 本尊 弥陀如来 開山不知

『四谷区史 [本編]』(国立国会図書館)
獨鈷山光明寺愛染院は、大塚護持院末の新義真言宗で、四谷南寺町今の寺町にある。境内は千五百廿坪余の拝領地で、起立は慶長十六年辛亥(1611年)、麹町貝塚邊が元地であつた。寛永十一年甲戌(1634年)十二月に此地に替地を賜うて移転したのである。
文政寺社書上に拠れば、「当寺開闢之儀は、人王五十二代嵯峨天皇御宇、弘仁年中(810-824年)弘法大師關東弘法之為、当國に一宇御建立、今之麻布善福寺之地也。然に当院は右奥之院にて、御守本尊五指量愛染尊を安置し、大日如来より八祖相承之獨鈷を納め給、故に山号を獨鈷山と申候。愛染尊は秘法にて、不能住職之僧も拝、其後星霜相移り、年月相知れ不申候」と伝へて、その来由することの頗る古きを語つて、慶長(1596-1615年)当時の開山正斎はその中興と称して居る。此地に移つて以来、住持を替ふること八代、寶暦十年庚辰(1760年)梵鐘を鑄たが、鐘銘中に(略)「惟愛染堂假而毎免、可謂幸矣」といふことが見えて、愛染尊の功徳厳然たるを称へている。

-------------------------



【写真 上(左)】 愛染院前から東福寺坂
【写真 下(右)】 山内入口

四谷周辺、若葉、須賀町から鮫河橋にかけては寺院が集中する寺町となっています。
これは、寛永年間(1624-1645年)家光公の治世に江戸城外堀工事のため、麹町の寺院が一斉に四谷に移転させられたためといいます。
愛染院の元地は麹町貝塚邊で、寛永十一年(1634年)に現在地に遷っているので、この江戸城外堀工事によるものとみられます。

このあたりはことに土地の起伏が激しいところで、凹凸地形マニアの聖地となっています。
(→ 四谷の坂道レポ
新宿通りから円通寺坂を南に下って鮫河橋に至る道(名称不明)が谷筋で、そこから東西方向はすべて登り坂となります。

愛染院はこの谷道から東福院坂(天王坂)を登った坂の途中に、坂名の由来である東福院とほぼ向き合ってあります。
東福院は御府内霊場第21番札所、他にも御府内霊場札所がいくつかありますので、順打ち(逆打ち)でない場合は、まとめてまわることになります。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 案内書

門まわりは赤レンガで固められ、すぐ奥は駐車場。
さらにその奥にも黒い門扉を構えて、なんとなく近寄りがたい空気が漂っています。
こちらは直書き御朱印は納経者のみ授与なので、そんな先入観もあるのかもしれません。

山内入口に院号標と案内書(上記)。
内藤新宿の生みの親、高松喜六の墓と、江戸中期の国学者・塙保己一の墓の説明書もあります。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

第二の門を抜けると俄然古刹の雰囲気が出てきます。
正面本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝の整った寺院建築で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に三連の本蟇股を置いています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

向拝と左右の身舎扉は格子状で小壁に菱格子を置き、きりりと引き締まった印象。
本堂右手の梵鐘には貴重な百字真言や銘叙が刻され、銘叙は湯島霊雲寺第四世法明が識(しる)されたものです。
(鐘楼は堂宇とともに戦火で焼失。)
当山は真言宗豊山派ですが、真言律宗となんらかの交流があったのかもしれません。


【写真 上(左)】 梵鐘
【写真 下(右)】 「倶會一處」の石碑

倶會一處(くえいっしょ)の石碑もあります。
倶會一處(倶会一処)とは、『阿弥陀経』の「舎利弗。衆生聞者。応当発願。願生彼国。所以者何。得与如是。諸上善人。倶会一処。舎利弗。不可以少善根。福徳因縁。得生彼国。」にある経文で、阿弥陀佛の極楽浄土への往生を願って一途に念仏の信仰に生きる心持ち、あるいは念仏信仰により、ご先祖や家族たちとともに極楽浄土の仏や菩薩と一処で出会うことができるという趣旨で、主に浄土教(浄土宗、浄土真宗)で説かれ、浄土宗寺院では御朱印に揮毫されることもあります。
ただし、密教寺院でこの言葉に触れることはめずらしいのでは。

こちらの御朱印は原則、本堂前に用意された印判の自捺しで、納経者にのみ「特別の朱印」(揮毫御朱印)が授与されます。
自捺し御朱印は金属箱のなかの印判と朱肉を使い、見本も置いてあるのでとくに問題なく拝受できます。
御朱印代として300円(2017年6月時点)をお納めしました。
印判自捺しの場合、御朱印帳への直捺しは一発勝負となりリスクがあります。
筆者は常々、御朱印帳とサイズを合わせた和紙を数枚持ち歩き、そちらに捺してその紙をのちほど御朱印帳に貼付けます。
これだと、失敗をおそれることなく自捺しができます。老婆心ながら・・・。


【写真 上(左)】 御朱印についての案内書
【写真 下(右)】 庫裡サイドから本堂

筆者は最初の参拝では自捺し御朱印を拝受、2度目以降の参拝では般若心経を納経して揮毫御朱印を拝受しました。
いささか敷居の高さを感じるお寺さまですが、ご対応はご親切でした。
なお、以上は平成元年11月時点の情報で、現在もこの授与方式かどうかはわかりません。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 大日如来」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第十八番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 自捺しの印判御朱印


■ 第19番-1 瑠璃山 清光院 青蓮寺
(しょうれんじ)
板橋区成増4-36-2
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第77番、荒川辺八十八ヶ所霊場第86番
司元別当:(成増村)山王社(現・(成増)菅原神社 (成増天神))
授与所:庫裡

第19番にはふたつの札所がリストされています。
ひとつは板橋の青蓮寺、もうひとつは馬込の圓乗院です。
順にご紹介していきます。

青蓮寺の開基開山は不詳ですが、当初弁天塚付近(現高島平4-23付近)にあったとされ、大正13年に浅草松葉町の清光院を合寺して3つの弘法大師霊場の兼務札所となりました。

-------------------------
【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(成増村)
青蓮寺 新義真言宗 上石神井村三寶寺末 本尊薬師
(成増村)
山王社 青蓮寺持

『新編武蔵風土記稿』の記述は簡素なので詳細不明です。
孫引きで恐縮ですが、「猫の足あと」様が引かれている『いたばしの寺院』の記述を抜粋引用させていただきます。
「開基開山については明確な口碑さえなく、わずかに伝えるところによれば、寺は始め、弁天塚のほとり(現高島平4-23あたり)に建てられてあったが水害のためにいつの時代にか現在地に移転したという。本尊薬師如来が室町時代の作風を持つので、寺の創建も凡そその時代の頃を推定される。(略)文政末期から大正初期まで凡そ百年間は無住であった。(略)大正13年に浅草松葉町の清光院を合寺し、昭和9年に13世正善大和尚入山以来、本寺は面目を一新したという。なお、本寺は豊島八十八ヶ所霊場の第77番、江戸御府内八十八ヶ所霊場の第19番札所である。(これは浅草清光院の合寺に依る)」

以上から、青蓮寺は室町時代創建の古刹で、大正初期に再興、大正13年に浅草松葉町の清光院を合寺して御府内霊場の札所となったことがわかります。

また、『新編武蔵風土記稿』によると、青蓮寺は江戸期には村内の山王社(現・(成増)菅原神社 (成増天神))の別当でした。


【写真 上(左)】 (成増)菅原神社 (成増天神)
【写真 下(右)】 (成増)菅原神社 (成増天神)の御朱印


弘法大師霊場から青蓮寺を語るとき、浅草の清光寺は外せず、御府内霊場に限っていえば愛宕の圓福寺も避けて通ることができません。
どうして圓福寺まで辿る必要があるかというと、江戸八十八ヶ所の第19番は「(愛宕)円福院」で、明治2年の廃仏毀釈を受けて圓福寺が廃絶するまでは圓福寺が御府内霊場第19番だった可能性が高いからです。

浅草清光寺、愛宕圓福寺ともに現在廃寺(ないし合寺)となっています。
しかし愛宕圓福寺は御府内霊場とのゆかりが深いので、できる限り史料を当たって縁起沿革を探ってみたいと思います。

□【愛宕圓福寺】
-------------------------
【史料】
『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)

愛宕別當 圓福寺
武州豊島郡芝愛宕
新義真言宗触頭 別當 圓福寺
本寺 山城國宇陀郡醍醐山無量壽院
山号等 愛宕山寶珠院圓福寺
本尊 地蔵菩薩 厨子入 定朝作
不動明王 本尊左脇立
毘沙門天 同右脇立
本堂内安置 十一面観自在菩薩
同所 聖天

●祖弘法大師 興教大師
開山 俊賀

圓福寺地中幷末寺
 (圓福寺地中脇坊)
  金剛院 鏡照院 満蔵院 壽圭院 普賢院
 (御府内三田寺町)寶生院
 (御府内浅草寺町)威光院 
 (御府内浅草寺町)清光院
 (御府内下谷坂本)大聖院
-------------------------

【史料】
-------------------------
『江戸名所図会 7巻 [3]』(国立国会図書館)
(愛宕山権現社/抜粋引用)
本地佛を勝軍地蔵尊 行基大士の作なり 永く火災を退けるの守護神なり
別當圓福教寺ハ石階の下にあり 新議の真言宗江戸の触頭四箇寺の随一なり
開山を神證上人と号す 二世俊賀上人といふ
四箇寺とハ湯島根生院、本所彌勒寺、當所真福寺並に當寺(圓福寺)といふ

神證上人下野の人なりて 姓を塩谷氏母ハ皆川氏なり
元和五年(1619年)鈞命に依って金剛院に退居をゆるさ●天年を終ふ
春音(神證上人)の坊ハ遍照院と号す 今の圓福寺是なり
金剛院 普賢院 満蔵院 鏡照院 壽桂院等末●六院あり

俊賀上人 野州西方邑の人姓ハ越路氏にして宇都宮弥三郎頼綱の後裔
父ハ伊勢守近津神祠に祈りて産す 祖始下妻の圓福寺に住を然 
其頃下総結城の元寿 上州松井田秀算等一世の豪俊●● 俊賀上人をあハせて新義の三傑と称せらる
元和五年(1619年)俊賀上人愛宕権現の別當に命せられ 共に圓福寺の号を●く一宇を開きしめ
-------------------------

江戸期の真言宗には「江戸四箇寺触頭」という制度があり、これにより本末関係が精緻に整えられていました。

『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏/PDF)によると、発足当初の「江戸四箇寺触頭」はつぎの4箇寺です。
・知足院(江戸白銀町)
関連資料
・真福寺(愛宕下)
・円(圓)福寺(愛宕下)
・弥勒寺(本所)

智積院公式Webには「貞享4年(1687)七月に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、代わりに根生院が任じられます。以後、明治までは変化はありません(円福寺は明治二年に廃仏毀釈により廃寺)。」とあるので、貞享四年(1687年)以降は真福寺(67)、圓福寺(19)、弥勒寺(46)、根生院(35)の四箇寺体制となっています。
( )内は御府内霊場の札番で、これをみても御府内霊場が真言宗の名刹をおおむねカバーしていたことがわかります。
また、『宝瞳寺文書解題』(国文学研究資料館/PDF)にも「江戸四箇寺触頭」の役割が詳細に記されています。

圓福寺は「江戸四箇寺触頭」を勤められ、御府内にいくつもの末寺をもつ御府内有数の名刹でした。
これほどの名刹がどうして明治の廃仏毀釈でいともあっさり(?)と廃絶してしまったのでしょうか。
(実際、触頭4箇寺のうち他の3箇寺は現存しています。)

どうにも気になったので、まずはここから調べてみました。

真福寺の勝軍地蔵尊の説明書には以下のとおりあります。
「この勝軍地蔵菩薩は、天平十年(738年)行基が近江信楽遊行の砌、造顕したもので、同地に安置され、霊験あらたかなり。天正十年(1582年)徳川家康、本能寺の変の難を逃れんがため伊賀越に際し、信楽の土豪多羅尾氏、当勝軍地蔵を献上、沙門神証これを護持し、三河に帰還するをえたり。爾来、家康の帰依厚し。慶長八年(1603年)家康、征夷大将軍に栄進するにより、江戸に愛宕神社を創建し、同社の本地仏として勧請、神証を別当の円福寺第一世とせり。明治の廃仏毀釈で円福寺は廃寺、尊像は真福寺に移されたが、大正十二年 (1923年)関東大震災で焼失、昭和九年(1934年)弘法大師一千百年御遠忌記念として、霊験を不朽にせんがため、銅製で造顕せり。」

一方、愛宕神社の公式Webには配祀として将軍地蔵尊が明記され、愛宕権現(神社)にとって将軍(勝軍)地蔵尊がいかに重要な尊格であるかがわかります。

以上から、圓福寺は愛宕権現の別当の色彩がすこぶる濃厚だったとみられます。
この点は、全国の愛宕神社の総本社とされる愛宕神社(京都市右京区嵯峨愛宕町)と、その別当・白雲寺との関係とよく似ています。

中世~江戸期の愛宕権現社の多くは、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られたといいます。
神仏習合のもと修験道の道場として栄えたこともあり、別当の勢力はたいへん強かったとみられます。

この強大な立場が明治の廃仏毀釈で裏目に出て、愛宕権現の別当・圓福寺は存続の危機に見舞われたのでは。
実際、京都の愛宕神社総本社の別当・白雲寺は廃仏毀釈で廃絶となっています。

総本社の別当・白雲寺が廃絶となった以上、東都の愛宕権現の別当・圓福寺も、たとえ「江戸四箇寺触頭」の格式があったとしても廃絶を遁れられなかったのでは?

ちなみに『寺社書上』の圓福寺の項には「従是愛宕山上之分」として以下のとおりあります。

□「(圓福寺)従是愛宕山上之分」(諸佛のみ抜粋引用)
-------------------------
【史料】
『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)
愛宕大権現御神● 秘像
御前立 勝軍地蔵尊
脇立 不動明王 毘沙門天

本地堂 脇坊金剛院持
朝日愛染明王

太郎坊北之方
唐●地蔵尊 勝軍地蔵尊 地蔵尊 石地蔵尊

女坂
勝軍地蔵尊

男坂上り口
役行者堂
------------------------- 

これをみると江戸期の愛宕権現が諸佛に満ち、神仏習合していたことがよくわかります。
本地堂の別当は金剛院(圓福寺地内末寺)とあるので、愛宕権現全体の別当が圓福寺、本地堂の別当が金剛院という二重構造だったのかもしれません。

なお、『江戸名所図会』の愛宕社總門の絵図をみると、男坂の右手に本地堂、左手に別当(おそらく圓福寺)がみえ、本地・別当系の諸堂は坂下にあったことがわかります。

ここから「出世の石段」を登って参拝する愛宕権現は海抜26mという都内随一の高みにあり、ここからの見晴らしと桜花のすばらしさは御府内有数と称えられ、ほおずき市や羽子板市も賑わいをみせて江戸の図絵類に描かれています。


■『江戸名所図会』 7巻 (須原屋茂兵衛[ほか])/愛宕社總門
(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載 → 出所

~ 伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり ~ (愛宕神社御由緒書より)


【写真 上(左)】 愛宕神社社頭
【写真 下(右)】 出世の石段


【写真 上(左)】 愛宕神社拝殿
【写真 下(右)】 愛宕神社の御朱印

真福寺勝軍地蔵尊の説明文のとおり、圓福寺が廃寺となったとき、御本尊の(勝軍)地蔵菩薩は愛宕の真福寺に遷られました。
このとき真福寺はすでに御府内霊場第67番の札所だったので、重番を避けるため御府内霊場第19番は浅草の清光院に承継されたとみられます。


【写真 上(左)】 真福寺外構と勝軍地蔵尊
【写真 下(右)】 勝軍地蔵尊

圓福寺が廃されたとき真福寺はすでに御府内霊場第67番の札所で、重番を避けるとしたら第19番は承継できません。
第20番金剛院は圓福寺の地内末寺で、本地堂の別当だったため同時に廃絶された可能性がありますが、こちらはおそらく同じ圓福寺地内末寺で廃絶を免れた鏡照院に承継されています。

で、圓福寺の第19番の行方です。
『寺社書上』に記載の圓福寺の御府内末寺(地内末寺のぞく)はつぎの4箇寺。
・(三田寺町)寶生院 / おそらく御府内霊場第69番(龍臥山 宝生院)
・(浅草寺町)威光院 / おそらく御府内霊場第62番(鶴亭山 威光院) 
・(浅草寺町)清光院 / 荒川辺八十八ヶ所霊場第86番
・(下谷坂本)大聖院 / 荒川辺八十八ヶ所霊場第87番(宝橋山 大聖院)

末寺に御府内霊場札所を継がせるとなると、荒川辺八十八ヶ所霊場の2箇寺、すなわち清光院か大聖院とするのが自然な流れです。

下谷坂本(現・台東区北上野)の大聖院は御府内霊場札所集中エリアから若干離れているため、威光院(御府内霊場第62番)にほど近い清光院が承継したのでは。

以上はあくまでも筆者の憶測です。

□【清光院】
-------------------------
【史料】
『寺社書上 [83] 浅草寺社書上 甲八止』(国立国会図書館)
※達筆すぎて読みとれないので、適宜『御府内寺社備考 P.108』にて補足しています。

浅草 不唱小名
新義真言宗 芝愛宕山圓福寺末
花園山神應寺清光院
諸書●号焼失 往古知不申●
開山 慈観法印 卒年不知
本尊 阿弥陀如来座像
弘法大師 興教大師
不動尊立像 長一尺五寸五分 土蔵ニ安置
扇稲荷社 神体白幣
護摩堂 不動尊立像
-------------------------


もうひとつナゾが残ります。
「猫の足あと」様には「清光院は、江戸時代の書物によると慶長11年(1606)頃の創建と言われていたようです。大正12年関東大震災で焼失し、青蓮寺に合寺されました。」とあります。

大正12年の関東大震災で焼失した清光院の名跡は下谷坂本の大聖院が継いでもよさそうですが、実際は成増村の青蓮寺が継いでいます。
震災後の混乱で大聖院による合寺は困難だったのかもしれず、あるいは郊外の青蓮寺に合寺したほうが安全という判断があったのかもしれません。

また、青蓮寺の本寺は練馬の名刹、三寶寺ですからその保護下に入ったほうが都合がよかったのかも。
いずれにしても決定的な史料がみつからない以上、憶測の域を出ることはできません。

とまれ、愛宕圓福寺から続く御府内霊場第19番の名跡は、大正13年の清光院合寺をもって青蓮寺に承継されました。

『いたばしの寺院』には「本寺は豊島八十八ヶ所霊場の第77番、江戸御府内八十八ヶ所霊場の第19番札所である。(これは浅草清光院の合寺に依る)」とあるようです。
御府内霊場第19番と荒川辺霊場第86番はたしかに清光院由来とみられますが、豊島霊場は豊島郡メインの霊場なので、青蓮寺はもともと豊島霊場の札所だったのでは。

実際、『ルートガイド』には「本堂にある二体の弘法大師像は、震災の中持ち出した清光院八十八ヶ所十九番の尊像と青蓮寺に伝わってきた豊島八十八ヶ所七十七番の尊像だそうです。」とあります。

豊島霊場の開創は明治40年とされるので、豊島霊場第77番の青蓮寺が、関東大震災で焼失した浅草清光院(御府内霊場第19番、荒川辺霊場第86番)を大正13年に合寺し、3つの弘法大師霊場の兼務札所となったとみるのが妥当かと。

なお、荒川辺八十八ヶ所霊場の札所一覧は→ こちら(「ニッポンの霊場」様)
天保九年(1838年)刊の『東都歳時記』に記されているため、文化年間(1804-1818年)以降にみられる八十八ヶ所巡りの流行を受けての開創ではないかとみられています。
初番・初願は根岸の世尊寺、日暮里、尾久、船堀、滝野川、豊島、江北、足立元木、西新井、梅田、千住、綾瀬、堀切、墨田、亀戸、元浅草とまわり、第88番結願は根岸の千手院です。

おもに下町をまわるので、御府内霊場との重複札所は亀戸・東覚寺、元浅草・延命院、元浅草・観蔵院、成増・青蓮寺の4箇寺と多くはありません。


-------------------------


最寄りは東武東上線「成増」駅・東京メトロ副都心線「地下鉄成増」駅ないし都営三田線「西高島平」駅ですが、いずれからもけっこうな距離があります。
周囲の道は入り組んで狭く、駐車スペース(?)も狭いので、交通アクセス的な難所といえそうです。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 札所碑


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号板

路地から階段の参道が伸び、門前に寺号標、札所碑、地蔵菩薩、如意輪観世音菩薩などが並びます。
山門はおそらく切妻屋根の薬医門で、門柱に札所板兼寺号板が掲げられています。

参道は途中で直角に曲がり、正面が本堂、その向かって右手前には修行大師像。
高台の住宅地にあり、山内は広くはないものの背後に竹林を配して瀟洒なたたずまい。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端木鼻に見返りの獅子、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置き、向拝柱には古色を帯びた札所板。
木鼻、中備の彫刻はボリューム感を備えた見事なもので、正面格子硝子扉のうえに山号扁額を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 見事な木鼻彫刻


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 札所板

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。
郊外にあり、ご不在もあるようなので事前連絡がベターかと思います。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙貼付)
中央に「薬師如来」「弘法大師」と薬師如来のお種子「ベイ」の揮毫と「ベイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第十九番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 荒川辺八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



■ 第19番-2 陽岳山 南晴寺 圓乗院
(えんじょういん)
公式Web
大田区南馬込5-15-5
高野山真言宗
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第71番、多摩川四郡八十八ヶ所霊場第76番、武相四十八ヶ所不動尊霊場第36番
司元別当:
授与所:寺務所

ふたつめの第19番は馬込の圓乗院です。
御府内霊場第19番であることは公式Webに「ご本尊には大聖不動明王をお祀りし、御府内霊場88番中第19番札所、玉川霊場88番中第71番札所にも定められています。」と明記されています。


公式Webによると鎌倉時代末期、天永法印によって草創されたと伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』には馬込長遠寺末、開山天永法印、中興開山は秀英僧都(大永二年(1522年)寂)とありますが、史料類が少なく御府内霊場第19番札所の経緯についてはよくわかりません。

御府内霊場旧19番とみられる愛宕圓福寺と圓乗院本寺の長遠寺の関係も当たってみましたが、長遠寺は山城國醍醐三寶院の直末で、愛宕圓福寺とのゆかりは見出せませんでした。

本寺の長遠寺は御府内霊場第8番の札所で、玉川八十八ヶ所霊場第72番の札所、圓乗院も玉川八十八ヶ所霊場第71番の札所ですから、その流れで御府内霊場第19番札所となったのかも。

ただし旧本山の長遠寺は新義真言宗(現・真言宗智山派)、圓乗院は現在高野山真言宗でしかも準別格本山ですから、江戸期の本末関係は承継されていないかもしれません。

なお、玉川八十八ヶ所霊場は、多摩川流域の真言宗寺院で構成される弘法大師霊場で、江戸時代からあった多摩川四郡八十八ヶ所霊場が「多摩川八十八ヶ所霊場」として再編という説があり、明治~大正にかけて「永楽講」が結成されて賑わったといいます。
その後衰退していたところ、昭和48年の弘法大師御生誕1200年を契機に川崎大師・平間寺が中心となって「玉川八十八ヶ所」として再興されました。
札所リストは→ こちら(「ニッポンの霊場」様)

御府内霊場との重複札所は、海賞山 来福寺、海岳山 長遠寺、陽岳山 圓乗院の3箇寺で、むしろ神奈川県の弘法大師霊場「新四国東国八十八ヶ所霊場」との重複が多くなっています。

御府内霊場、玉川霊場、新四国東国霊場は実質的にはほぼ現役霊場で、この3つの弘法大師霊場を巡ると、都内から鎌倉辺りまでのめぼしい真言宗寺院を巡拝できるかたちとなっています。


------------------------
【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(馬込村)
圓乗院 新義真言宗 村内長遠寺末 陽岳山ト号ス 開山ハ天永法印トイヘト 年代ヲモ傳ヘス 中興開山秀英僧都大永二年(1522年)二月寂セリ 本尊不動明王ヲ客殿ニ安ス

-------------------------




【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 修行大師像

都営浅草線「西馬込」駅から徒歩5分、広めの駐車場もありアクセスしやすいお寺です。
マンションメインの住宅地の一画に、切妻屋根本瓦葺のおそらく薬医門を構えています。
門前には端正な修行弘法大師像。


【写真 上(左)】 「準別格本山」の銘板
【写真 下(右)】 山門扁額

門柱には「準別格本山」の銘板が燦然と輝き、見上げには山号扁額。
門脇には御府内霊場の札所標で「弘法大師 御府内八十八所 第十九番霊場」と刻まれています。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 閻魔堂
【写真 下(右)】 水屋

山門をくぐると左手に大師堂、その先に閻魔堂、水屋と並びます。
閻魔堂は公式Webに説明があります。
「古くは『円乗院のおえんまさま』と親しまれ、正月十六日と盆の十六日には市が立つほど多くの参詣客を集めた、由緒ある閻魔大王」との由。

正面階段上に本堂。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 見事な木鼻彫刻
【写真 下(右)】 本堂扁額

入母屋造本瓦葺流れ向拝、向拝上に軒唐破風を構え、すこぶる均整のとれた堂容です。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備下欄に龍の彫刻、上欄間に笈形付大瓶束。
兎毛通に朱雀?の彫刻、唐破風鬼には御本尊・不動明王のお種子「カン/カーン」とみられる梵字を掲げ、とくに彫刻類の意匠は見応えがあります。
向拝見上げには院号扁額が掲げられています。

御本尊・札所本尊の不動明王は本堂内に奉安。
御府内霊場御朱印には「十一面観世音」の揮毫もあるので、本堂内に十一面観世音菩薩も奉安されているかもしれません。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂向拝


【写真 上(左)】 御府内霊場の札所板
【写真 下(右)】 大師堂の扁額

大師堂はおそらく宝形造で流れ向拝。
こぶりな堂宇ながら水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股をしっかり構え、左右の向拝柱には御府内霊場と玉川霊場の札所板が掲げられています。

圓乗院は御府内霊場、玉川霊場のふたつの弘法大師霊場の兼務札所で、しかも本堂とは別に大師堂を構えています。
御府内、玉川両霊場の札所板が掲げられた大師堂は唯一かも。
見上げには「弘法大師」の扁額が掲げられています。

堂横には聖観世音菩薩立像と厄除延命地蔵菩薩立像が安置されています。

御朱印は本堂向かって右手前の客殿にて拝受できます。

 
〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙貼付)
中央に「本尊 不動明王」「弘法大師」「十一面観世音」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内八十八ヶ所第十九番札所」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 玉川八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



■ 第20番 身代山 玉泉寺 鏡照院
(きょうしょういん)
港区西新橋3-14-3
真言宗系単立
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:
司元別当:
授与所:寺務所ないし郵送

『ルートガイド』によると、応永六年(1399年)、常陸国の海上に出現した「身代不動明王」を笠間の地で祀っていましたが慶長十九年(1603年)当時の住職宥俊阿闍梨が江戸に遷し、愛宕下に改めて開かれたといいます。

19番-1の青蓮寺の記事で触れたとおり、江戸八十八ヶ所霊場の第20番札所は愛宕金剛院で、これは圓福寺地内末寺の金剛院のことかと思われます。
また、江戸期の御府内霊場第20番も金剛院であったとみられます。

明治2年の廃仏毀釈による圓福寺の廃絶時、愛宕権現本地堂の別当の立場にあった金剛院もおそらく廃絶を免れなかったとみられ、実際、金剛院は現存していません。

諸史料から考えると、圓福寺御本尊の勝軍地蔵菩薩は真福寺に移され、本地堂(別当・金剛院)御本尊の勝軍地蔵菩薩と御府内霊場第20番の札所は、圓福寺地内末寺で廃絶を免れた鏡照院に遷されたのではないでしょうか。

『寺社書上』から引くと、鏡照院は愛宕山圓福の寺中末寺で、御本尊は應永年中(1394-1428年)に上総國海中から出現した身代不動明王(秘仏)。
往時は御前立の不動明王木立像と四大明王立像、両童子木立像を奉安していたようです。
弘法大師、興教大師の座像を安じ、聖天堂には聖天尊と、聖天尊の本地である十一面観音木立像を奉安していました。
また、両脇大神宮として春日明神木立像を祀っていたようです。

一方、金剛院は愛宕(権現)本地堂別当で本寺は圓福寺。
御本尊は、愛宕権現の本地佛である勝軍地蔵尊(秘仏)。
奉安する弘法大師像は「御府内八十八ヶ所之●第弐拾番」と明記されています。
一言石地蔵尊、一言地蔵尊も奉安するお地蔵様のお寺だったようです。

「猫の足あと」様に「明治廿二年、高尾山飯綱不動明王を境内に勧請せり(東京名所図会)」、「本尊は身代不動明王で、後小松天皇の御宇應永六年(1399年)の開基と傳へられる。徳川家康から傳はつたといはれる寸餘の秘佛、将軍地蔵尊像が當院内に安置(芝區誌)」とあります。

上記より、家康公由来の(本地堂・金剛院ご本尊の)将軍地蔵尊像が当院内に安置されていた(る)可能性がありますが、当山の御本尊はもともとの鏡照院由来の身代不動明王。

金剛院時代の御府内霊場の札所本尊は、将軍(勝軍)地蔵菩薩と弘法大師だった可能性がありますが、明治初期とみられる金剛院から鏡照院への札所異動により、札所本尊は身代不動明王と弘法大師に替わったのではないでしょうか。

近年、鏡照院は西新橋に移転したため愛宕権現とのつながりはわかりにくくなりましたが、やはり愛宕権現(圓福寺)系の札所とみることができます。

-------------------------
【史料】
『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)

愛宕別當 圓福寺
武州豊島郡芝愛宕
新義真言宗触頭 別當 圓福寺

圓福寺地中幷末寺
 (圓福寺地中脇坊)
  金剛院 鏡照院 満蔵院 壽圭院 普賢院

『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)
(鏡照院)
愛宕山圓福寺中 新義真言宗
愛宕山鏡照院
開基 不●明
本尊 身代不動明王
 應永年中(1394-1428年)上総國海上●●海中出現
御前立不動明王木立像
本尊●●安並四大明王木立像 両童子木立像
弘法大師 興教大師 木座像
聖天堂 安聖天尊増 聖天本地十一面観音木立像
両脇大神宮 春日明神木立像

『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)
(金剛院)
芝愛宕本地堂別当
新義真言宗 金剛院
愛宕圓福寺中之内
本寺 愛宕圓福寺
山号 愛宕山金剛院●●●
愛宕本地堂
本尊 本地佛勝軍地蔵尊 秘像
●●佛
弘法大師 御府内八十八ヶ所之●第弐拾番
一言石地蔵尊
一言地蔵尊

-------------------------


都営三田線「御成門」駅、東京メトロ日比谷線「虎ノ門ヒルズ」駅、東京メトロ銀座線「虎ノ門」駅、JR「新橋」駅から歩ける距離で交通至便ですが、駐車場はありません。
東京都心のオフィス街の、まっただなかにある御府内霊場札所です。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 扁額

ビルの1階にあり、向拝は鉄扉で閉ざされ、扁額がなければおそらく寺院とは気がつきません。
むしろ、境内社の末廣稲荷大明神の方が目立っています。
この稲荷社は、京都伏見稲荷大社より明治時代に勧請されたもので、商売繁盛のご利益あらたかとのことです。


【写真 上(左)】 末廣稲荷大明神
【写真 下(右)】 御朱印案内

前の道はオフィスワーカーが行き交います。
このシチュエーションで、堂前で数珠をとり、勤行をあげるのはある意味勇気がいります。
御府内霊場の巡拝なので、よんどころなく勤行をあげました。

背中に感じる視線。
おそらく道行く人は、「この人なにしてるんだろう?」モードだったかと思います。

2度目の参拝はご縁日だったかと思いますが、ご開扉されて堂内(というか開扉するとすぐ前が護摩壇なので堂前)で勤行できました。
こうなれば落ち着いて参拝できます。
(このときの写真がなぜかみつからないので、みつかり次第UPします。)

御朱印は門扉に案内が貼ってあり、郵送で受けることができます。
ご開扉のときは専用納経帳に拝受できました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳(直書)
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙貼付)
中央に「身代不動明王」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(火焔宝珠)。
右上に「御府内霊場二十番札所」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ Vol.7



【 BGM 】
■ far on the water - Kalafina


■ Erato - 志方あきこ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )