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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-4

Vol.-3からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。

第13番は通常、高野山 弘法寺 龍生院(港区三田)がリストされますが、和光山 興源院 大龍寺(北区田端)も第13番として札所対応をされています。


■ 第13番-1 三田高野山 弘法寺 龍生院 (大本山 弘法寺)
(りゅうしょういん/こうぼうじ)
公式Web
港区三田2-12-5
真言宗系単立?/旧高野山真言宗
御本尊:弘法大師
札所本尊:弘法大師
他札所:
司元別当:
授与所:寺務所

『ルートガイド』によると、元は高野山山内寺院のひとつで、弘仁七年(816年)弘法大師が高野山開創の際、声明(しょうみょう)の道場として建立された系譜を継ぐとされています。
明治24年(ないし23年)に三田の現在地に移転といいます。

江戸八十八ヶ所霊場第13番は「医王山 円覚寺(霊岸島白金町)」とあり、江戸期は円覚寺(圓覚寺)が御府内霊場第13番札所であったとみられます。

霊岸島の圓覚寺については『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに記載が見当たりませんが、『江戸名所図会 7巻 [2]』『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [1]』に記載がみられます。

【史料】
『江戸名所図会 7巻 [2]』(国立国会図書館)
薬師堂
霊巌島銀町にあり 別当ハ真言宗● 医王山圓覚寺と号す 本尊ハ三州鳳来寺峯の薬師と同木同作にして 理趣仙人●●をと称へ 大宝年間(701-704年)に造立ありしと●り 座像御丈三尺あり 鳳来寺薬師と称し又ハ橋本薬師とも称せり 此霊像ハ(もともと?)高野山橋本の里にありしを 慶長年間(1596-1615年)当寺の開基恵生阿闍梨此地にうつしたてまつり 後霊巌寺の境内に安す 深川霊巌寺のことなり 仮寺始此地にあり 萬治(1658-1661年)の後 霊巌寺深川にうつる其頃 此薬師堂と此地にあり 稲荷の社の● 此地に残し(以下略)

橋本稲荷社
同境内にあり 此所の鎮守と● 社記云神像ハ弘法大師の作にして 御丈一尺二寸あり 山城國伏見稲荷明神と同木同作なりといへり 往古高野山の麓橋本の里に宮居を造●安置ありし故ありて後 ここに勧請なしたてまつるとなり  


『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [1]』(同上)
橋本稲荷社 別当醫王山圓覚院 三州鳳来寺峯薬師同作の薬師あり よって医王山といふ
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ふたつの史料によると、医王山圓覚寺は橋本稲荷社の別当で、御本尊は三河鳳来寺の薬師如来と同木同作の霊像とあり、鳳来寺薬師、橋本薬師とも称したといいます。

「Wikipedia」「(一社)奥三河観光協議会」Webによると、三河の煙巌山鳳来寺は標高695mの鳳来寺山の中腹にあり、大宝二年(702年)利修仙人により開山といいます。

利修仙人は杉の霊木から御本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻されこの地に奉安と伝わります。
時の文武帝がご病気になられた時、利修仙人に病気平癒祈願の勅使を使わされました。
仙人は鳳凰に乗って都にのぼり、七日間(十七日間とも)の加持祈祷によって帝は快癒されたといいます。
この御礼として伽藍を建立され、鳳凰に乗って参内ということで「鳳来寺」の名を賜ったのが寺号の由来とされています。

弘法大師による真言宗の開宗は弘仁十四年(823年)の嵯峨天皇からの教王護国寺勅賜とされるので、大宝二年(702年)の利修仙人による鳳来寺開山はこれより前です。
しかし、利修仙人の教義の系譜は真言宗五智教団として承継されました。

中世には源頼朝公により再興とも伝わり、江戸時代、とくに家光公の治世に栄えたといいます。
これは家康公の生母・於大の方が当山に参籠し、家康公を授けられたというゆかりによるものといい、実際、慶安四年(1651年)にはこの地に新たに東照宮が造営されています。

『東海道名所図会』には「煙厳山鳳来寺勝岳院(神祖宮 鎮守三社権現 六所護法神 開基利修仙人堂 常行堂三層塔 鏡堂 八幡宮 伊勢両太神宮 弁才天祠 天神祠 毘沙門堂 一王子 二王子 荒神祠 弘法大師堂 元三大師堂・・・」とあり、真言、天台両宗並び立つ神仏混淆の一大霊場であったことがわかります。

明治に入り鳳来寺と東照宮が分離されて鳳来寺は衰勢となり、明治38年、高野山金剛峯寺の特命を受け京都法輪寺から派遣された服部賢成住職に当山の再建が託されました。
宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院存続が図られたものの大正3年の伽藍焼失などで諸坊を失い、いまは松高院と医王院の二院の堂宇を残すのみといいます。(本堂は昭和49年に再建?)

以上ながながと鳳来寺について追ってみましたが、ここでわかったのは鳳来寺(真言宗五智教団)と高野山金剛峯寺(高野山真言宗)との関係のふかさです。

「中央区観光協会特派員ブログ」には、かつて霊岸島には ”七不思議” なるものがあって、その参は「円覚寺にある薬師は、宵薬師のため縁日の 8日・12日には参詣者がいない」とあります。
また、「(円覚寺は)明治になって火災に遭い廃寺になった」とも。
圓覚寺は明治に入って廃寺となったという情報は、複数のWeb記事で確認できるのでこれは事実だと思われます。

一方、『ルートガイド』には「元は高野山の山内子院の一つで、弘仁7年(816年)、弘法大師が高野山御開創の際、声明の道場として建立されたことが由来」とあります。
また、下記の『芝區誌』の記述を考えあわせると、高野山の声明の道場を草創とし、明治23年に中興開山とされる渡邊貞浄法尼が現在地に遷されるととともに、明治になって火災に遭い廃寺となっていた霊岸島の圓覚寺を承継し、御府内霊場第13番となったものとみられます。

【史料】
『芝區誌_15』のP.70(デジタル版 港区のあゆみ)
龍生院 三田一丁目二十六番地 古義真言宗、往古の開山は不詳であるが、明治二十三年頃本寺中興の開山と謂はれる渡邊貞浄法尼が、今の地に一寺を建立して現在に至る。境内の西北隅に渡邊綱の産生湯の水を汲んだと傳へられる古井戸がある。元本堂の東南隅に、綱の社と云ふ稲荷神社があつたが、今は無い。

「声明とは、一般に僧侶がお経に旋律をつけて唱えるもので、密教儀礼の中で用いられる声楽の名称です。」「声明は高度に体系化された声楽である。声明には音階や表現技法、楽譜までもが存在し、それぞれ細かくルールが決められています。」(高野山真言宗総本山金剛峯寺Webより)

高野山金剛峯寺を中心とした声明(しょうみょう)は一般に「南山進流」(なんざんしんりゅう)と称され、儀礼の進行の際などに唱えられているそうです。
当山の前身?の高野山の声明道場(子院?)は、南山進流だった可能性があります。

■ 高野山南山進流聲明「心略梵語」 声明独唱 松島龍戒


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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 入口


【写真 上(左)】 以前の入口
【写真 下(右)】 札所標

三田の慶應義塾大学のすぐ北隣、桜田通りから参道に入りますが、奥まっているのであたりは住宅メインの落ち着いた雰囲気。

桜田通りからすでにモダンな白亜の本堂が見えています。
山内入口に「御府内八十八ヶ所 弘法大師 第拾三番」の札所標。
門柱には三田高野山 弘法寺の山号寺号。
ガイドなどでは「龍生院」と紹介されていますが、「弘法寺」が前面に出ているのでいささかわかりにくいかも。

先日、令和五年六月十五日の弘法大師御生誕一二五0年当日の記念法要時には五色の吹き流しが掲げられていました。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 エントランス

以前は木造建築でしたがモダンな伽藍に建て替えられて平成26年竣工。
改築後は主に「弘法寺」の寺号を使われているようです。

本堂入口上部に「弘法寺」の寺号扁額。
入って左手には「空海 消えずの火」が灯り、その上に立像の不動明王。
この火は、弘法大師が唐より帰朝後宮島に渡り弥山にて修行なされ、大同元年(806年)開基されたという宮島弥山の大聖院から採火されたもの。
本堂で護持され、毎日採火され1階に灯されるそうです。

大聖院は真言宗御室派の大本山。当山は現在真言宗系単立となっている模様で、宗派を越えて採火・護持されているのかも。
公式Webには「大聖院と法縁関係にある弘法寺」とあります。)


【写真 上(左)】 エントランスの扁額
【写真 下(右)】 「消えずの火」と不動明王

入って正面はホテルのフロントのような瀟洒なかまえ。
声をお掛けすると3階の本堂にお参りするよう案内をいただくので、先にこちらで御朱印帳をお預けした方がいいかもしれません。
エレベーターで3階へ。

本堂は正面に金剛界大日如来と左右に両界曼荼羅。
向かって右手に弘法大師、左に坐像の不動明王が御座され、その前には護摩壇。
ビル内ながら真言密寺らしい荘厳な空間で、音響がよく、読経の声がよく響きます。

御朱印はフロント?にて拝受でき、ご対応はたいへんに丁寧です。
御府内霊場の御朱印の尊格は以前は弘法大師でしたが、Web情報によると現在は大日如来になっている模様。

弘法大師御生誕一二五0年のお参り時には、記念の限定切り絵御朱印が授与されていました。
筆者はふつう限定御朱印や切り絵御朱印は拝受しませんが、弘法大師御生誕一二五0年記念御朱印、しかも稚児大師と修行大師の御影入りの御朱印とあってはさすがに話は別で、ありがたく拝受しました。

〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳(令和元年)
【写真 下(右)】 専用集印帳(令和5年)

 
【写真 上(左)】 汎用御朱印帳(平成28年)
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(平成31年)

主印は弘法大師のお種子「ユ」(蓮華座+火焔宝珠)。右上に弘法大師の御印?。
揮毫は「本尊 弘法大師」で右上に「御府内霊場第拾三番札所」の札所印。左下には山号寺号揮毫と寺院印が捺されています。

※ 御府内霊場の御朱印尊格は以前は弘法大師でしたが、現在は大日如来となっている模様です。
令和5年8月拝受の御朱印の主印は弘法大師のお種子「ユ」(蓮華座+火焔宝珠)と三寶印。
揮毫は金剛界大日如来のお種子「バン」「大日如来」で右上に「御府内霊場第拾三番札所」の札所印。左下には山号寺号揮毫と寺院印が捺されています。

※平成28年6月拝受の御朱印はミニ御朱印的なサイズで、龍生院の揮毫と寺院印があります。

〔 弘法大師御生誕一二五0年記念御朱印 〕
  

【写真 上(左)】 リーフレット
【写真 下(右)】 記念御朱印

当山内には渡邊綱の産湯の水を汲んだと伝えられる古井戸があります。
当山の北側を東西に走る坂は「綱の手引坂」と呼ばれ、渡辺綱(羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の勇士源頼光の四天王の一人)がこの付近に生まれたという伝説によるとのこと。(「港区観光協会Web」


【写真 上(左)】 産湯の井戸
【写真 下(右)】 井戸の碑


■ 第13番-2 和光山 興源院 大龍寺
(だいりゅうじ)
北区田端4-18-4
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第21番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第17番、滝野川寺院めぐり第6番
司元別当:(上田端)八幡神社
授与所:寺務所

真言律宗の流れを汲むとされる真言宗霊雲寺派の大龍寺は、東京・豊島エリアの「豊島八十八ヶ所霊場」第21番の札所です。
こちらはWeb上で「弘法大師 十三番」の札所印の御朱印がみつかります。
一瞬「御府内二十一ヶ所霊場」のことかと思いましたが、こちらは第17番。
Web上で調べてみると、どうやら御府内八十八箇所第13番の札所らしいのです。

御府内八十八箇所は、番外・掛所などの札所はありませんが、第19番が2つあること(板橋の青蓮寺と南馬込の圓乗院)は知っており、いずれも御朱印は拝受していました。

しかし、第13番についてはノーマーク。Web検索でも確たる情報は出てきません。
通常、第13番は三田の龍生院(弘法寺)がリストされています。

御府内霊場第13番は、もともと霊岸島にあった圓覚寺とされ、明治初期に龍生院に引き継がれたとされていて大龍寺との関連は不詳です。

そこで「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」に注目してみました。
「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」は江戸期に開創とみられる弘法大師霊場で、『東都歳時記』に「弘法大師 二十一ヶ所」として記載があります。
同書に「未詳 湯嶋霊雲寺に弘法大師(読取不可)廿壱番とあり」とあり、謎の多い霊場ともされてきましたが、寛政二年(1790年)開版の『弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木』が発見され、実在が確定しています。
台東区のWeb史料には「この巡礼については、江戸時代の文献史料がほぼ皆無でしたので、発生年代、巡礼する寺院などはほとんど明らかでありませんでした。本版木は、寛政2年(1790)に碩峯という僧侶が開版したもので、巡礼寺院・所在地・御詠歌を紹介しています。寺院は谷中・下谷・浅草・本所・湯島に散在しますが、21ヶ寺のうち18ヶ寺が現在の台東区内です。」とあります。

札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)

こちらをみると、ほとんどが新義真言宗系・真言宗霊雲寺派(天台宗1)で、古義真言宗寺院はありません。
ふたつの真言宗霊雲寺派は湯嶋霊雲寺(結願)と大龍寺で、湯嶋霊雲寺のみの御府内霊場より札所数が多くなっています。

ふつう、弘法大師二十一ヶ所は弘法大師八十八ヶ所の簡易版で、札所が重複するケースが多いですが、御府内二十一ヶ所霊場では21札所のうち7のみ(谷中観音寺、谷中加納院、谷中明王院、谷中長久院、谷中多宝院、谷中自性院、湯嶋霊雲寺)で重複はすくなく、御府内霊場とは別の観点から開創されたものかもしれません。

いずれにしても、すくなくとも大龍寺は豊島八十八ヶ所、御府内二十一ヶ所霊場のふたつの弘法大師霊場札所なので、大師霊場とゆかりのふかい寺院であることは間違いないと思います。

【史料】
『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国立国会図書館DC)
「眞言律宗湯嶋靈雲寺末 和光山興源院ト号ス 古ハ不動院浄仙寺ト号セシニ、天明ノ頃僧観鏡光顕中興シテ今ノ如ク改ム 本尊大日ヲ置 八幡社 村ノ鎮守トス 稲荷社」

創建は慶長年間(1596-1615年)。
当初は新義真言宗で不動院 浄仙寺と号していましたが、安永年間(1772-1780年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕律師が中興され、現寺号に改称しているようです。
俳人の正岡子規をはじめ、横山作次郎(柔道)、板谷波山(陶芸家)などの墓所としても知られています。

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸期は(上田端)八幡神社の別当を司っていたようです。

【写真 上(左)】 (上田端)八幡神社
【写真 下(右)】 (上田端)八幡神社の御朱印


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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 墓所を示す境外の石碑

こちらは原則月曜はお休み(閉門)なので要注意です。
山門は三間三戸の八脚門ですが、脇戸にも屋根を置き、様式はよくわかりません。
主門上部に「和光山」の扁額。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右手からの本堂

本堂は二層で、入母屋造本瓦葺様銅板葺で流れ向拝、階段を昇った上層に向拝を置いています。
すっきりとした境内に堂々たる伽藍。このあたりは、霊雲寺派総本山の霊雲寺にどことなく似通っています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に草文様の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に彩色の海老虹梁と手挟、中備に葵紋付き彩色の板蟇股。
正面に「大龍寺」の扁額と、これを挟むように小壁に彩色の蟇股がふたつ。
身舎出隅の斗栱にも彩色が施され、二軒の平行垂木もよく整って華やかな印象の本堂です。

このところ巡拝者が増えているとみられる豊島八十八ヶ所霊場の札所なので、御朱印は手慣れたご対応です。
拝受者が少ない滝野川寺院めぐりの御朱印申告についても、特段驚かれた風はありませんでした。

御府内八十八箇所は結願したつもりでしたが、知ってしまった以上は、参拝し御朱印を拝受したいところ。

仔細がおありになるかもしれないので、御府内霊場についての詮索めいた質問は控えました。
淡々と「御府内霊場第13番」の御朱印をお願いし、淡々とお受けいただき、淡々と拝受しました。

〔 御府内霊場の御朱印 〕

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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 大日如来」の揮毫と胎蔵大日如来の種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下に「弘法大師 十三番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 滝野川寺院めぐりの御朱印 〕



■ 第14番 白鷺山 正幡寺 福蔵院
(ふくぞういん)
中野区白鷺1-31-5
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第14番
司元別当:鷺宮八幡神社
授与所:庫裡

御府内霊場は第14番から第18番まで御府内を離れて郊外を回ります。
いずれも雰囲気のある名刹です。

文亀・永正年間(1501-1521年)、頼珍(大永元年(1521年)示寂)によって開山され、下鷺ノ宮村の鷺宮大明神(八幡社)の別当寺でした。
宝暦十二年(1762年)堂宇を焼失し寺伝詳細は伝わっておりません。

江戸八十八ヶ所霊場の札所でもあるので、当初からの札所とも思われますが、府外の当山が御府内霊場札所に指定された経緯はうかがい知れません。

【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(上鷺ノ宮村)
白鷺山正幡寺ト号ス 前ノ八幡(現・鷺宮八幡神社)ノ別当ナリ 則其御朱印地ノ内ニアリ 新義真言宗ニテ当郡中野村寶仙寺ノ末 開山ヲ頼珍ト云 大永元年(1521年)五月示寂 第九世ヲ鏡薫ト云 慶安二年(1649年)八月寂セリ 此僧ノトキ八幡ノ御朱印ヲ賜ヒシヨシ カヽル功アルニヨリ中興トス サレハ当寺ノ開基ハ文亀・永正ノ頃ナルヘシ 宝暦十二年(1762年)十二月丙丁ノ災ニカヽリテ 堂宇残ラス焼失セシカハ詳ナルコトヲ傳へス 今ノ客殿ハ其後造リシモノナリ(略) 本尊不動ノ坐像長二尺 二童子モ長二尺許 運慶ノ作ト云、又ハ智證大師ノ作トモ云傳フ

別当を司った八幡社(現・鷺宮八幡神社)は上下鷺ノ宮村の鎮守で、本地として十一面観世音菩薩を祀っていました。


【写真 上(左)】 鷺宮八幡神社
【写真 下(右)】 鷺宮八幡神社の御朱印


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西武新宿線「鷺ノ宮」駅のすぐ南。妙正寺川の流れを北に押し上げる高みに鷺宮八幡神社と隣接してあります。
駅そばですが駐車場もあります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 弘法大師碑と地蔵尊


【写真 上(左)】 意匠の効いた土塀
【写真 下(右)】 馬頭観世音菩薩

山内入口右手に弘法大師碑と2体の地蔵尊。
ここから山門に向かって意匠の効いた土塀が伸びています。
植木が綺麗に刈り込まれ、参道には木の葉ひとつ置ちておらず、手入れの行き届いたお寺さまであることがわかります。
参道途中に院号標と整った像容の馬頭観世音菩薩。


【写真 上(左)】 寺号標と参道
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山門の札所板
【写真 下(右)】 山門扁額

山門は切妻屋根銅板葺の薬医門で左右に板塀を延べています。
見上げに山院号扁額、門柱には御府内霊場の札所板。


【写真 上(左)】 緑濃い山内
【写真 下(右)】 十三佛

山門をくぐると右手覆屋内に石佛の十三佛。案内板によると石佛で十三体そろったものは都内でもめずらしいそうです。

緑濃く手入れの行き届いた山内には、石佛、六地蔵、子育地蔵尊、そして修行大師像などが安置されています。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 修行大師と子育地蔵尊


【写真 上(左)】 手入れの行き届いた山内
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造金属板葺流れ向拝、屋根中央に置かれているのは太陽光パネルでしょうか。
昭和35年の落慶とのことですが、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を備え、伝統的に整った寺院建築です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

向拝開き戸の上に豪快な筆致の山号扁額が掲げられ、軒には不動明王の奉納額も掛けられています。


【写真 上(左)】 奉納額
【写真 下(右)】 庫裡

都内の駅そばとは思えない雰囲気のある山内で、落ち着いた参拝ができました。
御朱印は本堂向かって右の庫裡にて拝受。
手入れの行き届いた山内から予想されるとおり、たいへんご親切なご対応をいただきました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は不動明王のお種子「カン/カーン」(蓮華座+火焔宝珠)。揮毫は「本尊 不動明王」「弘法大師」で右上に「御府内十四番」の札所印。左上に山号印、その下には院号揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第15番 瑠璃光山 医王寺 南蔵院
(なんぞういん)
練馬区中村1-15-1
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第15番、江戸八十八ヶ所霊場第15番
司元別当:(中村)八幡宮ほか
授与所:庫裡

御府内霊場には南蔵院と号する札所が練馬(第15番)、牛込(第22番)と高田(第29番)の3箇寺あり、それぞれ練馬南蔵院、牛込南蔵院、高田南蔵院と呼んで区別されます。

第15番の練馬南蔵院は、御府内からいささか離れるものの江戸八十八ヶ所霊場と同番で、御府内からの移転記録もないことから当初からの御府内霊場札所とみられます。
練馬辺りは豊島八十八ヶ所の巡拝エリアでもあり、当山も御府内霊場、豊島霊場というふたつの弘法大師霊場の兼務札所となっています。

現地掲示、『ルートガイド』および『新編武蔵風土記稿』によると、延文二年(1357年)(永正年中(1504-1521年)とも)、僧良辨の中興といいます。

良辨は諸国の霊場へ法華妙典を納めた後に当寺に錫をとどめ、妙経を埋めて「良辨塚」を建立してなおも修行をつづけると、ある日薬師の像を感得しました。
良辨は堂宇を建立してこの薬師像を奉安し、いまの御本尊になったといいます。
秘佛で33年に一度の御開扉。

当寺で出していた「白龍丸」という薬は良辨が夢中で感得した霊法の薬丸で万病に効くとされ、「南蔵院の投込み」と称して全国に広まりましたが、明治10年の法制定を受けて販売は中止となりました。

当山は元(中村)八幡宮の別当で、末寺の西光寺(廃寺)はこのそばにあったといいます。


【写真 上(左)】 (中村)八幡神社
【写真 下(右)】 (中村)八幡神社の御朱印

【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(中村)
南蔵院 新義真言宗 上練馬村愛染院末 瑠璃山醫王寺ト称ス(略)永正年中(1504-1521年)僧良辨(良弁僧正トハ異ナリ) 諸国ノ霊場ヘ法華妙典ヲ納メ志願畢リテ後 当寺ニ錫ヲトヽメ妙経ヲ理テ一箇ノ塚トス 今村ノ中程ニ良辨塚ト称スルモノ是ナリ 然シテヨリ此寺ニアリテ修法怠ラサリシカハ 其功空シカラサルニヤ 或日薬師ノ像ヲ感得セリ ヨリテ堂宇ヲ興隆シ其像ヲ安置スト云 今ノ本尊是ナリ 秘仏トシ三十三年ニ一度龕ヲ開テ拝セシム 又当寺ヨリ白龍丸ト云薬ヲ出セリ 曽テ良辨カ夢中感得セル霊法ノ薬丸ナリ
 諸病ニ験アリト云 稲荷社 閻魔堂

西光寺 紫雲山阿彌陀院ト号ス 本尊阿彌陀 大日堂 南蔵院持
良辨塚 前(南蔵院の項)ニ云 経典ヲ埋メシ塚ナリ 古碑一基タテリ モトヨリ其頃立シモノトハ思ハレス 年月モ彫ラス  

(中村)八幡宮 (中)村ノ鎮守ナリ 南蔵院持 下持同シ 稲荷社、大神社、辨天社、水神社、三峰社、金毘羅社


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最寄りは都営大江戸線・西武池袋線「練馬」駅。
練馬の落ち着いた住宅地のなかに、かなりの広さを保ってあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道入口の対燈籠

東側の南蔵院通りに立派な門柱とその先に銅燈籠一対と右手に慈母観音立像。
その先に参道がながながとつづき、緑ゆたかな山内はとても練馬の住宅地とは思えません。


【写真 上(左)】 緑ゆたかな山内
【写真 下(右)】 手前から庫裡、本堂、薬師堂

しばらく進むと右手に本堂が見えてきます。
本堂向かって右手に庫裡、左手に薬師堂を配して堂々たる構え。


【写真 上(左)】 本堂参道
【写真 下(右)】 本堂と銅燈籠


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 本堂

本堂前に進むと左手に修行大師像。
本堂前の大ぶりで精緻な彫刻の銅燈籠が存在感を放っています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂は入母屋造桟瓦葺で間数が多く、濃茶色の格子扉、小壁下の菱格子が引き締まった印象。
向拝見上げには山号扁額。
柱のないすっきりとした向拝は、密寺というより禅刹的なイメージがあります。


【写真 上(左)】 薬師堂
【写真 下(右)】 斜めからの薬師堂

薬師堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻と見上げに「薬師堂」の扁額を掲げています。

当山の御本尊は秘佛の薬師如来。
本堂と薬師堂があるので、本堂と薬師堂にそれぞれ薬師如来が御座すか、本堂には宗派本尊の大日如来あるいは別尊が奉安され、薬師堂の薬師如来が御本尊とされているかのいずれかと思いますが、よくわかりません。
ちなみに、豊島霊場の御朱印尊格も薬師如来となっているお薬師さまのお寺です。


【写真 上(左)】 薬師堂の向拝
【写真 下(右)】 薬師堂の扁額


【写真 上(左)】 弘法大師碑
【写真 下(右)】 閻魔堂

山内西側には閻魔堂。
『新編武蔵風土記稿』に記載されている閻魔堂の流れと思われ、堂内には閻魔大王と十王像が御座されています。

その南側に赤門と鐘楼門。
薬師堂、閻魔堂、鐘楼門などは宝暦三年(1753年)建立とされ、とくに鐘楼門は「江戸時代中期の建築と考えられる区内唯一の鐘楼門」(区資料)とされ練馬区の指定文化財です。


【写真 上(左)】 鐘楼門
【写真 下(右)】 赤門

赤門と鐘楼門の向きが直角で、赤門は脇門用途ではなさそうです。
鐘楼門は入母屋屋根桟瓦葺朱塗りの三間一戸の八脚門で、脇間に迫力の仁王尊像、上層に鐘をおき、端正な垂木が目につきます。

赤門は切妻屋根瓦葺。朱塗りで本柱と控柱各二本を備えた様式は医薬門でしょうか。

山内南側に祠が二棟御鎮座で、一棟は弁財天尊のような気がします。
もうひとつは扁額がないのでよくわかりませんが、『新編武蔵風土記稿』にある稲荷神かもしれません。


【写真 上(左)】 首継地蔵尊
【写真 下(右)】 聖観世音菩薩像

その左手には首継(つぎ)地蔵尊。
もともとは末寺の西光院(廃寺・現中村八幡神社の社裏)に奉安とされますが、現在は南蔵院に遷られています。

かつて首のない地蔵尊と地蔵尊の首が別々に村人によって奉安されており、二人の村人の夢告が一致して首と胴体をあわせたところぴったりと収まったため、二体を継いで「首継(つぎ)地蔵尊」としたと伝わります。
昭和初期の不況期には「首切り」を遁れようと願う多くの参拝者で賑わったそうです。

首継地蔵尊の右脇に笠付角柱型のめずらしい聖観世音菩薩像がありますが、こちらも西光院から遷られたお像のようです。


【写真 上(左)】 長屋門
【写真 下(右)】 練馬消防団の施設

その左手には長屋門。山内南側にある唯一の門です。
その左にある分校のような雰囲気ある建物は、現在は練馬消防団の施設となっているようです。

山内には弘法大師碑(御府内霊場札所標かも)、弘法大師&興教大師碑などがあります。
弘法大師&興教大師碑は、横書きの山号碑の上に弘法大師碑と興教大師碑が置かれためずらしい形状で、新義真言宗寺院ならではのものです。


【写真 上(左)】 弘法大師&興教大師碑
【写真 下(右)】 札所受付板

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 薬師如来」「弘法大師」の揮毫と三寶印。
右上に「第十五番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



以下、つづきます。
(→ Vol.5



【 BGM 】
■Far On The Water - Kalafina


■ I Will Be There with You ~日本語版~ - 杏里


■ 空に近い週末 - 今井美樹
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