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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-5

Vol.-4からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第16番 亀頂山 密乗院 三寶寺
(さんぽうじ)
練馬区石神井台1-15-6
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:豊島八十八ヶ所第16番、関東三十六不動尊霊場第11番、武蔵野三十三観音霊場第3番、江戸八十八ヶ所霊場第16番、大東京百観音霊場第77番
司元別当:(上石神井村)氷川社ないし石神井明神祠
授与所:寺務所

練馬屈指の名刹で、複数の現役霊場の札所を兼務されています。
幾多の戦乱や火災で寺記の多くを失っていますが、一部は『新編武蔵風土記稿』などに残り、この名刹の華々しい歴史を伝えてくれます。

山内掲示、『新編武蔵風土記稿』などから由緒・来歴を追ってみます。
應永元年(1394年)、鎌倉胡桃ヶ谷(浄明寺)の大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が仏縁の地を求めて来錫され、石神井川の清流や三宝寺川の谷を控える景勝の当地を真言の道場として定めて開山・建立といいます。
大楽寺は律宗でしたから、当山も真言律宗の流れをくんでいるのかもしれません。

■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)の「13.覚園寺」の記事で、大楽寺について触れているので転載します。

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覚園寺入口正面の愛染堂と堂内の諸仏は、明治初年に廃寺となった大楽寺(当初胡桃ヶ谷→薬師堂ヶ谷)から移されたものです。

『新編相模國風土記稿』の大楽寺の項に「覚園寺域内左方ニアリ。古ハ胡桃ヶ谷(浄妙寺村ノ麓)ニ在シトソ。故ニ胡桃山 千秋大楽寺と号ス。此ニ移セシ年代伝ハラス。開山ハ公珍ト云フ。本尊不動。鐵像願行作。俗ニ試ノ不動ト云フ。是大山寺不動ヲ鋳シ時。先試ニ鋳タル像ナリトソ。及薬師。願行作。愛染。運慶作等を置ク。暦應四年(1341年)二月。基氏ノ慈母。十三年ノ忌ニ佛事ヲ執行ス。永享元年(1429年)二月回禄ニ罹レリ。鎌倉九代後記曰。永享元年二月永安寺並大楽寺炎上。按スルニ此所ヨリ永安寺二程近シ。サテハ此頃。既ニ当所ニ移レルコト識ルヘシ。」とあり、不動尊像は大山寺と所縁をもたれること、大楽寺の焼失と移転の経緯などが記されています。

胡桃ヶ谷は浄明寺と瑞泉寺の中間あたりで、永安寺は瑞泉寺総門近くにあったとされます。
これに、↑ の『新編相模國風土記稿』『新編鎌倉志』の記述を重ね合わせると、胡桃ヶ谷の大楽寺は永享元年(1429年)に大火で焼失し、覚園寺のある薬師堂谷(覚園寺の左方)に移転、明治初年に廃寺となり覚園寺に吸収され、堂宇や尊像は覚園寺愛染堂として遺された、という流れも考えられます。
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『願行上人憲静の研究(下)』(伊藤宏見氏)」のP.43には「三宝寺誌」(小峰頼典、昭和35年)が引用され、三宝寺血脈として「憲静(願行上人)-公珍(鎌倉大楽寺開山)-栄珍-幸尊(三宝寺開山)」とあるので、法統(血脈)としては幸尊(三宝寺開山)は願行上人から数えて四世にあたることがわかります。

願行上人(1215-1295年)は鎌倉時代の高僧で、真言宗三宝院流と北京律(律宗)を兼修され、鎌倉幕府と密接な関係をもち多くの弟子を育成されたといいます。
詳細については■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)の「24.安養院」の記事をご覧ください。

『新編相模國風土記稿』によると、大楽寺は暦應四年(1341年)に足利「基氏の慈母」が佛事を執行しています。
足利基氏(1349-1367年)は足利尊氏の子で初代鎌倉公方。
基氏は文和二年(1353年)に武蔵国入間郡入間川(現・狭山市付近)に宿営地(入間川御陣)を設け北関東や越後の豪族に備え、9年間に渡りここに鎌倉府を置いたといいます。

鎌倉から入間川まで、多摩丘陵を避けるとすると石神井あたりはその道途に当たり、その交通の要衝ぶりは石神井城が築かれ、江古田原合戦の舞台となったことからもわかります。

願行上人は鎌倉幕府との関係が深く、その法流にある大楽寺もまた鎌倉府と関係が深かったとみられるので、石神井という要衝の地に大楽寺ゆかりの寺院が置かれたのは、何らかの政治的な意図もあったのかもしれません。

三寶寺は当初は石神井池南方の現・野球場付近にあったといいます。
文明九年(1477年)、太田道灌が豊島泰経をはじめとする豊島一族を亡ぼした江古田原合戦で豊島氏の居城・石神井城が落城した後、現在地に遷ったとされます。

天文十六年(1547年)、後奈良天皇から勅願所の綸旨を受け、戦国期には小田原北条氏が帰依して寺田の寄附を受け、天正十九年(1591年)には徳川幕府から十石の朱印地を受けています。
『Wikipedia』には「江戸時代には無本寺・独礼の寺格で遇され、塔頭6寺院(教学院、禅定院、観蔵院、最勝寺、正覚院、薬王院)、末寺は50以上の大寺院であった。」とあります。

また、新義真言宗の「関東七箇寺」「関東十一談林」に名を連ねています。
なお、「関東七箇寺」「関東十一談林」は下記のとおり。(諸説あり)
 明星院:埼玉県桶川市 智山派 七箇寺
 三学院:埼玉県蕨市 智山派 七箇寺
 錫杖寺:埼玉県川口市 智山派 七箇寺
 一乗院:埼玉県熊谷市 智山派 七箇寺
 三寶寺:東京都練馬区 智山派 七箇寺
 総持寺:東京都足立区 豊山派 七箇寺
 寶仙寺:東京都中野区 豊山派 七箇寺
 金剛寺:東京都日野市 高幡不動尊 智山派
 長久寺:埼玉県行田市 智山派
 法恩寺:埼玉県越生町 智山派
 薬王院:東京都八王子市 智山派
 龍花院:埼玉県加須市 智山派
 宝生寺?:東京都八王子市 智山派

寛永二年(1625年)と正保元年(1644年)には大猷院(徳川三代将軍家光公)御放鷹の際の休憩所にもなっており、その寺格の高さがうかがわれます。

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【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(上石神井村)
三寶寺 新義真言宗 亀頂山密乗院ト号ス 無本寺ナリ 古ハ鎌倉大楽寺ノ末ナリシト云 本尊不動 傍ニ聖徳太子ノ作ノ正観音ヲ安ス 又勝軍地蔵ヲ置リ 是ハ村内愛宕社ノ本地ニシテ世ニ希ナル古佛ナリ 年ヲ追テ朽損セシカハ慶長十一年(1606年)檀越尾崎出羽守資忠住僧頼融ト謀リ修理ヲ加ヘシト云 其後賊ニアヒテ全体ハ失ヘリ 寺伝ヲ閲スルニ当寺ハ應永元年(1394年)権大僧都幸尊下石神井村ニ草創スル所ニシテ(略)後屢戦争ノ災ニ罹テ頗衰タリシニ。文明九年(1477年)太田道灌豊島氏ヲ滅セシ後 ソノ城跡ヘ当寺ヲ移セリト云 カヽル舊刹ナリシカハ 天文十六年(1547年)元ノ如ク勅願所タルヘキノ免状ヲ賜ヒ 永禄十年(1567年)現住尊海ヲ大僧正ニ任セラル 又北條氏ヨリモ寺田ヲ寄附シ制札等ヲ与ヘテ帰依浅カラサリシカハ 御当代ニ至リテモ先規ニ任セラレ天正十九年(1591年)領十石ノ御朱印ヲ賜ハレリ 寛永二年(1625年)正保元年(1645年)大猷院(徳川三代将軍家光公)御放鷹ノ序当寺ヘ御立寄アリ(略)

愛宕社
小名城山ニアリ 略縁起ニ文明中(1469-1487年)太田道灌豊嶋氏ヲ攻ルノ時 当社ヲ勧請シテ勝利を祈シト云

稲荷社ニ
一ハ火消稲荷ト称ス 当社ノ霊験ニヨリ三寶寺火難ヲ遁レシ事アリ故ニ名ツク同寺(三寶寺)持

『江戸名所図会』(国立国会図書館)
亀頂山三寶寺 密乗院と号す。神石神井村にあり。真言宗の道場にして、頗る大刹なり。法印権大僧都幸尊、應永元年(1394年)の創建たり。往古は勅願の地なりし故、勅書数通を蔵すといふ。慶長十一年(1606年)、当寺十世頼融上人、檀主尾崎出羽守資忠といへる人と共に力をあはせ寺院修復の功を全うす。当寺は即ち尾崎氏第宅の舊址なりといへり。

本堂 本尊将軍地蔵菩薩 僧形にして馬に乗じたまふ御影なり。傳へ云ふ。往古此本尊盗賊の為に盗みとらる。其夜、本尊住持の夢中に告げて曰く、我願くは化を垂れ、六●の衆生を救はんとす、されど乗する所の馬は猶ここに止むと云々。住持暁に至り、堂中に入りて拝するに、はたして本尊いまさず、故に其後新に今の本尊を彫造し奉り、舊古の馬上に安じまいらすといへり。

稲荷祠 堂前左の岡にあり。里老相傳ふ、上代当寺の住持某灌頂修行の日、老狐鳴きて寺院を廻る事二三回、其過福をしらするに似たり。然るに其夜火起る事再三、その火遂に物ならずして即ち消えたり。故に火消稲荷と称するといへり。

千体地蔵堂 表門の左にあり。
八幡宮 同じ右にあり。

愛宕権現宮 同所西南の林岡にあり。三寶寺本尊の垂迹とす。其地(略)太田道灌の城跡なりと。土人は字して城山と唱ふ。前に関川を懐き、後に遅井を負ふ。

石神井明神祠 石神井村にあり。三寶院奉祀す。神體は一顆の霊石にして、往昔井を穿つとて、其土中に是を得たりとなり。よって石神井の地名こヽに起るといへり。


■『江戸名所図会』 第3 (有朋堂文庫)/三宝寺池~
(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載 → 出所

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『新編武蔵風土記稿』には「本尊不動 傍ニ聖徳太子ノ作ノ正観音ヲ安ス 又勝軍地蔵ヲ置リ 是ハ村内愛宕社ノ本地ニシテ世ニ希ナル古佛ナリ」という気になる記述があります。
『江戸名所図会』には三寶寺の御本尊が将軍地蔵であると記されています。

上記の愛宕社の由緒を考えあわせると、当山の勝軍地蔵はもともと太田道灌が豊島氏を攻める際に勧請、戦勝祈願した愛宕社の本地佛で、もともとは当山の御本尊ということになります。

これほどの来歴を秘めた勝軍地蔵ですが、御座所はよくわかりません。
また、「聖徳太子ノ作ノ正観音」についても調べはつきませんでした。

石神井公園~江古田周辺には江古田原合戦(太田道灌、豊島氏)とゆかりのある寺社が多く、道灌方、豊島氏方が複雑に絡み合っています。
少しく離れますが、新宿区西落合の西光山 自性院(豊島八十八ヶ所霊場第24番)は、江古田原合戦で道灌が一匹の猫に救われたことから猫地蔵を供養したとされ、「猫寺」の愛称で知られています。

『新編武蔵風土記稿』の(上石神井村)氷川社の項には「氷川社 上下石神井●田中谷原五ヶ村ノ鎮守ナリ(略)三寶寺ノ持 下三社同シ 末社 天神 辨天 天王 第六天 稲荷」とあります。
一方、『江戸名所図会』には(石神井)氷川神社祠の別当が三寶寺という記載はなく、石神井明神祠の別当(奉祀)が三寶寺とあり、三寶寺は(上石神井村)氷川社、あるいは石神井明神祠の別当を司っていたとみられます。


【写真 上(左)】 石神井氷川神社
【写真 下(右)】 石神井氷川神社の御朱印


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練馬区の三宝寺池・石神井池(石神井公園)周辺は、区内でも殊に緑ゆたかなところです。
三寶寺は三方寺池(石神井城跡)を北に背負った南傾の地にあります。
南側正面に山門(御成門)、向かって右手に鐘楼堂、長屋門が木立ちのもと落ち着いたたたずまいをみせています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道入口の結界石

・結界石
山内入口にある「守護使不入」の結界石は、当山の寺格の高さをあらわすものとされています。


【写真 上(左)】 山門(御成門)
【写真 下(右)】 鐘楼

・山門(御成門)
文政十年(1827年)建立の山内最古の建築物で区の登録文化財
家光公鷹狩りの際の御成りに因んで「御成門」とも称します。
切妻造銅板葺の四脚門で格天井。彫刻や細部絵様は江戸時代後期の特徴を示すとされます。

・鐘楼堂
梵鐘は延宝三年(1675年)の鋳造で、鋳物師の名工・椎名伊予守藤原吉寛の銘があり練馬区指定文化財に指定されています。
『新編武蔵風土記稿』は、江戸増上寺の大鐘を鋳た時、その余銅をもって造った梵鐘と伝えます。


【写真 上(左)】 長屋門
【写真 下(右)】 長屋門の扁額

・長屋門
もとは勝海舟邸の門で、旭町にあった兎月園から昭和35年に移築されたもの。
門脇には御府内霊場の札所標があります。


【写真 上(左)】 大黒堂
【写真 下(右)】 大黒堂の向拝

・大黒堂/千体地蔵堂
山門(御成門)をくぐった参道左手にある昭和4年創建の堂宇です。
入母屋造本瓦葺流れ向拝でがっしりとした水引虹梁を備える端正なつくり。
扁額はおそらく「福徳無量」かと思われます。
大黒堂奉安の大黒天神は当山第三十三世融憲和尚の念寺佛で、「開運出世大黒天」として
諸人の信仰篤く、札所ではないですが御朱印も授与されています。

地下の千体地蔵堂には江戸時代経堂に祀られていた子育千体地蔵尊と六道曼荼羅が奉安されています。
寺宝の来迎三尊来迎仏画像板碑(区登録文化財)や、永享八年(1436年)銘の国内最古の夜念仏板碑(区指定有形民俗文化財)も千体地蔵堂に安置されていますが公開の可否は不明です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂の扁額

・本堂
参道正面、階段うえに本堂で、階段下右手には豪勢な手水舎。
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、向拝上に軒唐破風とその奥に大がかりな千鳥破風を興し、複雑なフォルムを見せています。
水引虹梁両端に天女の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に二段のボリューミーな彫刻、兎毛通に朱雀?の彫刻を構えて見応えがあります。
扁額は「密蔵三寶」。向拝まわりには御詠歌、御真言、札所板などが掛かり、霊場札所らしい華やいだ雰囲気。
御本尊の不動明王(石神井不動尊)を奉安し、御府内霊場、豊島霊場および関東三十六不動尊霊場の拝所はこちらになります。


【写真 上(左)】 本堂向拝の札所板
【写真 下(右)】 根本大塔

・根本大塔
本堂向かって左手の高みに開創600年記念事業として発願され、平成8年落慶した佛塔。
高さ17mの木造多宝塔で法身大日如来を象徴しています。

・平和大観音像
根本大塔のさらに左奥に平和大観音像(高さ9mの十一面観世音菩薩像)。
こちらも開創600年記念事業として発願・建立されたものです。


【写真 上(左)】 平和大観音像
【写真 下(右)】 観音堂

・観音堂
武蔵野三十三観音霊場、大東京百観音霊場の拝所はこちらで、札所本尊はいずれも堂宇本尊の如意輪観世音菩薩です。
入母屋造銅板葺流れ向拝で水引虹梁を置き、堂前には回向柱が建てられています。
扁額には「補陀落迦」。補陀落とはふつう観世音菩薩の降臨する霊場を指します。
小壁には如意輪観世音菩薩の御真言と武蔵野観音霊場・大東京百観音霊場併記の札所板が掲げられています。
(大東京百観音霊場の札所標はレア。御朱印も授与されています。)


【写真 上(左)】 観音堂の扁額
【写真 下(右)】 観音堂の札所板

・大師堂(奥之院)
本堂左手奥の林のなかには八十八ヶ所お砂踏み霊場があり、さらにその奥に大師堂(奥之院)と向かって左に修行大師像。
本堂と大師堂は廊下でつながっていますが、一般参詣者はお砂踏み霊場側からの参詣となります。
もともとは経堂で現・根本大塔の場所にあり、千体地蔵尊と弘法大師が奉安されていたことから、従前から「大師堂」と呼ばれていたとのこと。
昭和42年の弘法大師ご誕生1200年を記念して現在の場所に改築されたものです。

ひときわ落ち着いた一画で、こころしずかにお参りができます。
大師堂はおそらく宝形造銅板葺で、向拝柱を構えた端正なつくりです。
扁額は大師堂。身舎には弘法大師の御詠歌と御府内霊場第16番の札所板が掲げられています。
弘法大師霊場(御府内・豊島)巡拝では、当然こちらも拝所となります。


【写真 上(左)】 奥之院入口
【写真 下(右)】 奥之院大師堂


【写真 上(左)】 大師堂向拝と修行大師像
【写真 下(右)】 大師堂扁額


【写真 上(左)】 札所板(札所板)
【写真 下(右)】 札所碑(長屋門脇)

御朱印は本堂向かって右手の寺務所にて拝受できます。

なお、第70番の禅定院もすぐそばなので、順打ちでなければ併せての巡拝がベターです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 不動明王」「弘法大師」の揮毫とおそらく不動明王のお種子「カンマ-ン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第十六番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

※「カンマ-ン」は梵字重字で、「カン」は不動心、「マ-ン」は柔軟心を表すともいわれます。
御朱印御寶印に使われる例は多くありませんが、三寶寺の塔頭寺院として創建された慈雲山 観蔵院(練馬区南田中/豊島八十八ヶ所霊場第81番)ではダイナミックな「カンマ-ン」の揮毫御朱印を授与されています。


■ 慈雲山 観蔵院の御朱印

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 関東三十六不動尊霊場の御朱印 〕


〔 武蔵野三十三観音霊場の御朱印 〕


〔 大東京百観音霊場の御朱印 〕


〔 大黒天神の御朱印 〕



■ 第17番 東高野山 妙楽院 長命寺
(ちょうめいじ)
公式Web
練馬区高野台3-10-13
真言宗豊山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:豊島八十八ヶ所第17番、武蔵野三十三観音霊場第1番、江戸八十八ヶ所霊場第17番、江戸・東京四十四閻魔参り第31番、閻魔三拾遺第25番
司元別当:(谷原)氷川神社
授与所:寺務所

第16番三寶寺、第17番長命寺と、お大師さまとのゆかりがふかい札所がつづき、弘法大師霊場巡拝の醍醐味が味わえます。

長命寺は東高野山とも、新高野山とも称される練馬の名刹。
山内掲示、下記史料、『ルートガイド』などを参考に縁起・沿革を追ってみます。

慶長十八年(1613年)、後北条氏の一族・増島勘解由重明(慶算阿闍梨)が高野山に登り、修行中に弘法大師の御像を感得、谷原に弘法大師像を奉じて一庵(道中庵)を結んで草創といいます。
その子(甥とも)増島重俊が諸堂を建立、高野山奥の院の地勢を模して奥の院を整備。

寛永十七年(1640年)には大和長谷寺の小池坊秀算(正秀とも)が入られて谷原山長命寺と号しました。
弘法大師霊場としての名声高く、後世では東高野山の山号が使われることが多くなりました。

御本尊は金堂に奉安の十一面観世音菩薩で、行基菩薩の御作と伝わります。
金堂西の大師堂(奥之院)は高野山奥之院に倣った規模の大きなもので、東高野山と称されて参詣寺として信仰を集めています。
区のWeb史料には「江戸町奉行が支配した、品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川から多くの方が参拝したという練馬区屈指の古刹」とあります。

また、練馬区貫井5丁目にある「貫井の東高野山道道標」(練馬区登録文化財)は、旧清戸道(所沢秩父道)から長命寺へと向かう旧道の分岐点に建立された道標二基で、いずれも江戸時代後期における長命寺参詣や交通を考える上で貴重なものとされています。

『江戸名所図会』によると、本堂と観音堂、そして大師堂(奥之院)は橋廊で結ばれた一大伽藍であったようですが、幾度の火災に遭い往時の結構を失っています。
しかし数次の伽藍再建を経て、いまでも名刹の風格を保っています。

(谷原)氷川神社の境内掲示には「『新編武蔵風土記稿』には『村ノ鎮守ナリ、長命寺ノ持』とあります。長命寺はここから南西約百メートルにある真言宗の名刹で、江戸時代は当社の別当寺でした。祭神は須佐之男命です。(略)境内に皇大神宮(祭神天照大御神)、八幡神社(祭神応神天皇)、春日神社(祭神天児屋根命)の三社があります。この三社は『新編武蔵風土記稿』谷原村長命寺の項に『三社宮 大神宮・八幡・春日三神ヲ安ス』とある神社です。江戸時代は長命寺の境内にありましたが、神仏分離後に当地へ移されました。」とあり、長命寺が(谷原)氷川神社の別当であったこと、長命寺山内の三社宮(大神宮・八幡・春日三神)が神仏分離後、(谷原)氷川神社に御遷座されたことが明記されています。


【写真 上(左)】(谷原)氷川神社
【写真 下(右)】(谷原)氷川神社の御朱印

豊島八十八ヶ所霊場、江戸八十八ヶ所霊場の札所で、武蔵野三十三観音霊場初番(発願寺)をつとめられ、観音巡礼でも重要な寺院です。
また、ふたつの閻魔霊場の札所でもあり、多彩な信仰の場となっていたことがわかります。

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【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(谷原村)
長命寺 新義真言宗 大和國初瀬小池坊末 谷原山妙楽院ト称ス 本尊不動 古ハ薬師ヲ安スト云 境内大師堂ノ縁起ニ 増島勘解由重明ナルモノ当村ニ住シ 仏心深ク兄重國カ第四子重俊ニ家ヲ譲リ 剃髪染衣シ慶算ト号シ 紀伊國高野山ニ登リ木食勤行スルコト年アリ 或日大師ノ夢想ニ因テ讃岐國彌谷寺ニ至リ 師自作ノ木像ヲ感得シ速ニ当村ニ帰リ高野山ニ擬シ一院ヲ営ムカノ像ヲ安置ス 今ノ大師堂是ナリ。
云慶算元和二年(1616年)六月寂シ 重俊其志ヲ継諸堂(略)建立(略)高野山ニ倣フ因テ東高野山ト呼 又新高野山トモ云
寛永十七年(1640年)小池坊住僧正秀推挙シテ長命寺ト名ツケ一寺トナセリ 是ヨリ佛燈彌興隆ス因テ正秀を請テ換算トス
 
金堂 十一面観音ヲ安ス 立像長三寸許行基ノ作ナリ 両脇に太神宮春日明神ヲ安ス
大師堂 奥ノ院ト称ス 弘法大師ハ木の坐像長二尺余
三社宮 大神宮八幡春日三神ヲ安ス

舊家者傳左右衛門 増島ト称ス 小田原北條ノ族士タリシカ天正十八年(1590年)没落ノ後 東照宮ニ謁シ奉リ 当村及田中ノ両邑ヲ賜ヒ後又加恩アリテ六百石ヲ領シ(略)

氷川社 (谷原)村の鎮守ナリ 長命寺の持 下同 稲荷社三 一ハ國廣稲荷 一ハ金山稲荷ト称ス 

『江戸名所図会』(国立国会図書館)
谷原山長命寺 妙楽院と号す。 真言宗にして、本尊に薬師如来の像を安置す。慈覚大師の作なり。慶安四年(1651年)慶算阿闍梨といへる木食の沙門、当寺を開基す。阿闍梨は伊豆國の産、北條早雲長氏の曽孫にして、増島氏なり、俗称は勘解由重明といふ。天正中(1573-1592年)北條氏規に属して、豆州韮山の城に籠居す。北條家滅亡の後、此地に退去して農民となる。(略)入道染衣の身となりて、慶算と改め、室を儲けて道中庵と号す。

観音堂 本堂の西にあり。本尊十一面観音の像は行基菩薩の作なり。和州初瀬寺にならびたりとて、天照、春日、八幡の三神をあがめまつりて、当寺の鎮護廟とす。寛永十七年(1640年)の九月、長谷の小池坊秀算僧正当寺を長命寺と号けらる。

大師堂 本堂の西にあり是を奥の院と称す。(略)すべて紀州高野山大師入定の地勢を模擬する故に、堂前に萬燈堂あり、又御廟の橋、蛇楊は、同じ前庭にありて(略)樹林鬱蒼として、閑寂玄蔭の地なり。


■『江戸名所図会』 第3 (有朋堂文庫)/練馬長命寺
(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載 → 出所


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【写真 上(左)】 南大門
【写真 下(右)】 南大門の扁額.

西武池袋線「練馬高野台」駅のそば、笹目通りにもほど近く交通は至便です。
南側正面に構える南大門は、切妻屋根銅板葺、三間一戸の八脚門で左右前後に四天王像、見上げに「南大門」の扁額。
スケール感ある結構で、名刹の風格をたたえています。

南大門の右手にある仁王門も小ぶりながら三間一戸の八脚門で、左右脇間に仁王尊像が御座し、ワラジが奉納されています。
寛文年間(1661-1672年)の築とされ、こちらは区の有形文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 東門


【写真 上(左)】 東門の扁額
【写真 下(右)】 鐘楼と十三佛

笹目通り側にも東門があります。
切妻屋根本瓦葺のおそらく薬医門で、寺号扁額を掲げています。

東参道脇には御府内八十八ヶ所が宝暦三年(1753年)三月までに開設されていたことを示す貴重な標石があります。



『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)には、「第十七番札所長命寺には「宝暦三癸酉三月廿一日」銘の御府内八十八ヶ所標石が現存する。(略)この銘文を信じる限り宝暦三年(1753年)三月までに開設されていたことになる。」
同書では第17番長命寺の標石と宝暦五年(1755年)刊の『大進夜話』を根拠とし、「ここでは、宝暦二年(1752年)頃『浅間山真楽寺住職』の開設とし、不明な点は後考に俟つこととしたい。」とあります。


【写真 上(左)】 第17番長命寺の御府内八十八ヶ所標石-1
【写真 下(右)】 同-2

南大門をくぐると参道右手に十三佛と鐘楼。
江戸時代初期の特徴を示すという梵鐘も区指定の有形文化財です。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 木遣塚

参道左手には子育て地蔵尊、弘法大師千百五十年御遠忌供養塔と修行大師像、木遣塚、阿弥陀如来立像(石像露仏)が並びます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道から本堂


【写真 上(左)】 香炉
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

正面が本堂(金堂)で、狛犬を乗せた青銅の香炉が存在感を放っています。
本堂前に高木はすくなく、明るく開けた感じの参道です。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

階段のうえの本堂の基盤はコンクリで入母屋造銅板葺流れ向拝、4本の向拝柱を備えるスケールの大きな建物です。
向拝は桟戸のうえに寺号扁額。
本堂の御本尊は不動明王です。


【写真 上(左)】 本堂の奴連の奉納額
【写真 下(右)】 観音堂


【写真 上(左)】 観音堂の扁額
【写真 下(右)】 木遣地蔵尊

本堂向かって左手には観音堂。
おそらく朱塗りの八角堂で、こちらには御本尊の十一面観世音菩薩が御座し、御府内霊場、豊島霊場、武蔵野観音霊場の拝所です。
鉄扉のうえに「観音堂」の扁額。
『新編武蔵風土記稿』には御本尊の十一面観世音菩薩は行基菩薩作とあり、小池坊秀算の作とも伝わる御像でしたが、現在の観音像は後の時代の再刻のようです。

観音堂の手前に木遣地蔵尊。風格のある六角の地蔵堂の中に御座されています。
掲出の由来書には「消防関係者の信仰極めて厚しその篤信凝って明治三十三年八月木遣地蔵堂の建立となる」とあります。


【写真 上(左)】 木遣地蔵尊の扁額
【写真 下(右)】 奥之院参道入口

木遣地蔵尊の右辺からも奥之院に行けますが、南大門をくぐって左手から奥之院専用の参道が伸びています。


【写真 上(左)】 奥之院参道-1
【写真 下(右)】 御廟橋


【写真 上(左)】 奥之院参道-2
【写真 下(右)】 大師堂

奥之院ゾーンは鬱蒼とした木々に囲まれてほの暗く、パワスポ的雰囲気が感じられます。
参道には反り石橋の御廟橋も掛けられ、豪壮な石燈籠が並びます。
参道途中の「姿見ノ井戸」は、井戸の水に顔が写ると長生きが出来ると伝わります。
こちらは本四国霊場第17番瑠璃山 井戸寺ゆかりの井戸とみられます。


【写真 上(左)】 大師堂向拝
【写真 下(右)】 大師堂扁額

大師堂(御影堂)はおそらく宝形造銅板葺で大がかりな流れ向拝を構えています。
向拝まわりは比較的シンプルですが、向拝正面の桟唐戸には精緻な彫刻が施されて風格があります。
見上げに「御影堂」の扁額。
向かって右手には牀座(しょうざ)に御座される真如親王様の弘法大師像が彫られた石碑があります。
お大師さまのお堂なので、御府内霊場、豊島霊場の拝所になります。


【写真 上(左)】 石碑の弘法大師御影
【写真 下(右)】 閻魔大王像

大師堂まわりも巡拝路となっていて七観音、六地蔵など多くの石仏が安置されています。
堂後には閻魔大王像と十王の石佛も御座します。
こちらの閻魔様は「身代わり閻魔」として著名だったらしく、江戸・東京四十四閻魔参り、閻魔三拾遺のふたつの閻魔霊場の札所となっています。(御朱印は不授与とのこと)

この奥之院一帯は「東高野山奥之院」として都の文化財(史跡)に指定されています。

公式Webによると、境内に紫陽花を見て楽しむお庭「紫陽花庭」ができ、5月末〜6月にかけて見頃を迎えるそうです。

また、山内には芭蕉、水原秋桜子などの句碑があり、俳句ファンにも知られたお寺さまのようです。

御朱印は本堂向かって右手の寺務所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 十一面観世音」「不動明王」「弘法大師」の揮毫と弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第十七番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 武蔵野三十三観音霊場の御朱印 〕



以下、つづきます。
(→ Vol.6



【 BGM 】
■ ハナミズキ - 新垣結衣 [PV Version]


■ 夢の終わり愛の始まり - アンジェラ・アキ


■ 私たち - 西野カナ
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