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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-14

Vol.-13からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第40番 福聚山 善應寺 普門院
(ふもんいん)
江東区亀戸3-43-3
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第40番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第30番、亀戸七福神(毘沙門天)

第40番札所は、下町・亀戸の普門院です。

第40番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに普門院なので、御府内霊場開創時から一貫して亀戸の普門院であったとみられます。

第40番の四ッ谷の真成院も御府内霊場開創時からの札所とみられるので、第39番の四ッ谷から第40番は亀戸へと、一気にエリアを変えることになります。
これは本四国八十八ヶ所霊場が第39番の延光寺(高知県(土佐國)宿毛市)から第40番の観自在寺(愛媛県(伊予國)愛南町)で国が変わることと関連があるのかもしれません。

本四国霊場は四国内の阿波國(1-23番)、土佐國(24-39番)、伊予國(40-65番)、讃岐國(66-88番)と国別に構成されており、それぞれ発心の道場、修行の道場、菩提の道場、涅槃の道場とされています。

御府内霊場をみると、23番(薬王寺/市ヶ谷)→24番(三光寺/内藤新宿)は比較的近いですが、39番(真成院/四ッ谷)→40番(普門院/亀戸)は大きくエリアを変え、65番(大聖院/芝三田寺町)→66番(東覚寺/田端)とこちらもエリアを移しています。

御府内の東端は亀戸辺とされ、亀戸天神御鎮座の参詣地でもあったため、御府内霊場札所の配置は自然な成り行きかも。

なお、これより東寄りは荒川辺八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場、新四国四箇領八十八ヵ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場など、下町の弘法大師霊場の領域となり、現在巡拝するにはよりマニアックな踏み込みが必要となります。

亀戸あたりになると、『寺社書上』『御府内寺社書上』への記載はなくなりますが、『新編武蔵風土記稿』の収録エリアなのでこちらから追っていけます。
亀戸は江戸の名所のひとつなので『江戸名所図会』にも挿絵を添えてしっかり収録されています。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

普門院は大永二年(1522年)三股(隅田川・荒川・綾瀬川の合流点、現・足立区千住周辺)の城中に創建されました。

開山は長賢上人、開基は千葉中務大輔自胤と伝わります。
千葉自胤(1446-1494年)は室町時代の武将で、武蔵千葉氏第3代当主とされます。
千葉氏は桓武平氏の名族で、下総に勢力を張り坂東八平氏・関東八屋形のひとつに数えられました。

千葉(介)常胤は、頼朝公の旗揚げに呼応し、公の信任を得て、鎌倉時代には下総守護の家柄となりました。
千葉一族は繁栄した一方、同族間の確執が多く争いも絶えなかったといいます。

室町時代中期の千葉氏の嫡流は千葉胤賢でしたが、享徳の乱(1455-1483年)で古河公方・足利成氏方で同族の原胤房・馬加康胤に殺され、遺児となった実胤と自胤は下総八幡荘の市河城へ逃れました。

しかし、成氏方の簗田持助に敗れ、康正二年(1456年)市河城を失って武蔵へと逃れました。
実胤は石浜城(現・台東区橋場)、自胤は赤塚城(現・板橋区赤塚)に拠り、後に兄の実胤が隠遁したため、自胤が石浜城主となり千葉氏当主を嗣ぎました。

自胤は本領である房総への帰還を目指しましたが、分家の岩橋氏が勢力をふるい岩橋孝胤は千葉氏当主を自称、後に公認されました。

惣領筋の自胤はそれでも幾度か房総奪還を図りますが、岩橋孝胤は勢力を固めて下総千葉氏継承を確定しました。
自胤の子孫はよんどころなく武蔵に定着し、武蔵千葉氏とも呼ばれました。

普門院はこの千葉自胤が、自身が拠った城内に開基と伝わります。
『新編武蔵風土記稿』に「古ハ豊嶋郡橋場村ニアリシ」とあるのは、おそらく石浜城内を指すとみられます。
『江戸名所図会』には「三俣の城中に一宇の梵刹を開き(略)三俣といへるは、隅田川、綾瀬川、荒川の落合ひ、三俣になる所をいへり。昔千葉家在城の地なり。」とあります。
三俣はいまの千住周辺とされ、石浜城とはべつに三俣(三原)城という城があったのかも。

当初の普門院の御本尊は伝教大師の御作とも伝わる観世音菩薩で、自胤の信仰も篤く、自城内に一宇を建ててこの観世音菩薩を奉安したといいます。
また、千葉自胤の臣・佐田善次郎盛光が讒言を受け斬られそうになったとき、盛光が日頃信仰するこの観音像に祈ったところたちまち刀の刃がこぼれ、盛光は死を免れたとのこと。

天文三年(1534年)、この地に疫病が流行した際、この観音像を念ずる者はことごとく病が平癒し、患者と床を同じくしても感染しなかったといいます。
この観音様が衆生の身代りとなって疫病を引き受けられたという逸話もあり、以来「身代観世音」と尊称されて人々の信仰を集めました。

元和二年(1616年)荒川辺から現在地の亀戸に移転。
この時、誤って梵鐘を隅田川に沈めてしまい、鐘ヶ淵の地名の由来になったともいいます。

慶安二年(1649年)八月には大猷院殿(徳川家光公)の御渡りあって御休所も設けられましたが、いつしか取払われたとのこと。

「猫の足あと」様には『江東区の民俗城東編』の興味深い記事が紹介されているので、孫引きさせていただきます。
「『浅草区誌』によれば、鐘ヶ淵に沈んだ鐘は法元寺(『再校江戸砂子』註:保元寺)、普門院(『新編江戸志』)、長昌寺(『武蔵古蹟志』)と三説をあげている。『帝都郊外発展誌』によれば、安永年中(1772-1781年)に栄範上人が本尊を身代観音菩薩から大日如来に改め、観音堂を別に建立した。」

これによると安永年中(1772-1781年)までの普門院の御本尊は身代観世音菩薩で、栄範上人が御本尊を身代観音菩薩から大日如来に改めたということになります。

現在の御本尊も大日如来で、庶民の信仰を集めたとされる身代観世音菩薩の現況を辿ることはできませんでした。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十番
本所亀戸天神先
福聚山 善應寺 普門院
葛飾郡青戸村寶持院末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『新編武蔵風土記稿 巻之24 葛飾郡之5』(国立国会図書館)
(亀戸村)普門院
新義真言宗青戸村寶持院末 福聚山善應寺ト号ス 本尊大日 開山長賢大永七年(1527年)寂ス 開基ハ千葉中務大輔自胤ニテ 古ハ豊嶋郡橋場村ニアリシヲ 元和二年(1616年)今ノ処ニ移サル 慶安二年(1649年)八月大猷院殿(徳川家光公)当院ヘ御立寄アリテ 即日寺領五石ノ御朱印ヲ賜ハリ ツヒテ御小休ノ御門ヲ建サセラレシシカ 其後絶テ御渡モアラス 御殿モツヒニ取払ハセラレシナリ 
観音堂
今ハ大破ニ及ヒテ再建ナラサレハ 観音ハ仮に本堂ニ置リ 縁起ニ云 当寺安置ノ聖観音ハ伝教大師ノ作ニテ 昔ハ下総國足立庄隅田川ノ邊ニアリシカ 大永ニ年(1522年)千葉中務大輔自胤ノ臣佐田善次郎盛光ト云モノ 讒者ノタメニ冤罪ヲ蒙リ 既ニ死刑ニ行レントセシトキ 盛光兼テ信スル処ナレハ カノ観音ニ祈誓セシニ 不思議ヤ奇瑞ノ奇特アリテ助命ニ逢シカハ 夫ヨリ身代ノ観音ト唱フ 斯テ盛光剃髪シテ観慧ト号シ 弥信心浅カラス 自胤モ深ク是ヲ感シテ乃城内ニ一宇ヲ建テ 普門院ト号シ 彼ノ観音ヲ安置スト云々 是ニ拠ハ初ハ寺ノ本尊トナセシト見ユ 其後別ニ堂ヲ建タル 年代等ハ詳ナラス
青龍権現社

『江戸名所図会 第4 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
福聚山普門院
善應寺と号す。真言宗にして、今大日如来を本尊とす。慶安二年(1649年)住持沙門栄賢●給の譽あるをもって、公命を得て寺産若干を賜り、永く香燭の料に充てしむとらん。

身代観世音菩薩
当寺に安置す。伝教大師の作にして、聖観音なり。
縁起に云ふ。大永二年(1522年)千葉介中務大夫自胤、兼胤の●にて季胤の二男なり。三俣の城中に一宇の梵刹を開き、此霊像を安置し、長賢上人をして始祖たらしむ。今の普門院これなり。三俣といへるは、隅田川、綾瀬川、荒川の落合ひ、三俣になる所をいへり。
昔千葉家在城の地なり。其頃普門院の郭と称しけるとなり。然れども、後兵火にかかり、堂塔ことごとく灰燼せり。此際にいたり、洪鐘一口隅田川に沈没す。其地を名づけて鐘ヶ潬と呼ぶ。元和ニ年(1616年)(或云六年)住持栄眞法印、公命によりて三俣の地を転じて、寺院を今の亀戸の邑に移すといふ。
往古千葉自胤の臣佐田善次盛光、後剃髪して観慧と号せり。虚名の罪により、誅に伏す時、日頃念ずる所の霊像の加護にて、其白刃段々に壊し、危難を免れたり。
此霊像により、自胤三俣の城中に当寺を創し、長賢上人を導師として且開祖とす。
又天文三年(1534年)、國中大に疫疾流行し、死に至る者少なからず。されど此霊像を念ずる輩は悉く病平癒し、将病に臨まざる者は、病者と床を等しうすといへども、敢て染延の患なし。
其後住持長栄上人、睡眠の中、一老翁の来るあり。吾は是施無畏大士なり、多くの人に代り、疫病を受く、故に病苦一身に逼れり。上人願くは我法一千坐を修して、予が救世の加彼力となるべしと。夢覚めて後、益々敬重を加へ、本尊を拝し奉るに、佛體に汗みちて蓮臺に滴る。感涙肝に銘じ、夫より昼夜不退に一千坐の観音供を修しけば、國中頓に疫疾の患を遁れけるとぞ。故に世俗身代観世音と唱へ奉るとなり。



「普門院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


「普門院」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第4,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・東武亀戸線「亀戸」駅で徒歩約10分。
亀戸天神と亀戸香取神社の間に広大な山内を構えています。


【写真 上(左)】 山内入口-1
【写真 下(右)】 山内入口-2

山内入口からすでに鬱蒼とした樹木に覆われ、これが本堂までつづいています。
緑の少ない下町にはめずらしいくらいの緑濃い山内。

門柱脇に「伊藤左千夫の墓」の石碑。
伊藤左千夫は正岡子規の門人でアララギ派の歌人として知られ『野菊の墓』の作者としても有名で、普門院が墓所となります。

それにしても、この植物たちの繁茂ぶりはいったいどうしたことでしょう。マント群落のようにあたりを覆い尽くしています。
山内の各所には廃棄された?家具やブルーシートが掛けられ、これがまたなんとも雑然としたイメージを醸し出しています。
御府内霊場の札所としては異色の空気感があり、おそるおそる足を進めます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 観世音菩薩像

参道右手、台座のうえに端正な相貌の観世音菩薩坐像が御座します。
坐像で手に経巻を持たれているので、おそらく持経観世音菩薩かと思われます。
この観音様の奉持される経巻には、お如来さまの説法の内容がすべて収められているとのこと。

旧御本尊の身代観世音菩薩との関連を考えましたが、どうも身代観世音菩薩と持経観世音菩薩がストレートに結びつかず、別の系譜の観音様かもしれません。


【写真 上(左)】 毘沙門堂
【写真 下(右)】 毘沙門堂の扁額

その先左手の宝形造の堂宇が毘沙門堂。亀戸七福神(毘沙門天)の拝所です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

正面が近代建築の本堂。樹木に覆われて全貌はよくわかりませんでした。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股の意匠が凝らされています。
向拝正面鉄扉のうえに山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 院号標

9月と10月の2回参拝したのですが、いずれもものすごい数の蚊の襲撃に遭い、格闘しながらの読経となりました。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受。
山内の様子から、おそるおそるお伺いしたのですが、ご対応はいたって普通で亀戸七福神の御朱印も拝受できました。
ただし、原則書置授与のようです。

なお、身代観世音菩薩の現況については、参拝時、不勉強にも認識がなかったのでお伺いしておりません。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 亀戸七福神の御朱印


■ 第41番 十善山 蓮花寺 密蔵院
(みつぞういん)
中野区沼袋2-33-4
真言宗御室派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第41番、弘法大師二十一ヶ寺第17番

第41番札所は、中野・沼袋の密蔵院です。
御府内霊場では真言宗御室派の札所寺院は第32番圓満寺とこちらのふたつしかありません。
真言宗御室派の総本山、仁和寺は真言宗の流派「広沢流」の本拠で、仁和寺門跡として2世性信入道親王(大御室)が就任されて以来、江戸末期まで門跡には法親王(皇族)を迎えたというすこぶる格式の高い寺院です。
当山も『寺社書上』『御府内寺社備考』などに「京都御室御所仁和寺宮末」と記されています。

第41番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに密蔵院なので、御府内霊場開創時から一貫して密蔵院であったとみられます。

中野仏教会Web、下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

密蔵院は北條氏直公(1562-1591年)の持仏・将軍(勝軍)地蔵菩薩を御本尊として、小田原城内に創建といいます。
開山は氏直公の帰依を受けた小田原蓮華寺の住持、慶誉法印(寛永十三年(1636年)寂)。

北條氏没落後、徳川家康公は慶誉法印を招聘し、その経歴知見から王子権現の別当・金輪寺の住職に誘いましたが、慶誉法印はこれを受けず弟子の宥雄を金輪寺住職に奉じ、みずからは慶長十六年(1611年)矢之倉に寺地30間を拝領、将軍(勝軍)地蔵菩薩を奉安して当山を結構したといいます。

また、北條家より伝わる愛宕権現を山内に安置して鎮守としたといいます。
こちらの愛宕権現の御神体は、のちに芝の愛宕社に安するとも。

正保元年(1644年)、浅草永住町(浅草寺町)に寺地を拝領して移転。
当時、御室法親王の隠室となり、代々仁和寺門跡に直属したと伝わります。

護摩堂は愛宕権現との合殿でしたがこれを失い、愛宕権現は本堂に奉安といいます。
護摩堂御本尊の不動明王は弘法大師の御作と伝わりますが、文化三年(1806年)に焼失したとも。
火災で寺伝類をことごとく焼失し、詳らかな由緒・沿革は伝わっていないようです。

明治45年に墓地を現在地(沼袋)に移し、昭和7年に寺院の移転を概ね終えました。
沼袋には寺院が多く集まっていますが、各寺院の沿革を追うと、関東大震災で被災した浅草寺町辺の寺院が東京府豊玉郡野方村沼袋(現在の中野区沼袋)に移転し、寺町を形成したようです。

当山は第二次大戦末期の空襲で浅草に残した堂宇を全焼、次いで沼袋の堂宇も戦禍に遭い、この時に多くの寺宝・寺什を失ったといいます。
昭和25年に現在地に本堂を再建。
幾多の変遷を辿りながらも、御府内霊場第41番の札所は堅持されて今日に至ります。

草創の縁起からすると、もともとの御本尊は勝軍地蔵菩薩。
現在の御本尊・御府内霊場札所本尊ともに大日如来ですが、『寺社書上』『御府内寺社備考』には「本堂 本尊 十一面観音座像」、江戸末期の『御府内八十八ケ所道しるべ』には「本尊:十一面観世音 勝軍地蔵尊 弘法大師」とあり、御本尊・札所本尊ともに変遷があった模様。

また、史料によると勝軍地蔵菩薩・愛宕権現を通じて芝の愛宕社とも関係があったようですが、寺伝類を焼失したため詳細は辿れないようです。

当山は「弘法大師二十一ヶ寺」第17番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。

これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。

「弘法大師二十一ヶ寺」の札所リストは↓『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)に記載されています。ご参考までにリストします。


【弘法大師二十一ヶ寺】
1番  萬昌山 金剛幢院 圓満寺 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番  宝塔山 多寶院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番  五剣山 普門寺 大乗院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番  清光院 台東区下谷(廃寺)
5番  恵日山 延命寺 地蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番  阿遮山 円満寺 不動院 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番  峯松山 遮那院 仙蔵寺 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番  高野山 金剛閣 大徳院 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番  青林山 最勝寺 龍福院 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6

このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。

●「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の札所ながら、「御府内八十八ヶ所」の札所ではない寺院の例

 
【写真 上(左)】 五剣山 普門寺 大乗院(元浅草)
【写真 下(右)】 恵日山 延命寺 地蔵院(元浅草)

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十一番
浅草新寺町
勝軍山 蓮花寺 密蔵院
京都御室御所末 古義
本尊:十一面観世音 勝軍地蔵尊 弘法大師

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.1』
京都御室御所仁和寺宮末 浅草新寺町
勝軍山密蔵院
宗旨古義真言宗
当院小田原北条氏直公祈願所
開山 慶誉法印 寛永十三年寂
開基 不分明
本堂
 本尊 十一面観音座像 丈一尺七寸作不詳
 大師 十三仏 観音 不動尊 護諸童子経画像
 当院十八世光照法印筆一巻 勝軍地蔵画像一幅
鎮守社
 愛宕大権現 本地佛勝軍地蔵
当院開山慶誉ハ相州小田原蓮華寺住持シ 北條氏直公ニ親ミ深ク御祈祷等相●●
氏直没落之後 東照宮様慶誉を被(略)其由緒を●慶誉を王子権現別当金輪寺住職社例ヲ改可修神法旨蒙御上意候●共 極老たる●恐多も辞退申上 弟子宥雄ヲ金輪寺住職ニ奉●●(略)尚北條家より伝ル所之愛宕権現ヲ境内二安置シ可為鎮守●●
大猷院様御代正保元年(1644年)地所替●●付 於当浅草寺地三十間四方拝領仕候 もとハ護摩堂ありて愛宕と合殿なりし●再建ならす 愛宕ハ本堂に安す 護摩堂本尊不動ハ弘法大師作にて空海と志るし手判ありしと云 文化三年(1806年)焼失す 勝軍地蔵縁起もありしか 明暦火災に焼失せりと云伝ふ 
北条氏より伝ふる愛宕神体ハ 今芝愛宕社ト安す所是なり ●本地仏ハ当寺に安す●と云伝ふ●と、古火災の時記録皆焼失して其由来詳ならすといふ

『中野区史下巻1』(P.447)(中野区立図書館)
密蔵院
江古田四丁目一、四八九。本尊十一面観音。勝軍山密蔵院蓮花寺と号する。もと真言宗御室派の院室地であつたが、今は同宗東寺派に屬する。
はじめ北條氏直が相模小田原に創建し、勝軍地蔵を安置し祈願所としたのであつた。山号はこれに因由する。
北條氏没落後、慶長十六年(1611年)に至り、僧慶譽、勝軍地蔵の木像を背負うて江戸に来り、矢之倉に小庵を結んだが、正保元年(1644年)淺草永住町に移つた。
明治四十五年墓地を現在の地に移轉し、昭和七年に至り、寺をも同所に移した。


「密蔵院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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西武新宿線「沼袋」駅北側の寺院が集まるエリアの一画にあります。
駅から徒歩約10分ほどです。


【写真 上(左)】 冠木門
【写真 下(右)】 院号札

路地に面して冠木門で、門柱には院号が掲げられています。
こぢんまりとした山内は、よく手入れされ心落ち着く感じがあります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

正面の本堂は桟瓦葺で様式は不明。
堂宇というより民家を思わせるつくりで、向拝柱はありますが水引虹梁はありません。

参拝後、本堂向かって右の庫裡で御朱印をお願いすると、本堂に上げていただけ、たしか本堂内で揮毫いただいたと思います。

本堂内で参拝できる、貴重な札所のひとつです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第四十一番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第42番 蓮葉山 妙智院 観音寺
(かんのんじ)
公式Web

台東区谷中5-8-28
真言宗豊山派
御本尊:大日如来・阿弥陀如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第42番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第3番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第32番、東方三十三観音霊場第13番

第42番札所は、御府内霊場札所の集中エリア・谷中の観音寺です。
御府内霊場には「観音寺」を号する札所寺院が3つ(第42番蓮葉山 観音寺(谷中)、第52番慈雲山 観音寺(早稲田)、第85番大悲山 観音寺(高田馬場))あり、前2者をそれぞれ谷中観音寺、早稲田観音寺と呼んで区別されます。

第42番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに観音寺なので、御府内霊場開創時から一貫して谷中の観音寺であったとみられます。

公式Web、下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

観音寺は、慶長十六年(1611年)神田北寺町(現・千代田区神田錦町周辺)に、長福寺を号し尊雄和尚を開基に創建されました。
神田など、江戸城まわりにあった寺院は江戸城の拡張やこれにともなう武家屋敷地化もあって次々と移転を命ぜられましたが、当山もその例にもれず、慶安元年(1648年)御用地として召し上げられ、谷中清水坂(現・台東区池之端周辺)に移転したもののこちらもまた御用地となり、延宝八年(1680年)現在地に移転しています。

元禄十四年(1701年)三月十四日、浅野内匠頭長矩が江戸城内にて刃傷。即日切腹となり浅野家はお家断絶、領地を没収されました。
元禄十五年(1702年)二月、当山でしばしば密議を重ねた近松勘六行重、奥田貞右衛門行高(ともに当山6世朝山和尚(文良)の兄弟)は江戸を下り、十二月十四日赤穂義士討入り。
主君の仇の吉良上野介義央の首級をあげ本懐を遂げました。
元禄十六年(1703年)赤穂義士切腹。当山は義士の供養塔を建て、義士の菩提を弔うこととなりました。
これより、当山は「赤穂義士ゆかりの寺」としても知られています。

享保元年(1716年)8代将軍・徳川吉宗公の長子の長福丸(家重公)と寺号が重なるため、ときの住職朝海和尚はこれをはばかり寺号を長福寺から観音寺へと改めました。

『寺社書上』ではこの朝海和尚を中興開基とし、真言宗江戸四箇寺の本所弥勒寺末とされたと記され、公式Webでも朝海和尚の功績がとり上げられています。

谷中は江戸城周辺から寺院の移転が相次ぎ、元禄年中(1688-1703年)頃には御府内有数の寺町となりました。
御府内霊場の開創は宝暦年間(1751-1763年)とみられるので、御府内霊場に谷中の札所が多数定められる下地はすでに整っていました。
公式Webにも「宝暦年中(1751-1763年)江戸府内八十八所霊場巡拝が設けられ、観音寺は四十二番札所となる。」と明記されています。

明和九年(1772年)、行人坂の大火で諸堂宇を失い、寺伝類の多くも焼失しました。
しかし、谷中の中心にある御府内霊場札所で、観音堂安置の如意輪観音信者の助力もあってか、観音寺の復興ははやかったと伝わります。

安永年中(1772-1780年)には「三十三所観音参/上野より王子駒込辺西国の写し霊場」が開創。
観音寺は第32番札所に定められ、弘法大師(御府内霊場)、観音(上野王子駒込霊場)両霊場の札所となりました。
『江戸歳事記 4巻 付録1巻 [2]』(国立国会図書館)に「上野より王子駒込辺西国の写三十三所観音参」の一覧があり、たしかに第32番として「谷中観音寺」がみられ、札所本尊は如意輪観世音菩薩となっています。
(→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」)様)

この霊場は「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」とも呼ばれますが、筆者がまわった範囲では「西国霊場」の方が通りがよく、札所印つき御朱印授与の札所もあれば、廃寺や御朱印じたい不授与の札所も多く、御朱印拝受しにくい霊場となっています。

■ 希少な札所印

 
↑ 第4番札所思惟山 正受院(北区滝野川)の札所御朱印。
「西國四番寫」の札所印が捺されています。

明治初頭の神仏分離・廃仏毀釈により寺地を官有地とされましたが、住職および檀信徒の寺運繁栄の努力により昭和18年現本堂が落慶しています。
このとき境内佛(濡佛)であった胡銅製大日如来像と阿弥陀如来像が本堂内に遷座され、御本尊となっています。

公式Webによると、当山創建当初の御本尊は五智如来木座像(金剛界五佛仏/大日如来(中心)、阿閦如来(東)、宝生如来(南)、阿弥陀如来(西)、不空成就如来(北))で開基・尊雄和尚が師子相承されていた尊佛でしたが、火災により失われました。

ついで観音堂本尊であった如意輪観世音菩薩と不空羂索観世音菩薩が御本尊となられ、昭和18年現本堂落慶とともに大日如来・阿弥陀如来両尊が御本尊となりました。
旧御本尊の観音菩薩像は、現在本堂内位牌堂に安置されています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十二番
谷中●●門前町
蓮葉山 妙智院 観音寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [112] 谷中寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.104』
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
蓮葉山妙智院観音寺
起立慶長年中
権現様御代 神田北寺町ニて拝領仕候
大猷院様御代 御用地ニ相成代地谷中清水坂ニ●右之●坪数程拝領仕候
厳有院様御代 御用地ニ相成 延寶八年只今之場所代地拝領仕候
開基 尊雄 寂年月不知
中興開基 当寺第六世朝快住職中 本所弥勒寺之末寺ニ●
右等之始末古記録等焼失仕候ニ付●●分不申候
本堂
 本尊五智如来
 四佛 阿閦 宝生 弥陀 釈迦 各木坐像
 弘法大師 興教大師 各木坐像
護摩堂
 本尊不動明王木坐像
観音堂
 本尊如意輪観音木坐像
稲荷社
濡佛二体 大日如来 阿弥陀

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
観音寺(谷中上三崎北町七番地)
本所彌勒寺末、蓬莱山と号す。本尊大日如来。慶長十六年、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年谷中清水坂に移り、延寶八年現地に転じた。開山は僧尊雄。境内に観音堂(如意輪観音安置)、大師堂(弘法大師像安置)、駄枳尼天堂(駄枳尼天安置)がある。


「観音寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約5分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。

谷中は都内有数の寺院の集積地で、複数の御府内霊場札所が立地します。
観音寺は日暮里駅から谷中銀座(夕やけだんだん)に至る御殿坂と千駄木から谷中にのぼる三崎坂を南北に結ぶ通り沿いにあります。
谷中マップ

南側路地沿いの築地塀は国の国の登録有形文化財(建造物)に指定され、その趣きある風景は寺町・谷中のシンボルとしてしばしばメディアなどでとり上げられます
「観音寺の築地塀」は、幕末頃の築造で、南面のみ現存しています。


【写真 上(左)】 築地塀
【写真 下(右)】 山内入口

前面道路から少し引き込んで石畳。
右手石標は特徴ある字体の御寶号「南無大師遍照金剛」。


【写真 上(左)】 御寶号の石標
【写真 下(右)】 観音霊場札所碑


【写真 上(左)】 遠忌碑
【写真 下(右)】 山門

左手の「西国三十二番 近江観音寺うつし」とある石標は、「上野王子駒込辺三十三観音霊場」第32番の札所標。
そのとなりには弘法大師九百五十年と興教大師六百五十年の併記遠忌碑。

山門は切妻屋根本瓦葺で、おそらく薬医門と思われます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

参道正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、照り気味に秀麗に葺きおろす屋根が風格を感じさせます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。
向拝正面の4連の桟唐戸が意匠的に効いています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂右手

本堂向かって右手には宝形造銅板葺の大師堂があり、こちらは御府内霊場の拝所となっています。


【写真 上(左)】 大師堂-1
【写真 下(右)】 大師堂-2

堂宇前には年季の入った御府内霊場の札所標。
堂宇前面には複数の御府内霊場の札所板、向拝見上げに御府内霊場の札所板と上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所板。
御府内二十一ヶ所第参番の札所札もみえます。

『江戸歳事記』では、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」の第32番札所(観音寺)の札所本尊は如意輪観世音菩薩となっていますが、この札所板には千手観世音菩薩と刻されています。
また、札所板の霊場名は「西國三十三ヶ所寫」とみえ、やはり従前からこの霊場名で通っていたようです。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所板-1
【写真 下(右)】 御府内霊場札所板-2


【写真 上(左)】 御府内廿一ヶ所札所板
【写真 下(右)】 観音霊場札所板と千社札

軒裏を埋める古びた千社札が、札所としての古い歴史を感じさせます。
(現在はほとんどの寺社で千社札の貼付は禁止されています。)

堂内中央に弘法大師坐像、向かって右手に不動明王立像、左に興教大師坐像を奉安。


【写真 上(左)】 大師堂向拝
【写真 下(右)】 赤穂義士供養塔

本堂と大師堂の間には赤穂義士の供養塔と宝篋印塔。
その周辺には、聖観世音菩薩立像、如意輪観世音菩薩の石仏、救世菩薩地蔵尊などが安置されています。

『全国霊場大事典』(六月書房)によると、御府内霊場の開創は宝暦年間(1751-1764年)頃とされています。
同書によると、信州・浅間山真楽寺の憲浄僧正と千葉県松戸の諦信によって四国八十八ヶ所霊場が写されたもの。

『全国霊場巡拝事典』(大法輪閣)では、宝暦五年(1755年)刊の『大進夜話』に「江戸にも此頃は信州浅間山の上人本願にて、四国の八十八箇所を移して立札など見えたり」とあり、文化十三年(1816年)の札所案内には「宝暦五乙亥三月下総葛飾松戸宿諦信の子、出家して信州浅間山真楽寺の住になりぬ。両人本願して江戸に霊場をうつす」とあることを紹介しています。
また、このことは「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主 下総國 諦信」と刻まれた札所碑が第42番観音寺にあり、他の札所にも同様の石碑が残ることからも裏付けられるとされています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主 下総國 諦信」とあります

本堂並びにある客殿も登録有形文化財(建造物)に指定されています。


【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 客殿からの本堂

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。

こちらの御朱印拝受については、以前はいささか敷居が高い印象がありましたが、久しぶりにWebで観音寺の御朱印情報を検索してみたら、なんとスワロフスキー(クリスタルガラス)付御朱印や切り絵御朱印で有名になっている模様。(ぜんぜん知らなかった。)

 
【写真 上(左)】 スワロフスキー付御朱印の案内
【写真 下(右)】 スワロフスキー付御朱印

大師堂前には↓のような掲示が依然としてあります。


スワロフスキー付御朱印や切り絵御朱印目当ての人も、いちおうは参拝しているのでしょうか・・・。

谷中の西光寺も以前は御朱印不授与でしたが、いまでは絵御朱印が人気となり、遙拝を条件とした御朱印郵送対応までされています。

■ 谷中の御朱印・御首題

やはり絵御朱印の人気はかなりのものがありそうです。
個人的には絵御朱印や切り絵御朱印にさほど興味はありませんが、これをきっかけに仏教に興味をもつ人が増えるのは、意義あることなのかもしれません。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に金剛界大日如来のお種子「バン」、「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫とお種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
公式Web掲載の御本尊は智拳印を結ばれる金剛界大日如来、当山の当初の御本尊は五智如来で金剛界系です。
御寶印の「ア」は、胎蔵大日如来のお種子というより、通種子(すべての尊格をあらわす)として用いられているのかもしれません。

 
【写真 上(左)】 御本尊・大日如来の御朱印
【写真 下(右)】 お種子(ア)の御朱印

上記のとおり、現在観音寺の御朱印はスワロフスキー付御朱印や切り絵御朱印がメインの模様で、無申告での墨朱御朱印は大日如来の揮毫御朱印か、お種子(ア)の揮毫御朱印が授与されている模様です。
御府内霊場御朱印の汎用御朱印帳への授与については不明です。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-15


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ Ebb and Flow (凪のあすから) - LaLa(歌ってみた)


■ 思い出の向こうに - 小川範子


■ 空に近い週末 - 今井美樹
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