関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-15
Vol.-14からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第43番 神勝山 成就院
(じょうじゅいん)
台東区元浅草4-8-12
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第43番、弘法大師二十一ヶ寺第12番、江戸東方三十三観音霊場第24番(諸説あり)
第43番札所は元浅草の成就院です。
御府内霊場には成就院がふたつ(谷中の第43番、東上野の第78番)あり、第43番は百観音成就院、第78番は田中成就院と呼んで区別されます。
第43番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに成就院なので、御府内霊場開創時から一貫して成就院であったとみられます。
下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
成就院は、観宥法印(寛永五年(1628年)寂)が開山となり、矢の倉(現・浅草橋付近)に創建されたといいます。
「開山乗誉源印 寛永●(1624-1644年)起立 もと矢の倉に阿り万治(1658-1661年)の比当所へ移る」とする資料もあるようです。(『江戸志』)
史料によると御本尊は三尊阿弥陀如来、弘法大師坐像(大師巡拝江戸八十八ヶ所の内44番)興教大師坐像・三宝荒神坐像を奉じ、ほかに観音堂(百体観音・弘法大師)、石地蔵堂を有していたようですが、関東大震災や東京大空襲により諸堂は被災して現存していません。
「大師巡拝江戸八十八ヶ所(御府内霊場?)第44番」となっていますが、これは第43番と錯綜したのかもしれません。(第44番は当初から四ッ谷の顕性寺とみられる。)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十三番
浅草寺町
神勝山 成就院
大塚護持院末 新義
本尊:観世音菩薩 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
江戸大塚護持院末 浅草新寺町
神勝山成就院
拙寺建立年代相知不申候
開山観宥、寛永五年6月15日遷化
本堂
本尊 三尊弥陀如来木立像
弘法大師木座像 大師巡拝江戸八十八ヵ所ノ内四十四番札所
興教大師木座像
三宝荒神木立像
大日如来木座像
観音堂
百体観音 弘法大師
石地蔵堂
開山乗誉源印寛永●(1624-1644年)起立 もと矢の倉に阿り万治(1658-1661年)の比当所へ移る(江戸志)
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「成就院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ銀座線「田原町」駅徒歩約5分。
御府内霊場札所が集中する元浅草・寿エリアの一画にあります。
都道463号浅草通り「元浅草四丁目」交差点から孫三通りを南に入ってすぐ。
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号札
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【写真 上(左)】 札所板-1
【写真 下(右)】 札所板-2
孫三通りに面して門柱。
門からだと民家風の事務所が目立ちますが、門柱の院号札と、本堂が一部見えるのでそれとわかります。
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【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
本堂は2層の近代建築で、おそらく2階に鐘楼を置いていますが、こういうつくりの名称を筆者は知りません。
向拝柱はありませんが、見上げに山号扁額を掲げています。
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【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 百観音
本堂向かって左手に百観音の尊像があり、背面には百観音の由来が記されています。
「当成就院は、古来通称百観音と云われてまいりました。百観音とは、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番観音霊場の総称であります。江戸時代には当境内にその百体の観音菩薩像がまつられていたと伝えられています、佛教信者にとって一生に一度は百観音霊場の巡拝を念願するものとされています。この度、特信者の寄進に依りその旧観を偲んで聖観音の尊像を像立し(略)」とありました。
御朱印は寺務所で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
【専用集印帳】
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「江戸御府内八十八ヶ所第四十三番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
【汎用御朱印帳】
中央に金剛界大日如来のお種子「バーンク」(五点具足/荘厳体)と弘法大師のお種子「ユ」の揮毫、御寶印(蓮華座+火焔宝珠)はおそらく金剛界大日如来のお種子「バン」。
右上に「江戸御府内八十八ヶ所第四十三番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第44番 金剛山 蓮華院 顕性寺
(けんしょうじ)
新宿区須賀町13-5
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第44番、山の手三十三観音霊場第26番
ようやっと中間の第44番までやってきました。
引きつづき同様の構成で進めます。
第44番札所は四ッ谷須賀町の顕性寺です。
第44番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに顕性寺なので、御府内霊場開創時から一貫して四ッ谷の顕性寺であったとみられます。
下記史料、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
顕性寺は慶長十六年(1611年)牛込御門外に起立。開山は賢秀法印(承應二年(1653年)寂)と伝わります。
江戸城外濠堀削のため寺地が召上げられ、寛永十一年(1634年)現在地に移転しました。
享保十年(1725年)2月青山の出火で焼失し、文政年間(1818年~1831年)に至ってもなお仮堂のままであったと伝わります。
元文三年(1738年)中野寶仙寺末。
中興開山は秀延法印(宝暦二年(1752年)寂)とあるので、秀延法印のときに寶仙寺末となったとみられます。
当寺は寺宝「俎大師(まないただいし)」で知られています。
これは弘法大師空海が土佐國高岡郡に巡錫された折、家に泊めてくれたお礼としてまな板に「南無阿弥陀仏」の文字を彫られたものといいます。
(『ルートガイド』には「長さ1メートルあまりの俎板に彫った、阿弥陀如来像」とあります。)
幕末に至り、弘法大師が泊まられた家の末裔が江戸に移住しました。
江戸(東京)で生活苦に陥り、「俎大師」を抵当として料亭「鳥八十」より借財し、そのまま「鳥八十」の所有となりました。
「鳥八十」のあるじの娘は、後に落語家の五代目古今亭今輔を生みましたが、昭和9年の弘法大師千百年遠忌に際して「俎大師」を当山に寄進、当山の寺宝となったといいます。
(以上「Wikipedia」(出所:『四谷南寺町界隈』(新宿区立図書館))より。)
「俎大師」とのゆかりは昭和に入ってからであり、宝暦の御府内霊場開創時にはすでに御府内霊場札所の資格を備えていたものとみられます。
当山は山の手三十三ヶ所観音霊場第26番札所ですが、この霊場は享保年間末(1736年)までには開創と目されるので、宝暦年間(1751-1764年)開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。
山の手三十三ヶ所観音霊場の真言宗の札所の多くは御府内霊場の札所となっています。
(護国寺、新長谷寺、早稲田観音寺、放生寺、千手院→南蔵院、光徳院、顕性寺、真成院)
あるいは、顕性寺もこの流れで御府内霊場札所となったのかもしれません。
→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
四十四番
四ッ谷南寺町
金剛山 蓮華院 顕性寺
中の村宝仙寺末 新義
本尊:大日如来 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [45] 四谷寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.128』
中野寶仙寺末 四谷南寺町
金剛山蓮華院顕性寺
開闢起立之儀 慶長十六年(1611年)元地●●牛込●門外
中興開山 秀延法印 宝暦二年(1752年)寂
元寶仙寺門徒 元文三年(1738年)同寺末寺と相成候
客殿
本尊 金剛界大日如来木坐像
弘法大師 興教大師
観音堂
観世音木坐像 右山之手二拾六番札所
稲荷社 秋葉 八幡宮 相殿
石地蔵立像
開山 賢秀法印 承應二年(1653年)寂
■ 『四谷区史 [本編]』(国立国会図書館)
金剛山蓮花院顯性寺は中野村寶仙寺末の新義真言宗で、四谷南寺町にある。慶長十六年(1611年)牛込門外に起立し、外濠掘鑿の用地として公収されて、寛永十一年(1634年)此地に移転した。其後享保十年(1725年)二月の青山の出火に類焼して、文政(1818-1830年)当時は本建築に至らなかつたことが其書上に見える。
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「顕性寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」駅で徒歩約8分。
寺院が並ぶ四ッ谷寺町のまっただなかにあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標
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【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
山内入口に寺号標。右手に御府内霊場の札所標。
こぢんまりとした山内で、すぐ奥に本堂がみえます。
本堂は近代建築の2層。
向拝は2階で右手奥の階段でアプローチ。
向拝見上げには山号扁額を掲げています。
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【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
『ルートガイド』によると本堂には御本尊・大日如来と俎大師が奉安されているそうです。
本堂は1階庫裡にて拝受できますが、筆者参拝時は2回ご不在があったので、事前TELがベターかもしれません。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「第四十四番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第45番 廣幡山 隆源寺 観蔵院
(かんぞういん)
台東区元浅草3-18-5
真言宗智山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第83番、弘法大師二十一ヶ寺第13番
第45番札所は元浅草の観蔵院です。
第45番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに蔵前の雄徳山 神光寺 大護院なので、江戸期の御府内霊場第45番は蔵前の大護院であったとみられます。
『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所異動表に第45番は大護院改め観蔵院とあるので、おそらく明治初期の神仏分離の際に札所異動があったとみられます。
まずは観蔵院について、下記史料、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
観蔵院は慶長十六年(1611年)澄(証)圓法印が開山となり中野屋鋪に創建、正保元年(1645年)現在地の元浅草に移転したと伝わります。
江戸大塚護国寺末の新義真言宗寺院です。
※『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに長文の「舊記之写」を載せていますが、いずれも達筆すぎて筆者には解読不能につき、ここまでしかわかりません。
つぎに大護院について、藏前神社公式Web、下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。
大護院の前身とみられる文殊院は蔵前にあって、高野山行人派觸頭の住院だったといいます。
『御府内八十八ケ所道しるべ』『江戸砂子温故名蹟誌』『江戸名所図会』ともに、もとは文殊院と号す高野山行人流の寺院で、行人派騒動の後、元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮を勧請された旨が記されています。
「行人派騒動」は、「元禄高野騒動」をさすと思われます。
「元禄高野騒動」とは寛永十五年(1638年)頃に端を発して50年ほどもつづき、元禄五年(1692年)幕府の裁定により決着した高野山の学侶方と行人方の争いです。
学侶方と行人方については、『元禄高野騒動と『高野春秋編年輯録』』(村上弘子氏・PDF)に、以下のとおり詳しくまとめられています。
「近世の高野山は、学侶方・行人方・聖方の「高野三方」と呼ばれる三つの組織から成り立っていた。学侶方とは法論談義や修法観念に専念する僧侶たちで、衆徒とも呼ばれる。青巌寺が頭寺院(略)行人方は興山寺を頭寺院とし、諸堂の管理や供花・給仕などの雑用に従事しており、堂衆・承仕とも呼ばれる(略)聖方は、弘法大師の入定信仰や高野山浄土信仰などを廻国唱導し(略)勧進活動を行なっていた中世の高野聖と呼ばれる僧たちが前身とされている。聖方頭寺院である大徳院は徳川氏と師檀関係を結んでおり、東照宮と二代将軍秀忠の台徳院御霊屋を祀っていた。」
行人方僧侶が堂上灌頂を受けることについて山内が紛糾し、江戸幕府も巻き込んで50年以上も争いがつづきました。
最終的には元禄五年(1692年)幕府の裁定により学侶方が勝利し、行人方の僧侶は600名以上も九州や隠岐に配流となり、行人方の多くの子院も取りつぶしとなりました。
この裁定について、『徳川実紀』(元禄五年九月四日条)は「こたび高野の事。査検のうへ仰下されし御旨もありしに。猶とかく愁訴やまず。いとひが事なれば。厳科にも處せらるべけれど。釋徒たるをもて助命せしめ山中を追放し。紀伊国の中にさしをき(略)増福院清雅はじめ八十二人は大隅国の島(略)八十人は隠岐国に遠流せしめ」と記しています。
高野山の内部機構の内紛にも係わらず、幕府は「厳科にも處せらるべけれ」とすこぶる強い姿勢でのぞみ、50年来の騒動に決着をつけたことがわかります。
「元禄高野騒動」の決着は元禄五年(1692年)9月、5代将軍綱吉公による山城國石清水八幡宮の勧請が元禄六年(1693年)8月5日(藏前神社公式Web)ですから史料類の時系列と符合します。
『御府内八十八ケ所道しるべ』の「昔ハ文殊院の八幡と称し高野山行人流の僧職ありしか 故あつて其地を改メられ石清水正八幡宮を勧請せり」の「故あつて」とは「元禄高野騒動」を示すものと思われます。
ここで気になったのは、御府内霊場札所と「高野三方」との関係です。
上記のとおり、近世の高野山は学侶方・行人方・聖方の「高野三方」と呼ばれる三つの組織から成り立っていました。
・学侶方 - 頭寺院は青巌寺、江戸の拠点は高輪の学侶方在番所
・行人方 - 頭寺院は興山寺、江戸の拠点は白金の高野山在番所行人方触頭
・聖方 - 頭寺院は(高野山)大徳院、江戸の拠点は高野山金剛峰寺諸国末寺総触頭(両国の大徳院)
これをもとに整理すると、
・学侶方 - 芝二本榎の学侶方在番所 → 高野山東京別院(第1番札所)
・行人方 - 白金の高野山在番所行人方触頭 → 文珠寺(第88番札所)
・聖方 - 高野山金剛峰寺諸国末寺総触頭 → 両国の大徳院(第50番札所)
となり、「高野三方」の江戸の拠点がそれぞれ御府内霊場の重要な札番を担っていたことになります。
御府内霊場折り返しの第45番・大護院(旧文珠寺?)が行人方触頭系寺院の系譜を曳くとなると、「高野三方」の関係からなんらかの意味合いがあったのかもしれません。
話が長くなりました。
ともあれ、文殊院跡地には元禄六年(1693年)8月5日5代将軍綱吉公が山城國男山の石清水八幡宮を勧請し、石清水正八幡宮と号しました。
なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「昔ハ文殊院の八幡と称し」とあるので、綱吉公による石清水八幡宮勧請以前に八幡神の御鎮座があったのかもしれません。
ここからは主に藏前神社公式Webを参考に書き進めます。
上記のとおり、蔵前の石清水八幡宮は5代将軍綱吉公が元禄六年(1693年)に山城國男山の石清水八幡宮から勧請、御鎮座されました。
爾来、江戸城鬼門除守護神、徳川将軍家祈願所として篤く尊崇せられました。
藏前神社公式Webには以下のとおり記載があります。
「文政年間(1818-1830年)の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』には次のように記されています。『石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は 元禄6年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候(略)」
「高野山興山寺上り屋敷」は旧文珠寺とみられ、文珠寺跡地が石清水八幡宮となったことを示しています。
享保十七年(1732年)類焼し、替地として浅草三嶋町に御遷りのところ、延享元年(1744年)寺社御奉行大岡越前守忠相が「三嶋町は御祈願所に不相応」とし、上意を得て蔵前の元地に還幸されました。
藏前神社公式Webには「江戸の北極星信仰」として、帯広市の真宗大谷派「順進寺」坂谷徹念住職による説が紹介されています。
要旨は以下のとおりです。
・北極星と北斗七星は古来より信仰の対象となり、仏教や神道にもとり入れられた。
・江戸の都市計画にも北極星、北斗七星の力が重用され、単に鬼門に神社仏閣を建立するだけでなく、神社仏閣の配置が北斗七星の形状となるように計画が練られた。
・江戸の都市計画をリードした天海は天台僧であり、神社だけで北斗七星を構成したとするには無理がある。
・北斗七星形成候補として考えられる朱印地30石以上の神社は上野東照宮、日枝神社、根津神社、藏前神社、氷川神社、愛宕神社、神田明神、白山神社の8社。
・うち根津神社は家宣公屋敷地に御遷座、白山神社は綱吉公の屋敷普請のため遷宮、氷川神社の御遷座は吉宗公の代で、江戸の都市計画(鬼門封じ)の色合いは薄く対象外とした。
・愛宕神社は防火・防災上極めて重要な神社、上野東照宮、日枝神社、石清水八幡宮(藏前神社)、神田明神はすべて江戸の守護神、祈願所として大切な神社であった。
・一方、朱印地が500石以上の大寺は寛永寺、増上寺、護国寺、浅草寺の4箇寺。
・増上寺は徳川家の菩提寺であり、寛永寺、護国寺、浅草寺はいずれも幕府の祈願寺として極めて大事な寺院であった。
・江戸の都市計画上の重要人物に、家光公側室で綱吉公生母の桂昌院がいる。
・延宝八年(1680年)5月実子綱吉公の将軍就任後ほどなく、桂昌院は綱吉公を動かし護国寺、藏前神社を創建して江戸守護のための北極星、北斗七星を完成させた。
・坂谷住職は以上から、増上寺、愛宕神社、日枝神社、神田明神、石清水八幡宮(藏前神社)、浅草寺、寛永寺(上野東照宮)が北斗七星、護国寺が北極星にあたると考えられた。
以上の説によると、元禄六年(1693年)8月5日、5代将軍綱吉公が文殊院跡地にみずから山城國男山の石清水八幡宮を勧請したことが符合し、また、享保十七年(1732年)の類焼で浅草三嶋町に御遷座の石清水八幡宮を、延享元年(1744年)寺社御奉行大岡越前守忠相が、「三嶋町は御祈願所に不相応」とし、上意を得て蔵前の元地に還幸された理由としても納得できます。
藏前神社公式Webにはさらに以下のとおりあります。
「当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。」
神社の公式Webで元別当が紹介される例は希とみられますが、こちらでは明記され、大護院の存在の大きさが伺えます。
石清水八幡宮は「藏前八幡」「東石清水宮」とも称され、崇敬者はなはだ多く関東の名社のひとつに数えられました。
天保十二年(1841年)には日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿=ナリタサンオタビ)が、幕府の方針に基づき当社境内に遷されました。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には「成田不動明王御旅所 江の嶋弁天御旅所 伊勢朝熊虚空蔵御旅所 御嶽山あり」とあり、石清水八幡宮(別当大護院)が神仏習合の一大拠点であったことが伺えます。
明治初頭の「神仏分離令」により別当・雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となり、成田不動は明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も同3年練馬の東高野山に移されました。(藏前神社公式Web)
成田不動尊の江戸出開帳のほとんどは深川永代寺(富岡八幡宮)で催され、江戸の成田不動尊信仰の中心だったイメージがあります。
しかし、「成田不動信仰と市川團十郎」抄録(佛教大学大学院紀要)には、「元禄以降、江戸の成田不動信仰の拠点であった『成田山御旅宿』の経営にかかわっていた講中(略)」とあり、ふだんは日本橋の「成田山御旅宿」が江戸の成田不動信仰の拠点であったことを示唆しています。
この日本橋の「成田山御旅宿」が天保十二年(1841年)に蔵前の石清水八幡宮(別当大護院)に遷られ、その「成田不動は明治2年(1869年)深川に遷され」とあるので、1841年から1869年までの28年間は別当大護院が江戸の成田不動尊信仰の中心となった可能性があります。
話が飛んでばかりですみませぬ。
石清水八幡宮は明治6年8月郷社に列格、一時期「石清水神社」と改称するも復号し、昭和26年3月に社号を「藏前神社」と改めています。
なので戦前までの史料には「藏前神社」という神社は記載されていません。
大護院は「御室御所直院家」という真言宗仁和寺系の名刹なので、大護院廃絶後の御府内霊場札所は御室派系寺院が承継しそうですが、実際には智山派の観蔵院(元浅草)が承継しています。
観蔵院は荒川辺八十八ヶ所霊場第83番札所で、あるいは弘法大師霊場札所寺院ということで定められたのかも。
荒川辺八十八ヶ所霊場は天保九年(1838年)以前の開創とされる弘法大師霊場で、根岸・世尊寺から打ち始め、荒川、日暮里、尾久、船堀、豊島、江北、本木、千住、綾瀬、亀有、墨田、向島、亀戸、元浅草と回って根岸・千手院で結願となります。
→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
豊島八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場との札所重複は少なくないですが、御府内霊場との重複は亀戸東覚寺(第73番)、元浅草延命院(第51番)、成増青蓮寺(第19番)と観蔵院の4つしかありません。
しかし、下町の弘法大師霊場のうち蔵前・浅草辺に札所をもつのは荒川辺八十八ヶ所霊場だけなので、蔵前に近い元浅草の札所から選ばれたのかもしれません。
御室派系(大護院)から智山派系(観蔵院)への札所承継は、あるいは大護院が智山派系の成田不動尊の御旅所であったという縁によるものかもしれません。
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【史料】
【観蔵院関連】
■ 『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.58』
江戸大塚護国寺末 浅草新寺町
廣幡山隆源寺観蔵院
起立之年代舊記に無御座候得共 往古慶長十六年(1611年) 中野屋鋪●拝領仕罷●候処 御用地ニ付所替候 仰付正保元年(1645年)中当所に引移候由申伝候
開山 澄圓法印 寛永十年(1633年)入寂
本堂
本尊 如意輪観音坐像木佛
●● 弘法大師 興教大師
護摩堂
愛染明木像王 弘法大師作
※『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに舊記之写を載せていますが、いずれも達筆すぎて筆者には解読不能です。
【大護院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十五番
浅草御蔵前八幡 門前町あり
雄徳山 神光寺 大護院
御室御所直院家 新義
本尊:愛染明王 弘法大師
本社:石清水八幡宮
御本丸御祈願所
石清水正八幡宮 大倉前にあり
元禄五年(1692年)台命によって石清水正八幡宮勧請せり
昔ハ文殊院の八幡と称し高野山行人流の僧職ありしか
故あつて其地を改メられ石清水正八幡宮を勧請せり
別当大護院と号雄徳山と云
開山幸沼法印なり
護摩堂本尊ハ五大明王にして運慶作なり
成田不動明王御旅所江の嶋弁天御旅所
伊勢朝熊虚空蔵御旅所御嶽山あり
■ 『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [2]』(国立国会図書館)
八幡宮 御蔵前 社領二百石 別當雄徳山神光寺大護院 眞言
これを文殊院といふハ 以前文殊院といひて高野山行人派の觸かしら住院す 行人派騒動ありて後 元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮をうつさせられたり
■ 『江戸名所図会 7巻 [16]』(国立国会図書館)
八幡宮
御蔵前 社領二百石
雄徳山神光寺大護院 真言
これを文殊院の八幡といふハ以前文殊院といひて高野山行人流の觸かしら住院す
行人派騒動ありて後 元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮をうつさせられたり
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「正覚寺 八幡宮」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[16],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
「稲荷町」は都内で育った人でもなかなか使わない駅ですが、御府内霊場札所密集エリアのアプローチになるので、御府内霊場巡拝時には重要な駅です。
都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左右衛門橋通りを南に入り少し行った路地を左に回り込むとすぐにあります。
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【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 院号札
路地にすぐ面して本堂があり、たたずまいは瀟洒な邸宅のようです。
確かベルを押して御朱印帳をお預けしてからの参拝でした。
本堂前左手に修行大師像、向かって右横には聖観世音菩薩の立像。
向拝上には真言宗智山派の宗紋・桔梗紋が染められた向拝幕を巡らし、見上げには豪快な筆致の山号扁額。
ここに来て俄然札所のイメージが高まります。
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【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 札所幟
ご案内いただいた本堂内。
正面に御本尊の如意輪観世音菩薩坐像。
向かって右に胎蔵曼荼羅、左には金剛界曼荼羅が掲げられています。
御本尊まわりに愛染明王などの諸仏。
こちらの愛染明王は、大護院の御本尊であった愛染明王とのつながりも想起されますが、詳細不明です。
向かって右には弘法大師坐像、左には興教大師坐像が御座され、密寺らしい空間となっています。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」と「如意輪観音」「弘法大師」の揮毫と「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第四十五番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第46番 萬徳山 聖寶院 弥勒寺
(みろくじ)
墨田区立川1-4-13
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第50番、御府内二十八不動霊場第20番、御府内十三仏霊場第6番(弥勒菩薩)、江戸十二薬師第6番
第46番は御府内霊場屈指の名刹です。
第46番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』で弥勒寺、江戸八十八ヶ所霊場では両国の大徳院(現御府内霊場・第50番札所)となっています。
よって、江戸時代に第50番札所の弥勒寺と第46番札所の大徳院が入れ替わった可能性があります。
その経緯は不明ですが、弥勒寺は御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
下記史料、すみだ観光サイト、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
弥勒寺は、慶長十五年(1610年)宥鑁上人が小石川鷹匠町に創建(中興開山とも)、馬喰町上寺町、深川など幾度かの移転を経て元禄二年(1689年)本所に移転したと伝わります。
かつては京都醍醐寺三宝院末でしたが、のちに根来寺末となっています。
寺領百石の朱印状を拝領し、新義真言宗関東四箇寺のひとつとして触頭を勤めた名刹です。
触頭とは宗派内の寺院・僧侶を統括する寺院で、幕府との接触も多く江戸時代には極めて重要な役割を果たしました。
真言宗智山派総本山智積院の公式Webによると、「新義真言宗触頭」=「江戸四箇寺」で、発足当初は知足院・真福寺・円福寺・弥勒寺。
その後貞享四年(1687年)に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、根生院が任じられています。
円福寺は明治2年に廃寺となっていますが、江戸時代には「江戸四箇寺」の寺院すべてが御府内霊場札所となっていました。
『御府内寺社備考』には、「元禄二年(1689年)賜此地 綱吉公命云彌勒根生二院者属小池房真福圓福二寺者属智積院住持亦各其山之僧可令居之云々 同年七月移寺院●本所造庫裡当」とあり、元禄二年(1689年)の本所移転時にはすでに「江戸四箇寺」に数えられていたことがわかります。
『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏/PDF)には「江戸四ヶ寺の成立年次であるが、従来の研究により元和五年以降同九年以前」とあり、智積院公式Webには「その後貞享四年(1687年)に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、根生院が任じられています。」とあるので、元禄二年(1689年)に根生院が数えられている『御府内寺社備考』の記述と年次が符合します。
当初は弥勒菩薩を御本尊としたことから弥勒寺と号しましたが、後に薬師如来が御本尊となっています。
当山御本尊の薬師如来像は、徳川光圀公(1628-1701年)から寄進された尊像といいます。
この行基菩薩作と伝わるお薬師さまはもともと常陸国の真言宗寺院にあり、故あってこの寺の寺領を水戸光圀公が没収されたときにこの尊像を川(那珂川?)に流しました。
しかし不思議なことにこの尊像は下流に流されることなく、川上に向かって流されたといいます。
これを見た光圀公はこの尊像への尊崇を新たにし、川上に流れたことから「川上薬師」と呼ばれて以降人々の信仰を集めました。
光圀公はこの尊像を縁のあった弥勒寺に奉じ、以降当山の御本尊になったといいます。
弥勒寺の薬師如来は江戸十二薬師(十三薬師)第6番札所として知られていたようですが、その他の札所は概ね詳細不明のようです。
塔頭に法樹院、徳上院、正福院、寳珠院、正覺院、龍光院などがあり、多くの末寺を擁しました。
御府内霊場にも弥勒寺末の札所寺院がいくつかありました。
『御府内寺社備考』には、「権現様(徳川家康公) 台徳院様(2代将軍秀忠公) 大猷院様(3代将軍家光公) 右所三代之間御表御奥に御祈祷し●●献上仕御初穂等拝領仕候」とあり、徳川将軍家の祈祷所の役割を果たしていたことを示しています。
『御府内寺社備考』はまた、当山の大檀那が牧野備前守成貞であったことを記しています。
牧野成貞(1635-1712年)は三河牧野氏の流れで5代将軍綱吉公の側用人から下総関宿藩主。
三河牧野氏は東三河の土豪として松平氏(徳川氏)に仕え、江戸時代には門閥譜代として多くの大名・旗本家を輩出した名門です。
徳川光圀公とのゆかりといい、さすがに「触頭江戸四箇寺」にふさわしい沿革を伝えています。
山内には5代将軍綱吉公に鍼灸師として仕えた杉山和一(杉山検校)の墓所や鍼供養碑があります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十六番
本所二ッ目林町
萬徳山 聖宝院 弥勒寺
院家長谷山方どくれいせ● 新義
本尊:薬師如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [88] 本所寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.75』
山城國醍醐三宝院末 本所二ッ目
萬徳山聖宝院弥勒寺
新義真言宗触頭
(以下抜粋)
開山宥鑁法印 聖寶院之住持也
初聖宝尊師作之不動尊幷行基作之彌勒菩薩以以為本尊故為院号
古ハ松梅山又松風山とも号
宥鑁後堀請武府拝領寺地於馬喰町建立院宇時蒙
鈞命為四箇寺職特是
慶長十五年(1610年)、御召ニ付江府●●寺地●仕 彌勒尊を本尊と●彌勒寺と号
触頭●
慶長十五年(1610年)鷹匠町に寺地を移し 元禄二年(1689年)●●拝領仕候在寺地東方に御●●
元和二年(1616年)鑁随醍醐山三寶院准三宮法務大僧正義演法流以為本寺
寛永十年(1689年)従水戸社務光明院移住以故水戸黄門君●遇
天和二年(1682年)罹災院宇為灰燼●是後転寺地 拝領深川俄造坊室
元禄二年(1689年)賜此地 綱吉公命云彌勒根生二院者属小池房真福圓福二寺もの属智積院住持亦各其山之僧可令居之云々 同年七月移寺院●本所造庫裡当
本堂
本尊 薬師如来木像 行基菩薩作
此尊像を●●常州筑波郡之内水戸殿御領内●る真言宗之寺(略)水戸黄門公右之寺を没収
し給ふとき本尊を谷川(那珂川とも)へ流し● 不思議なる●漲る●を川上へ流れし給ふ此奇特を以て黄門公より当寺八世(略)川上薬師●来と称
前立 薬師如来木像
日光月光菩薩
寺寶
常憲院様(5代将軍綱吉公)御画(筆) 鶴松之御画
不動尊画像 弘法大師五十二歳之時作画
千体不動尊画像
六臂辨財天像
弘法大師御影
鎮守八幡社
大日堂
本尊 大日如来 観音
権現様(徳川家康公) 台徳院様(2代将軍秀忠公) 大猷院様(3代将軍家光公)
右所三代之間御表御奥に御祈祷し●●献上仕御初穂等拝領仕候
■ 『江戸名所図絵 第4 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
真言新義の触頭江戸四箇寺の一室なり。本尊は薬師如来、世に河上薬師と称せり。中興開山を、宥鑁上人と号す。総門の額に、彌勒寺と書せしは、朝鮮國雪月堂の筆跡なり。当寺舊柳原の地にありしを、天和二年(1682年)回禄の後、此地へ移されたり。毎月八日十二日を縁日として参詣多し。
■ 『東京名所図絵』(国立国会図書館)
萬徳山弥勒寺ハ天祖神社の北二丁余彌勒寺橋の北詰林町に在り 真言新義の触頭にして東京四ヶ寺の一なり 本尊ハ薬師如来なり 世に河上薬師と云ふ 中興開山ハ宥鑁上人なり 毎月八日十二日ハ縁日として参詣人多し
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「弥勒寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営新宿線・大江戸線「森下」駅で徒歩約5分。
住宅、オフィスビル、寺院が混在するエリアにひっそりとあります。
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号札
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【写真 上(左)】 山内&本堂
【写真 下(右)】 杉山検校墓菩所
山内入口は門柱のみで、本堂もすぐそこに見えますが、どことなく風格を感じるのは触頭寺院の歴史でしょうか。
参道右手の観音聖像は、昭和20年3月10日の東京大空襲による犠牲者の冥福を祈る尊像です。この聖像のもとに多くの遺骨が収納されています。
「日本大百科全書(ニッポニカ)」によると2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟 (はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB-29の攻撃で下町エリアの40平方キロメートルが焼失、焼失家屋約27万戸、罹災者数は実に100万余人に達したといいます。
広くはない山内ということもあって、令和の今日でもなお戦禍の悲惨さが逼ってくるような感じがあります。
本堂は近代建築で、様式はよくわかりません。
向拝柱はなく、扉に置かれた真言宗豊山派の宗紋「輪違紋」がよく目立ちます。
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【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 「筆供養」の碑
堂前向かって右手の「筆」と彫られた石碑は、「弥勒寺で書道の道場を開いていた昭和の書家、相沢春洋の命日にあたり、門下生がそれにちなんで使い古した毛筆に感謝を込めて供養する」「筆供養」の碑です。(すみだ経済新聞より)
本堂には表装をかけた千社札が掲げられていました。
御府内でも有数の名刹ゆえ、かつての堂宇には多くの千社札が貼られていたのでは。
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【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 千社札
御朱印は本堂向かって左手奥の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に薬師如来のお種子「バイ」と「薬師如来」の揮毫。別に左右に種子の揮毫がありますが、達筆すぎて読解できません。
中央の主印は三寶印。
右上に「御府内第四十六番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ ノーサイド - 松任谷由実
■ thaw song - 中恵光城
■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - 杏里
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第43番 神勝山 成就院
(じょうじゅいん)
台東区元浅草4-8-12
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第43番、弘法大師二十一ヶ寺第12番、江戸東方三十三観音霊場第24番(諸説あり)
第43番札所は元浅草の成就院です。
御府内霊場には成就院がふたつ(谷中の第43番、東上野の第78番)あり、第43番は百観音成就院、第78番は田中成就院と呼んで区別されます。
第43番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに成就院なので、御府内霊場開創時から一貫して成就院であったとみられます。
下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
成就院は、観宥法印(寛永五年(1628年)寂)が開山となり、矢の倉(現・浅草橋付近)に創建されたといいます。
「開山乗誉源印 寛永●(1624-1644年)起立 もと矢の倉に阿り万治(1658-1661年)の比当所へ移る」とする資料もあるようです。(『江戸志』)
史料によると御本尊は三尊阿弥陀如来、弘法大師坐像(大師巡拝江戸八十八ヶ所の内44番)興教大師坐像・三宝荒神坐像を奉じ、ほかに観音堂(百体観音・弘法大師)、石地蔵堂を有していたようですが、関東大震災や東京大空襲により諸堂は被災して現存していません。
「大師巡拝江戸八十八ヶ所(御府内霊場?)第44番」となっていますが、これは第43番と錯綜したのかもしれません。(第44番は当初から四ッ谷の顕性寺とみられる。)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十三番
浅草寺町
神勝山 成就院
大塚護持院末 新義
本尊:観世音菩薩 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
江戸大塚護持院末 浅草新寺町
神勝山成就院
拙寺建立年代相知不申候
開山観宥、寛永五年6月15日遷化
本堂
本尊 三尊弥陀如来木立像
弘法大師木座像 大師巡拝江戸八十八ヵ所ノ内四十四番札所
興教大師木座像
三宝荒神木立像
大日如来木座像
観音堂
百体観音 弘法大師
石地蔵堂
開山乗誉源印寛永●(1624-1644年)起立 もと矢の倉に阿り万治(1658-1661年)の比当所へ移る(江戸志)
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「成就院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ銀座線「田原町」駅徒歩約5分。
御府内霊場札所が集中する元浅草・寿エリアの一画にあります。
都道463号浅草通り「元浅草四丁目」交差点から孫三通りを南に入ってすぐ。
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号札
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【写真 上(左)】 札所板-1
【写真 下(右)】 札所板-2
孫三通りに面して門柱。
門からだと民家風の事務所が目立ちますが、門柱の院号札と、本堂が一部見えるのでそれとわかります。
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【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
本堂は2層の近代建築で、おそらく2階に鐘楼を置いていますが、こういうつくりの名称を筆者は知りません。
向拝柱はありませんが、見上げに山号扁額を掲げています。
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【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 百観音
本堂向かって左手に百観音の尊像があり、背面には百観音の由来が記されています。
「当成就院は、古来通称百観音と云われてまいりました。百観音とは、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番観音霊場の総称であります。江戸時代には当境内にその百体の観音菩薩像がまつられていたと伝えられています、佛教信者にとって一生に一度は百観音霊場の巡拝を念願するものとされています。この度、特信者の寄進に依りその旧観を偲んで聖観音の尊像を像立し(略)」とありました。
御朱印は寺務所で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
【専用集印帳】
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「江戸御府内八十八ヶ所第四十三番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
【汎用御朱印帳】
中央に金剛界大日如来のお種子「バーンク」(五点具足/荘厳体)と弘法大師のお種子「ユ」の揮毫、御寶印(蓮華座+火焔宝珠)はおそらく金剛界大日如来のお種子「バン」。
右上に「江戸御府内八十八ヶ所第四十三番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第44番 金剛山 蓮華院 顕性寺
(けんしょうじ)
新宿区須賀町13-5
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第44番、山の手三十三観音霊場第26番
ようやっと中間の第44番までやってきました。
引きつづき同様の構成で進めます。
第44番札所は四ッ谷須賀町の顕性寺です。
第44番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに顕性寺なので、御府内霊場開創時から一貫して四ッ谷の顕性寺であったとみられます。
下記史料、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
顕性寺は慶長十六年(1611年)牛込御門外に起立。開山は賢秀法印(承應二年(1653年)寂)と伝わります。
江戸城外濠堀削のため寺地が召上げられ、寛永十一年(1634年)現在地に移転しました。
享保十年(1725年)2月青山の出火で焼失し、文政年間(1818年~1831年)に至ってもなお仮堂のままであったと伝わります。
元文三年(1738年)中野寶仙寺末。
中興開山は秀延法印(宝暦二年(1752年)寂)とあるので、秀延法印のときに寶仙寺末となったとみられます。
当寺は寺宝「俎大師(まないただいし)」で知られています。
これは弘法大師空海が土佐國高岡郡に巡錫された折、家に泊めてくれたお礼としてまな板に「南無阿弥陀仏」の文字を彫られたものといいます。
(『ルートガイド』には「長さ1メートルあまりの俎板に彫った、阿弥陀如来像」とあります。)
幕末に至り、弘法大師が泊まられた家の末裔が江戸に移住しました。
江戸(東京)で生活苦に陥り、「俎大師」を抵当として料亭「鳥八十」より借財し、そのまま「鳥八十」の所有となりました。
「鳥八十」のあるじの娘は、後に落語家の五代目古今亭今輔を生みましたが、昭和9年の弘法大師千百年遠忌に際して「俎大師」を当山に寄進、当山の寺宝となったといいます。
(以上「Wikipedia」(出所:『四谷南寺町界隈』(新宿区立図書館))より。)
「俎大師」とのゆかりは昭和に入ってからであり、宝暦の御府内霊場開創時にはすでに御府内霊場札所の資格を備えていたものとみられます。
当山は山の手三十三ヶ所観音霊場第26番札所ですが、この霊場は享保年間末(1736年)までには開創と目されるので、宝暦年間(1751-1764年)開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。
山の手三十三ヶ所観音霊場の真言宗の札所の多くは御府内霊場の札所となっています。
(護国寺、新長谷寺、早稲田観音寺、放生寺、千手院→南蔵院、光徳院、顕性寺、真成院)
あるいは、顕性寺もこの流れで御府内霊場札所となったのかもしれません。
→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
四十四番
四ッ谷南寺町
金剛山 蓮華院 顕性寺
中の村宝仙寺末 新義
本尊:大日如来 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [45] 四谷寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.128』
中野寶仙寺末 四谷南寺町
金剛山蓮華院顕性寺
開闢起立之儀 慶長十六年(1611年)元地●●牛込●門外
中興開山 秀延法印 宝暦二年(1752年)寂
元寶仙寺門徒 元文三年(1738年)同寺末寺と相成候
客殿
本尊 金剛界大日如来木坐像
弘法大師 興教大師
観音堂
観世音木坐像 右山之手二拾六番札所
稲荷社 秋葉 八幡宮 相殿
石地蔵立像
開山 賢秀法印 承應二年(1653年)寂
■ 『四谷区史 [本編]』(国立国会図書館)
金剛山蓮花院顯性寺は中野村寶仙寺末の新義真言宗で、四谷南寺町にある。慶長十六年(1611年)牛込門外に起立し、外濠掘鑿の用地として公収されて、寛永十一年(1634年)此地に移転した。其後享保十年(1725年)二月の青山の出火に類焼して、文政(1818-1830年)当時は本建築に至らなかつたことが其書上に見える。
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「顕性寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」駅で徒歩約8分。
寺院が並ぶ四ッ谷寺町のまっただなかにあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標
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【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
山内入口に寺号標。右手に御府内霊場の札所標。
こぢんまりとした山内で、すぐ奥に本堂がみえます。
本堂は近代建築の2層。
向拝は2階で右手奥の階段でアプローチ。
向拝見上げには山号扁額を掲げています。
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【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
『ルートガイド』によると本堂には御本尊・大日如来と俎大師が奉安されているそうです。
本堂は1階庫裡にて拝受できますが、筆者参拝時は2回ご不在があったので、事前TELがベターかもしれません。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「第四十四番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第45番 廣幡山 隆源寺 観蔵院
(かんぞういん)
台東区元浅草3-18-5
真言宗智山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第83番、弘法大師二十一ヶ寺第13番
第45番札所は元浅草の観蔵院です。
第45番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに蔵前の雄徳山 神光寺 大護院なので、江戸期の御府内霊場第45番は蔵前の大護院であったとみられます。
『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所異動表に第45番は大護院改め観蔵院とあるので、おそらく明治初期の神仏分離の際に札所異動があったとみられます。
まずは観蔵院について、下記史料、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
観蔵院は慶長十六年(1611年)澄(証)圓法印が開山となり中野屋鋪に創建、正保元年(1645年)現在地の元浅草に移転したと伝わります。
江戸大塚護国寺末の新義真言宗寺院です。
※『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに長文の「舊記之写」を載せていますが、いずれも達筆すぎて筆者には解読不能につき、ここまでしかわかりません。
つぎに大護院について、藏前神社公式Web、下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。
大護院の前身とみられる文殊院は蔵前にあって、高野山行人派觸頭の住院だったといいます。
『御府内八十八ケ所道しるべ』『江戸砂子温故名蹟誌』『江戸名所図会』ともに、もとは文殊院と号す高野山行人流の寺院で、行人派騒動の後、元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮を勧請された旨が記されています。
「行人派騒動」は、「元禄高野騒動」をさすと思われます。
「元禄高野騒動」とは寛永十五年(1638年)頃に端を発して50年ほどもつづき、元禄五年(1692年)幕府の裁定により決着した高野山の学侶方と行人方の争いです。
学侶方と行人方については、『元禄高野騒動と『高野春秋編年輯録』』(村上弘子氏・PDF)に、以下のとおり詳しくまとめられています。
「近世の高野山は、学侶方・行人方・聖方の「高野三方」と呼ばれる三つの組織から成り立っていた。学侶方とは法論談義や修法観念に専念する僧侶たちで、衆徒とも呼ばれる。青巌寺が頭寺院(略)行人方は興山寺を頭寺院とし、諸堂の管理や供花・給仕などの雑用に従事しており、堂衆・承仕とも呼ばれる(略)聖方は、弘法大師の入定信仰や高野山浄土信仰などを廻国唱導し(略)勧進活動を行なっていた中世の高野聖と呼ばれる僧たちが前身とされている。聖方頭寺院である大徳院は徳川氏と師檀関係を結んでおり、東照宮と二代将軍秀忠の台徳院御霊屋を祀っていた。」
行人方僧侶が堂上灌頂を受けることについて山内が紛糾し、江戸幕府も巻き込んで50年以上も争いがつづきました。
最終的には元禄五年(1692年)幕府の裁定により学侶方が勝利し、行人方の僧侶は600名以上も九州や隠岐に配流となり、行人方の多くの子院も取りつぶしとなりました。
この裁定について、『徳川実紀』(元禄五年九月四日条)は「こたび高野の事。査検のうへ仰下されし御旨もありしに。猶とかく愁訴やまず。いとひが事なれば。厳科にも處せらるべけれど。釋徒たるをもて助命せしめ山中を追放し。紀伊国の中にさしをき(略)増福院清雅はじめ八十二人は大隅国の島(略)八十人は隠岐国に遠流せしめ」と記しています。
高野山の内部機構の内紛にも係わらず、幕府は「厳科にも處せらるべけれ」とすこぶる強い姿勢でのぞみ、50年来の騒動に決着をつけたことがわかります。
「元禄高野騒動」の決着は元禄五年(1692年)9月、5代将軍綱吉公による山城國石清水八幡宮の勧請が元禄六年(1693年)8月5日(藏前神社公式Web)ですから史料類の時系列と符合します。
『御府内八十八ケ所道しるべ』の「昔ハ文殊院の八幡と称し高野山行人流の僧職ありしか 故あつて其地を改メられ石清水正八幡宮を勧請せり」の「故あつて」とは「元禄高野騒動」を示すものと思われます。
ここで気になったのは、御府内霊場札所と「高野三方」との関係です。
上記のとおり、近世の高野山は学侶方・行人方・聖方の「高野三方」と呼ばれる三つの組織から成り立っていました。
・学侶方 - 頭寺院は青巌寺、江戸の拠点は高輪の学侶方在番所
・行人方 - 頭寺院は興山寺、江戸の拠点は白金の高野山在番所行人方触頭
・聖方 - 頭寺院は(高野山)大徳院、江戸の拠点は高野山金剛峰寺諸国末寺総触頭(両国の大徳院)
これをもとに整理すると、
・学侶方 - 芝二本榎の学侶方在番所 → 高野山東京別院(第1番札所)
・行人方 - 白金の高野山在番所行人方触頭 → 文珠寺(第88番札所)
・聖方 - 高野山金剛峰寺諸国末寺総触頭 → 両国の大徳院(第50番札所)
となり、「高野三方」の江戸の拠点がそれぞれ御府内霊場の重要な札番を担っていたことになります。
御府内霊場折り返しの第45番・大護院(旧文珠寺?)が行人方触頭系寺院の系譜を曳くとなると、「高野三方」の関係からなんらかの意味合いがあったのかもしれません。
話が長くなりました。
ともあれ、文殊院跡地には元禄六年(1693年)8月5日5代将軍綱吉公が山城國男山の石清水八幡宮を勧請し、石清水正八幡宮と号しました。
なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「昔ハ文殊院の八幡と称し」とあるので、綱吉公による石清水八幡宮勧請以前に八幡神の御鎮座があったのかもしれません。
ここからは主に藏前神社公式Webを参考に書き進めます。
上記のとおり、蔵前の石清水八幡宮は5代将軍綱吉公が元禄六年(1693年)に山城國男山の石清水八幡宮から勧請、御鎮座されました。
爾来、江戸城鬼門除守護神、徳川将軍家祈願所として篤く尊崇せられました。
藏前神社公式Webには以下のとおり記載があります。
「文政年間(1818-1830年)の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』には次のように記されています。『石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は 元禄6年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候(略)」
「高野山興山寺上り屋敷」は旧文珠寺とみられ、文珠寺跡地が石清水八幡宮となったことを示しています。
享保十七年(1732年)類焼し、替地として浅草三嶋町に御遷りのところ、延享元年(1744年)寺社御奉行大岡越前守忠相が「三嶋町は御祈願所に不相応」とし、上意を得て蔵前の元地に還幸されました。
藏前神社公式Webには「江戸の北極星信仰」として、帯広市の真宗大谷派「順進寺」坂谷徹念住職による説が紹介されています。
要旨は以下のとおりです。
・北極星と北斗七星は古来より信仰の対象となり、仏教や神道にもとり入れられた。
・江戸の都市計画にも北極星、北斗七星の力が重用され、単に鬼門に神社仏閣を建立するだけでなく、神社仏閣の配置が北斗七星の形状となるように計画が練られた。
・江戸の都市計画をリードした天海は天台僧であり、神社だけで北斗七星を構成したとするには無理がある。
・北斗七星形成候補として考えられる朱印地30石以上の神社は上野東照宮、日枝神社、根津神社、藏前神社、氷川神社、愛宕神社、神田明神、白山神社の8社。
・うち根津神社は家宣公屋敷地に御遷座、白山神社は綱吉公の屋敷普請のため遷宮、氷川神社の御遷座は吉宗公の代で、江戸の都市計画(鬼門封じ)の色合いは薄く対象外とした。
・愛宕神社は防火・防災上極めて重要な神社、上野東照宮、日枝神社、石清水八幡宮(藏前神社)、神田明神はすべて江戸の守護神、祈願所として大切な神社であった。
・一方、朱印地が500石以上の大寺は寛永寺、増上寺、護国寺、浅草寺の4箇寺。
・増上寺は徳川家の菩提寺であり、寛永寺、護国寺、浅草寺はいずれも幕府の祈願寺として極めて大事な寺院であった。
・江戸の都市計画上の重要人物に、家光公側室で綱吉公生母の桂昌院がいる。
・延宝八年(1680年)5月実子綱吉公の将軍就任後ほどなく、桂昌院は綱吉公を動かし護国寺、藏前神社を創建して江戸守護のための北極星、北斗七星を完成させた。
・坂谷住職は以上から、増上寺、愛宕神社、日枝神社、神田明神、石清水八幡宮(藏前神社)、浅草寺、寛永寺(上野東照宮)が北斗七星、護国寺が北極星にあたると考えられた。
以上の説によると、元禄六年(1693年)8月5日、5代将軍綱吉公が文殊院跡地にみずから山城國男山の石清水八幡宮を勧請したことが符合し、また、享保十七年(1732年)の類焼で浅草三嶋町に御遷座の石清水八幡宮を、延享元年(1744年)寺社御奉行大岡越前守忠相が、「三嶋町は御祈願所に不相応」とし、上意を得て蔵前の元地に還幸された理由としても納得できます。
藏前神社公式Webにはさらに以下のとおりあります。
「当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。」
神社の公式Webで元別当が紹介される例は希とみられますが、こちらでは明記され、大護院の存在の大きさが伺えます。
石清水八幡宮は「藏前八幡」「東石清水宮」とも称され、崇敬者はなはだ多く関東の名社のひとつに数えられました。
天保十二年(1841年)には日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿=ナリタサンオタビ)が、幕府の方針に基づき当社境内に遷されました。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には「成田不動明王御旅所 江の嶋弁天御旅所 伊勢朝熊虚空蔵御旅所 御嶽山あり」とあり、石清水八幡宮(別当大護院)が神仏習合の一大拠点であったことが伺えます。
明治初頭の「神仏分離令」により別当・雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となり、成田不動は明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も同3年練馬の東高野山に移されました。(藏前神社公式Web)
成田不動尊の江戸出開帳のほとんどは深川永代寺(富岡八幡宮)で催され、江戸の成田不動尊信仰の中心だったイメージがあります。
しかし、「成田不動信仰と市川團十郎」抄録(佛教大学大学院紀要)には、「元禄以降、江戸の成田不動信仰の拠点であった『成田山御旅宿』の経営にかかわっていた講中(略)」とあり、ふだんは日本橋の「成田山御旅宿」が江戸の成田不動信仰の拠点であったことを示唆しています。
この日本橋の「成田山御旅宿」が天保十二年(1841年)に蔵前の石清水八幡宮(別当大護院)に遷られ、その「成田不動は明治2年(1869年)深川に遷され」とあるので、1841年から1869年までの28年間は別当大護院が江戸の成田不動尊信仰の中心となった可能性があります。
話が飛んでばかりですみませぬ。
石清水八幡宮は明治6年8月郷社に列格、一時期「石清水神社」と改称するも復号し、昭和26年3月に社号を「藏前神社」と改めています。
なので戦前までの史料には「藏前神社」という神社は記載されていません。
大護院は「御室御所直院家」という真言宗仁和寺系の名刹なので、大護院廃絶後の御府内霊場札所は御室派系寺院が承継しそうですが、実際には智山派の観蔵院(元浅草)が承継しています。
観蔵院は荒川辺八十八ヶ所霊場第83番札所で、あるいは弘法大師霊場札所寺院ということで定められたのかも。
荒川辺八十八ヶ所霊場は天保九年(1838年)以前の開創とされる弘法大師霊場で、根岸・世尊寺から打ち始め、荒川、日暮里、尾久、船堀、豊島、江北、本木、千住、綾瀬、亀有、墨田、向島、亀戸、元浅草と回って根岸・千手院で結願となります。
→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
豊島八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場との札所重複は少なくないですが、御府内霊場との重複は亀戸東覚寺(第73番)、元浅草延命院(第51番)、成増青蓮寺(第19番)と観蔵院の4つしかありません。
しかし、下町の弘法大師霊場のうち蔵前・浅草辺に札所をもつのは荒川辺八十八ヶ所霊場だけなので、蔵前に近い元浅草の札所から選ばれたのかもしれません。
御室派系(大護院)から智山派系(観蔵院)への札所承継は、あるいは大護院が智山派系の成田不動尊の御旅所であったという縁によるものかもしれません。
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【史料】
【観蔵院関連】
■ 『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.58』
江戸大塚護国寺末 浅草新寺町
廣幡山隆源寺観蔵院
起立之年代舊記に無御座候得共 往古慶長十六年(1611年) 中野屋鋪●拝領仕罷●候処 御用地ニ付所替候 仰付正保元年(1645年)中当所に引移候由申伝候
開山 澄圓法印 寛永十年(1633年)入寂
本堂
本尊 如意輪観音坐像木佛
●● 弘法大師 興教大師
護摩堂
愛染明木像王 弘法大師作
※『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに舊記之写を載せていますが、いずれも達筆すぎて筆者には解読不能です。
【大護院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十五番
浅草御蔵前八幡 門前町あり
雄徳山 神光寺 大護院
御室御所直院家 新義
本尊:愛染明王 弘法大師
本社:石清水八幡宮
御本丸御祈願所
石清水正八幡宮 大倉前にあり
元禄五年(1692年)台命によって石清水正八幡宮勧請せり
昔ハ文殊院の八幡と称し高野山行人流の僧職ありしか
故あつて其地を改メられ石清水正八幡宮を勧請せり
別当大護院と号雄徳山と云
開山幸沼法印なり
護摩堂本尊ハ五大明王にして運慶作なり
成田不動明王御旅所江の嶋弁天御旅所
伊勢朝熊虚空蔵御旅所御嶽山あり
■ 『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [2]』(国立国会図書館)
八幡宮 御蔵前 社領二百石 別當雄徳山神光寺大護院 眞言
これを文殊院といふハ 以前文殊院といひて高野山行人派の觸かしら住院す 行人派騒動ありて後 元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮をうつさせられたり
■ 『江戸名所図会 7巻 [16]』(国立国会図書館)
八幡宮
御蔵前 社領二百石
雄徳山神光寺大護院 真言
これを文殊院の八幡といふハ以前文殊院といひて高野山行人流の觸かしら住院す
行人派騒動ありて後 元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮をうつさせられたり
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「正覚寺 八幡宮」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[16],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
「稲荷町」は都内で育った人でもなかなか使わない駅ですが、御府内霊場札所密集エリアのアプローチになるので、御府内霊場巡拝時には重要な駅です。
都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左右衛門橋通りを南に入り少し行った路地を左に回り込むとすぐにあります。
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【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 院号札
路地にすぐ面して本堂があり、たたずまいは瀟洒な邸宅のようです。
確かベルを押して御朱印帳をお預けしてからの参拝でした。
本堂前左手に修行大師像、向かって右横には聖観世音菩薩の立像。
向拝上には真言宗智山派の宗紋・桔梗紋が染められた向拝幕を巡らし、見上げには豪快な筆致の山号扁額。
ここに来て俄然札所のイメージが高まります。
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【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 札所幟
ご案内いただいた本堂内。
正面に御本尊の如意輪観世音菩薩坐像。
向かって右に胎蔵曼荼羅、左には金剛界曼荼羅が掲げられています。
御本尊まわりに愛染明王などの諸仏。
こちらの愛染明王は、大護院の御本尊であった愛染明王とのつながりも想起されますが、詳細不明です。
向かって右には弘法大師坐像、左には興教大師坐像が御座され、密寺らしい空間となっています。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」と「如意輪観音」「弘法大師」の揮毫と「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第四十五番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第46番 萬徳山 聖寶院 弥勒寺
(みろくじ)
墨田区立川1-4-13
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第50番、御府内二十八不動霊場第20番、御府内十三仏霊場第6番(弥勒菩薩)、江戸十二薬師第6番
第46番は御府内霊場屈指の名刹です。
第46番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』で弥勒寺、江戸八十八ヶ所霊場では両国の大徳院(現御府内霊場・第50番札所)となっています。
よって、江戸時代に第50番札所の弥勒寺と第46番札所の大徳院が入れ替わった可能性があります。
その経緯は不明ですが、弥勒寺は御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
下記史料、すみだ観光サイト、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
弥勒寺は、慶長十五年(1610年)宥鑁上人が小石川鷹匠町に創建(中興開山とも)、馬喰町上寺町、深川など幾度かの移転を経て元禄二年(1689年)本所に移転したと伝わります。
かつては京都醍醐寺三宝院末でしたが、のちに根来寺末となっています。
寺領百石の朱印状を拝領し、新義真言宗関東四箇寺のひとつとして触頭を勤めた名刹です。
触頭とは宗派内の寺院・僧侶を統括する寺院で、幕府との接触も多く江戸時代には極めて重要な役割を果たしました。
真言宗智山派総本山智積院の公式Webによると、「新義真言宗触頭」=「江戸四箇寺」で、発足当初は知足院・真福寺・円福寺・弥勒寺。
その後貞享四年(1687年)に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、根生院が任じられています。
円福寺は明治2年に廃寺となっていますが、江戸時代には「江戸四箇寺」の寺院すべてが御府内霊場札所となっていました。
『御府内寺社備考』には、「元禄二年(1689年)賜此地 綱吉公命云彌勒根生二院者属小池房真福圓福二寺者属智積院住持亦各其山之僧可令居之云々 同年七月移寺院●本所造庫裡当」とあり、元禄二年(1689年)の本所移転時にはすでに「江戸四箇寺」に数えられていたことがわかります。
『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏/PDF)には「江戸四ヶ寺の成立年次であるが、従来の研究により元和五年以降同九年以前」とあり、智積院公式Webには「その後貞享四年(1687年)に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、根生院が任じられています。」とあるので、元禄二年(1689年)に根生院が数えられている『御府内寺社備考』の記述と年次が符合します。
当初は弥勒菩薩を御本尊としたことから弥勒寺と号しましたが、後に薬師如来が御本尊となっています。
当山御本尊の薬師如来像は、徳川光圀公(1628-1701年)から寄進された尊像といいます。
この行基菩薩作と伝わるお薬師さまはもともと常陸国の真言宗寺院にあり、故あってこの寺の寺領を水戸光圀公が没収されたときにこの尊像を川(那珂川?)に流しました。
しかし不思議なことにこの尊像は下流に流されることなく、川上に向かって流されたといいます。
これを見た光圀公はこの尊像への尊崇を新たにし、川上に流れたことから「川上薬師」と呼ばれて以降人々の信仰を集めました。
光圀公はこの尊像を縁のあった弥勒寺に奉じ、以降当山の御本尊になったといいます。
弥勒寺の薬師如来は江戸十二薬師(十三薬師)第6番札所として知られていたようですが、その他の札所は概ね詳細不明のようです。
塔頭に法樹院、徳上院、正福院、寳珠院、正覺院、龍光院などがあり、多くの末寺を擁しました。
御府内霊場にも弥勒寺末の札所寺院がいくつかありました。
『御府内寺社備考』には、「権現様(徳川家康公) 台徳院様(2代将軍秀忠公) 大猷院様(3代将軍家光公) 右所三代之間御表御奥に御祈祷し●●献上仕御初穂等拝領仕候」とあり、徳川将軍家の祈祷所の役割を果たしていたことを示しています。
『御府内寺社備考』はまた、当山の大檀那が牧野備前守成貞であったことを記しています。
牧野成貞(1635-1712年)は三河牧野氏の流れで5代将軍綱吉公の側用人から下総関宿藩主。
三河牧野氏は東三河の土豪として松平氏(徳川氏)に仕え、江戸時代には門閥譜代として多くの大名・旗本家を輩出した名門です。
徳川光圀公とのゆかりといい、さすがに「触頭江戸四箇寺」にふさわしい沿革を伝えています。
山内には5代将軍綱吉公に鍼灸師として仕えた杉山和一(杉山検校)の墓所や鍼供養碑があります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十六番
本所二ッ目林町
萬徳山 聖宝院 弥勒寺
院家長谷山方どくれいせ● 新義
本尊:薬師如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [88] 本所寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.75』
山城國醍醐三宝院末 本所二ッ目
萬徳山聖宝院弥勒寺
新義真言宗触頭
(以下抜粋)
開山宥鑁法印 聖寶院之住持也
初聖宝尊師作之不動尊幷行基作之彌勒菩薩以以為本尊故為院号
古ハ松梅山又松風山とも号
宥鑁後堀請武府拝領寺地於馬喰町建立院宇時蒙
鈞命為四箇寺職特是
慶長十五年(1610年)、御召ニ付江府●●寺地●仕 彌勒尊を本尊と●彌勒寺と号
触頭●
慶長十五年(1610年)鷹匠町に寺地を移し 元禄二年(1689年)●●拝領仕候在寺地東方に御●●
元和二年(1616年)鑁随醍醐山三寶院准三宮法務大僧正義演法流以為本寺
寛永十年(1689年)従水戸社務光明院移住以故水戸黄門君●遇
天和二年(1682年)罹災院宇為灰燼●是後転寺地 拝領深川俄造坊室
元禄二年(1689年)賜此地 綱吉公命云彌勒根生二院者属小池房真福圓福二寺もの属智積院住持亦各其山之僧可令居之云々 同年七月移寺院●本所造庫裡当
本堂
本尊 薬師如来木像 行基菩薩作
此尊像を●●常州筑波郡之内水戸殿御領内●る真言宗之寺(略)水戸黄門公右之寺を没収
し給ふとき本尊を谷川(那珂川とも)へ流し● 不思議なる●漲る●を川上へ流れし給ふ此奇特を以て黄門公より当寺八世(略)川上薬師●来と称
前立 薬師如来木像
日光月光菩薩
寺寶
常憲院様(5代将軍綱吉公)御画(筆) 鶴松之御画
不動尊画像 弘法大師五十二歳之時作画
千体不動尊画像
六臂辨財天像
弘法大師御影
鎮守八幡社
大日堂
本尊 大日如来 観音
権現様(徳川家康公) 台徳院様(2代将軍秀忠公) 大猷院様(3代将軍家光公)
右所三代之間御表御奥に御祈祷し●●献上仕御初穂等拝領仕候
■ 『江戸名所図絵 第4 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
真言新義の触頭江戸四箇寺の一室なり。本尊は薬師如来、世に河上薬師と称せり。中興開山を、宥鑁上人と号す。総門の額に、彌勒寺と書せしは、朝鮮國雪月堂の筆跡なり。当寺舊柳原の地にありしを、天和二年(1682年)回禄の後、此地へ移されたり。毎月八日十二日を縁日として参詣多し。
■ 『東京名所図絵』(国立国会図書館)
萬徳山弥勒寺ハ天祖神社の北二丁余彌勒寺橋の北詰林町に在り 真言新義の触頭にして東京四ヶ寺の一なり 本尊ハ薬師如来なり 世に河上薬師と云ふ 中興開山ハ宥鑁上人なり 毎月八日十二日ハ縁日として参詣人多し
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「弥勒寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営新宿線・大江戸線「森下」駅で徒歩約5分。
住宅、オフィスビル、寺院が混在するエリアにひっそりとあります。
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号札
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【写真 上(左)】 山内&本堂
【写真 下(右)】 杉山検校墓菩所
山内入口は門柱のみで、本堂もすぐそこに見えますが、どことなく風格を感じるのは触頭寺院の歴史でしょうか。
参道右手の観音聖像は、昭和20年3月10日の東京大空襲による犠牲者の冥福を祈る尊像です。この聖像のもとに多くの遺骨が収納されています。
「日本大百科全書(ニッポニカ)」によると2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟 (はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB-29の攻撃で下町エリアの40平方キロメートルが焼失、焼失家屋約27万戸、罹災者数は実に100万余人に達したといいます。
広くはない山内ということもあって、令和の今日でもなお戦禍の悲惨さが逼ってくるような感じがあります。
本堂は近代建築で、様式はよくわかりません。
向拝柱はなく、扉に置かれた真言宗豊山派の宗紋「輪違紋」がよく目立ちます。
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【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 「筆供養」の碑
堂前向かって右手の「筆」と彫られた石碑は、「弥勒寺で書道の道場を開いていた昭和の書家、相沢春洋の命日にあたり、門下生がそれにちなんで使い古した毛筆に感謝を込めて供養する」「筆供養」の碑です。(すみだ経済新聞より)
本堂には表装をかけた千社札が掲げられていました。
御府内でも有数の名刹ゆえ、かつての堂宇には多くの千社札が貼られていたのでは。
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【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 千社札
御朱印は本堂向かって左手奥の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
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【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に薬師如来のお種子「バイ」と「薬師如来」の揮毫。別に左右に種子の揮毫がありますが、達筆すぎて読解できません。
中央の主印は三寶印。
右上に「御府内第四十六番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ ノーサイド - 松任谷由実
■ thaw song - 中恵光城
■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - 杏里
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