関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 2.目黒不動尊
写真を追加しました。
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2023-11-18 UP
こちらからつづく
02.泰叡山 護國院 瀧泉寺〔目黒不動尊 / 江戸五色不動〕
目黒区下目黒3-20-26
天台宗
御本尊:不動明王(目黒不動尊)
札所:江戸五色不動(目黒不動尊)、関東三十六不動霊場第18番、江戸三十三観音札所第33番、山手七福神(恵比寿)、東京三十三所観世音霊場第3番、江都三十三観音霊場第33番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第22番、江戸・東京四十四閻魔参り第23番、弁財天百社参り第24番
境内掲示、公式Webの縁起、天台宗東京教区の公式Web、((一社)しながわ観光協会Web)、目黒区資料、『関東三十六不動霊場ガイドブック』などを参考に、縁起、変遷などをまとめてみます。
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「目黒不動之図 / 源氏絵」 国芳
(国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所」より利用規約にもとづき転載。)
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「目黒不動堂 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
大同三年(808年)、慈覚大師円仁が十五歳のとき、師の広智阿闍梨に伴われて故郷の下野国から比叡山の伝教大師最澄のもとに赴く途中、目黒の地に宿をとられました。
その夜のこと、夢の中に恐ろしい形相をした神人が現れ「我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思ふなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん」と告げられました。
慈覚大師がその神人の尊容を像に刻して安置されたのが開創と伝わります。
承和五年(838年)、渡唐された大師が長安・青竜寺の不動明王を拝したところ、件の夢中の神人がまさにこの不動尊であると察せられ、御帰朝後の天安二年(858年)、像を安置した目黒の地に堂宇を建立されました。
堂宇の建立にあたり大師が法具の獨鈷を投じると、そこに霊泉が湧出し滝を落としました。
この滝は「獨鈷の瀧」と名づけられ、大師自ら「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と棟牘に記されて、その由縁から「瀧泉寺」と号されたと伝わります。
貞観二年(860年)、清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り「泰叡山」と号します。
弘治三年(1557年)堂塔の修理造営成ったものの、元和元年(1615年)火災により多くの伽藍を失いました。
このとき御本尊の不動明王はみずから猛火をなぎ払い、獨鈷の瀧の上に飛来して火災の難を逃れたと伝わります。
江戸時代の寛永年間(1624-1645年)、三代将軍家光公がこの地で鷹狩りを催した際、愛鷹が行方知れずになりました。
家光公みずから不動尊の前に額づき祈願を籠めると、愛鷹は本堂前の松(鷹居の松)に戻ってきたため家光公は不動尊の霊威を尊信、帰依しました。
寛永七年(1630年)、上野護国院の開祖・生順大僧正が当寺を管掌、堂宇再建を手掛けた際に家光公は寄進援助し、五十三棟にも及ぶ大伽藍の復興を成しました。
その壮大な伽藍は「目黒御殿」と称されるほどに華麗を極めたと伝わります。
承応三年(1654年)には御水尾天皇より「泰叡山」の勅額を、元禄六年(1693年)には御西天皇御宸筆の「不動明王」を拝戴して、開山以来、実に三度の勅額の下賜を受けています。
以降、徳川将軍家の保護もあって隆盛を極め、関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて「日本三大不動」のひとつに数えられます。
目黒は江戸御府内からほどよい距離の風光明媚の地(夕陽の紅葉で名高い行人坂上)で、目黒不動尊をはじめ蛸薬師と呼ばれる成就院や、弁財天霊場として知られる蟠龍寺もあったため江戸庶民の格好の参詣先となり、門前も市をなしてにぎわいました。
”江戸の三富”(当山、湯島天神、谷中感応寺)と呼ばれた名物の富くじも、目黒繁栄の一因といわれます。
明治に入っても諸人の尊崇篤く、西郷隆盛や東郷元帥などが祈願に訪れています。
西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参。
東郷元師は日本海海戦の勝利を立願し見事に成就したため、庶民の目黒不動尊信仰はますます隆昌を極めたといわれます。
なお、落語噺として有名な「目黒のさんま」は当然目黒の名物ではなく、江戸期には「目黒のたけのこ」と賞され、とくにたけのこ飯が名物だったようです。
~ 筍や 目黒の美人 ありやなし ~ 正岡子規
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「同所の西百歩あまり不動堂 泰叡山 龍泉寺と号す天台宗●●東叡山に属せし 開山ハ慈覚大師 中興慈海僧正なりと 本堂不動明王 慈覚大師作脇士ハ八大童子なり 本殿額泰叡山御西院御筆 楼門額泰叡山御水尾帝御筆 鳥井(ママ)額泰叡山日光御門主明王院宮御筆 経蔵 一代蔵経を安置本尊に釋迦阿難迦葉の像を置 八幡宮 早尾権現/祭神猿田彦大神或ハ素戔嗚尊ともいふ祭礼ハ五月十五日なり此堂社何れも本堂の左に並ぶ 恵比寿大黒祠 鐘楼 水神社 愛染明王 大行事権現/此地の地主神なり祭神高祖皇産霊尊なり五月十五日祭礼あり 石不動尊/何れも本堂の右にあり 稲荷祠 地蔵尊/掌善掌悪の二童子を置 聖観音 開山堂 聖徳太子 天照太神宮 本地大日如来/本堂の後峙●る山の腰を切割く安置を俗す奥の院と称す 吉祥天女祠 天満宮 鬼子母神 十羅刹女祠 虚空蔵堂 遮軍神祠 何れも本堂の後に並び建つ 結神祠 役小角/女坂の中程にあり銅像にして前鬼後鬼の像あり三佛堂/弥陀薬師釋迦等の三尊を安す 子安明神/鬼子母神あり 疱瘡神 粟島明神 石地蔵尊 秋葉権現 六所明神 荒神宮 何れも二(ママ)王門入て右の方にあり 辨財天祠/江島弁天の模なり 地蔵堂/堂内閻王脱衣婆等の像を安せり 観音堂/中尊ハ聖観音廻●●西國坂東秩父等の札所百番の観音を安置せり 勢至堂 稲荷祠 前不動/左右に十二天の像を安置す 何れも楼門の左の方にあり 楼門/左右に金剛密迹二王の像を置裏に使者犬の像を置り 獨鈷の瀧/(中略) 一年此滝水の涸たりしことありたる● 沙門某江島の弁天に祈請したてまつり再ひ元の如しとぞ故に今も年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむる(中略) 鷹居の松/(中略) 」
明治23年刊の『東京名所図会』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「開山ハ慈覚大師なり 本尊不動明王ハ慈覚大師の作なり 本殿の額泰叡山は御西院天皇の御筆 楼門の額泰叡山ハ御水尾天皇の宸筆 鳥居の額泰叡山ハ日光御門主明王院宮の御筆なり 境内に神佛の堂社多くありて一々枚挙すべからぞ 獨鈷の瀧ハ常山の垢離場にして霊泉常に滔々と落下す 如何なる炎天干魃にも涸るヽ事なしと云ふ 往昔ハ三口に分れて湧出せしかど今ハニ流となれり 当寺ハ慈覚大師夢想に感得せし尊容を彫刻して露示の如く此地に安置せしなりとぞ 此地少しく都下を隔つと雖も諸人常に群参せり 殊に正五九の月にハ廿七廿八両日とも非常に賑へり 此門前五六町の間ハ左右酒店茶肆軒を連ねて参詣人の休憩所に充つ 殊に粟餅飴及び餅花等名物として之を商ふ家頗る多し 其繁昌推して知るべし」
参詣の土産として知られていたのが”粟餅”、”餅花”、”飴”でした。
「桐屋」の飴は人気だったらしく、『江戸名所図会』に「目黒飴」と題して挿絵が載せられています。
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「目黒不動餅花 / 江戸自慢三十六興(書画五十三次) 絵師:広重, 豊国」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
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「目黒飴 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
公式Webでは、江戸五色不動につき以下のとおりとりあげています。引用します。
「江戸五色不動は、江戸時代には五眼不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すものです。その由来については諸説ありますが、各位置は江戸城(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤)、甲州街道(白)、東海道(黒)といった江戸府内を中心とした五街道沿い(又は近く)にあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたといわれています。」
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最寄り駅は「目黒」駅か東急線「不動前」駅ですが、どちらからも微妙に距離があります。
名勝・行人坂の往年の情景をしのぶには、目黒駅から歩いた方がいいかもしれません。
目黒駅から目黒川に向けて行人坂をくだっていきます。
江戸時代、紅葉夕景の名所「夕日の岡」として広く知られた急坂です。
江戸名所図会. 七(国会図書館DC)には「明王院の後の方西に向へる岡といへり古へハ楓樹数株梢を交へ晩秋の頃ハ紅葉夕日に映し奇観なりしと知らされと今ハ楓樹少く只名のみを存せり」とあります。
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「夕日岡 行人坂 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
目黒の高台から西側に下るこの坂は富士眺望の名所でもあり、数々の浮世絵が遺されています。
現・ホリプロのビルのあたりに富士の眺望で名を馳せた「富士見茶屋」があり、錦絵にも遺されています。
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【写真 上(左)】 行人坂下り口
【写真 下(右)】 富士見茶屋跡地
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「行人坂 / 江戸名勝図会 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
※ 右手の冠木門が富士見茶屋
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「目黒行人阪之図 / 広重東都坂尽 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
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「目黒行人坂富士 / 江戸自慢三十六興 絵師:広重, 豊国」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
作家・杉本苑子先生の『東京の中の江戸名所図会』/文春文庫には、江戸時代のこのあたりの情景が叙情ゆたかに描写されています。引用します。
「もう、ここまでくると、いちめんの田園風景・・・・・・。春は梅が咲き桃が咲き、菜の花畑れんげ畑に野末がかすんで、ひばりの囀りが降るほどになるし、秋は百姓家の背戸に色づく柿の実、稲の垂れ穂に鳴子がひびいて、ごみごみした下町から抜け出してきた人々の耳目をたのしませてくれた。」
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【写真 上(左)】 行人坂
【写真 下(右)】 行人坂の案内板
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【写真 上(左)】 手前が目黒川架橋供養勢至菩薩、奥が大圓寺
【写真 下(右)】 大圓寺
坂の途中、左手に松林山 大圓寺。
出羽修験系の開創とされるこの天台宗寺院は、明和九年(1772年)の大火(行人坂火事)とかかわりを持ち、幕末に薩摩島津氏の菩提寺として再興されました。
山手七福神の大黒天で、数種の御朱印を授与されています。
さらに下ると雅叙園。
かつてここには松樹山 明王院という天台宗寺院がありました。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「坂の側にあり天台宗●●東叡山に属す 本尊阿弥陀如来脇士観音勢至を安置せり 開山を栄運法師といふ常念佛の道場●●頗る殊勝なり 毎月四日報恩念佛百万遍修行あり 此常念佛ハ西運といふ沙門の発願なりとぞ」
雅叙園内のお七の井戸あたりが明王院跡とされ、八百屋お七の恋人吉三郎が出家して入り百万遍修行を経て西運上人となった寺と伝わります。
八百屋お七は、浮世草子『好色五人女』(貞享三年(1686年)刊)、浄瑠璃、歌舞伎などで広くとりあげられて江戸庶民の知名度が高く、また弁財天百社参り第25番の札所でもあったので、江戸期には参詣者を集めたとみられます。
明和九年(1772年)、行人坂火事で焼失した大圓寺は嘉永元年(1848年)まで再建を許されなかったので、その間はとくに行人坂と明王院の結びつきが強まったかもしれません。
明王院は明治13年(1880年)頃廃され、大圓寺に統合されました。
雅叙園先の太鼓橋で目黒川を渡ります。
雁歯橋とも呼ばれたこの橋も名所で、『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「同所坂下の小川に架せ●/目黒川といへり 桂を用ひて両岸より石を畳の如くして橋とす故に横面より是を望めハ太鼓の胴に彷彿せり故(略)」と記されています。
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め(八百屋お七の恋人吉三郎が出家した西運上人とも)、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って宝暦十四年(1764年)から6年をかけて完成した江戸ではめずらしい太鼓状の石橋です。
初代の石橋は大正9年(1920年)の豪雨で崩壊し、当時の石材は大圓寺の境内に置かれています。
太鼓橋のシンボルツリーは椎の木だったようで、↓ の広重の「目黒太鼓橋夕日の岡」にも描かれ、目黒区の木に指定されています。
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「太鼓橋 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
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「目黒太鼓橋夕日の岡 / 名所江戸百景 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
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【写真 上(左)】 行人坂上り口
【写真 下(右)】 太鼓橋
山手通りを越えると五百羅漢寺。羅漢会館の裏手が目黒不動尊への近道です。
五百羅漢寺でも数種の御朱印を授与されています。
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【写真 上(左)】 五百羅漢寺
【写真 下(右)】 参道入口
東急目黒線「不動前」駅からのアプローチでも、臥龍山 安養院や不老山 成就院(蛸薬師)などの御朱印授与寺があります。(安養院の現在の授与は不明)
こちらは商店街づたいで、門前街としての風情はこちらの方があると思います。
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それでは見どころ満載の山内に参ります。(→ 境内案内)
仁王門の門前に伏見稲荷社と芝居でおなじみの白井権八・小紫の比翼塚。
明暦元年(1655年)頃に生まれ波乱の生涯をおくった鳥取藩士平井(白井)権八は、歌舞伎『浮世柄比翼稲妻』、講談、浄瑠璃などでとりあげられ、新吉原の三浦屋の遊女・小紫との恋物語は、つとに知られています。
また、浮世絵見立て『役者見立 東海道五十三駅』(『役者東海道』)初版には「川崎駅 白井権八」(五代目岩井半四朗)が登場、こちらでも名を広めたとされます。
比翼塚とは相思相愛の男女を弔う塚で、こちらの比翼塚は白井権八・小紫の塚です。
目黒不動尊のそばに普化宗の東昌寺というお寺があり、権八は一時東昌寺に身を寄せたとされます。
東昌寺は『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「虚無僧寺」として記されていますが、明治初期に廃寺となり、比翼塚は東昌寺から当地に移されたそうです。
行人坂の明王院、太鼓橋、そして比翼塚など、歌舞伎、浄瑠璃、講談でなじみふかい人物ゆかりの名所があることも、目黒が行楽地として人気を集めた一因かもしれません。
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【写真 上(左)】 伏見稲荷社
【写真 下(右)】 比翼塚
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【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 仁王門と寺号標
仁王門の前に「目黒不動尊 瀧泉寺」の寺号標と一対の狛犬。
わたしのまわりにも、お寺と神社の区別がつかない人がけっこういたりします。
鳥居の有無、墓地の有無もありますが、やはり名称(●●寺、●●神社)で区別している人が多いようです。
●●寺、●●神社ならば問題ないですが、●●宮、●●尊となると?マークがついてくるようです。
こちらには鳥居も狛犬もあるし、「目黒不動尊」のみではお寺か神社かわからない人もいるのでは。
その点でこの「瀧泉寺」の寺号標は役立っているかもしれません。
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【写真 上(左)】 仁王門扁額
【写真 下(右)】 参道
仁王門は三間一戸、瓦葺八脚の楼門で、二層中央に「泰叡山」の扁額を掲げ、さすがに名刹の風格があります。
左右に阿吽の仁王尊像、階上には韋駄天が祀られているそうです。
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【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 山内
仁王門をくぐって右手に大ぶりな手水舎で、ここから山内が一望できます。
都内有数の名刹だけあって、さすがに広大な山内を構えます。
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【写真 上(左)】 弁天堂(三福神)入口
【写真 下(右)】 金明湧水
仁王門から左手時計まわりにいくと、朱塗りの明神鳥居。そのよこの手水は金明湧水です。
この金明湧水のまわりは色濃く赤茶け、おそらく鉄分を含む湧水だと思います。
鳥居の先の三福神にお参りしてから、金明湧水で”福泉洗い”をするそうです。
これは、いわゆる”銭洗い弁天”を彷彿とさせますが、この一画は『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)で「辨財天祠/江島弁天の模なり」と記され、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第22番、弁財天百社参り第24番の札所で、江戸期には弁天様の霊場としても知られたところではないでしょうか。
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【写真 上(左)】 弁天堂(三福神)
【写真 下(右)】 恵比寿様
太鼓橋を渡って右手に折れると、正面が弁天堂(三福神)、向かって右手に豊川稲荷、左手に福珠稲荷大明神が御鎮座。
弁天堂はおそらく切妻造桟瓦葺。立派な降り棟を備えた整った堂宇で、向拝、水引虹梁まわりに木鼻、斗栱、蟇股、二軒の垂木を配しています。向拝正面は桟唐戸(閉扉)、見上げに「三福神」の扁額、左右に花灯窓を配しています。
桟唐戸の前には恵比寿様が鎮座され、こちらが「山手七福神」の一尊かと思います。(御前立かもしれぬ)
堂内の須弥壇上に奉られる「木造弁才天及び十五童子像」は目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されています。
(→ 区資料)
制作年代は14世紀前半頃、南北朝時代と推測されています。
こちらは御開扉されることがあるようで、その際のWeb投稿写真によると、堂内には大黒天と七福神もお祀りされているようです。
単なる「弁天堂」ではないところが、瀧泉寺の信仰の複雑さを物語っています。
北向六地蔵尊、三界万霊塔と過ぎ、本堂の山裾に腰立不動尊、憂国の士北一輝の碑、作曲家本居長世の碑、勢至堂、青木昆陽(甘藷先生)碑、前不動堂、青龍大権現を祀る垢離堂と並び、本堂参道下左手が獨鈷の瀧です。
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【写真 上(左)】 北向六地蔵尊
【写真 下(右)】 腰立不動尊
北向六地蔵尊は、切妻屋根銅板葺の立派な覆屋の下に御座。石造りの端正な立像です。
この前を通って左に向かうと、瀧泉寺墓地に至ります。
掲示によると「地蔵菩薩の浄土『迦羅陀山』は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し我々のいる北に向かって救いに来てくださるので北を向いています。」とのこと。
腰立不動尊は、本堂の山裾にあり階段の参道です。
切妻造の堂宇の前に切妻の向拝を付設した複雑な構成。
向拝に掲げられた扁額には「山不動」とあり、御詠歌らしきものが記されていました。
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【写真 上(左)】 勢至堂
【写真 下(右)】 前不動堂
勢至堂は「瀧泉寺勢至堂」として目黒区の有形文化財(建造物)に指定されています。
江戸時代中期の建築。瓦葺で一間の向拝を設けた整った意匠で、とくに絵様の一部は寛永中興期の瀧泉寺の面影を伝えるものとされます。
もとは前不動堂の手前にありましたが、昭和44年に現在地に移築されました。
青木昆陽(甘藷先生)碑は、当寺に青木昆陽の墓(国指定史跡)が
あることにちなむと思われ、毎年10月28日には先生の遺徳をしのんで甘藷祭りが催されています。
前不動堂は「滝泉寺前不動堂」として都の有形文化財(建造物)に指定されています。(→ 指定内容(都文化財情報DB))
江戸時代、将軍や大名の参拝持には庶民は本堂へは近づけず、その際の参詣者の便宜を図って建立したものとされます。
桁行三間梁間二間向拝一間、桟瓦葺の宝形造で、江戸時代中期の建築とされています。
堂内には木造不動明王三尊立像等を安置。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「前不動/左右に十二天の像を安置す」の記載があり、いまも十二天像が安置されているのかもしれません。
堂建立当時のものとされる扁額「前不動」は書家「佐玄龍書」の署名があり、附指定されています。
こちらは毎月28日の御縁日に内部公開とのこと。
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【写真 上(左)】 前不動堂扁額
【写真 下(右)】 前不動堂下の湧水龍口
前不動堂の下には、湧水を吐き出す龍口があります。
目黒台と羅漢寺川(現在は暗渠化)を境するこのあたりは崖線となり、いわゆる「ハケの湧水」ポイントとみられます。
実際、こちら(「東京湧水巡礼」様)には「水を通しにくい東京層の地層が擁壁や石垣の裏側で露出し、その上から湧水が流れ出していると思われる。」とあります。(ただし、同記事によると、現在はすこし離れた浅井戸から送水しているらしい。)
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「目黒不動尊(水垢離) / 東都名所 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
本堂への参道階段左横に獨鈷の瀧。
慈覚大師が長安青竜寺の清滝を想起され法具の獨鈷を投じるとそこに霊泉が湧出し、滝をなしたので「獨鈷の瀧」と号します。
いまでも銅製の竜口から滝が注ぎ、不動講の水垢離場となっています。
数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることがないそうです。
水垢離場上には石不動や講が奉安した倶利伽羅剣が奉られ、手前には水かけ不動明王が御座、垢離堂も配されて、不動霊場特有のパワスポ的雰囲気が感じられます。
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【写真 上(左)】 獨鈷の瀧と水垢離場
【写真 下(右)】 参道方向から獨鈷の瀧
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【写真 上(左)】 水かけ不動明王
【写真 下(右)】 水かけ不動明王の手水の龍
垢離堂の御本尊は青龍大権現で、5月の御縁日には青龍大権現大祭が営まれます。
青龍大権現は、法華経で説かれ仏法を守護するとされる八大竜王の一尊、娑伽羅(サーガラ)龍王の第三王女・善女(如)竜王と同一とされ、雨を司る尊格とされます。
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【写真 上(左)】 倶利伽羅剣
【写真 下(右)】 垢離堂
善女龍王は、弘法大師が京の神泉苑で請雨修法を施された際に出現された尊格とされ、真言宗醍醐派総本山醍醐寺の守護女神ともされます。(清瀧大権現と呼称されます)
もともと西安の青龍寺の鎮守とされ、弘法大師が御帰朝ののち、京・高雄山麓の清滝に勧請されたと伝わります。
醍醐寺を開かれた聖宝の時代、昌泰三年(900年)頃に醍醐寺に御降臨。以来、醍醐寺の守護神として篤く祀られています。
『呪術宗教の世界』(速水 侑著)によると、聖宝の法系は平安中期の名僧、仁海に受け継がれ、ことに請雨の修法に優れて雨僧正とも称されました
仁海は東密(真言密教)小野流の祖とされ、小野流は独自の秘法として「請雨修法」を伝えました。
現在でも清瀧権現は真言宗寺院、とくに大寺で祀られ、川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院は、いずれもお祀りされています。
台密(天台密教)でも八大竜王を祀る例があり、目黒不動尊のそばの臥龍山 安養院(寝釈迦尊)には木食円空作八大龍王像が収蔵されています。
また、山梨県忍野村の天台宗寺院、忍草山 東円寺では稀少な娑伽羅龍王の御朱印を授与されています。
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【写真 上(左)】 臥龍山 安養院の御朱印
【写真 下(右)】 忍草山 東円寺の娑伽羅龍王の御朱印
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「獨鈷の瀧/一年此滝水の涸たりしことありたる● 沙門某江島の弁天に祈請したてまつり再ひ元の如しとぞ故に今も年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむる」とあり、獨鈷の瀧は江島弁財天にゆかりがあったようです。
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【写真 上(左)】 大本堂への参道(男坂)
【写真 下(右)】 鳥居工事中の男坂
水垢離場よこから大本堂への参道階段がはじまります。参道階段が男坂、右手の坂が女坂です。
階段右手には家光公ゆかりの「鷹居の松」(跡)、女坂途中には神変大菩薩(役ノ行者/役小角)のお堂があります。
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【写真 上(左)】 女坂
【写真 下(右)】 神変大菩薩のお堂
堂内安置のお像は「銅造役の行者倚像」として目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されています。(→ 区資料)
寛政八年(1796年)、太田駿河守藤原正義の作とされる銅造の倚像で、頭巾をかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手に錫杖、左手に巻子を持って腰掛けられています。
均整のとれた体躯、精緻な表現、品格ある表情などを備え、江戸時代の銅造彫刻の中でも優品とされています。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「役小角/女坂の中程にあり銅像にして前鬼後鬼の像あり」とあります。
前鬼・後鬼とは、元は生駒山地に住んでいた夫婦の鬼で、役小角は彼らを不動明王の秘法で捕縛して従者とされました。
堂内、役ノ行者の背後に安置されている二体のお像は、前鬼・後鬼かと思われます。
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【写真 上(左)】 山王鳥居
【写真 下(右)】 鳥居の扁額
平成29年、男坂の参道途中に酉年本尊御開扉記念として石造の山王鳥居が建立されました。
現地掲示には「当山は往古より神仏習合の寺院でありました。江戸時代、天海大僧正が山王一実神道を創始され 当山にも山王鳥居が奉安。酉年復興いたしました。」とあります。
「護國院」の院号扁額が掲げられ、山王鳥居の合掌形と大本堂の千鳥破風が意匠的に呼応しています。
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【写真 上(左)】 狛犬
【写真 下(右)】 手水舎の龍
階段を登り切ると大きな空間が広がります。
手前の狛犬はなかなかインパクトのある表情をしています。
手前左手に手水舎。水盤の龍がオーラを放っています。
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【写真 上(左)】 大本堂
【写真 下(右)】 大本堂(斜めから)
正面の大本堂は石段の奥に朱塗りの堂々たる構え。
傾斜地ではないですが、舞台造(懸造)的な構成で、入母屋造本瓦葺正面千鳥破風とその先に設えた唐破風の下に三間の大がかりな向拝を張り出しています。
向拝水引虹梁は彩色で木鼻と中備えに蟇股。向拝中央に「目黒不動尊」の大提灯を掲げ、千鳥破風には猪ノ目懸魚を設えています。
慈覚大師の作と伝わる御本尊不動明王(目黒不動尊)が御座され、秘仏で十二年に一度、酉年のご開帳です。
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【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 意志不動尊
大本堂まわりには諸仏が御座します。
時計回りに辿ってみます。
大本堂向かって右手、玉垣に囲われて意志不動尊。
由緒は不明ですが、手前に眷属、制多迦童子と矜羯羅童子を配した石像の立像です。
そのお隣に微笑観世音菩薩。
穏やかな面差しの石造り立像の聖観世音菩薩です。
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【写真 上(左)】 微笑観世音菩薩
【写真 下(右)】 愛染明王
大本堂向かって左手には愛染明王。
八角形の石敷の結界中央に、端正なおすがたの愛染明王の坐像露仏が御座。
こちらでは、良縁成就、縁結びを願掛けします。
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【写真 上(左)】 子安延命地蔵尊
【写真 下(右)】 虚空蔵菩薩
大本堂右手には甘薯先生(青木昆陽)ゆかりと思われるサツマイモ畑があり、その前に子安延命地蔵尊。
左手に如意宝珠、右手に錫杖を持たれ、金色の輪光背を帯びて蓮華座に御座す坐像の金仏です。
サツマイモ畑の奥には虚空蔵菩薩。
頭上に宝冠を抱かれ蓮華座のうえに結跏趺坐される石仏で、あたらしいお像と思われます。
右手の石柱の上には牛の像が置かれています。
境内掲示の境内案内図には、諸仏諸堂に十二支が記されています。
大本堂には「うし、とら、うさぎ、たつ、へび、とり」、大本堂裏手の大日如来には「ひつじ、さる」、女坂下の観音堂には「ねずみ」、阿弥陀堂には「いぬ、いのしし」、勢至堂には「うま」。
このうち、こちらの虚空蔵菩薩に大本堂から「うし、とら」を分祀されたのでは?
なお、未確認ですが、この内容からすると大本堂に釈迦三尊(文殊菩薩/うさぎ、普賢菩薩/たつ、み(へび))が御座されているかもしれません。
子安延命地蔵尊の右には護衛不動尊。
石碑によると、開山一千二百年を記念して奉安された厄除けのお不動様で、儀軌に忠実なお像とみました。
お不動様に関することなので、少しく詳細に書いてみます。
『不動明王』(渡辺照宏著/朝日選書)によると、菅原道真の孫、淳祐が著した「不動尊道場観」のなかに不動尊の尊格や像容を記した「十九観」があり、うち第四~第十八の像容は次のとおりです。
この「十九観」は、のちの不動尊作像に大きな影響を与えたとみられています。
第四:童子形、第五:七莎髻(頭髪が七個の束になっていること)、第六:弁髪(左側に弁髪を垂らす)、第七:額の皺文、第八:一眼を閉じる(通常は左眼)、第九:下の犬歯が上唇を、上の犬歯が下唇を噛む、第十:その口を緘閉す、第十一:右手に剣を執る、第十二:左手に羂索を持つ、第十三:行人の残食を喫す、第十四:大盤石に座す、第十五:色醜くして青黒なり、第十六:奮迅忿怒す、第十七:遍身に迦楼羅炎、第十八:変じて倶利迦羅と成り
高々と迦楼羅焔を背負われ、盤石に御座すこの護衛不動尊は、「十九観」の特徴の多くを満たされています。
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【写真 上(左)】 護衛不動尊
【写真 下(右)】 鐘楼
その右手に鐘楼、その奥は鬱蒼と木々が茂る八大童子の山。
八大童子の山の手前を奥に昇ると瀧泉寺墓地で、甘薯先生(青木昆陽)の墓所があります。
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【写真 上(左)】 本堂裏手
【写真 下(右)】 大日如来
本堂裏手に回ると、覆屋の下に目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されている銅造大日如来坐像。(→ 区資料)
現地掲示には「不動明王本地佛」とあります。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「本地大日如来/本堂の後峙●る山の腰を切割く安置を俗す奥の院と称す」とあります。
覆屋の屋根には二十八宿図が掲げられています。
これは天球を二十八のエリア(星宿)に分割した図で、東方青龍、北方玄武、西方白虎、南方朱雀の各七宿から成り立ち、風水思想と関連をもつという説があります。
なお、目黒不動尊は江戸城をはさんで上野寛永寺と鬼門・裏鬼門ラインのほぼ直線上に当たることから、目黒不動尊を江戸城の裏鬼門の鎮めとみる説もあります。
蓮華座に結跏趺座される高さ385㎝のお像は、宝髪、頭部、体躯など十数の部分に分けて鋳造して組み合わる”吹き寄せ”の技法で制作されています。
体躯に比べて頭部が大きいのがこの技法の特徴で、この像も同様とされます。
台座の刻銘によると、天和三年(1683年)、鋳物師横山半右衛門尉正重による造立。
法界定印を結ばれているので胎蔵(界)大日如来とみられ、回りを四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が囲みます。
不動明王は大日如来の化身(教令輪身)とされますが、金剛界大日如来の化身とする説もあるようで、どうして胎蔵(界)大日如来が御座されるのかはわかりません。
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【写真 上(左)】 覆屋屋根の二十八宿図
【写真 下(右)】 大行事権現
さらにその奥、神明鳥居を前に地主神・大行事権現が御鎮座です。
大行事権現は、大津坂本の日吉神社の山王二十一社の一社(中七社)で、山王一実神道とふかいかかわりをもつとされます。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「大行事権現/此地の地主神なり祭神高祖皇産霊尊なり」とあります。
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【写真 上(左)】 本坊方面への案内
【写真 下(右)】 本坊への参道
男坂・女坂をくだって右手方向、阿弥陀堂への参道の左右に交通安全自動車祈祷殿、地蔵堂、精霊堂、観音堂、書院、阿弥陀堂(本坊・寺務所)と並びます。
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【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂扁額
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【写真 上(左)】 地蔵堂御内陣
【写真 下(右)】 精霊堂
地蔵堂は、入母屋造銅板葺平入りだと思いますが、すこし変わった感じの意匠です。
向拝柱はなく、見上げに「地蔵堂」の扁額を掲げています。
中央に地蔵菩薩坐像、向かって右に閻魔大王、左に奪衣婆が御座します。
毎月24日のお地蔵様ご縁日の午後の法要時には堂内に入れるようです。
瀧泉寺は江戸・東京四十四閻魔参り第23番の札所ですが、札所本尊はおそらくこちらの閻魔様とみられます。
地蔵堂と相対して交通安全祈願殿。御本尊は不動明王です。
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【写真 上(左)】 交通安全祈願殿
【写真 下(右)】 幟
地蔵堂の横、精霊堂前には書道の大家西川春洞の碑。
精霊堂には地蔵菩薩坐像、六地蔵、閻魔大王、奪衣婆などが御座し、いずれも石仏です。
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【写真 上(左)】 観音堂
【写真 下(右)】 観音堂扁額
観音堂は朱塗りの端正なお堂。
全容がよくわからないのですが、瓦葺で向拝側に千鳥破風を構えて流れ向拝。入母屋造妻入りかもしれません。
向拝柱や水引虹梁はなくシンプルな向拝で、見上げに「観音堂」の扁額。
向拝柱には観音霊場の札所板と御詠歌が掲げられています。
堂内には江戸三十三観音札所第33番結願の聖観世音菩薩のほか、千手観世音菩薩、十一面観世音菩薩も御座されるそうです。
第1番浅草浅草寺からはじまる江戸三十三観音は、府内各所を巡ってここ瀧泉寺で結願を迎えます。
現在の江戸三十三観音は、昭和51年(1976年)に改訂された「昭和新撰 江戸三十三観音霊場」ですが、江戸時代には享保二十年(1735年)版の『続江戸砂子』に収録された「江都三十三観音」(札所情報は→こちら(「日本を巡礼する」様))が、その前身として江戸庶民にさかんに廻られていたとみられます。
現在の江戸三十三観音とはことなる札所もありますが、発願の浅草寺と結願の瀧泉寺は変動なく、下町・浅草にはじまり、府内(都内)各所を巡って郊外の景勝地、目黒で結願するというコース設定に変わりはないということになります。
こちらの観音堂が江戸三十三観音札所第33番の結願所です。
東京三十三所観世音霊場第3番、江都三十三観音霊場第33番などの札所もおそらくこちらと思われます。
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【写真 上(左)】 阿弥陀堂(本坊)-1
【写真 下(右)】 阿弥陀堂(本坊)-2
阿弥陀如来が御座す阿弥陀堂(本坊)の右手に御朱印授与所(寺務所)があります。
複数のメジャー霊場の札所を兼ね、ご親切で手慣れたご対応です。
〔江戸五色不動尊の御朱印〕
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・御朱印尊格:不動明王 「関東最古不動霊場」の印判 直書(筆書)
〔関東三十六不動尊霊場第18番の御朱印/専用納経帳〕
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・御朱印尊格:不動明王 関東三十六不動尊霊場第18番印判 書置(筆書)
〔関東三十六不動尊霊場第18番の御朱印/御朱印帳〕
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・御朱印尊格:不動明王 関東三十六不動尊霊場第18番印判 直書(筆書)
〔江戸三十三観音札所第33番の御朱印〕(通常御朱印)
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・御朱印尊格:聖観世音 江戸三十三観音札所第33番印判 直書(筆書)
〔江戸三十三観音札所第33番の御朱印〕(結願御朱印)
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・御朱印尊格:聖観世音 江戸三十三観音札所第33番印判 結願印 直書(筆書)
〔山手七福神(恵比寿神)の御朱印〕
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・御朱印尊格:恵比寿神 山手七福神印判 直書(筆書)
(つづく) → こちら
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2023-11-18 UP
こちらからつづく
02.泰叡山 護國院 瀧泉寺〔目黒不動尊 / 江戸五色不動〕
目黒区下目黒3-20-26
天台宗
御本尊:不動明王(目黒不動尊)
札所:江戸五色不動(目黒不動尊)、関東三十六不動霊場第18番、江戸三十三観音札所第33番、山手七福神(恵比寿)、東京三十三所観世音霊場第3番、江都三十三観音霊場第33番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第22番、江戸・東京四十四閻魔参り第23番、弁財天百社参り第24番
境内掲示、公式Webの縁起、天台宗東京教区の公式Web、((一社)しながわ観光協会Web)、目黒区資料、『関東三十六不動霊場ガイドブック』などを参考に、縁起、変遷などをまとめてみます。
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「目黒不動之図 / 源氏絵」 国芳
(国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所」より利用規約にもとづき転載。)
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「目黒不動堂 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
大同三年(808年)、慈覚大師円仁が十五歳のとき、師の広智阿闍梨に伴われて故郷の下野国から比叡山の伝教大師最澄のもとに赴く途中、目黒の地に宿をとられました。
その夜のこと、夢の中に恐ろしい形相をした神人が現れ「我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思ふなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん」と告げられました。
慈覚大師がその神人の尊容を像に刻して安置されたのが開創と伝わります。
承和五年(838年)、渡唐された大師が長安・青竜寺の不動明王を拝したところ、件の夢中の神人がまさにこの不動尊であると察せられ、御帰朝後の天安二年(858年)、像を安置した目黒の地に堂宇を建立されました。
堂宇の建立にあたり大師が法具の獨鈷を投じると、そこに霊泉が湧出し滝を落としました。
この滝は「獨鈷の瀧」と名づけられ、大師自ら「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と棟牘に記されて、その由縁から「瀧泉寺」と号されたと伝わります。
貞観二年(860年)、清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り「泰叡山」と号します。
弘治三年(1557年)堂塔の修理造営成ったものの、元和元年(1615年)火災により多くの伽藍を失いました。
このとき御本尊の不動明王はみずから猛火をなぎ払い、獨鈷の瀧の上に飛来して火災の難を逃れたと伝わります。
江戸時代の寛永年間(1624-1645年)、三代将軍家光公がこの地で鷹狩りを催した際、愛鷹が行方知れずになりました。
家光公みずから不動尊の前に額づき祈願を籠めると、愛鷹は本堂前の松(鷹居の松)に戻ってきたため家光公は不動尊の霊威を尊信、帰依しました。
寛永七年(1630年)、上野護国院の開祖・生順大僧正が当寺を管掌、堂宇再建を手掛けた際に家光公は寄進援助し、五十三棟にも及ぶ大伽藍の復興を成しました。
その壮大な伽藍は「目黒御殿」と称されるほどに華麗を極めたと伝わります。
承応三年(1654年)には御水尾天皇より「泰叡山」の勅額を、元禄六年(1693年)には御西天皇御宸筆の「不動明王」を拝戴して、開山以来、実に三度の勅額の下賜を受けています。
以降、徳川将軍家の保護もあって隆盛を極め、関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて「日本三大不動」のひとつに数えられます。
目黒は江戸御府内からほどよい距離の風光明媚の地(夕陽の紅葉で名高い行人坂上)で、目黒不動尊をはじめ蛸薬師と呼ばれる成就院や、弁財天霊場として知られる蟠龍寺もあったため江戸庶民の格好の参詣先となり、門前も市をなしてにぎわいました。
”江戸の三富”(当山、湯島天神、谷中感応寺)と呼ばれた名物の富くじも、目黒繁栄の一因といわれます。
明治に入っても諸人の尊崇篤く、西郷隆盛や東郷元帥などが祈願に訪れています。
西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参。
東郷元師は日本海海戦の勝利を立願し見事に成就したため、庶民の目黒不動尊信仰はますます隆昌を極めたといわれます。
なお、落語噺として有名な「目黒のさんま」は当然目黒の名物ではなく、江戸期には「目黒のたけのこ」と賞され、とくにたけのこ飯が名物だったようです。
~ 筍や 目黒の美人 ありやなし ~ 正岡子規
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「同所の西百歩あまり不動堂 泰叡山 龍泉寺と号す天台宗●●東叡山に属せし 開山ハ慈覚大師 中興慈海僧正なりと 本堂不動明王 慈覚大師作脇士ハ八大童子なり 本殿額泰叡山御西院御筆 楼門額泰叡山御水尾帝御筆 鳥井(ママ)額泰叡山日光御門主明王院宮御筆 経蔵 一代蔵経を安置本尊に釋迦阿難迦葉の像を置 八幡宮 早尾権現/祭神猿田彦大神或ハ素戔嗚尊ともいふ祭礼ハ五月十五日なり此堂社何れも本堂の左に並ぶ 恵比寿大黒祠 鐘楼 水神社 愛染明王 大行事権現/此地の地主神なり祭神高祖皇産霊尊なり五月十五日祭礼あり 石不動尊/何れも本堂の右にあり 稲荷祠 地蔵尊/掌善掌悪の二童子を置 聖観音 開山堂 聖徳太子 天照太神宮 本地大日如来/本堂の後峙●る山の腰を切割く安置を俗す奥の院と称す 吉祥天女祠 天満宮 鬼子母神 十羅刹女祠 虚空蔵堂 遮軍神祠 何れも本堂の後に並び建つ 結神祠 役小角/女坂の中程にあり銅像にして前鬼後鬼の像あり三佛堂/弥陀薬師釋迦等の三尊を安す 子安明神/鬼子母神あり 疱瘡神 粟島明神 石地蔵尊 秋葉権現 六所明神 荒神宮 何れも二(ママ)王門入て右の方にあり 辨財天祠/江島弁天の模なり 地蔵堂/堂内閻王脱衣婆等の像を安せり 観音堂/中尊ハ聖観音廻●●西國坂東秩父等の札所百番の観音を安置せり 勢至堂 稲荷祠 前不動/左右に十二天の像を安置す 何れも楼門の左の方にあり 楼門/左右に金剛密迹二王の像を置裏に使者犬の像を置り 獨鈷の瀧/(中略) 一年此滝水の涸たりしことありたる● 沙門某江島の弁天に祈請したてまつり再ひ元の如しとぞ故に今も年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむる(中略) 鷹居の松/(中略) 」
明治23年刊の『東京名所図会』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「開山ハ慈覚大師なり 本尊不動明王ハ慈覚大師の作なり 本殿の額泰叡山は御西院天皇の御筆 楼門の額泰叡山ハ御水尾天皇の宸筆 鳥居の額泰叡山ハ日光御門主明王院宮の御筆なり 境内に神佛の堂社多くありて一々枚挙すべからぞ 獨鈷の瀧ハ常山の垢離場にして霊泉常に滔々と落下す 如何なる炎天干魃にも涸るヽ事なしと云ふ 往昔ハ三口に分れて湧出せしかど今ハニ流となれり 当寺ハ慈覚大師夢想に感得せし尊容を彫刻して露示の如く此地に安置せしなりとぞ 此地少しく都下を隔つと雖も諸人常に群参せり 殊に正五九の月にハ廿七廿八両日とも非常に賑へり 此門前五六町の間ハ左右酒店茶肆軒を連ねて参詣人の休憩所に充つ 殊に粟餅飴及び餅花等名物として之を商ふ家頗る多し 其繁昌推して知るべし」
参詣の土産として知られていたのが”粟餅”、”餅花”、”飴”でした。
「桐屋」の飴は人気だったらしく、『江戸名所図会』に「目黒飴」と題して挿絵が載せられています。
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「目黒不動餅花 / 江戸自慢三十六興(書画五十三次) 絵師:広重, 豊国」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
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「目黒飴 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
公式Webでは、江戸五色不動につき以下のとおりとりあげています。引用します。
「江戸五色不動は、江戸時代には五眼不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すものです。その由来については諸説ありますが、各位置は江戸城(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤)、甲州街道(白)、東海道(黒)といった江戸府内を中心とした五街道沿い(又は近く)にあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたといわれています。」
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最寄り駅は「目黒」駅か東急線「不動前」駅ですが、どちらからも微妙に距離があります。
名勝・行人坂の往年の情景をしのぶには、目黒駅から歩いた方がいいかもしれません。
目黒駅から目黒川に向けて行人坂をくだっていきます。
江戸時代、紅葉夕景の名所「夕日の岡」として広く知られた急坂です。
江戸名所図会. 七(国会図書館DC)には「明王院の後の方西に向へる岡といへり古へハ楓樹数株梢を交へ晩秋の頃ハ紅葉夕日に映し奇観なりしと知らされと今ハ楓樹少く只名のみを存せり」とあります。
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「夕日岡 行人坂 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
目黒の高台から西側に下るこの坂は富士眺望の名所でもあり、数々の浮世絵が遺されています。
現・ホリプロのビルのあたりに富士の眺望で名を馳せた「富士見茶屋」があり、錦絵にも遺されています。
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【写真 上(左)】 行人坂下り口
【写真 下(右)】 富士見茶屋跡地
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「行人坂 / 江戸名勝図会 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
※ 右手の冠木門が富士見茶屋
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「目黒行人阪之図 / 広重東都坂尽 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
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「目黒行人坂富士 / 江戸自慢三十六興 絵師:広重, 豊国」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
作家・杉本苑子先生の『東京の中の江戸名所図会』/文春文庫には、江戸時代のこのあたりの情景が叙情ゆたかに描写されています。引用します。
「もう、ここまでくると、いちめんの田園風景・・・・・・。春は梅が咲き桃が咲き、菜の花畑れんげ畑に野末がかすんで、ひばりの囀りが降るほどになるし、秋は百姓家の背戸に色づく柿の実、稲の垂れ穂に鳴子がひびいて、ごみごみした下町から抜け出してきた人々の耳目をたのしませてくれた。」
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【写真 上(左)】 行人坂
【写真 下(右)】 行人坂の案内板
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【写真 上(左)】 手前が目黒川架橋供養勢至菩薩、奥が大圓寺
【写真 下(右)】 大圓寺
坂の途中、左手に松林山 大圓寺。
出羽修験系の開創とされるこの天台宗寺院は、明和九年(1772年)の大火(行人坂火事)とかかわりを持ち、幕末に薩摩島津氏の菩提寺として再興されました。
山手七福神の大黒天で、数種の御朱印を授与されています。
さらに下ると雅叙園。
かつてここには松樹山 明王院という天台宗寺院がありました。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「坂の側にあり天台宗●●東叡山に属す 本尊阿弥陀如来脇士観音勢至を安置せり 開山を栄運法師といふ常念佛の道場●●頗る殊勝なり 毎月四日報恩念佛百万遍修行あり 此常念佛ハ西運といふ沙門の発願なりとぞ」
雅叙園内のお七の井戸あたりが明王院跡とされ、八百屋お七の恋人吉三郎が出家して入り百万遍修行を経て西運上人となった寺と伝わります。
八百屋お七は、浮世草子『好色五人女』(貞享三年(1686年)刊)、浄瑠璃、歌舞伎などで広くとりあげられて江戸庶民の知名度が高く、また弁財天百社参り第25番の札所でもあったので、江戸期には参詣者を集めたとみられます。
明和九年(1772年)、行人坂火事で焼失した大圓寺は嘉永元年(1848年)まで再建を許されなかったので、その間はとくに行人坂と明王院の結びつきが強まったかもしれません。
明王院は明治13年(1880年)頃廃され、大圓寺に統合されました。
雅叙園先の太鼓橋で目黒川を渡ります。
雁歯橋とも呼ばれたこの橋も名所で、『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「同所坂下の小川に架せ●/目黒川といへり 桂を用ひて両岸より石を畳の如くして橋とす故に横面より是を望めハ太鼓の胴に彷彿せり故(略)」と記されています。
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め(八百屋お七の恋人吉三郎が出家した西運上人とも)、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って宝暦十四年(1764年)から6年をかけて完成した江戸ではめずらしい太鼓状の石橋です。
初代の石橋は大正9年(1920年)の豪雨で崩壊し、当時の石材は大圓寺の境内に置かれています。
太鼓橋のシンボルツリーは椎の木だったようで、↓ の広重の「目黒太鼓橋夕日の岡」にも描かれ、目黒区の木に指定されています。
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「太鼓橋 / 江戸名所図会. 七」
(国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)
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「目黒太鼓橋夕日の岡 / 名所江戸百景 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
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【写真 上(左)】 行人坂上り口
【写真 下(右)】 太鼓橋
山手通りを越えると五百羅漢寺。羅漢会館の裏手が目黒不動尊への近道です。
五百羅漢寺でも数種の御朱印を授与されています。
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【写真 上(左)】 五百羅漢寺
【写真 下(右)】 参道入口
東急目黒線「不動前」駅からのアプローチでも、臥龍山 安養院や不老山 成就院(蛸薬師)などの御朱印授与寺があります。(安養院の現在の授与は不明)
こちらは商店街づたいで、門前街としての風情はこちらの方があると思います。
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それでは見どころ満載の山内に参ります。(→ 境内案内)
仁王門の門前に伏見稲荷社と芝居でおなじみの白井権八・小紫の比翼塚。
明暦元年(1655年)頃に生まれ波乱の生涯をおくった鳥取藩士平井(白井)権八は、歌舞伎『浮世柄比翼稲妻』、講談、浄瑠璃などでとりあげられ、新吉原の三浦屋の遊女・小紫との恋物語は、つとに知られています。
また、浮世絵見立て『役者見立 東海道五十三駅』(『役者東海道』)初版には「川崎駅 白井権八」(五代目岩井半四朗)が登場、こちらでも名を広めたとされます。
比翼塚とは相思相愛の男女を弔う塚で、こちらの比翼塚は白井権八・小紫の塚です。
目黒不動尊のそばに普化宗の東昌寺というお寺があり、権八は一時東昌寺に身を寄せたとされます。
東昌寺は『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「虚無僧寺」として記されていますが、明治初期に廃寺となり、比翼塚は東昌寺から当地に移されたそうです。
行人坂の明王院、太鼓橋、そして比翼塚など、歌舞伎、浄瑠璃、講談でなじみふかい人物ゆかりの名所があることも、目黒が行楽地として人気を集めた一因かもしれません。
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【写真 上(左)】 伏見稲荷社
【写真 下(右)】 比翼塚
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【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 仁王門と寺号標
仁王門の前に「目黒不動尊 瀧泉寺」の寺号標と一対の狛犬。
わたしのまわりにも、お寺と神社の区別がつかない人がけっこういたりします。
鳥居の有無、墓地の有無もありますが、やはり名称(●●寺、●●神社)で区別している人が多いようです。
●●寺、●●神社ならば問題ないですが、●●宮、●●尊となると?マークがついてくるようです。
こちらには鳥居も狛犬もあるし、「目黒不動尊」のみではお寺か神社かわからない人もいるのでは。
その点でこの「瀧泉寺」の寺号標は役立っているかもしれません。
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【写真 上(左)】 仁王門扁額
【写真 下(右)】 参道
仁王門は三間一戸、瓦葺八脚の楼門で、二層中央に「泰叡山」の扁額を掲げ、さすがに名刹の風格があります。
左右に阿吽の仁王尊像、階上には韋駄天が祀られているそうです。
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【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 山内
仁王門をくぐって右手に大ぶりな手水舎で、ここから山内が一望できます。
都内有数の名刹だけあって、さすがに広大な山内を構えます。
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【写真 上(左)】 弁天堂(三福神)入口
【写真 下(右)】 金明湧水
仁王門から左手時計まわりにいくと、朱塗りの明神鳥居。そのよこの手水は金明湧水です。
この金明湧水のまわりは色濃く赤茶け、おそらく鉄分を含む湧水だと思います。
鳥居の先の三福神にお参りしてから、金明湧水で”福泉洗い”をするそうです。
これは、いわゆる”銭洗い弁天”を彷彿とさせますが、この一画は『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)で「辨財天祠/江島弁天の模なり」と記され、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第22番、弁財天百社参り第24番の札所で、江戸期には弁天様の霊場としても知られたところではないでしょうか。
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【写真 上(左)】 弁天堂(三福神)
【写真 下(右)】 恵比寿様
太鼓橋を渡って右手に折れると、正面が弁天堂(三福神)、向かって右手に豊川稲荷、左手に福珠稲荷大明神が御鎮座。
弁天堂はおそらく切妻造桟瓦葺。立派な降り棟を備えた整った堂宇で、向拝、水引虹梁まわりに木鼻、斗栱、蟇股、二軒の垂木を配しています。向拝正面は桟唐戸(閉扉)、見上げに「三福神」の扁額、左右に花灯窓を配しています。
桟唐戸の前には恵比寿様が鎮座され、こちらが「山手七福神」の一尊かと思います。(御前立かもしれぬ)
堂内の須弥壇上に奉られる「木造弁才天及び十五童子像」は目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されています。
(→ 区資料)
制作年代は14世紀前半頃、南北朝時代と推測されています。
こちらは御開扉されることがあるようで、その際のWeb投稿写真によると、堂内には大黒天と七福神もお祀りされているようです。
単なる「弁天堂」ではないところが、瀧泉寺の信仰の複雑さを物語っています。
北向六地蔵尊、三界万霊塔と過ぎ、本堂の山裾に腰立不動尊、憂国の士北一輝の碑、作曲家本居長世の碑、勢至堂、青木昆陽(甘藷先生)碑、前不動堂、青龍大権現を祀る垢離堂と並び、本堂参道下左手が獨鈷の瀧です。
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【写真 上(左)】 北向六地蔵尊
【写真 下(右)】 腰立不動尊
北向六地蔵尊は、切妻屋根銅板葺の立派な覆屋の下に御座。石造りの端正な立像です。
この前を通って左に向かうと、瀧泉寺墓地に至ります。
掲示によると「地蔵菩薩の浄土『迦羅陀山』は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し我々のいる北に向かって救いに来てくださるので北を向いています。」とのこと。
腰立不動尊は、本堂の山裾にあり階段の参道です。
切妻造の堂宇の前に切妻の向拝を付設した複雑な構成。
向拝に掲げられた扁額には「山不動」とあり、御詠歌らしきものが記されていました。
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【写真 上(左)】 勢至堂
【写真 下(右)】 前不動堂
勢至堂は「瀧泉寺勢至堂」として目黒区の有形文化財(建造物)に指定されています。
江戸時代中期の建築。瓦葺で一間の向拝を設けた整った意匠で、とくに絵様の一部は寛永中興期の瀧泉寺の面影を伝えるものとされます。
もとは前不動堂の手前にありましたが、昭和44年に現在地に移築されました。
青木昆陽(甘藷先生)碑は、当寺に青木昆陽の墓(国指定史跡)が
あることにちなむと思われ、毎年10月28日には先生の遺徳をしのんで甘藷祭りが催されています。
前不動堂は「滝泉寺前不動堂」として都の有形文化財(建造物)に指定されています。(→ 指定内容(都文化財情報DB))
江戸時代、将軍や大名の参拝持には庶民は本堂へは近づけず、その際の参詣者の便宜を図って建立したものとされます。
桁行三間梁間二間向拝一間、桟瓦葺の宝形造で、江戸時代中期の建築とされています。
堂内には木造不動明王三尊立像等を安置。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「前不動/左右に十二天の像を安置す」の記載があり、いまも十二天像が安置されているのかもしれません。
堂建立当時のものとされる扁額「前不動」は書家「佐玄龍書」の署名があり、附指定されています。
こちらは毎月28日の御縁日に内部公開とのこと。
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【写真 上(左)】 前不動堂扁額
【写真 下(右)】 前不動堂下の湧水龍口
前不動堂の下には、湧水を吐き出す龍口があります。
目黒台と羅漢寺川(現在は暗渠化)を境するこのあたりは崖線となり、いわゆる「ハケの湧水」ポイントとみられます。
実際、こちら(「東京湧水巡礼」様)には「水を通しにくい東京層の地層が擁壁や石垣の裏側で露出し、その上から湧水が流れ出していると思われる。」とあります。(ただし、同記事によると、現在はすこし離れた浅井戸から送水しているらしい。)
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「目黒不動尊(水垢離) / 東都名所 絵師:広重」
(錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
本堂への参道階段左横に獨鈷の瀧。
慈覚大師が長安青竜寺の清滝を想起され法具の獨鈷を投じるとそこに霊泉が湧出し、滝をなしたので「獨鈷の瀧」と号します。
いまでも銅製の竜口から滝が注ぎ、不動講の水垢離場となっています。
数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることがないそうです。
水垢離場上には石不動や講が奉安した倶利伽羅剣が奉られ、手前には水かけ不動明王が御座、垢離堂も配されて、不動霊場特有のパワスポ的雰囲気が感じられます。
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【写真 上(左)】 獨鈷の瀧と水垢離場
【写真 下(右)】 参道方向から獨鈷の瀧
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【写真 上(左)】 水かけ不動明王
【写真 下(右)】 水かけ不動明王の手水の龍
垢離堂の御本尊は青龍大権現で、5月の御縁日には青龍大権現大祭が営まれます。
青龍大権現は、法華経で説かれ仏法を守護するとされる八大竜王の一尊、娑伽羅(サーガラ)龍王の第三王女・善女(如)竜王と同一とされ、雨を司る尊格とされます。
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【写真 上(左)】 倶利伽羅剣
【写真 下(右)】 垢離堂
善女龍王は、弘法大師が京の神泉苑で請雨修法を施された際に出現された尊格とされ、真言宗醍醐派総本山醍醐寺の守護女神ともされます。(清瀧大権現と呼称されます)
もともと西安の青龍寺の鎮守とされ、弘法大師が御帰朝ののち、京・高雄山麓の清滝に勧請されたと伝わります。
醍醐寺を開かれた聖宝の時代、昌泰三年(900年)頃に醍醐寺に御降臨。以来、醍醐寺の守護神として篤く祀られています。
『呪術宗教の世界』(速水 侑著)によると、聖宝の法系は平安中期の名僧、仁海に受け継がれ、ことに請雨の修法に優れて雨僧正とも称されました
仁海は東密(真言密教)小野流の祖とされ、小野流は独自の秘法として「請雨修法」を伝えました。
現在でも清瀧権現は真言宗寺院、とくに大寺で祀られ、川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院は、いずれもお祀りされています。
台密(天台密教)でも八大竜王を祀る例があり、目黒不動尊のそばの臥龍山 安養院(寝釈迦尊)には木食円空作八大龍王像が収蔵されています。
また、山梨県忍野村の天台宗寺院、忍草山 東円寺では稀少な娑伽羅龍王の御朱印を授与されています。
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【写真 上(左)】 臥龍山 安養院の御朱印
【写真 下(右)】 忍草山 東円寺の娑伽羅龍王の御朱印
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「獨鈷の瀧/一年此滝水の涸たりしことありたる● 沙門某江島の弁天に祈請したてまつり再ひ元の如しとぞ故に今も年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむる」とあり、獨鈷の瀧は江島弁財天にゆかりがあったようです。
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【写真 上(左)】 大本堂への参道(男坂)
【写真 下(右)】 鳥居工事中の男坂
水垢離場よこから大本堂への参道階段がはじまります。参道階段が男坂、右手の坂が女坂です。
階段右手には家光公ゆかりの「鷹居の松」(跡)、女坂途中には神変大菩薩(役ノ行者/役小角)のお堂があります。
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【写真 上(左)】 女坂
【写真 下(右)】 神変大菩薩のお堂
堂内安置のお像は「銅造役の行者倚像」として目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されています。(→ 区資料)
寛政八年(1796年)、太田駿河守藤原正義の作とされる銅造の倚像で、頭巾をかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手に錫杖、左手に巻子を持って腰掛けられています。
均整のとれた体躯、精緻な表現、品格ある表情などを備え、江戸時代の銅造彫刻の中でも優品とされています。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「役小角/女坂の中程にあり銅像にして前鬼後鬼の像あり」とあります。
前鬼・後鬼とは、元は生駒山地に住んでいた夫婦の鬼で、役小角は彼らを不動明王の秘法で捕縛して従者とされました。
堂内、役ノ行者の背後に安置されている二体のお像は、前鬼・後鬼かと思われます。
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【写真 上(左)】 山王鳥居
【写真 下(右)】 鳥居の扁額
平成29年、男坂の参道途中に酉年本尊御開扉記念として石造の山王鳥居が建立されました。
現地掲示には「当山は往古より神仏習合の寺院でありました。江戸時代、天海大僧正が山王一実神道を創始され 当山にも山王鳥居が奉安。酉年復興いたしました。」とあります。
「護國院」の院号扁額が掲げられ、山王鳥居の合掌形と大本堂の千鳥破風が意匠的に呼応しています。
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【写真 上(左)】 狛犬
【写真 下(右)】 手水舎の龍
階段を登り切ると大きな空間が広がります。
手前の狛犬はなかなかインパクトのある表情をしています。
手前左手に手水舎。水盤の龍がオーラを放っています。
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【写真 上(左)】 大本堂
【写真 下(右)】 大本堂(斜めから)
正面の大本堂は石段の奥に朱塗りの堂々たる構え。
傾斜地ではないですが、舞台造(懸造)的な構成で、入母屋造本瓦葺正面千鳥破風とその先に設えた唐破風の下に三間の大がかりな向拝を張り出しています。
向拝水引虹梁は彩色で木鼻と中備えに蟇股。向拝中央に「目黒不動尊」の大提灯を掲げ、千鳥破風には猪ノ目懸魚を設えています。
慈覚大師の作と伝わる御本尊不動明王(目黒不動尊)が御座され、秘仏で十二年に一度、酉年のご開帳です。
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【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 意志不動尊
大本堂まわりには諸仏が御座します。
時計回りに辿ってみます。
大本堂向かって右手、玉垣に囲われて意志不動尊。
由緒は不明ですが、手前に眷属、制多迦童子と矜羯羅童子を配した石像の立像です。
そのお隣に微笑観世音菩薩。
穏やかな面差しの石造り立像の聖観世音菩薩です。
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【写真 上(左)】 微笑観世音菩薩
【写真 下(右)】 愛染明王
大本堂向かって左手には愛染明王。
八角形の石敷の結界中央に、端正なおすがたの愛染明王の坐像露仏が御座。
こちらでは、良縁成就、縁結びを願掛けします。
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【写真 上(左)】 子安延命地蔵尊
【写真 下(右)】 虚空蔵菩薩
大本堂右手には甘薯先生(青木昆陽)ゆかりと思われるサツマイモ畑があり、その前に子安延命地蔵尊。
左手に如意宝珠、右手に錫杖を持たれ、金色の輪光背を帯びて蓮華座に御座す坐像の金仏です。
サツマイモ畑の奥には虚空蔵菩薩。
頭上に宝冠を抱かれ蓮華座のうえに結跏趺坐される石仏で、あたらしいお像と思われます。
右手の石柱の上には牛の像が置かれています。
境内掲示の境内案内図には、諸仏諸堂に十二支が記されています。
大本堂には「うし、とら、うさぎ、たつ、へび、とり」、大本堂裏手の大日如来には「ひつじ、さる」、女坂下の観音堂には「ねずみ」、阿弥陀堂には「いぬ、いのしし」、勢至堂には「うま」。
このうち、こちらの虚空蔵菩薩に大本堂から「うし、とら」を分祀されたのでは?
なお、未確認ですが、この内容からすると大本堂に釈迦三尊(文殊菩薩/うさぎ、普賢菩薩/たつ、み(へび))が御座されているかもしれません。
子安延命地蔵尊の右には護衛不動尊。
石碑によると、開山一千二百年を記念して奉安された厄除けのお不動様で、儀軌に忠実なお像とみました。
お不動様に関することなので、少しく詳細に書いてみます。
『不動明王』(渡辺照宏著/朝日選書)によると、菅原道真の孫、淳祐が著した「不動尊道場観」のなかに不動尊の尊格や像容を記した「十九観」があり、うち第四~第十八の像容は次のとおりです。
この「十九観」は、のちの不動尊作像に大きな影響を与えたとみられています。
第四:童子形、第五:七莎髻(頭髪が七個の束になっていること)、第六:弁髪(左側に弁髪を垂らす)、第七:額の皺文、第八:一眼を閉じる(通常は左眼)、第九:下の犬歯が上唇を、上の犬歯が下唇を噛む、第十:その口を緘閉す、第十一:右手に剣を執る、第十二:左手に羂索を持つ、第十三:行人の残食を喫す、第十四:大盤石に座す、第十五:色醜くして青黒なり、第十六:奮迅忿怒す、第十七:遍身に迦楼羅炎、第十八:変じて倶利迦羅と成り
高々と迦楼羅焔を背負われ、盤石に御座すこの護衛不動尊は、「十九観」の特徴の多くを満たされています。
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【写真 上(左)】 護衛不動尊
【写真 下(右)】 鐘楼
その右手に鐘楼、その奥は鬱蒼と木々が茂る八大童子の山。
八大童子の山の手前を奥に昇ると瀧泉寺墓地で、甘薯先生(青木昆陽)の墓所があります。
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【写真 上(左)】 本堂裏手
【写真 下(右)】 大日如来
本堂裏手に回ると、覆屋の下に目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されている銅造大日如来坐像。(→ 区資料)
現地掲示には「不動明王本地佛」とあります。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「本地大日如来/本堂の後峙●る山の腰を切割く安置を俗す奥の院と称す」とあります。
覆屋の屋根には二十八宿図が掲げられています。
これは天球を二十八のエリア(星宿)に分割した図で、東方青龍、北方玄武、西方白虎、南方朱雀の各七宿から成り立ち、風水思想と関連をもつという説があります。
なお、目黒不動尊は江戸城をはさんで上野寛永寺と鬼門・裏鬼門ラインのほぼ直線上に当たることから、目黒不動尊を江戸城の裏鬼門の鎮めとみる説もあります。
蓮華座に結跏趺座される高さ385㎝のお像は、宝髪、頭部、体躯など十数の部分に分けて鋳造して組み合わる”吹き寄せ”の技法で制作されています。
体躯に比べて頭部が大きいのがこの技法の特徴で、この像も同様とされます。
台座の刻銘によると、天和三年(1683年)、鋳物師横山半右衛門尉正重による造立。
法界定印を結ばれているので胎蔵(界)大日如来とみられ、回りを四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が囲みます。
不動明王は大日如来の化身(教令輪身)とされますが、金剛界大日如来の化身とする説もあるようで、どうして胎蔵(界)大日如来が御座されるのかはわかりません。
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【写真 上(左)】 覆屋屋根の二十八宿図
【写真 下(右)】 大行事権現
さらにその奥、神明鳥居を前に地主神・大行事権現が御鎮座です。
大行事権現は、大津坂本の日吉神社の山王二十一社の一社(中七社)で、山王一実神道とふかいかかわりをもつとされます。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「大行事権現/此地の地主神なり祭神高祖皇産霊尊なり」とあります。
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【写真 上(左)】 本坊方面への案内
【写真 下(右)】 本坊への参道
男坂・女坂をくだって右手方向、阿弥陀堂への参道の左右に交通安全自動車祈祷殿、地蔵堂、精霊堂、観音堂、書院、阿弥陀堂(本坊・寺務所)と並びます。
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【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂扁額
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【写真 上(左)】 地蔵堂御内陣
【写真 下(右)】 精霊堂
地蔵堂は、入母屋造銅板葺平入りだと思いますが、すこし変わった感じの意匠です。
向拝柱はなく、見上げに「地蔵堂」の扁額を掲げています。
中央に地蔵菩薩坐像、向かって右に閻魔大王、左に奪衣婆が御座します。
毎月24日のお地蔵様ご縁日の午後の法要時には堂内に入れるようです。
瀧泉寺は江戸・東京四十四閻魔参り第23番の札所ですが、札所本尊はおそらくこちらの閻魔様とみられます。
地蔵堂と相対して交通安全祈願殿。御本尊は不動明王です。
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【写真 上(左)】 交通安全祈願殿
【写真 下(右)】 幟
地蔵堂の横、精霊堂前には書道の大家西川春洞の碑。
精霊堂には地蔵菩薩坐像、六地蔵、閻魔大王、奪衣婆などが御座し、いずれも石仏です。
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【写真 上(左)】 観音堂
【写真 下(右)】 観音堂扁額
観音堂は朱塗りの端正なお堂。
全容がよくわからないのですが、瓦葺で向拝側に千鳥破風を構えて流れ向拝。入母屋造妻入りかもしれません。
向拝柱や水引虹梁はなくシンプルな向拝で、見上げに「観音堂」の扁額。
向拝柱には観音霊場の札所板と御詠歌が掲げられています。
堂内には江戸三十三観音札所第33番結願の聖観世音菩薩のほか、千手観世音菩薩、十一面観世音菩薩も御座されるそうです。
第1番浅草浅草寺からはじまる江戸三十三観音は、府内各所を巡ってここ瀧泉寺で結願を迎えます。
現在の江戸三十三観音は、昭和51年(1976年)に改訂された「昭和新撰 江戸三十三観音霊場」ですが、江戸時代には享保二十年(1735年)版の『続江戸砂子』に収録された「江都三十三観音」(札所情報は→こちら(「日本を巡礼する」様))が、その前身として江戸庶民にさかんに廻られていたとみられます。
現在の江戸三十三観音とはことなる札所もありますが、発願の浅草寺と結願の瀧泉寺は変動なく、下町・浅草にはじまり、府内(都内)各所を巡って郊外の景勝地、目黒で結願するというコース設定に変わりはないということになります。
こちらの観音堂が江戸三十三観音札所第33番の結願所です。
東京三十三所観世音霊場第3番、江都三十三観音霊場第33番などの札所もおそらくこちらと思われます。
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【写真 上(左)】 阿弥陀堂(本坊)-1
【写真 下(右)】 阿弥陀堂(本坊)-2
阿弥陀如来が御座す阿弥陀堂(本坊)の右手に御朱印授与所(寺務所)があります。
複数のメジャー霊場の札所を兼ね、ご親切で手慣れたご対応です。
〔江戸五色不動尊の御朱印〕
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・御朱印尊格:不動明王 「関東最古不動霊場」の印判 直書(筆書)
〔関東三十六不動尊霊場第18番の御朱印/専用納経帳〕
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・御朱印尊格:不動明王 関東三十六不動尊霊場第18番印判 書置(筆書)
〔関東三十六不動尊霊場第18番の御朱印/御朱印帳〕
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・御朱印尊格:不動明王 関東三十六不動尊霊場第18番印判 直書(筆書)
〔江戸三十三観音札所第33番の御朱印〕(通常御朱印)
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・御朱印尊格:聖観世音 江戸三十三観音札所第33番印判 直書(筆書)
〔江戸三十三観音札所第33番の御朱印〕(結願御朱印)
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・御朱印尊格:聖観世音 江戸三十三観音札所第33番印判 結願印 直書(筆書)
〔山手七福神(恵比寿神)の御朱印〕
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・御朱印尊格:恵比寿神 山手七福神印判 直書(筆書)
(つづく) → こちら
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