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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18
Vol.-17からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第53番 本覚山 寶光寺 自性院
(じしょういん)
公式Web
台東区谷中6-2-8
新義真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第53番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第10番、弘法大師二十一ヶ寺第10番
第53番は「谷中愛染堂」とも呼ばれる谷中の自性院です。
第53番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに自性院で、第53番札所は開創当初から谷中の自性院であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
自性院は、慶長十六年(1611年)、道意上人により江戸神田北寺町(現・千代田区神田錦町)に開創、慶安元年(1648年)幕府用地となったため、谷中の現在地を賜り移転と伝わります。
中興開山は第9世貫海上人。
元文年間(1736-1741年)上人が境内の楠を切り彫刻された像高1メートルの像内には、上人が高野山参詣のとき奥之院路上で拾われた小さな愛染明王が納められているといいます。(公式Webによると、「近年修理をしたところ像内より胎内仏を確認」とのこと。)
当山は愛染堂安置の愛染明王像で知られ、文化文政の頃(1804-1830年)になると、その名は近在まで広がり「愛染寺」と呼ばれて親しまれたそうです。
愛染明王はとくに縁結び、家庭円満のご利益で信仰されます。
昭和12年(1937年)1月から翌年5月にかけ「婦人倶楽部」に連載された、文豪・川口松太郎の『愛染かつら』は、当山奉安の愛染明王の縁結びのご利益と本堂前のかつらの古木をモチーフとして書かれた作品といいます。(作品中では「永法寺」として描かれる。)
主人公ふたりは当山の愛染堂前のかつらの木に手をふれ、愛染明王に愛を誓約しました。恋人同士がこうして誓うと、将来かならず結ばれるという筋書きで、「愛染かつら」は昭和13年(1938年)松竹映画として、上原謙と田中絹代が共演して大ヒットとなりました。
また、映画の主題歌『旅の夜風』(昭和13年)を歌った霧島 昇と松原 操(ミス・コロムビア)が共演をきっかけに結ばれるというエピソードもあいまって、当山の愛染明王への参詣者は急増したといいます。
いまは谷中の奥まった一画で、御府内霊場巡拝者を迎える静かな寺院となっています。
当山は「弘法大師二十一ヶ寺」第10番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。
これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。
二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。
「弘法大師二十一ヶ寺」はお大師さまのご縁日二十一日に因んでの開創なので合点がいきますが、「弘法大師 御府内二十一ヶ所」についてはナゾが残ります。
「弘法大師二十一ヶ寺」はなにかのWeb資料から札所情報を入手しましたが、いま検索してもヒットしません。ご参考までにリストします。
【弘法大師二十一ヶ寺】
1番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番 宝塔山 多寶院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番 五剣山 普門寺 大乗院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番 清光院 台東区下谷(廃寺)
5番 恵日山 延命寺 地蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番 阿遮山 円満寺 不動院 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番 峯松山 遮那院 仙蔵寺 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番 高野山 金剛閣 大徳院 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番 青林山 最勝寺 龍福院 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6
このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十三番
谷中寺町
本覺山 寶光寺 自性院
本所弥勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.99』
本所彌勒寺末
谷中不唱小名
本覺山寶光寺自性院
新義真言宗
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
慶長十六年(1611年)二月 神田北寺町ニ而拝領仕候処 其後慶安元年(1648年) 御用地ニ奉差上、於当所代地拝領仕候
開山 道意上人
本堂
本尊 金胎両部大日如来木像坐像 弘法大師木像 興教大師木像 不動尊木像 薬師如来木立像
宝篋印塔
地蔵堂 地蔵尊石像
中興開山 貫海上人
愛染堂 境内にあり 貫海上人の建立
愛染堂ハ今本堂と●●り 昔ハ別に本堂ありしと云
■ 『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
自性院(谷中上三崎南町六番地)
本所彌勒寺末、本覺山寶光寺と号す。本尊金剛界大日如来、胎蔵界大日如来。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧道意。慶安元年(1648年)同所幕府の用地となり、現地に替地を給せられて移転した。
「自性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋国立国会図書館DC(保護期間満了)
「自證寺(自性院)」/原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「自證寺」と記されています。
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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 愛染明王安置碑
谷中六丁目のこのあたりは、ゆったりした区画の寺町で、落ち着いて参拝ができます。
路地に面した山内入口には愛染明王安置碑と『愛染かつらゆかりの地』の説明板。
左右の門柱は、それぞれ山号・寺号標と院号標となっています。
【写真 上(左)】 山号・寺号標
【写真 下(右)】 院号標
よく整備された山内。本堂前の大木が桂の木かどうかはうかつにも確認し忘れました。
参道が本堂前で右に折れる曲がり参道で、曲がった正面が本堂。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
入母屋造本瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を備えた端正な本堂です。
向拝硝子格子扉のうえに「愛染寺」の扁額。
通称が扁額となるのはめずらしいと思います。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 慈母観世音菩薩
御朱印は本堂向かって左手の庫裡で拝受しましたが、現況は専用納経帳のみへの授与かもしれません。(直近の状況は未確認)
また、こちらは16:00に閉門となるので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十三番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第54番 東豊山 浄瀧院 新長谷寺
(しんはせでら)
豊島区高田2-12-39
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:
〔新長谷寺〕
江戸八十八ヶ所霊場第54番、江戸五色不動(目白不動尊)、関東三十六不動霊場第14番、東京三十三観音霊場第23番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第16番
〔金乗院〕
江戸八十八ヶ所霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番、山の手三十三観音霊場第9番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第14番
司元別当:此花咲耶姫社など
授与所:庫裡
第38番札所の金乗院は、第54番札所の目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)を合寺したので、現在、金乗院が第38番、第54番のふたつの札所の御朱印を授与されています。
第38番札所金乗院の記事で第54番札所目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)もとりあげたため、第54番ではこの記事を再掲します。
(なお、本記事は「江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 3.目白不動尊」から転載・追記したものです。)
第38番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに金乗院なので、御府内霊場開創時から一貫して下高田砂り場の金乗院であったとみられます。
下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。
金乗院は天正年間(1573-1592年)、開山永順が御本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を建立したのが草創といいます。
当初は蓮花山 金乗院と号し中野寶仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山 金乗院 慈眼寺と号を改め、音羽護国寺の末寺となりました。
御本尊は正観世音菩薩(伝・眦首羯摩作、運慶の作とも)。
山内に荒神を合殿する観音堂、御嶽社、辨天社、三峯社などを置き、江戸時代には旧砂利場村の此花咲耶姫社をはじめ社地三、四ヶ所の別当でしたが、昭和20年4月の戦災で本堂などの伽藍、水戸光圀公揮毫とされる此花咲耶姫の額などの宝物を焼失しました。
戦災で全焼した関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)を合併し、新長谷寺の札所も金乗院に移動しています。
明治初期の神仏分離を乗り切ったふたつの札所のうち一方が戦災で全焼して、一方に合寺されたという比較的めずらしい例です。
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第54番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに新長谷寺(目白不動尊)なので、御府内霊場開創時から一貫して関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)であったとみられます。
下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。
目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)は、元和四年(1618年)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(現・文京区関口、金乗院から東に約1㎞)にありました。
『江戸切絵図(小日向絵図)』をみると、江戸川橋から目白台にのぼる目白坂沿い北側に永泉寺、養国寺、八幡宮(正八幡神社)と並び、その南側神田川寄りに目白不動尊があったことがわかります。
目白不動堂奉安の不動尊は高さ八寸、「断臂不動明王」といい、弘法大師の御作と伝わります。
縁起によると、弘法大師が唐より御帰朝の後、出羽羽黒山に参籠されたとき大日如来が現れてたちまち不動明王のお姿に変じました。
大師に告げるには「此の地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火をあたうべし」と。
不動尊は利剣をもってみずから左の御臂を切られると、霊火が盛んに燃え出でて仏身に満ちあふれました。
大師はこの御影を二体謹刻され、一体は出羽国の荒沢に安置され、もう一体は大師みずから護持されたと伝わります。
後年、野州足利の沙門某が大師護持の不動尊を奉持していましたが、武蔵国関口の松村氏が霊夢を得て足利よりお遷しし、領主の渡辺岩見守より関口台の一画に土地の寄進を受けて一宇を建立したのが本寺の濫觴(らんしょう/はじまりのこと)とされます。
元和四年(1618年)、大和長谷寺小池坊秀算僧正が中興、徳川2代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立。
大和長谷寺から御本尊と同木同作の十一面観世音菩薩像を御遷ししてその直末となり、東叡山 浄滝院 新長谷寺と号しました。
寛永年間(1624-1644年)、3代将軍家光公は当山の断臂不動明王に「目白」の号を贈り、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、また、江戸三不動の代一位として名を高め、人々の篤い信仰を受けました。
ことに護身、厄除け眼病治癒の不動尊として霊験あらたかとされます。
元禄年間(1688-1704年)には、5代将軍綱吉公とその母桂昌院が深く帰依してさらに伽藍を整え、寺容は壮麗を極めたと伝わります。
境内は堰口の流れを見下ろす高台の景勝地で、付近には茶肆、割烹などの店が出て、ことに月雪景の名所であったようです。
その佳景は、『東京名所四十八景 関口目しろ不動』 (慶應義塾大学メディアセンターDC)からも偲ぶことができます。
昭和20年5月の戦災で焼失したため金乗院に合併、御本尊の目白不動明王像は関口から金乗院に遷られました。
ふたつの名刹が合併した金乗院は今日も複数のメジャー霊場の札所であり、多くの参拝客を集めています。
また、当寺住職の小野塚幾澄大僧正は、平成20年から平成24年まで真言宗豊山派管長・長谷寺化主に就任されています。
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【史料】
【金乗院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十八番
砂り場
神霊山 金乗院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:千手観音 興教大師 弘法大師
■『新編武蔵風土記稿 巻之12 豊島郡之4』(国立国会図書館)
(下高田村)金乗院
新義真言宗多磨郡中野村寶仙寺末、神靈山観音院ト號ス 本尊正観音長一寸八分眦首羯摩作 開山永順文禄三年(1594念)六月四日寂 御嶽社 辨天社 三峯社 観音堂/荒神ヲ合殿トス 観音ハ木ノ立像長三尺運慶ノ作ト云
「金乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「宿坂関旧址 金乗院 観音堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
【新長谷寺関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十四番
関口駒井町
東豊山 海瀧院 新長谷寺
紀州初瀬小池坊末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社目白不動明王 弘法大師
■『江戸名所図会. 十二』(国立国会図書館)
目白不動堂 同所東の方にありて堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と号す
長谷小池坊の宿寺とす
本尊不動明王の霊像は長八寸弘法大師の作 総門の額東豊山の三大字ハ南岳悦山の筆
縁起云弘法大師唐より帰朝の後 羽州湯殿山に参籠ありし時 大日如来忽然と不動明王の姿に変現し滝の下に現ハれ●● 大師に告て云く此地ハ諸佛内證秘密の浄土なれハ有為の穢土をきらえり 故に凡夫登山することかたし 今汝に無漏の上火をあたふべしと宣ひ持ちし●●●の利劍をもって左の御臂を切●●ハ、霊火盛に燃出でて佛身に充てり 依て大使面前に出現の像二躯を模刻し一躰ハ同國荒澤に安置し 一躰ハ大師自ら護持なしたまふ
その後野州足利に住せる沙門某之を感得し●奉持せしに一年 霊感あるを以て此地の住人松村氏某に●かりつひに一宇を開きて此本尊を移し安置なし奉ると
当寺元和四年和州長谷小池坊秀算僧正中興ありし頃 大将軍台徳公の厳命により堂塔坊舎御建立あり
また和州長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像をうつし新長谷寺と改む
大将軍大猷公目白の号を賜ひ 元禄の始にハ桂昌一位尼公御帰依浅からす諸堂修理を加へたまひ丈余●地蔵尊等を安置なさしめられたり
此地麓●●堰口の流を帯ひ 水流そうそうとして日夜不絶 早稲田の村落高田の森林を望む風光の地なり 境内貸食亭多く何れも涯に臨めり
また、『寺社書上(御府内備考). [61] 関口寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社書上P.134』
新義真言宗
和州長谷小池坊末
目白不動尊別当
東豊山 新長谷寺 海瀧院
本堂
本尊不動尊 弘法大師御作 秘佛
開帳佛不動 木立像
前立不動 木座像 四大明王ニ童附各立像
不動堂本殿 桂昌院御建立別堂
地蔵尊木立像
不動木立像 良弁僧都作
聖徳大師木立像
七曜佛木立像 運慶作
庚申佛木立像
疱瘡神木立像
愛染明王木像
大日如来木像 聖徳太子作
毘沙門木像
弁財天木像 竹生嶋写し
観音堂
本尊十一面木立像 行基菩薩作 開山秀算僧正勧請
前立観音木立像
与森天神木座像
興教大師木像
弘法大師木像 伊豫國延命寺写しニテ五十四番札所
開山秀算僧正木像
子安地蔵尊金立像
如意輪観音木像
弥陀木座像
聖天金像
末社
稲荷社、秋葉社、人丸社
唐金地蔵尊 濡佛
■『東京名所図会』(国立国会図書館)
目白不動堂は同所東の方にあり堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と號す 本尊不動明王は弘法大師の作なり 当寺は元和年間(1615-1624年)和州長谷の小池坊秀算僧正中興ありしより将軍家の厳命にて堂塔伽藍建立あり 後ち桂昌院尼公諸堂に修理を加えられ頗る荘厳を極めたり 境内眺望佳絶にして茶肆割烹店等多し 冬月雪景最も宜しと云ふ
「新長谷寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
「目白不動堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』小日向絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅か都電荒川線「学習院下」駅ですが、道行きの風情は「雑司ヶ谷」駅ルートの方があると思うので、こちらをご紹介。
メトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅3番出口から、目白通りを渡って宿坂通りに入ります。
目白通りは目白台の台地上を走り、ここから南側、神田川にかけては下り勾配となります。
宿坂(しゅくざか)もかなりの急坂ですが、この一本西側の「のぞき坂」は別名を「胸突(むなつき)坂」といい、「東京一急な坂」として知られています。
『江戸名所図会. 十二』(国会図書館DC)には以下のとおり「宿坂」と「金乗院」が記されています。
「宿坂関之旧跡 同北の方金乗院といへる密寺の寺前を四谷町の方へ上る坂口をいふ 同じ寺の裏門の辺にさらちの平地あり(中略)昔の奥州街道●●其頃関門のありて跡ありといへり」
現地掲示によると、この辺りは中世に「宿坂の宿」と呼ばれた関所があり、「立丁場」と呼ばれた金乗院裏門辺の平地が関所跡との伝承があります。
宿坂は「江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話」が伝わっているそうです。
【写真 上(左)】 宿坂
【写真 下(右)】 山門
宿坂をほぼ下りきった右手が金乗院の山門です。
二軒の垂木を備えた銅板葺のどっしりとした二脚門で、「神霊山」の山号扁額を掲げています。
右の門柱には、関東三十六不動霊場、左には江戸三十三観音札所の札所板。
【写真 上(左)】 関東三十六不動霊場の札所板
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の札所板
約200年前の建立ですが昭和20年4月の戦災で屋根を焼失、昭和63年に檀徒の寄進により復元されています。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門前の不動尊
山門周辺に御府内霊場第38番および第54番の札所標、「目白」と刻まれた台座の上に石造坐像のお不動さま、江戸八十八ヶ所霊場第38番の札所標、「東豊山 新長谷寺」の寺号標などが建ち並び、当寺の歴史を物語っています。
【写真 上(左)】 御府内霊場第38番の札所標
【写真 下(右)】 御府内霊場第54番の札所標
【写真 上(左)】 江戸八十八ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 山の手三十三観音霊場の札所標
「江戸第拾六番 山之手第九番 本尊十一面観世音」の札所柱もありました。
「山之手第九番」は山の手三十三観音霊場第9番(新長谷寺)と思われますが、「江戸第拾六番」については霊場不明です。
【写真 上(左)】 金乗院の寺号標
【写真 下(右)】 新長谷寺の寺号標
石敷のすっきりとした境内。
山門正面が庫裡(納経所)、その左手に本堂、山門右手の高みが目白不動尊の不動堂です。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂と不動堂
御府内霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番は本堂、御府内霊場第54番、関東三十六不動霊場第14番は不動堂のお参りとなります。(御府内霊場は修行大師像も参拝)
(「本堂に『断臂不動明王』を安置」とする資料もありますが、『関東三十六不動霊場ガイドブック』には不動堂が参拝堂とあり、不動堂への参道に「目白不動尊参道」の案内掲示、不動堂の扁額も「目白不動堂」です。)
ちなみに御府内霊場のうち、一寺二札所、ふたつの御朱印をいただけるのはこちらのみです。
【写真 上(左)】 本堂(斜めから)
【写真 下(右)】 本堂向拝露天
本堂は昭和46年再建、平成15年の改修。
木造ではありませんが、入母屋造本瓦葺流れ向拝。
大棟、降り棟ともにやや細身ですが、隅棟、稚児棟まわりの鳥衾・熨斗瓦、掛瓦などのつくりが精緻で、屋根の照りもほどよく風格ある堂宇です。
水引虹梁に禅宗様の木鼻、中備えに蟇股、向拝正面は格子戸、その上に「神霊山」の扁額を掲げています。
御本尊は眦首羯摩作と伝わる高さ7㎝の聖観世音菩薩。金剛仏で秘仏です。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 修行大師像
本堂向かって左に端正な修行大師像が御座。
金乗院は江戸五色不動唯一の真言宗寺院で、江戸五色不動巡拝中に修行大師像のお参りができるのはこちらだけです。
本堂向かって右には「倶梨伽羅不動庚申」。
不動明王の法形である倶梨(利)伽羅剣と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られた石像で、寛文六年(1660年)の建立です。
「人間を罪過から守る青面金剛の化身、三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている。」という現地掲示があります。
【写真 上(左)】 倶利伽羅不動庚申
【写真 下(右)】 不動堂参道
その横に宝塔。その後ろには立像の金仏(地蔵尊)。
その右横が墓地への参道で、その奥には慶安の変(由井正雪の乱、慶安四年7月(1651年))の首謀者の一人、丸橋忠弥の墓所があります。
さらに右手の山門寄りの高みのお堂が、目白不動尊の不動堂です。
確信はないですが、おそらく入母屋造銅板葺妻入り、妻側に付向拝の構成かと思われます。
棟部に経の巻獅子口、猪の目懸魚が見えます。
【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂向拝
水引虹梁部は向拝幕が張られているのでよくわかりませんが、身舎正面上部に「目白不動尊」の扁額。
格子戸越しに目白不動尊のおすがたが拝せます。
こちらの不動尊は御前立かと思われます。
整った面差しで、右手に剣、左臂に火焔を抱かれ、大盤石の上に御座される立像です。
【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 鐔塚
境内にはこの他、寛政十二年(1800年)に建立の刀剣の供養塔、鐔塚(つばづか)などの見どころがあります。
なお、江戸名所図会で宿坂のかなり上方に描かれている観音堂(運慶作の観音像が奉られていたと伝わる)の現況については不明です。
御朱印は境内寺務所にて快く授与いただけます。
こちらは江戸五色不動のほか、御府内霊場(2札所)、江戸三十三観音札所、関東三十六不動霊場の札所も兼ねられ、いずれも御朱印を授与されています。
札所無申告の場合、目白不動尊、聖観世音菩薩いずれの御朱印になるかは不明ですが、おそらく先方からお尋ねになるのかと思います。
〔御府内霊場第54番(新長谷寺)の御朱印〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「目白不動明王」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に寺号院号の揮毫と寺院印が捺されています。
〔江戸五色不動尊の御朱印〕
・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 直書(筆書)
※ 関東三十六不動霊場の御朱印が授与されている模様です。
〔関東三十六不動尊霊場第14番の御朱印/専用納経帳〕
・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 筆書
〔江戸三十三観音札所第14番の御朱印〕
・御朱印尊格:聖観世音菩薩 江戸三十三観音札所第14番印判 目白不動尊の印判 直書(筆書)
〔 御府内霊場第38番(金乗院)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「聖観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-19)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ 私達を信じていて - CINDY
■ Airport - 今井優子
■ far on the water - Kalafina
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第53番 本覚山 寶光寺 自性院
(じしょういん)
公式Web
台東区谷中6-2-8
新義真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第53番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第10番、弘法大師二十一ヶ寺第10番
第53番は「谷中愛染堂」とも呼ばれる谷中の自性院です。
第53番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに自性院で、第53番札所は開創当初から谷中の自性院であったとみられます。
公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
自性院は、慶長十六年(1611年)、道意上人により江戸神田北寺町(現・千代田区神田錦町)に開創、慶安元年(1648年)幕府用地となったため、谷中の現在地を賜り移転と伝わります。
中興開山は第9世貫海上人。
元文年間(1736-1741年)上人が境内の楠を切り彫刻された像高1メートルの像内には、上人が高野山参詣のとき奥之院路上で拾われた小さな愛染明王が納められているといいます。(公式Webによると、「近年修理をしたところ像内より胎内仏を確認」とのこと。)
当山は愛染堂安置の愛染明王像で知られ、文化文政の頃(1804-1830年)になると、その名は近在まで広がり「愛染寺」と呼ばれて親しまれたそうです。
愛染明王はとくに縁結び、家庭円満のご利益で信仰されます。
昭和12年(1937年)1月から翌年5月にかけ「婦人倶楽部」に連載された、文豪・川口松太郎の『愛染かつら』は、当山奉安の愛染明王の縁結びのご利益と本堂前のかつらの古木をモチーフとして書かれた作品といいます。(作品中では「永法寺」として描かれる。)
主人公ふたりは当山の愛染堂前のかつらの木に手をふれ、愛染明王に愛を誓約しました。恋人同士がこうして誓うと、将来かならず結ばれるという筋書きで、「愛染かつら」は昭和13年(1938年)松竹映画として、上原謙と田中絹代が共演して大ヒットとなりました。
また、映画の主題歌『旅の夜風』(昭和13年)を歌った霧島 昇と松原 操(ミス・コロムビア)が共演をきっかけに結ばれるというエピソードもあいまって、当山の愛染明王への参詣者は急増したといいます。
いまは谷中の奥まった一画で、御府内霊場巡拝者を迎える静かな寺院となっています。
当山は「弘法大師二十一ヶ寺」第10番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。
これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。
二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。
「弘法大師二十一ヶ寺」はお大師さまのご縁日二十一日に因んでの開創なので合点がいきますが、「弘法大師 御府内二十一ヶ所」についてはナゾが残ります。
「弘法大師二十一ヶ寺」はなにかのWeb資料から札所情報を入手しましたが、いま検索してもヒットしません。ご参考までにリストします。
【弘法大師二十一ヶ寺】
1番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番 宝塔山 多寶院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番 五剣山 普門寺 大乗院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番 清光院 台東区下谷(廃寺)
5番 恵日山 延命寺 地蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番 阿遮山 円満寺 不動院 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番 峯松山 遮那院 仙蔵寺 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番 高野山 金剛閣 大徳院 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番 青林山 最勝寺 龍福院 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6
このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十三番
谷中寺町
本覺山 寶光寺 自性院
本所弥勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師
■ 『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.99』
本所彌勒寺末
谷中不唱小名
本覺山寶光寺自性院
新義真言宗
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
慶長十六年(1611年)二月 神田北寺町ニ而拝領仕候処 其後慶安元年(1648年) 御用地ニ奉差上、於当所代地拝領仕候
開山 道意上人
本堂
本尊 金胎両部大日如来木像坐像 弘法大師木像 興教大師木像 不動尊木像 薬師如来木立像
宝篋印塔
地蔵堂 地蔵尊石像
中興開山 貫海上人
愛染堂 境内にあり 貫海上人の建立
愛染堂ハ今本堂と●●り 昔ハ別に本堂ありしと云
■ 『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
自性院(谷中上三崎南町六番地)
本所彌勒寺末、本覺山寶光寺と号す。本尊金剛界大日如来、胎蔵界大日如来。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧道意。慶安元年(1648年)同所幕府の用地となり、現地に替地を給せられて移転した。
「自性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋国立国会図書館DC(保護期間満了)
「自證寺(自性院)」/原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「自證寺」と記されています。
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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 愛染明王安置碑
谷中六丁目のこのあたりは、ゆったりした区画の寺町で、落ち着いて参拝ができます。
路地に面した山内入口には愛染明王安置碑と『愛染かつらゆかりの地』の説明板。
左右の門柱は、それぞれ山号・寺号標と院号標となっています。
【写真 上(左)】 山号・寺号標
【写真 下(右)】 院号標
よく整備された山内。本堂前の大木が桂の木かどうかはうかつにも確認し忘れました。
参道が本堂前で右に折れる曲がり参道で、曲がった正面が本堂。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
入母屋造本瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を備えた端正な本堂です。
向拝硝子格子扉のうえに「愛染寺」の扁額。
通称が扁額となるのはめずらしいと思います。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 慈母観世音菩薩
御朱印は本堂向かって左手の庫裡で拝受しましたが、現況は専用納経帳のみへの授与かもしれません。(直近の状況は未確認)
また、こちらは16:00に閉門となるので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十三番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第54番 東豊山 浄瀧院 新長谷寺
(しんはせでら)
豊島区高田2-12-39
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:
〔新長谷寺〕
江戸八十八ヶ所霊場第54番、江戸五色不動(目白不動尊)、関東三十六不動霊場第14番、東京三十三観音霊場第23番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第16番
〔金乗院〕
江戸八十八ヶ所霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番、山の手三十三観音霊場第9番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第14番
司元別当:此花咲耶姫社など
授与所:庫裡
第38番札所の金乗院は、第54番札所の目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)を合寺したので、現在、金乗院が第38番、第54番のふたつの札所の御朱印を授与されています。
第38番札所金乗院の記事で第54番札所目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)もとりあげたため、第54番ではこの記事を再掲します。
(なお、本記事は「江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 3.目白不動尊」から転載・追記したものです。)
第38番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに金乗院なので、御府内霊場開創時から一貫して下高田砂り場の金乗院であったとみられます。
下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。
金乗院は天正年間(1573-1592年)、開山永順が御本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を建立したのが草創といいます。
当初は蓮花山 金乗院と号し中野寶仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山 金乗院 慈眼寺と号を改め、音羽護国寺の末寺となりました。
御本尊は正観世音菩薩(伝・眦首羯摩作、運慶の作とも)。
山内に荒神を合殿する観音堂、御嶽社、辨天社、三峯社などを置き、江戸時代には旧砂利場村の此花咲耶姫社をはじめ社地三、四ヶ所の別当でしたが、昭和20年4月の戦災で本堂などの伽藍、水戸光圀公揮毫とされる此花咲耶姫の額などの宝物を焼失しました。
戦災で全焼した関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)を合併し、新長谷寺の札所も金乗院に移動しています。
明治初期の神仏分離を乗り切ったふたつの札所のうち一方が戦災で全焼して、一方に合寺されたという比較的めずらしい例です。
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第54番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに新長谷寺(目白不動尊)なので、御府内霊場開創時から一貫して関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)であったとみられます。
下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。
目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)は、元和四年(1618年)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(現・文京区関口、金乗院から東に約1㎞)にありました。
『江戸切絵図(小日向絵図)』をみると、江戸川橋から目白台にのぼる目白坂沿い北側に永泉寺、養国寺、八幡宮(正八幡神社)と並び、その南側神田川寄りに目白不動尊があったことがわかります。
目白不動堂奉安の不動尊は高さ八寸、「断臂不動明王」といい、弘法大師の御作と伝わります。
縁起によると、弘法大師が唐より御帰朝の後、出羽羽黒山に参籠されたとき大日如来が現れてたちまち不動明王のお姿に変じました。
大師に告げるには「此の地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火をあたうべし」と。
不動尊は利剣をもってみずから左の御臂を切られると、霊火が盛んに燃え出でて仏身に満ちあふれました。
大師はこの御影を二体謹刻され、一体は出羽国の荒沢に安置され、もう一体は大師みずから護持されたと伝わります。
後年、野州足利の沙門某が大師護持の不動尊を奉持していましたが、武蔵国関口の松村氏が霊夢を得て足利よりお遷しし、領主の渡辺岩見守より関口台の一画に土地の寄進を受けて一宇を建立したのが本寺の濫觴(らんしょう/はじまりのこと)とされます。
元和四年(1618年)、大和長谷寺小池坊秀算僧正が中興、徳川2代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立。
大和長谷寺から御本尊と同木同作の十一面観世音菩薩像を御遷ししてその直末となり、東叡山 浄滝院 新長谷寺と号しました。
寛永年間(1624-1644年)、3代将軍家光公は当山の断臂不動明王に「目白」の号を贈り、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、また、江戸三不動の代一位として名を高め、人々の篤い信仰を受けました。
ことに護身、厄除け眼病治癒の不動尊として霊験あらたかとされます。
元禄年間(1688-1704年)には、5代将軍綱吉公とその母桂昌院が深く帰依してさらに伽藍を整え、寺容は壮麗を極めたと伝わります。
境内は堰口の流れを見下ろす高台の景勝地で、付近には茶肆、割烹などの店が出て、ことに月雪景の名所であったようです。
その佳景は、『東京名所四十八景 関口目しろ不動』 (慶應義塾大学メディアセンターDC)からも偲ぶことができます。
昭和20年5月の戦災で焼失したため金乗院に合併、御本尊の目白不動明王像は関口から金乗院に遷られました。
ふたつの名刹が合併した金乗院は今日も複数のメジャー霊場の札所であり、多くの参拝客を集めています。
また、当寺住職の小野塚幾澄大僧正は、平成20年から平成24年まで真言宗豊山派管長・長谷寺化主に就任されています。
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【史料】
【金乗院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十八番
砂り場
神霊山 金乗院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:千手観音 興教大師 弘法大師
■『新編武蔵風土記稿 巻之12 豊島郡之4』(国立国会図書館)
(下高田村)金乗院
新義真言宗多磨郡中野村寶仙寺末、神靈山観音院ト號ス 本尊正観音長一寸八分眦首羯摩作 開山永順文禄三年(1594念)六月四日寂 御嶽社 辨天社 三峯社 観音堂/荒神ヲ合殿トス 観音ハ木ノ立像長三尺運慶ノ作ト云
「金乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「宿坂関旧址 金乗院 観音堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
【新長谷寺関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十四番
関口駒井町
東豊山 海瀧院 新長谷寺
紀州初瀬小池坊末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社目白不動明王 弘法大師
■『江戸名所図会. 十二』(国立国会図書館)
目白不動堂 同所東の方にありて堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と号す
長谷小池坊の宿寺とす
本尊不動明王の霊像は長八寸弘法大師の作 総門の額東豊山の三大字ハ南岳悦山の筆
縁起云弘法大師唐より帰朝の後 羽州湯殿山に参籠ありし時 大日如来忽然と不動明王の姿に変現し滝の下に現ハれ●● 大師に告て云く此地ハ諸佛内證秘密の浄土なれハ有為の穢土をきらえり 故に凡夫登山することかたし 今汝に無漏の上火をあたふべしと宣ひ持ちし●●●の利劍をもって左の御臂を切●●ハ、霊火盛に燃出でて佛身に充てり 依て大使面前に出現の像二躯を模刻し一躰ハ同國荒澤に安置し 一躰ハ大師自ら護持なしたまふ
その後野州足利に住せる沙門某之を感得し●奉持せしに一年 霊感あるを以て此地の住人松村氏某に●かりつひに一宇を開きて此本尊を移し安置なし奉ると
当寺元和四年和州長谷小池坊秀算僧正中興ありし頃 大将軍台徳公の厳命により堂塔坊舎御建立あり
また和州長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像をうつし新長谷寺と改む
大将軍大猷公目白の号を賜ひ 元禄の始にハ桂昌一位尼公御帰依浅からす諸堂修理を加へたまひ丈余●地蔵尊等を安置なさしめられたり
此地麓●●堰口の流を帯ひ 水流そうそうとして日夜不絶 早稲田の村落高田の森林を望む風光の地なり 境内貸食亭多く何れも涯に臨めり
また、『寺社書上(御府内備考). [61] 関口寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社書上P.134』
新義真言宗
和州長谷小池坊末
目白不動尊別当
東豊山 新長谷寺 海瀧院
本堂
本尊不動尊 弘法大師御作 秘佛
開帳佛不動 木立像
前立不動 木座像 四大明王ニ童附各立像
不動堂本殿 桂昌院御建立別堂
地蔵尊木立像
不動木立像 良弁僧都作
聖徳大師木立像
七曜佛木立像 運慶作
庚申佛木立像
疱瘡神木立像
愛染明王木像
大日如来木像 聖徳太子作
毘沙門木像
弁財天木像 竹生嶋写し
観音堂
本尊十一面木立像 行基菩薩作 開山秀算僧正勧請
前立観音木立像
与森天神木座像
興教大師木像
弘法大師木像 伊豫國延命寺写しニテ五十四番札所
開山秀算僧正木像
子安地蔵尊金立像
如意輪観音木像
弥陀木座像
聖天金像
末社
稲荷社、秋葉社、人丸社
唐金地蔵尊 濡佛
■『東京名所図会』(国立国会図書館)
目白不動堂は同所東の方にあり堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と號す 本尊不動明王は弘法大師の作なり 当寺は元和年間(1615-1624年)和州長谷の小池坊秀算僧正中興ありしより将軍家の厳命にて堂塔伽藍建立あり 後ち桂昌院尼公諸堂に修理を加えられ頗る荘厳を極めたり 境内眺望佳絶にして茶肆割烹店等多し 冬月雪景最も宜しと云ふ
「新長谷寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
「目白不動堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』小日向絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅か都電荒川線「学習院下」駅ですが、道行きの風情は「雑司ヶ谷」駅ルートの方があると思うので、こちらをご紹介。
メトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅3番出口から、目白通りを渡って宿坂通りに入ります。
目白通りは目白台の台地上を走り、ここから南側、神田川にかけては下り勾配となります。
宿坂(しゅくざか)もかなりの急坂ですが、この一本西側の「のぞき坂」は別名を「胸突(むなつき)坂」といい、「東京一急な坂」として知られています。
『江戸名所図会. 十二』(国会図書館DC)には以下のとおり「宿坂」と「金乗院」が記されています。
「宿坂関之旧跡 同北の方金乗院といへる密寺の寺前を四谷町の方へ上る坂口をいふ 同じ寺の裏門の辺にさらちの平地あり(中略)昔の奥州街道●●其頃関門のありて跡ありといへり」
現地掲示によると、この辺りは中世に「宿坂の宿」と呼ばれた関所があり、「立丁場」と呼ばれた金乗院裏門辺の平地が関所跡との伝承があります。
宿坂は「江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話」が伝わっているそうです。
【写真 上(左)】 宿坂
【写真 下(右)】 山門
宿坂をほぼ下りきった右手が金乗院の山門です。
二軒の垂木を備えた銅板葺のどっしりとした二脚門で、「神霊山」の山号扁額を掲げています。
右の門柱には、関東三十六不動霊場、左には江戸三十三観音札所の札所板。
【写真 上(左)】 関東三十六不動霊場の札所板
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の札所板
約200年前の建立ですが昭和20年4月の戦災で屋根を焼失、昭和63年に檀徒の寄進により復元されています。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門前の不動尊
山門周辺に御府内霊場第38番および第54番の札所標、「目白」と刻まれた台座の上に石造坐像のお不動さま、江戸八十八ヶ所霊場第38番の札所標、「東豊山 新長谷寺」の寺号標などが建ち並び、当寺の歴史を物語っています。
【写真 上(左)】 御府内霊場第38番の札所標
【写真 下(右)】 御府内霊場第54番の札所標
【写真 上(左)】 江戸八十八ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 山の手三十三観音霊場の札所標
「江戸第拾六番 山之手第九番 本尊十一面観世音」の札所柱もありました。
「山之手第九番」は山の手三十三観音霊場第9番(新長谷寺)と思われますが、「江戸第拾六番」については霊場不明です。
【写真 上(左)】 金乗院の寺号標
【写真 下(右)】 新長谷寺の寺号標
石敷のすっきりとした境内。
山門正面が庫裡(納経所)、その左手に本堂、山門右手の高みが目白不動尊の不動堂です。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂と不動堂
御府内霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番は本堂、御府内霊場第54番、関東三十六不動霊場第14番は不動堂のお参りとなります。(御府内霊場は修行大師像も参拝)
(「本堂に『断臂不動明王』を安置」とする資料もありますが、『関東三十六不動霊場ガイドブック』には不動堂が参拝堂とあり、不動堂への参道に「目白不動尊参道」の案内掲示、不動堂の扁額も「目白不動堂」です。)
ちなみに御府内霊場のうち、一寺二札所、ふたつの御朱印をいただけるのはこちらのみです。
【写真 上(左)】 本堂(斜めから)
【写真 下(右)】 本堂向拝露天
本堂は昭和46年再建、平成15年の改修。
木造ではありませんが、入母屋造本瓦葺流れ向拝。
大棟、降り棟ともにやや細身ですが、隅棟、稚児棟まわりの鳥衾・熨斗瓦、掛瓦などのつくりが精緻で、屋根の照りもほどよく風格ある堂宇です。
水引虹梁に禅宗様の木鼻、中備えに蟇股、向拝正面は格子戸、その上に「神霊山」の扁額を掲げています。
御本尊は眦首羯摩作と伝わる高さ7㎝の聖観世音菩薩。金剛仏で秘仏です。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 修行大師像
本堂向かって左に端正な修行大師像が御座。
金乗院は江戸五色不動唯一の真言宗寺院で、江戸五色不動巡拝中に修行大師像のお参りができるのはこちらだけです。
本堂向かって右には「倶梨伽羅不動庚申」。
不動明王の法形である倶梨(利)伽羅剣と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られた石像で、寛文六年(1660年)の建立です。
「人間を罪過から守る青面金剛の化身、三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている。」という現地掲示があります。
【写真 上(左)】 倶利伽羅不動庚申
【写真 下(右)】 不動堂参道
その横に宝塔。その後ろには立像の金仏(地蔵尊)。
その右横が墓地への参道で、その奥には慶安の変(由井正雪の乱、慶安四年7月(1651年))の首謀者の一人、丸橋忠弥の墓所があります。
さらに右手の山門寄りの高みのお堂が、目白不動尊の不動堂です。
確信はないですが、おそらく入母屋造銅板葺妻入り、妻側に付向拝の構成かと思われます。
棟部に経の巻獅子口、猪の目懸魚が見えます。
【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂向拝
水引虹梁部は向拝幕が張られているのでよくわかりませんが、身舎正面上部に「目白不動尊」の扁額。
格子戸越しに目白不動尊のおすがたが拝せます。
こちらの不動尊は御前立かと思われます。
整った面差しで、右手に剣、左臂に火焔を抱かれ、大盤石の上に御座される立像です。
【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 鐔塚
境内にはこの他、寛政十二年(1800年)に建立の刀剣の供養塔、鐔塚(つばづか)などの見どころがあります。
なお、江戸名所図会で宿坂のかなり上方に描かれている観音堂(運慶作の観音像が奉られていたと伝わる)の現況については不明です。
御朱印は境内寺務所にて快く授与いただけます。
こちらは江戸五色不動のほか、御府内霊場(2札所)、江戸三十三観音札所、関東三十六不動霊場の札所も兼ねられ、いずれも御朱印を授与されています。
札所無申告の場合、目白不動尊、聖観世音菩薩いずれの御朱印になるかは不明ですが、おそらく先方からお尋ねになるのかと思います。
〔御府内霊場第54番(新長谷寺)の御朱印〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「目白不動明王」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に寺号院号の揮毫と寺院印が捺されています。
〔江戸五色不動尊の御朱印〕
・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 直書(筆書)
※ 関東三十六不動霊場の御朱印が授与されている模様です。
〔関東三十六不動尊霊場第14番の御朱印/専用納経帳〕
・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 筆書
〔江戸三十三観音札所第14番の御朱印〕
・御朱印尊格:聖観世音菩薩 江戸三十三観音札所第14番印判 目白不動尊の印判 直書(筆書)
〔 御府内霊場第38番(金乗院)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「聖観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-19)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ 私達を信じていて - CINDY
■ Airport - 今井優子
■ far on the water - Kalafina
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17
Vol.-16からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第50番 高野山 金剛閣 大徳院
(だいとくいん)
墨田区両国2-7-13
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第46番、弘法大師二十一ヶ寺第8番、坂東写東都三十三観音霊場第7番、大東京百観音霊場33番
※院号は德川家(徳川家の正式表記)からとったとすると、「大德院」が正式名と思われますがここでは通称の「大徳院」を使います。
第50番は両国の大徳院です。
第46番弥勒寺の記事でも書きましたが、第50番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場では本所立川の弥勒寺(現御府内霊場・第46番札所)となっています。
よって、江戸時代に第46番札所の大徳院と第50番札所の弥勒寺とが入れ替わった可能性があります。
その経緯は不明ですが、大徳院は御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
下記史料、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
大徳院は高野山金剛峯寺の江戸宿寺(宿寺居屋敷/江戸の拠点)で、寛永年間(1624-1644年)に拝領した神田紺屋町の屋敷地にありましたが、寛文六年(1666年)替地により本所猿江に移転、貞享元年(1684年)南本所元町(本所一ツ目)の現在地に二万廿坪余を拝領し移転したといいます。
神田紺屋町での建立 or 貞享元年(1684年)現在地に移転時の住職は本山中興の宥雅法印とされます。
江戸時代、高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の「高野三方(三派)」から成り立っていました。
聖方の頭寺院は蓮華(花)院(光徳院とも)で、弘法大師が悪魔降伏のため軍荼利明王の秘法を修し、結界を結ばれた草庵が草創とされます。
文禄三年(1594年)家康公が秀吉公に随従して高野山に参り蓮華院に止宿した際、家康公から大徳院の院号が与えられたといいます。
以降、徳川家との親交を深め、寛永年間(1624-1644年)大徳院の後山に東照宮(家康公)、台徳院殿(秀忠公)の御霊屋(徳川家霊台)が建立され、徳川家菩提所となりました。
「高野山霊宝館」公式Webには「徳川家霊台とは、徳川家康と秀忠をまつる東照宮をいいます。この場所は本来、聖派の代表寺院である大徳院の境内だったのですが、大徳院自体は明治になって他の寺院と合併して現存しませんので、霊台だけが残りました。大徳院は、代々徳川家との関係が深い寺院で、後に家康によって、それまで蓮華院と呼んでいたのを、『大徳院』と改められたともいわれています。造営に着工したのは寛永10年(1633)頃で、同16年には、正式に将軍家光より認可され、同20年に竣工」とあります。
「ぐるりん関西」には、蓮華(花)院の沿革や徳川家との関係が載っていますので抜粋引用します。
-------------------------(引用はじめ)
・蓮花院は、和歌山県高野山の小田原谷にある真言宗の準別格本山
・寺伝によると、弘法大師が悪魔降伏のため軍荼利明王の秘法を修し、結界を結んだ時の草庵が寺の起こりとされる。
・古くは聖方に属し、五之室谷の徳川家霊台の前に位置し、室町時代には光徳院、江戸時代は大徳院と号した。
・徳川将軍家の菩提寺として、歴代宗家の位牌と家康、秀忠の尊像が祀られている。
・水戸光圀の位牌や家康の念持仏といわれる薬師瑠璃光如来を奉安。
〔徳川家との関係〕
・永享十一年(1439年) 当院主が相模の藤沢寺(現・清浄光寺)に止宿し、家康公の祖先松平太郎左衛門親氏入道徳阿弥と師檀関係を結ぶ
・天文四年(1535年) 家康公の祖父松平清康公の遺骨が当院に納められ光徳院と改号
・文禄三年(1594年) 家康公が豊臣秀吉公に随従して高野山に参り、光徳院に止宿した際、家康公から大徳院の院号が与えられる
・寛永年間(1624-1644年) 大徳院の後山に東照宮(家康)、台徳院殿(秀忠)の御霊屋(徳川家霊台)が建立され、徳川家菩提所となる
・奥の院の松平秀康及び同母霊屋、徳川秀忠夫人崇源院供養塔は当院が管理している
-------------------------(引用おわり)
御府内霊場札所のなかでもとくに徳川将軍家とのかかわりが深い寺院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「東照宮御本地」「寅の神」という記載があります。
江戸時代は高野山大徳院の江戸在番所(出張所)として宗務伝達所兼高野山諸末寺(聖方)総觸頭の地位にあり、江戸の弘法大師信仰あるいは「高野聖」(高野山を本拠とした遊行者)の活動の中心にあったともいいますが、明治18年にその機能を長寿寺(現・高野山東京別院)に移し現在に至っています。
御本尊の薬師瑠璃光如来は「本所一つ目寅薬師」と称され、とくに眼病治癒に霊験あらたかとされ信仰を集めています。
日光山輪王寺の公式Webによると、東照大権現の本地仏は薬師如来で、日光東照宮の本地堂(薬師堂)には薬師如来が奉安されています。
また、家康公は寅年、寅の日、寅の刻生まれともいわれ、家康公とゆかりのふかい寺院として、御本尊=寅薬師如来は自然に受け入れられたと思われます。
『御府内八十八ケ所道しるべ』に憚りなく「東照宮御本地」と書かれているので、おそらく公認されていたのでは。
このあたりは高野山の徳川家霊台を護持される、(高野山)大徳院の威光があったのかも。
【写真 上(左)】 日光東照宮本地堂の御朱印
【写真 下(右)】 上野・パゴダ大仏殿の薬師如来の御朱印
なお、上野の東照宮境内にもしっかり本地堂(薬師堂)はありましたが、明治初期の神仏分離令により御本尊の薬師三尊は寛永寺に移管され、現在は「パゴダ大仏殿」内に奉安されています。
あるいは天台宗(比叡山)系の御本地(=東照宮本地堂)、真言宗(高野山)系の御本地(=大徳院)という色分けが意図的になされていたのかもしれません。
-------------------------
【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
五十番
本所一ッ目元町南
東照宮御本地 大德院
どくれい(独礼)せ● 古義
本尊:薬師如来 寅の神 弘法大師
■ 『寺社書上 [88] 本所寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.18』
御尊牌所
南本所 本所一ツ目
高野山金剛峯寺 大徳院宿寺
高野山聖方法国末寺 御尊牌所ニ候
古義真言宗高野山聖方諸国本寺惣触頭ニ候
●●年月不知
神田紺屋町辺● 宿寺居屋敷拝領仕●立
右●其所を諸人薬師堂前と呼び●●町の名となり
右之薬師(尊)像は弘法大師の作
寛文六年(1666年)右屋敷替地仰付 本所猿江に●●ひて寺地拝領仕
神田より猿江に引移り
貞享元年(1684年)南本所元町(本所一ツ目)にて●●の寺地二万廿坪余拝領仕候
開山 弘法大師
中興 宥雅法印 俗姓不知 寛文十四年(1673年?)寂
俗姓波多野●● ●永二年高野山●●●蓮花院(大徳院と御号)
任●●●寺代奉所
本堂
本尊 薬師如来座像 弘法大師作
脇立 日光菩薩立像 月光菩薩立像 十二神将立像
●雲院様(家光公とも)七回御忌御追福之● 竹千代君様(4代将軍家綱公)絵巻当御寄附(略)
有候薬師如来之尊像一体●●当院に奉納 是を寅薬師と称し御本地佛と崇敬して永く御武運長久を祈
台徳院様(2代将軍徳川秀忠公)御代、寛永年中(1624-1644年)、高野山より江戸神田の宿寺に右の尊像を移
弘法大師座像
同前佛座像
不動明王立像
社壇
稲荷立像
天満宮座像
高野四社明神繪像
辨財天座像 弘法大師作
寺寶
太政官符 嵯峨天皇より弘法大師●高野山を賜ふ御公御手判●
般若心経 弘法大師御真筆
大威徳明王像 弘法大師作
香合之内 愛染明王像一体 虚空蔵菩薩像一体 作人同前
「大德院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
-------------------------
最寄りはJR総武線「両国」駅で徒歩約5分。
都営大江戸線「両国」駅からも歩けます。
下町らしい低平な土地。オフィスと住宅の混在地にあります。
第23番、日本橋の薬研堀不動院とは隅田川を挟んで相対する立地で、すぐ北隣りは回向院です。
【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 札所標
平成25年に完成した地上5階地下1階建のビルで、一般的には「両国陵苑」のほうが通りがいいかもしれません。
【写真 上(左)】 延命地蔵尊
【写真 下(右)】 エントランス
エントランス前に延命地蔵菩薩が御座し、ビル前に札所碑、エントランスに唐破風を配しているので、近代的なビルながら寺院とすぐにわかります。
1階総合受付で参拝&御朱印の受付。
上層階の本堂のお参りもできますが、1階の弘法大師坐像も御府内霊場の拝所となっています。
【写真 上(左)】 1階弘法大師坐像横の札所札
【写真 下(右)】 1階弘法大師坐像
中段に弘法大師座像。
背後の壁面には智拳印を結ばれた金剛界大日如来の画像が掲げられています。
完璧なビル内参拝で、都会の霊場・御府内霊場らしい札所といえましょう。
御朱印は1階総合受付にて拝受しました。
いくつかの霊場札所を兼務されていますが、現況、御朱印を授与されているのは御府内霊場のみの模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に薬師如来のお種子「バイ」「薬師如来」「弘法大師」の揮毫と「バイ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右に「第五十番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用集印帳の御朱印には「寅薬師」の揮毫もありました。
■ 第51番 玉龍山 弘憲寺 延命院
(えんめいいん)
台東区元浅草4-5-2
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第82番、弘法大師二十一ヶ寺第20番、弁財天百社参り第67番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第6番、奥の細道関東路三十三所霊場第3番
第51番は元浅草の延命院です。
御府内霊場には「延命院」を号する札所寺院がふたつ(第5番金剛山 延命院(南麻布)、第51番玉龍山 延命院(元浅草))ありますが、第5番の延命院を「麻布延命院」と呼んで区別しているようです。
第51番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに浅草鳥越の長樂寺となっています。
よって、第51番札所は明治以降に浅草鳥越の長樂寺から元浅草の延命院に変更されたとみられます。
まずは鳥越の長樂寺について、下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。
長樂寺は鳥越に御鎮座の鳥越大明神(現・鳥越神社)の別当でした。
まずは、主に鳥越神社の境内掲示類から縁起・来歴を追ってみます。
鳥越大明神は白雉二年(651年)村人が日本武尊の遺徳を偲び、白鳥明神として鳥越山(白鳥山)に祀ったのが創祀と伝わる古社です。
往年のこの地は「鳥越(白鳥)の山」と呼ばれた小高い丘で、日本武尊が東夷御征伐の折に暫く御駐在された地といいます。
相殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、中臣(藤原)氏の祖神として祀られ、奈良時代に藤原氏が国司として武蔵に赴任した際、この地にお祀りされたといいます。
永承(1046-1053年)の頃、八幡太郎義家公の奥州征伐の折、この地で渡河に難儀しましたが、白い鳥に浅瀬を教えられて無事軍勢を進めることができました。
義家公はこれを白鳥大明神の御加護と称え、鳥越山(白鳥山)のお社を参拝され「鳥越大明神」の号を奉じられて、これより「鳥越」の地名が起こったとされます。
社地はすこぶる広く、三味線堀(姫が池)に熱田明神、森田町に第六天神(榊神社)が末社として御鎮座され「鳥越三所明神」と称していました。
徳川幕府による旗元・大名屋敷・御蔵地整備のため、鳥越山はとり崩されて埋め立てに使われました。
この際、熱田神社は三谷(現・今戸)へ、榊神社は堀田原(現・蔵前)へと御遷座され、鳥越大明神も御遷座を迫られましたが、第二代神主鏑木胤正の請願が容れられて元地に残られました。
別当・長樂寺は『寺社書上』によると、開山の法印の遷化が寛永二十年(1643年)なので、3代将軍家光公の治世(1623-1651年)までには創建とみられます。
鳥越山轉輪院長樂寺と号し、山号は本社から、院号は兼帯していた京都嵯峨轉輪院永院室から号したものとみられます。
本社・鳥越大明神の御本地馬頭観音、御本尊として不動明王を奉安していました。
弘法大師御像も奉安していたため、御府内霊場札所の要件はきっちり満たしていたとみられます。
鳥越大明神の神職鏑木氏は桓武平氏常将流と伝わり、鳥越神社の社紋として月星紋・九曜紋(千葉氏の紋)が使われているようです。
また、長樂寺に星供養曼荼羅が奉安されていたことからも、妙見信仰の千葉氏との関係がうかがわれます。
鳥越大明神と別当・長樂寺は源氏の棟梁・八幡太郎義家公、桓武平氏の代表姓・千葉氏いずれともゆかりをもつ、複雑な来歴をもたれているのかもしれません。
明治初期の神仏分離で別当の長樂寺は廃寺となり、以降は鳥越神社と号して郷社に列せられました。
【写真 上(左)】 鳥越神社
【写真 下(右)】 鳥越神社の御朱印
なお、相殿の東照宮の前身は、寛永十一年(1634年)、蔵前(南元町)の松平西福寺そばに江戸城の鬼門除けとして3代将軍家光公が祀られた松平神社(御祭神:徳川家康公)で、大正14年に鳥越神社の相殿に御遷座されました。
■ 松平西福寺(蔵前)
例大祭・鳥越祭は都内随一の重さを誇る「千貫神輿」の渡御と、夜に行われる荘厳な宮入で「鳥越の夜祭り」として広く知られています。
つぎに元浅草の延命院について、下記史料、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
延命院は当初谷野(矢ノ蔵)に創建されたという新義真言宗寺院です。
東日本橋の矢之庫稲荷神社の由緒書には「当地に隣接する東日本橋1丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃、幕府が米蔵を建て谷野蔵・矢之倉と称されていました。」とあるので、現在の東日本橋一丁目あたりとみられます。
『寺社書上』では開闢年代知不としながらも、奉安佛・水晶辨財天の縁起書に開山義観法師が文安年間(1444-1449年)に夢告を受け、武蔵国矢の蔵(倉)に一寺を建立して安置とあるので、その頃の創建とみられます。
現在の御本尊は大日如来ですが、寺院の草創は水晶辨財天の奉安によるものとあるので、当初の御本尊は辨財天だったのかもしれません。
当初は延寿院と号しましたが、元和年中(1615-1624年)頃、典薬頭延寿院道三と同号となったため、台徳尊公(徳川秀忠公)の上意により延命院と改めたといいます。
江戸時代は大塚の護持院末でありました。
『寺社書上』には「弘法大師 八十八所写第八十弐(?)番」とありますが、これは御府内霊場ではなく、おそらく荒川辺八十八ヶ所霊場を指すとみられます。
荒川辺八十八ヶ所霊場は天保九年(1838年)以前の開創とされる弘法大師霊場で、根岸・世尊寺から打ち始め、荒川、日暮里、尾久、船堀、豊島、江北、本木、千住、綾瀬、亀有、墨田、向島、亀戸、元浅草と回って根岸・千手院で結願となります。
→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
当山は第82番札所で、『寺社書上』の記載と符合します。
本堂に御座の御本尊大日如来、弘法大師御像が荒川辺霊場の拝所であったとみられます。
別に弘法大師の御作と伝わる水晶辨財天を奉安していました。
水晶辨財天は天長五年(828年)、弘法大師が琵琶湖の竹生島に参籠された折、二体の辨財天尊像を製作され、一体は竹生島の御本尊とし、一体はこの霊像と伝わります。
文安年間(1444-1449年)、讃岐國におられた開山義観法師の夢中にこの尊像があらわれ、お告げを受けた義観法師が東国へ下って武蔵国矢の蔵(倉)に一寺を建立してこの尊像を安置したのが当山草創とも伝わります。
竹生島辨財天は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」のひとつで、こちらの辨財天と同作の尊像とあれば、江戸庶民の信仰を集めたことは想像に難くありません。
実際、当山の水晶辨財天は弁財天百社参り第67番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第6番の札所となっていました。
当山の水晶辨財天は関東大震災、東京大空襲の災禍により消失し、現存はしていないとのこと。(出典:Wikipedia)
なお、弘法大師御作、義觀上人ゆかりとされる辨財天は鶴見の一至山 安養寺にも奉安され、こちらは鶴見七福神の一尊となっています。
(→ 安養寺公式Web)
明暦三年(1657年)火災(おそらく明暦の大火)に遭い、浅草新寺町(現・元浅草)に移転といいます。
鳥越神社は明治期に郷社に列格したほどの名社で、その別当・長樂寺が神仏分離で廃されたのは避けられない流れだったのかもしれません。
長樂寺は高野山金剛三昧院末の古義真言宗、延命院は大塚護持院末の新義真言宗で、宗派からすると御府内霊場札所(第51番)の承継はやや不自然な感じもします。
しかし第45番観蔵院と同様、荒川辺八十八ヶ所霊場の札所(第82番)で、あるいは弘法大師霊場札所寺院ということで定められたのかも。
荒川辺八十八ヶ所霊場は豊島八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場との札所重複は少なくないですが、御府内霊場との重複は亀戸東覚寺(第73番)、成増青蓮寺(第19番)、観蔵院(第45番)と延命院(当山)の4つしかありません。
しかし、下町の弘法大師霊場のうち蔵前・浅草辺に札所をもつのは荒川辺八十八ヶ所霊場だけなので、浅草鳥越に近い元浅草の札所から選ばれたのかもしれません。
-------------------------
【史料】
【長樂寺関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
五十一番
浅草鳥越明神 門前町あり
鳥越山 轉輪院 長樂寺
高野山金剛三昧院末 古義
本尊:不動明王 本社鳥越明神 弘法大師
■ 『寺社書上 [73] 浅草寺社書上 甲一』(国立国会図書館)
別当・長樂寺についてはこちらから記載されていますが、あまりに豪快な筆致につき解読不能が多いです。
抜粋引用します。
鳥越大明神 御本地馬頭観音
本尊 不動明王
弘法大師厨子入
金毘羅大権現
星供養曼荼羅厨子入
正観音像厨子入
●佛不動明王
●佛十一面観音厨子入
十三佛尊像厨子入
●大師像厨子入
聖天堂●●
聖天厨子入
銅佛十一面●殿入
別当 長樂寺
古義真言宗 本寺●●高野山金剛三昧院末
山号 鳥越山 ●●院
開山 法印(不明) 遷化之年月寛永廿年(1643年)四月十三日
中興開山 法印良長 遷化之年月●和二年
■ 『江戸名所図会 7巻 [16]』(国立国会図書館)
鳥越明神社
元鳥越町にあり此辺の産土神とす 祭神日本武尊 相殿天児屋根命なり 昔ハ第六天神 熱田明神を合わせて鳥越三所明神と号けし● 正保二年(1645年)此地公用の為に召上られ 三谷に●く替地を給ひけり 小社の地にかりを残さる その頃より熱田ハ三谷の地へうつし第六天ハ●田町へうつせりといへり
当社ハ最古跡なれとも 舊記等散失して勧請の年暦来由等詳ならすといへり
【延命院関連】
■ 『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.59』
浅草新寺町
新義真言宗 大塚護持院末
玉龍山弘憲寺延命院
開闢年代知不●●
開山 義観法師 遷化ノ年月相不知申候
本堂
本尊 大日如来木坐像
弘法大師 八十八所写第八十弐(?)番
水晶●辨財天 弘法大師之作
聖天 但厨子入
地蔵尊石立像
稲荷社
拙寺往矢(?)野倉浜町ニ有(略)延寿院与申候処
元和年中(1615-1624年)頃典薬頭延寿院道三与同号ニ付 台徳尊公(徳川秀忠公)上意ヲ以延命ニ改
開山義観法師 生国讃岐差田村 遷化ノ年月相不知申候
水晶●辨財天縁起云 天長五年(828年)弘法大師江州竹生島に来●し 二体の尊像を製作し給ひ 一体ハ竹生島の本尊とし、一体ハ●●此霊像なり
文安年間(1444-1449年)讃岐國●●山●●●当院の開山義観法師の夢中●像●して(略)武蔵国矢の蔵(倉)●町に一寺建立して安置せり
明暦三年(1657年)火災に●●て今の浅草新寺町に移●ると云ふ
「長樂寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
メトロ銀座線「田原町」駅からも歩けます。
住宅とオフィスビルが混在する立地。
元浅草から寿にかけては都内有数の寺院の密集地で、需要があるためか仏具・仏壇店が目立ちます。
都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左右衛門橋通りを南に入ってひとつ目の信号を左(東)に入ったところです。
この界隈は田の字の区画で南参道の寺院はさほど多くはありませんが、延命院は完全な南参道南向きで、ビルの谷間ながらどことなく明るい雰囲気があります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号札
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 参道
門柱に院号札、門柱手前には御府内霊場の札所標。
参道右手には赤地の御寶号幟を献ぜられた修行大師像が御座され、弘法大師御忌供養碑もあって御府内霊場札所の趣きゆたかです。
参道左寄り正面に本堂、その向かって左には延命地蔵尊。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 延命地蔵尊
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備に板蟇股。
向拝硝子格子戸で扁額はなく、賽銭箱には丸に揚羽紋。
通りから引き込んでいるので、落ち着いて参拝ができます。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
辨財天についてお伺いしたところ、戦災に遭って失われ、代佛も御座されていないとの由。
また、御朱印は御府内霊場のみで、荒川辺八十八ヶ所霊場第82番などの御朱印は授与されていないとのことでした。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に金剛界大日如来のお種子「バン」「大日如来」「弘法大師」の揮毫と「バン」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右に「第五十一番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第52番 慈雲山 蓮華院 観音寺
(かんのんじ)
新宿区西早稲田1-7-1
真言宗豊山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第52番、豊島八十八ヶ所霊場第52番、山の手三十三観音霊場第14番、近世江戸三十三観音霊場第15番
第52番は早稲田の観音寺です。
御府内霊場には「観音寺」を号する札所寺院が3つ(第42番蓮葉山 観音寺(谷中)、第52番慈雲山 観音寺(早稲田)、第85番大悲山 観音寺(高田馬場))あり、前2者をそれぞれ谷中観音寺、早稲田観音寺と呼んで区別されます。
第52番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに観音寺で、第52番札所は開創当初から早稲田の観音寺であったとみられます。
この寺院については史料がほとんど見当たらないので、『ルートガイド』をメインに縁起・沿革を追ってみます。
観音寺は寛文十三年(1673年)開山・賢栄和尚による創建といい、住民の発願により菩薩寺として建立とも伝わります。
御本尊の十一面観世音菩薩は智證大師円珍(814-891年)の御作といわれています。
円珍は入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)の一人で、讃岐国に豪族佐伯氏の一門として生誕され、弘法大師空海の甥(もしくは姪の息子)とも伝わります。
15歳で比叡山に登られ12年間の籠山行ののち、承和十二年(845年)には大峯、葛城、熊野諸山を巡礼し、修験道の発展にも寄与されたといいます。
仁寿三年(853年)入唐。天台山国清寺で求法され、斉衡二年(855年)には長安にて真言密教をも伝授されたといいます。
天安二年(858年)帰国。貞観十年(868年)比叡山延暦寺第5代座主となりました。
すでに貞観元年(859年)には大津の園城寺(三井寺)の長吏に補任。
園城寺は伝法灌頂の道場として隆盛し、寺門派(天台寺門宗)の拠点となりました。
円(法華経)、密(密教)、修験を極められ、天台宗の教義を広げられた傑僧として知られ、円珍を宗祖とする寺門派(天台寺門宗)はのちに円・密・禅・戒・修験の五法門をもって教義としています。
当山の縁起沿革については、寺伝類を焼失しているため詳細不明です。
よって、住民発願の真言密寺に寺門派(天台寺門宗)宗祖御作の御本尊が奉安された経緯についてもよくわかりません。
『ルートガイド』には「八十七番札所護国寺の隠居寺であったり、無住時代があったといわれています。」とあります。
護国寺の創建は天和元年(1681年)。当山創建は寛文十三年(1673年)で護国寺よりも早いですが、護国寺創建後に隠居寺となったのかもしれません。
御府内霊場の開創は宝暦五年(1755年)頃と伝わるので護国寺・当山創建の後になります。
観音寺は「護国寺の隠居寺」の流れから御府内霊場札所に定められたのではないでしょうか。
江戸期に複数の霊場札所に定められているので、相当の参詣者を集めたとみられますが、その様子は史料ではほとんど確認できませんでした。
貴重な史料である『御府内八十八ケ所道しるべ』の「本尊:十一面観世音菩薩 本社歓喜天宮」の記述が気になります。
歓喜天(大聖歓喜天)は強大なお力をもたれるとされる天部の尊格で、十一面観世音菩薩によって仏教の守護神となられたとされることから、十一面観世音菩薩とあわせて奉安されることが多く、ほとんどが秘佛です。
歓喜天の修法(聖天供(歓喜天供))は密教の奥義に属するとされるので、ここでは深くふれませんが、歓喜天(大聖歓喜天)を奉安する寺院の多くは霊験あらたかな祈願寺として知られ人々の信仰を集めています。
当山は早稲田大学の至近にあり、本堂も元早稲田大学の教授が設計されています。
早稲田大学周辺には寺院が多く、天台宗の宝泉寺は早稲田大学合格祈願寺として知られ、御朱印も授与されています。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十二番
下戸塚村
慈雲山 蓮華院 観音寺
牛込南蔵院末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社歓喜天宮 弘法大師
「観音寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ東西線「早稲田」駅で徒歩約10分。
都電荒川線「早稲田」駅からも歩けます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
ほとんど早稲田大学の構内といえる立地にあり、あたりは学生であふれています。
本堂は斬新な近代建築で、手前の寺号標がなければとても寺院とは思えません。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内
山内入口に寺号標。側面には御府内霊場札所の旨が刻まれています。
その横には古色を帯びた御府内霊場の札所標。
参道右手には恵比寿さまと大黒さまが仲良く並んで御座されています。
【写真 上(左)】 恵比寿尊・大黒尊
【写真 下(右)】 庚申塔
その先右手に御座する舟形光背の地蔵尊石像は珍しい地蔵菩薩像を主尊とする庚申塔(寛文四年(1664年)の銘)で、新宿区の有形民族文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 向拝前のお砂踏み場
【写真 下(右)】 扁額
2階建の本堂は建築家・石山修武氏による設計。
石山氏は「伊豆の長八美術館」(1985年)、日本建築学会賞受賞の「リアス・アーク美術館」(1995年)などの設計で知られ、平成26年まで早稲田大学の教授として教鞭をとられていました。
当本堂の竣工は平成8年(1996年)で30年近く経っていますが、いまでも斬新性を失っていません。
筆者は近代建築についてまったくのトーシロなので、詳細は→こちら(「建築とアートを巡る」様)をご覧くださいませ。
御朱印は本堂向かって右手に回り込んだ事務所にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「十一面観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十二番」の札所印。左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ 愛の季節 - アンジェラ・アキ
■ サイレント・イヴ - ClariS(Covered)
■ ebb and flow - LaLa(Covered)
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第50番 高野山 金剛閣 大徳院
(だいとくいん)
墨田区両国2-7-13
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第46番、弘法大師二十一ヶ寺第8番、坂東写東都三十三観音霊場第7番、大東京百観音霊場33番
※院号は德川家(徳川家の正式表記)からとったとすると、「大德院」が正式名と思われますがここでは通称の「大徳院」を使います。
第50番は両国の大徳院です。
第46番弥勒寺の記事でも書きましたが、第50番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場では本所立川の弥勒寺(現御府内霊場・第46番札所)となっています。
よって、江戸時代に第46番札所の大徳院と第50番札所の弥勒寺とが入れ替わった可能性があります。
その経緯は不明ですが、大徳院は御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
下記史料、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
大徳院は高野山金剛峯寺の江戸宿寺(宿寺居屋敷/江戸の拠点)で、寛永年間(1624-1644年)に拝領した神田紺屋町の屋敷地にありましたが、寛文六年(1666年)替地により本所猿江に移転、貞享元年(1684年)南本所元町(本所一ツ目)の現在地に二万廿坪余を拝領し移転したといいます。
神田紺屋町での建立 or 貞享元年(1684年)現在地に移転時の住職は本山中興の宥雅法印とされます。
江戸時代、高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の「高野三方(三派)」から成り立っていました。
聖方の頭寺院は蓮華(花)院(光徳院とも)で、弘法大師が悪魔降伏のため軍荼利明王の秘法を修し、結界を結ばれた草庵が草創とされます。
文禄三年(1594年)家康公が秀吉公に随従して高野山に参り蓮華院に止宿した際、家康公から大徳院の院号が与えられたといいます。
以降、徳川家との親交を深め、寛永年間(1624-1644年)大徳院の後山に東照宮(家康公)、台徳院殿(秀忠公)の御霊屋(徳川家霊台)が建立され、徳川家菩提所となりました。
「高野山霊宝館」公式Webには「徳川家霊台とは、徳川家康と秀忠をまつる東照宮をいいます。この場所は本来、聖派の代表寺院である大徳院の境内だったのですが、大徳院自体は明治になって他の寺院と合併して現存しませんので、霊台だけが残りました。大徳院は、代々徳川家との関係が深い寺院で、後に家康によって、それまで蓮華院と呼んでいたのを、『大徳院』と改められたともいわれています。造営に着工したのは寛永10年(1633)頃で、同16年には、正式に将軍家光より認可され、同20年に竣工」とあります。
「ぐるりん関西」には、蓮華(花)院の沿革や徳川家との関係が載っていますので抜粋引用します。
-------------------------(引用はじめ)
・蓮花院は、和歌山県高野山の小田原谷にある真言宗の準別格本山
・寺伝によると、弘法大師が悪魔降伏のため軍荼利明王の秘法を修し、結界を結んだ時の草庵が寺の起こりとされる。
・古くは聖方に属し、五之室谷の徳川家霊台の前に位置し、室町時代には光徳院、江戸時代は大徳院と号した。
・徳川将軍家の菩提寺として、歴代宗家の位牌と家康、秀忠の尊像が祀られている。
・水戸光圀の位牌や家康の念持仏といわれる薬師瑠璃光如来を奉安。
〔徳川家との関係〕
・永享十一年(1439年) 当院主が相模の藤沢寺(現・清浄光寺)に止宿し、家康公の祖先松平太郎左衛門親氏入道徳阿弥と師檀関係を結ぶ
・天文四年(1535年) 家康公の祖父松平清康公の遺骨が当院に納められ光徳院と改号
・文禄三年(1594年) 家康公が豊臣秀吉公に随従して高野山に参り、光徳院に止宿した際、家康公から大徳院の院号が与えられる
・寛永年間(1624-1644年) 大徳院の後山に東照宮(家康)、台徳院殿(秀忠)の御霊屋(徳川家霊台)が建立され、徳川家菩提所となる
・奥の院の松平秀康及び同母霊屋、徳川秀忠夫人崇源院供養塔は当院が管理している
-------------------------(引用おわり)
御府内霊場札所のなかでもとくに徳川将軍家とのかかわりが深い寺院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「東照宮御本地」「寅の神」という記載があります。
江戸時代は高野山大徳院の江戸在番所(出張所)として宗務伝達所兼高野山諸末寺(聖方)総觸頭の地位にあり、江戸の弘法大師信仰あるいは「高野聖」(高野山を本拠とした遊行者)の活動の中心にあったともいいますが、明治18年にその機能を長寿寺(現・高野山東京別院)に移し現在に至っています。
御本尊の薬師瑠璃光如来は「本所一つ目寅薬師」と称され、とくに眼病治癒に霊験あらたかとされ信仰を集めています。
日光山輪王寺の公式Webによると、東照大権現の本地仏は薬師如来で、日光東照宮の本地堂(薬師堂)には薬師如来が奉安されています。
また、家康公は寅年、寅の日、寅の刻生まれともいわれ、家康公とゆかりのふかい寺院として、御本尊=寅薬師如来は自然に受け入れられたと思われます。
『御府内八十八ケ所道しるべ』に憚りなく「東照宮御本地」と書かれているので、おそらく公認されていたのでは。
このあたりは高野山の徳川家霊台を護持される、(高野山)大徳院の威光があったのかも。
【写真 上(左)】 日光東照宮本地堂の御朱印
【写真 下(右)】 上野・パゴダ大仏殿の薬師如来の御朱印
なお、上野の東照宮境内にもしっかり本地堂(薬師堂)はありましたが、明治初期の神仏分離令により御本尊の薬師三尊は寛永寺に移管され、現在は「パゴダ大仏殿」内に奉安されています。
あるいは天台宗(比叡山)系の御本地(=東照宮本地堂)、真言宗(高野山)系の御本地(=大徳院)という色分けが意図的になされていたのかもしれません。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
五十番
本所一ッ目元町南
東照宮御本地 大德院
どくれい(独礼)せ● 古義
本尊:薬師如来 寅の神 弘法大師
■ 『寺社書上 [88] 本所寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.18』
御尊牌所
南本所 本所一ツ目
高野山金剛峯寺 大徳院宿寺
高野山聖方法国末寺 御尊牌所ニ候
古義真言宗高野山聖方諸国本寺惣触頭ニ候
●●年月不知
神田紺屋町辺● 宿寺居屋敷拝領仕●立
右●其所を諸人薬師堂前と呼び●●町の名となり
右之薬師(尊)像は弘法大師の作
寛文六年(1666年)右屋敷替地仰付 本所猿江に●●ひて寺地拝領仕
神田より猿江に引移り
貞享元年(1684年)南本所元町(本所一ツ目)にて●●の寺地二万廿坪余拝領仕候
開山 弘法大師
中興 宥雅法印 俗姓不知 寛文十四年(1673年?)寂
俗姓波多野●● ●永二年高野山●●●蓮花院(大徳院と御号)
任●●●寺代奉所
本堂
本尊 薬師如来座像 弘法大師作
脇立 日光菩薩立像 月光菩薩立像 十二神将立像
●雲院様(家光公とも)七回御忌御追福之● 竹千代君様(4代将軍家綱公)絵巻当御寄附(略)
有候薬師如来之尊像一体●●当院に奉納 是を寅薬師と称し御本地佛と崇敬して永く御武運長久を祈
台徳院様(2代将軍徳川秀忠公)御代、寛永年中(1624-1644年)、高野山より江戸神田の宿寺に右の尊像を移
弘法大師座像
同前佛座像
不動明王立像
社壇
稲荷立像
天満宮座像
高野四社明神繪像
辨財天座像 弘法大師作
寺寶
太政官符 嵯峨天皇より弘法大師●高野山を賜ふ御公御手判●
般若心経 弘法大師御真筆
大威徳明王像 弘法大師作
香合之内 愛染明王像一体 虚空蔵菩薩像一体 作人同前
「大德院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはJR総武線「両国」駅で徒歩約5分。
都営大江戸線「両国」駅からも歩けます。
下町らしい低平な土地。オフィスと住宅の混在地にあります。
第23番、日本橋の薬研堀不動院とは隅田川を挟んで相対する立地で、すぐ北隣りは回向院です。
【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 札所標
平成25年に完成した地上5階地下1階建のビルで、一般的には「両国陵苑」のほうが通りがいいかもしれません。
【写真 上(左)】 延命地蔵尊
【写真 下(右)】 エントランス
エントランス前に延命地蔵菩薩が御座し、ビル前に札所碑、エントランスに唐破風を配しているので、近代的なビルながら寺院とすぐにわかります。
1階総合受付で参拝&御朱印の受付。
上層階の本堂のお参りもできますが、1階の弘法大師坐像も御府内霊場の拝所となっています。
【写真 上(左)】 1階弘法大師坐像横の札所札
【写真 下(右)】 1階弘法大師坐像
中段に弘法大師座像。
背後の壁面には智拳印を結ばれた金剛界大日如来の画像が掲げられています。
完璧なビル内参拝で、都会の霊場・御府内霊場らしい札所といえましょう。
御朱印は1階総合受付にて拝受しました。
いくつかの霊場札所を兼務されていますが、現況、御朱印を授与されているのは御府内霊場のみの模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に薬師如来のお種子「バイ」「薬師如来」「弘法大師」の揮毫と「バイ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右に「第五十番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用集印帳の御朱印には「寅薬師」の揮毫もありました。
■ 第51番 玉龍山 弘憲寺 延命院
(えんめいいん)
台東区元浅草4-5-2
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第82番、弘法大師二十一ヶ寺第20番、弁財天百社参り第67番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第6番、奥の細道関東路三十三所霊場第3番
第51番は元浅草の延命院です。
御府内霊場には「延命院」を号する札所寺院がふたつ(第5番金剛山 延命院(南麻布)、第51番玉龍山 延命院(元浅草))ありますが、第5番の延命院を「麻布延命院」と呼んで区別しているようです。
第51番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに浅草鳥越の長樂寺となっています。
よって、第51番札所は明治以降に浅草鳥越の長樂寺から元浅草の延命院に変更されたとみられます。
まずは鳥越の長樂寺について、下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。
長樂寺は鳥越に御鎮座の鳥越大明神(現・鳥越神社)の別当でした。
まずは、主に鳥越神社の境内掲示類から縁起・来歴を追ってみます。
鳥越大明神は白雉二年(651年)村人が日本武尊の遺徳を偲び、白鳥明神として鳥越山(白鳥山)に祀ったのが創祀と伝わる古社です。
往年のこの地は「鳥越(白鳥)の山」と呼ばれた小高い丘で、日本武尊が東夷御征伐の折に暫く御駐在された地といいます。
相殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、中臣(藤原)氏の祖神として祀られ、奈良時代に藤原氏が国司として武蔵に赴任した際、この地にお祀りされたといいます。
永承(1046-1053年)の頃、八幡太郎義家公の奥州征伐の折、この地で渡河に難儀しましたが、白い鳥に浅瀬を教えられて無事軍勢を進めることができました。
義家公はこれを白鳥大明神の御加護と称え、鳥越山(白鳥山)のお社を参拝され「鳥越大明神」の号を奉じられて、これより「鳥越」の地名が起こったとされます。
社地はすこぶる広く、三味線堀(姫が池)に熱田明神、森田町に第六天神(榊神社)が末社として御鎮座され「鳥越三所明神」と称していました。
徳川幕府による旗元・大名屋敷・御蔵地整備のため、鳥越山はとり崩されて埋め立てに使われました。
この際、熱田神社は三谷(現・今戸)へ、榊神社は堀田原(現・蔵前)へと御遷座され、鳥越大明神も御遷座を迫られましたが、第二代神主鏑木胤正の請願が容れられて元地に残られました。
別当・長樂寺は『寺社書上』によると、開山の法印の遷化が寛永二十年(1643年)なので、3代将軍家光公の治世(1623-1651年)までには創建とみられます。
鳥越山轉輪院長樂寺と号し、山号は本社から、院号は兼帯していた京都嵯峨轉輪院永院室から号したものとみられます。
本社・鳥越大明神の御本地馬頭観音、御本尊として不動明王を奉安していました。
弘法大師御像も奉安していたため、御府内霊場札所の要件はきっちり満たしていたとみられます。
鳥越大明神の神職鏑木氏は桓武平氏常将流と伝わり、鳥越神社の社紋として月星紋・九曜紋(千葉氏の紋)が使われているようです。
また、長樂寺に星供養曼荼羅が奉安されていたことからも、妙見信仰の千葉氏との関係がうかがわれます。
鳥越大明神と別当・長樂寺は源氏の棟梁・八幡太郎義家公、桓武平氏の代表姓・千葉氏いずれともゆかりをもつ、複雑な来歴をもたれているのかもしれません。
明治初期の神仏分離で別当の長樂寺は廃寺となり、以降は鳥越神社と号して郷社に列せられました。
【写真 上(左)】 鳥越神社
【写真 下(右)】 鳥越神社の御朱印
なお、相殿の東照宮の前身は、寛永十一年(1634年)、蔵前(南元町)の松平西福寺そばに江戸城の鬼門除けとして3代将軍家光公が祀られた松平神社(御祭神:徳川家康公)で、大正14年に鳥越神社の相殿に御遷座されました。
■ 松平西福寺(蔵前)
例大祭・鳥越祭は都内随一の重さを誇る「千貫神輿」の渡御と、夜に行われる荘厳な宮入で「鳥越の夜祭り」として広く知られています。
つぎに元浅草の延命院について、下記史料、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
延命院は当初谷野(矢ノ蔵)に創建されたという新義真言宗寺院です。
東日本橋の矢之庫稲荷神社の由緒書には「当地に隣接する東日本橋1丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃、幕府が米蔵を建て谷野蔵・矢之倉と称されていました。」とあるので、現在の東日本橋一丁目あたりとみられます。
『寺社書上』では開闢年代知不としながらも、奉安佛・水晶辨財天の縁起書に開山義観法師が文安年間(1444-1449年)に夢告を受け、武蔵国矢の蔵(倉)に一寺を建立して安置とあるので、その頃の創建とみられます。
現在の御本尊は大日如来ですが、寺院の草創は水晶辨財天の奉安によるものとあるので、当初の御本尊は辨財天だったのかもしれません。
当初は延寿院と号しましたが、元和年中(1615-1624年)頃、典薬頭延寿院道三と同号となったため、台徳尊公(徳川秀忠公)の上意により延命院と改めたといいます。
江戸時代は大塚の護持院末でありました。
『寺社書上』には「弘法大師 八十八所写第八十弐(?)番」とありますが、これは御府内霊場ではなく、おそらく荒川辺八十八ヶ所霊場を指すとみられます。
荒川辺八十八ヶ所霊場は天保九年(1838年)以前の開創とされる弘法大師霊場で、根岸・世尊寺から打ち始め、荒川、日暮里、尾久、船堀、豊島、江北、本木、千住、綾瀬、亀有、墨田、向島、亀戸、元浅草と回って根岸・千手院で結願となります。
→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
当山は第82番札所で、『寺社書上』の記載と符合します。
本堂に御座の御本尊大日如来、弘法大師御像が荒川辺霊場の拝所であったとみられます。
別に弘法大師の御作と伝わる水晶辨財天を奉安していました。
水晶辨財天は天長五年(828年)、弘法大師が琵琶湖の竹生島に参籠された折、二体の辨財天尊像を製作され、一体は竹生島の御本尊とし、一体はこの霊像と伝わります。
文安年間(1444-1449年)、讃岐國におられた開山義観法師の夢中にこの尊像があらわれ、お告げを受けた義観法師が東国へ下って武蔵国矢の蔵(倉)に一寺を建立してこの尊像を安置したのが当山草創とも伝わります。
竹生島辨財天は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」のひとつで、こちらの辨財天と同作の尊像とあれば、江戸庶民の信仰を集めたことは想像に難くありません。
実際、当山の水晶辨財天は弁財天百社参り第67番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第6番の札所となっていました。
当山の水晶辨財天は関東大震災、東京大空襲の災禍により消失し、現存はしていないとのこと。(出典:Wikipedia)
なお、弘法大師御作、義觀上人ゆかりとされる辨財天は鶴見の一至山 安養寺にも奉安され、こちらは鶴見七福神の一尊となっています。
(→ 安養寺公式Web)
明暦三年(1657年)火災(おそらく明暦の大火)に遭い、浅草新寺町(現・元浅草)に移転といいます。
鳥越神社は明治期に郷社に列格したほどの名社で、その別当・長樂寺が神仏分離で廃されたのは避けられない流れだったのかもしれません。
長樂寺は高野山金剛三昧院末の古義真言宗、延命院は大塚護持院末の新義真言宗で、宗派からすると御府内霊場札所(第51番)の承継はやや不自然な感じもします。
しかし第45番観蔵院と同様、荒川辺八十八ヶ所霊場の札所(第82番)で、あるいは弘法大師霊場札所寺院ということで定められたのかも。
荒川辺八十八ヶ所霊場は豊島八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場との札所重複は少なくないですが、御府内霊場との重複は亀戸東覚寺(第73番)、成増青蓮寺(第19番)、観蔵院(第45番)と延命院(当山)の4つしかありません。
しかし、下町の弘法大師霊場のうち蔵前・浅草辺に札所をもつのは荒川辺八十八ヶ所霊場だけなので、浅草鳥越に近い元浅草の札所から選ばれたのかもしれません。
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【史料】
【長樂寺関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
五十一番
浅草鳥越明神 門前町あり
鳥越山 轉輪院 長樂寺
高野山金剛三昧院末 古義
本尊:不動明王 本社鳥越明神 弘法大師
■ 『寺社書上 [73] 浅草寺社書上 甲一』(国立国会図書館)
別当・長樂寺についてはこちらから記載されていますが、あまりに豪快な筆致につき解読不能が多いです。
抜粋引用します。
鳥越大明神 御本地馬頭観音
本尊 不動明王
弘法大師厨子入
金毘羅大権現
星供養曼荼羅厨子入
正観音像厨子入
●佛不動明王
●佛十一面観音厨子入
十三佛尊像厨子入
●大師像厨子入
聖天堂●●
聖天厨子入
銅佛十一面●殿入
別当 長樂寺
古義真言宗 本寺●●高野山金剛三昧院末
山号 鳥越山 ●●院
開山 法印(不明) 遷化之年月寛永廿年(1643年)四月十三日
中興開山 法印良長 遷化之年月●和二年
■ 『江戸名所図会 7巻 [16]』(国立国会図書館)
鳥越明神社
元鳥越町にあり此辺の産土神とす 祭神日本武尊 相殿天児屋根命なり 昔ハ第六天神 熱田明神を合わせて鳥越三所明神と号けし● 正保二年(1645年)此地公用の為に召上られ 三谷に●く替地を給ひけり 小社の地にかりを残さる その頃より熱田ハ三谷の地へうつし第六天ハ●田町へうつせりといへり
当社ハ最古跡なれとも 舊記等散失して勧請の年暦来由等詳ならすといへり
【延命院関連】
■ 『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.59』
浅草新寺町
新義真言宗 大塚護持院末
玉龍山弘憲寺延命院
開闢年代知不●●
開山 義観法師 遷化ノ年月相不知申候
本堂
本尊 大日如来木坐像
弘法大師 八十八所写第八十弐(?)番
水晶●辨財天 弘法大師之作
聖天 但厨子入
地蔵尊石立像
稲荷社
拙寺往矢(?)野倉浜町ニ有(略)延寿院与申候処
元和年中(1615-1624年)頃典薬頭延寿院道三与同号ニ付 台徳尊公(徳川秀忠公)上意ヲ以延命ニ改
開山義観法師 生国讃岐差田村 遷化ノ年月相不知申候
水晶●辨財天縁起云 天長五年(828年)弘法大師江州竹生島に来●し 二体の尊像を製作し給ひ 一体ハ竹生島の本尊とし、一体ハ●●此霊像なり
文安年間(1444-1449年)讃岐國●●山●●●当院の開山義観法師の夢中●像●して(略)武蔵国矢の蔵(倉)●町に一寺建立して安置せり
明暦三年(1657年)火災に●●て今の浅草新寺町に移●ると云ふ
「長樂寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
メトロ銀座線「田原町」駅からも歩けます。
住宅とオフィスビルが混在する立地。
元浅草から寿にかけては都内有数の寺院の密集地で、需要があるためか仏具・仏壇店が目立ちます。
都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左右衛門橋通りを南に入ってひとつ目の信号を左(東)に入ったところです。
この界隈は田の字の区画で南参道の寺院はさほど多くはありませんが、延命院は完全な南参道南向きで、ビルの谷間ながらどことなく明るい雰囲気があります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号札
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 参道
門柱に院号札、門柱手前には御府内霊場の札所標。
参道右手には赤地の御寶号幟を献ぜられた修行大師像が御座され、弘法大師御忌供養碑もあって御府内霊場札所の趣きゆたかです。
参道左寄り正面に本堂、その向かって左には延命地蔵尊。
【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 延命地蔵尊
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備に板蟇股。
向拝硝子格子戸で扁額はなく、賽銭箱には丸に揚羽紋。
通りから引き込んでいるので、落ち着いて参拝ができます。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
辨財天についてお伺いしたところ、戦災に遭って失われ、代佛も御座されていないとの由。
また、御朱印は御府内霊場のみで、荒川辺八十八ヶ所霊場第82番などの御朱印は授与されていないとのことでした。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に金剛界大日如来のお種子「バン」「大日如来」「弘法大師」の揮毫と「バン」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右に「第五十一番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第52番 慈雲山 蓮華院 観音寺
(かんのんじ)
新宿区西早稲田1-7-1
真言宗豊山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第52番、豊島八十八ヶ所霊場第52番、山の手三十三観音霊場第14番、近世江戸三十三観音霊場第15番
第52番は早稲田の観音寺です。
御府内霊場には「観音寺」を号する札所寺院が3つ(第42番蓮葉山 観音寺(谷中)、第52番慈雲山 観音寺(早稲田)、第85番大悲山 観音寺(高田馬場))あり、前2者をそれぞれ谷中観音寺、早稲田観音寺と呼んで区別されます。
第52番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに観音寺で、第52番札所は開創当初から早稲田の観音寺であったとみられます。
この寺院については史料がほとんど見当たらないので、『ルートガイド』をメインに縁起・沿革を追ってみます。
観音寺は寛文十三年(1673年)開山・賢栄和尚による創建といい、住民の発願により菩薩寺として建立とも伝わります。
御本尊の十一面観世音菩薩は智證大師円珍(814-891年)の御作といわれています。
円珍は入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)の一人で、讃岐国に豪族佐伯氏の一門として生誕され、弘法大師空海の甥(もしくは姪の息子)とも伝わります。
15歳で比叡山に登られ12年間の籠山行ののち、承和十二年(845年)には大峯、葛城、熊野諸山を巡礼し、修験道の発展にも寄与されたといいます。
仁寿三年(853年)入唐。天台山国清寺で求法され、斉衡二年(855年)には長安にて真言密教をも伝授されたといいます。
天安二年(858年)帰国。貞観十年(868年)比叡山延暦寺第5代座主となりました。
すでに貞観元年(859年)には大津の園城寺(三井寺)の長吏に補任。
園城寺は伝法灌頂の道場として隆盛し、寺門派(天台寺門宗)の拠点となりました。
円(法華経)、密(密教)、修験を極められ、天台宗の教義を広げられた傑僧として知られ、円珍を宗祖とする寺門派(天台寺門宗)はのちに円・密・禅・戒・修験の五法門をもって教義としています。
当山の縁起沿革については、寺伝類を焼失しているため詳細不明です。
よって、住民発願の真言密寺に寺門派(天台寺門宗)宗祖御作の御本尊が奉安された経緯についてもよくわかりません。
『ルートガイド』には「八十七番札所護国寺の隠居寺であったり、無住時代があったといわれています。」とあります。
護国寺の創建は天和元年(1681年)。当山創建は寛文十三年(1673年)で護国寺よりも早いですが、護国寺創建後に隠居寺となったのかもしれません。
御府内霊場の開創は宝暦五年(1755年)頃と伝わるので護国寺・当山創建の後になります。
観音寺は「護国寺の隠居寺」の流れから御府内霊場札所に定められたのではないでしょうか。
江戸期に複数の霊場札所に定められているので、相当の参詣者を集めたとみられますが、その様子は史料ではほとんど確認できませんでした。
貴重な史料である『御府内八十八ケ所道しるべ』の「本尊:十一面観世音菩薩 本社歓喜天宮」の記述が気になります。
歓喜天(大聖歓喜天)は強大なお力をもたれるとされる天部の尊格で、十一面観世音菩薩によって仏教の守護神となられたとされることから、十一面観世音菩薩とあわせて奉安されることが多く、ほとんどが秘佛です。
歓喜天の修法(聖天供(歓喜天供))は密教の奥義に属するとされるので、ここでは深くふれませんが、歓喜天(大聖歓喜天)を奉安する寺院の多くは霊験あらたかな祈願寺として知られ人々の信仰を集めています。
当山は早稲田大学の至近にあり、本堂も元早稲田大学の教授が設計されています。
早稲田大学周辺には寺院が多く、天台宗の宝泉寺は早稲田大学合格祈願寺として知られ、御朱印も授与されています。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十二番
下戸塚村
慈雲山 蓮華院 観音寺
牛込南蔵院末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社歓喜天宮 弘法大師
「観音寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはメトロ東西線「早稲田」駅で徒歩約10分。
都電荒川線「早稲田」駅からも歩けます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
ほとんど早稲田大学の構内といえる立地にあり、あたりは学生であふれています。
本堂は斬新な近代建築で、手前の寺号標がなければとても寺院とは思えません。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内
山内入口に寺号標。側面には御府内霊場札所の旨が刻まれています。
その横には古色を帯びた御府内霊場の札所標。
参道右手には恵比寿さまと大黒さまが仲良く並んで御座されています。
【写真 上(左)】 恵比寿尊・大黒尊
【写真 下(右)】 庚申塔
その先右手に御座する舟形光背の地蔵尊石像は珍しい地蔵菩薩像を主尊とする庚申塔(寛文四年(1664年)の銘)で、新宿区の有形民族文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 向拝前のお砂踏み場
【写真 下(右)】 扁額
2階建の本堂は建築家・石山修武氏による設計。
石山氏は「伊豆の長八美術館」(1985年)、日本建築学会賞受賞の「リアス・アーク美術館」(1995年)などの設計で知られ、平成26年まで早稲田大学の教授として教鞭をとられていました。
当本堂の竣工は平成8年(1996年)で30年近く経っていますが、いまでも斬新性を失っていません。
筆者は近代建築についてまったくのトーシロなので、詳細は→こちら(「建築とアートを巡る」様)をご覧くださいませ。
御朱印は本堂向かって右手に回り込んだ事務所にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「十一面観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十二番」の札所印。左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18)
■ 札所リスト・目次など
→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ 愛の季節 - アンジェラ・アキ
■ サイレント・イヴ - ClariS(Covered)
■ ebb and flow - LaLa(Covered)
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