関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 志木開運・招福七社参り-1
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先日、敷島神社の境内に「志木開運・招福七社参り」の新しいリーフレットが置かれていました。
この神社巡りは恒久的なものかどうか不明でしたが、新版のリーフレットがつくられたということは、定着を目指しているものと思われます。
こちらの神社巡りについてはすべて御朱印を拝受していますが、本務社の水宮神社の宮司様は兼務社多数ですこぶる多忙なご様子なので、常時七社の御朱印を授与されているかは不明です。
ただし、敷島神社と境内社の田子山富士塚については、祭礼日および原則「大安」「友引」の日に境内で御朱印を拝受できます。
志木市は住宅地ですが、東部の川沿いにはけっこう自然が残っていて、朝霞五社巡りとともに変化に富んだ神社巡りを味わうことができます。
川越ほども混まないし、東上線沿線の方はお正月の空いた時間にでもトライされてみてはいかがでしょうか。
【関連記事】
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■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)
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2021/05/08 UP
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こちらのサイトで以前からその存在は知っていたものの、詳細不明だった神社参り。
七社とも参拝済で一部御朱印も拝受済でしたが、先般、敷島神社の境内にリーフレットが置いてあったのでリーフ記載の問合せ先の水宮神社様にお伺いすると七社とも御朱印授与可とのことで、これまで未拝受の御朱印もいただいてきました。
ただし、書置はなく、ご神職もすこぶるご多忙なご様子なので、よほどタイミングが合わないと拝受はむずかしいかもしれません。
筆者も数回に分けて御朱印帳をお預けしての拝受となりました。
こういう状況なので迷いましたが、それぞれ趣きある神社ですし、新たにリーフレットの配布も始められていますし、このところお隣の朝霞市の朝霞五社巡りの記事にも多くのアクセスをいただいているので、ご参考までにUPすることにしました。
志木開運・招福七社参りは、志木市内に御鎮座の七社を巡拝するものです。
1番 敷島神社 志木市本町2-9 境内に田子山富士塚あり
2番 舘氷川神社 志木市柏町3-6
3番 (羽根倉)浅間神社 志木市上宗岡4-27-20 別称:羽根倉浅間神社
4番 宿氷川神社 志木市上宗岡2-2 別称:上ノ氷川神社
5番 産財氷川神社 志木市中宗岡2-29 別称:中ノ氷川神社
6番 下ノ宮氷川神社 志木市下宗岡4-7 別称:下ノ氷川神社、下の宮氷川神社
7番 (中宗岡)天神社 志木市中宗岡1-4-36
埼玉県南部に位置する志木市は広くはないですが、江戸時代は新河岸川の舟運の要衝で、引又河岸(現在の市役所付近)は物産の集散地として栄え、寺社も比較的多く残っています。
市域のほとんどが住宅地(一部農地)ですが、南側は武蔵野台地、中心部から北部にかけては柳瀬川、新河岸川、そしてさいたま市との市境には荒川が流れ、地勢も変化に富んでいます。
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【写真 上(左)】 新河岸川沿いは桜の名所
【写真 下(右)】 左手が武蔵野台地の斜面林
こちらの資料の図をみると、志木開運・招福七社参りや朝霞五社巡りは、ちょうど柳瀬川と黒目川に挟まれた武蔵野台地と、荒川(新河岸川)沿いの低地を行き来する道程であることがわかります。
〔 志木開運・招福七社参りの神社の位置図 〕
※ 志木市洪水ハザードマップを加工して作図
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上図の左下の色のついていないエリアが武蔵野台地、新河岸川から北の色がついているエリアが新河岸川と荒川に挟まれた低平地(宗岡エリア)です。
この図からも、武蔵野台地と荒川(新河岸川)沿いの低地を行き来する、変化に富んだ道程であることがわかります。
上図のとおり七社はほとんど川沿いに鎮座しているので、荒川・新河岸川・柳瀬川の3つの川沿いのハイキング・コースを巡拝ルートにとることもできます。
志木は石工の盛んな地で、星野勝五郎、星野弥五郎などの名工を輩出しています。
また、高野伊兵衛からつながる高野一族、万寿五郎注之など大工の棟梁も輩出しており、彼らの手とみられる作品がいまも市内でみられる点も楽しみのひとつです。
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【写真 上(左)】 メイン通り
【写真 下(右)】 柳瀬川
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【写真 上(左)】 新河岸川沿いの遊歩道
【写真 下(右)】 荒川沿いの遊歩道
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【写真 上(左)】 新河岸川と柳瀬川の合流点
【写真 下(右)】 市のキャラ「かっぱ」が至る所にいます
7社いずれも非常駐ですが、敷島神社は特定の日に境内社の田子山富士塚のご開山があるので(田子山富士塚公式Webを参照、祭礼日および原則「大安」「友引」の日)、そのときには敷島神社と田子山富士塚の書置御朱印を拝受できます。
それ以外は、上記のとおり水宮神社でタイミングがあえば拝受できるかもしれません。
敷島神社と(羽根倉)浅間神社には駐車スペースがありますが、それ以外は不明でアプローチの道もこみ入っているので、市内のどこかの駐車場に停めて徒歩でまわるのがベター。
電車利用の場合は、東武東上線「志木」駅がベースとなります。
発願の敷島神社は「志木」駅から1㎞強、徒歩で20分ほどかかりますので頻繁に運行しているバスを使うのも手かもしれません。(バス停「富士道入口」下車徒歩5分)
また、JR浦和駅発志木駅行きのバスは日中は1時間に3本ほど運行され、これも「富士道入口」に停まるので浦和方面からも便利がいいです。
かなり歩き甲斐があり、見どころも多いので思いのほか時間がかかります。
1日ないし数日かけてじっくり参拝し、御朱印については事前にTEL確認のうえお伺いするのがベターかと思います。
また、上記のとおり田子山富士塚の開山日にはこちらの御朱印も拝受できますので、開山日にあわせた巡拝がおすすめです。
それでは、順に連載形式でご紹介していきます。
(関連する寺社の御朱印もあわせてこ紹介します。)
1.敷島神社
埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市本町2-9
御祭神:木花開耶姫大神、罔象女大神、倉稲魂大神
境外社:津島天王社(本町2-4)、御嶽神社(本町2-15)
御利益:開運招福
旧社格:村社
元別当:
授与所:境内(田子山富士塚開山日)ないし水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)
※水宮神社授与所には敷島神社の御朱印の見本が掲出されているので、こちらでは開山日以外でも拝受可能と思われます。
なお、敷島神社から水宮神社までは、気合いを入れれば歩けます。(新河岸川沿い遊歩道を2㎞ほど)
朱印揮毫:敷島神社 書置ないし直書(筆書)
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【写真 上(左)】 水宮神社で拝受の御朱印(直書)
【写真 下(右)】 敷島神社境内で拝受の御朱印(書置)
かつて、新河岸川と柳瀬川の合流地点にかかる”いろは橋”周辺は「引又河岸」と呼ばれ、新河岸川舟運の要衝でした。
いろは親水公園内の説明板に詳しいので、抜粋引用してみます。(引又河岸については、こちらのWebに詳しいです。)
※ 過去の写真や図は現地案内版、行屋稲荷境内掲示物などより
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【写真 上(左)】 旧引又河岸周辺の案内図
【写真 下(右)】 旧引又河岸周辺
「新河岸川舟運の起源は、寛永十五年(1638年)に川越の大火で燃えた東照宮・喜多院を再建するため、江戸城紅葉山御殿を運んだことに始まると言われているが、それ以前からも本河岸(現富士見市)や古市場(現川越市)までの舟運が行われていたようである。正保二年(1645年)に川越藩主松平信綱が川筋を整備し、舟運が本格化した。」
「引又河岸(明治7年からは志木河岸)は、新河岸川の河岸場のなかでも、取引の範囲が群を抜いて広大であり、所沢・立川・八王子・青梅さらには甲府まで荷主が分布していた。これは、府中から大宮を経て奥州に達する奥州街道(脇往還)と交差する交通の要衝であり、また、江戸時代初期から六齋市が立てられていたことによると考えられる。」
「舟運に使われた舟は80石~100石で、速さによって分けられ、飛切(引又を夕方出て翌日の夜明けに浅草・花川戸に着く)、早舟(下りに15時間)、並舟(不定期)の3種類があった。」
「取り扱われた貨物は、江戸からの上りものでは綿糸・雑貨・鮮魚・糠・〆粕・塩・藁・石材・肥料など、江戸への下りものでは酒・米・大麦・小麦・醤油・材木・燃料など。乗客を扱うようになったのは天保の頃(1830-1840年)からで、おもに飛切が使用された。」
「引又河岸には、いつの時代にも2軒以上の舟問屋(三上問屋、井下田問屋、高須問屋など)が営業していたが、新河岸川の改修や鉄道の普及により舟運は急速に衰え、昭和6年には廃業に至った。」
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【写真 上(左)】 明治37年の引又河岸
【写真 下(右)】 引又河岸の輸送船(大正時代)
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【写真 上(左)】 いろは橋のレリーフ(しきがし)
【写真 下(右)】 旧村山快哉堂(土蔵造りの店蔵)
敷島神社はこの引又河岸をみおろす高台に、明治40年(1907年)、当地の浅間神社に村社の村山稲荷神社・星野稲荷神社と水神社の三社を合祀し、敷島神社と改めて成立しました。
社名は、御祭神木花開耶姫大神にちなみ、本居宣長の和歌「敷しまの倭こころを人とはは朝日ににほふ山さくら花」から引いたものとされています。
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【写真 上(左)】 引又河岸の説明板
【写真 下(右)】 引又河岸の水神宮碑
田子山富士塚公式Webによると、幕末に引又町で醤油醸造業を営む高須庄吉という人が霊夢に導かれ、当地の田子山塚で「逆修」の板碑を発見しました。
この板碑は、室町時代の暦応三年(1340年)、僧・十瀧房承海が富士山入定に先立って建立したものとされています。
富士山信仰に篤い高須氏は田子山塚の上に富士塚築造の決意を固め、同志を募って明治2年10月から明治5年6月までの期間を要し、田子山富士塚として完成に至りました。
富士塚の頂上には木花開耶姫大神を奉斎して浅間神社と号しました。
引又周辺(現・志木市内)は富士信仰の盛んな地で、「田子山富士」の「丸吉講」以外にも上宗岡の「浅間神社」を中心とした「丸藤講」があり、明治13年に「羽根倉富士嶽」が築造されています。
「丸藤講」の第八代先達「日行星山」(本名:星野勘蔵)は、明治25年に富士山麓(富士吉田市)に「吉田胎内」を開基されています。
村山稲荷神社は武蔵七党に属した名族、村山家の総本家(助右衛門家)の地所に祀られていたお社、星野稲荷神社は星野家の総本家の地所に祀られたお社とされます。
また、水神社は、新河岸川の引又河岸付近に舟運の安全を祈って祀られていたお社とされます。
境内にいるとさほど感じませんが、新河岸川から眺めるとかなりの高みにあり、武蔵野台地東端の要地に鎮座していることがわかります。
ここから志木中心部にかけての高みは、市の西側を流れる柳瀬川の流れを北上させるほどのもので、南側の新座市にある平林寺方向までつづきます。
また、立川市の玉川上水から引かれた野火止用水(伊豆殿堀)は新座市の平林寺境内を流れ、敷島神社の下で新河岸川に注いでいました。(志木市観光協会Web、一部いろは樋で新河岸川を渡って旧宗岡村方面にも分流。)
このことからも、志木が水利に乏しい武蔵野台地の北(東)端に位置することがわかります。
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【写真 上(左)】 新河岸川からのぞむ敷島神社の高台
【写真 下(右)】 敷島神社下の”はけの道”
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【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居
住宅地から参道に入ります。
社頭に石造の明神鳥居で、最近立派な社号扁額が掲げられました。
右に「敷島神社」の社号標。
正面にこんもりと田子山富士塚が見えます。
地域の中核社らしく多くの境内社も鎮座し、地域の住民が集って華やぎのある境内です。
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【写真 上(左)】 境内案内図
【写真 下(右)】 桜と社殿
右手に進むと手水舎。
水盤には富士山形の線刻の下に○に吉の紋が刻まれ、これは「丸吉講」の奉納とみられます。
本殿拝殿前に石灯籠一対。
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【写真 上(左)】 参道と拝殿
【写真 下(右)】 拝殿
拝殿は入母屋造平入り流れ向拝。縋破風の照りが効いて均整のとれたつくり。
拝殿と本殿は石の間で接続しているようです。
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【写真 上(左)】 拝殿扁額
【写真 下(右)】 本殿
水引虹梁まわりは直線的で、海老虹梁部も湾曲なくシンプルな仕上がり。
向拝まわりの意匠もスクエアで統一され、全体にきっちり端正な印象です。
向拝見上げに、新たに立派な社号扁額が掲げられました。
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【写真 上(左)】 稲荷神社と護国神社
【写真 下(右)】 鷲宮神社
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【写真 上(左)】 水神宮
【写真 下(右)】 敷島子安神社
拝殿向かって右手には護国神社と稲荷神社、左手には鷲宮神社でいずれも鳥居を構えています。
手水舎の並びに水神宮(御祭神:罔象女大神)が鎮座しますが、リーフレットによると本殿にも罔象女大神が祀られているので、この水神宮と引又河岸の水神社とのつながりについてはよくわかりません。
また、水神宮の並びに天平宝宇三年(759年)創建と伝わる敷島子安神社が鎮座し、こちらのご祭神は木花開耶姫命です。
〔田子山富士塚〕
朱印揮毫:木花開耶姫命 書置(筆書)
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【写真 上(左)】 平成30年1月の御朱印
【写真 下(右)】 令和2年11月の御朱印
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【写真 上(左)】 桜と田子山富士塚
【写真 下(右)】 つつじと田子山富士塚
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【写真 上(左)】 入山口
【写真 下(右)】 なかなか立派な狛犬です
境内左手に田子山富士塚。高さ9m、麓の円周約125mのかなり大がかりな富士塚です。
「山頂に祠」「烏帽子磐」「小御岳神社」富士山の溶岩「黒ぼく」「御胎内」(地下洞穴)を備え、しかも「霊峰富士を遥拝」できる稀少な富士塚とのこと。
石造物の数もすこぶる多く細工の質も高いため、令和2年3月に「国指定の重要有形民俗文化財」に指定されています。
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案内図
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【写真 上(左)】 下浅間社
【写真 下(右)】 琴比羅神社
登り口手前右に琴比羅神社、左の下浅間社には開祖の十瀧房承海僧が祀られているようで、祭礼日にはご開帳されます。
頂上の浅間神社(奥宮)には木花開耶姫大神が祀られているかと思いきや、リーフレットによると御祭神は国常立大神、大山祇大神、御食津大神とのことです。
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【写真 上(左)】 開山日の境内
【写真 下(右)】 けっこう険しい登山道
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【写真 上(左)】 山頂部
【写真 下(右)】 山頂の奥宮
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【写真 上(左)】 田子山冨士の紋
【写真 下(右)】 山頂からの境内
富士塚西側に鎮座の松尾神社の御祭神は大山咋大神で、正月には敷島神社拝殿前にお出ましになります。
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【写真 上(左)】 松尾神社
【写真 下(右)】 松尾神社(正月)
神仏習合の名残を残し、法華宗の御題目の石碑や烏天狗の石像、不動明王の石像もみられます。
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【写真 上(左)】 神猿と石碑
【写真 下(右)】 御題目の石碑
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【写真 上(左)】 御胎内
【写真 下(右)】 不動明王
境内西側には不動明王が祀られていますが、こちらは以前この地にあったとされる真言宗の古刹宝幢寺の仏さまで、「御胎内」の奥に祀られている大日如来とともに仏の信仰の中心であったとのこと。
成田山ゆかりのお不動様で、境内の琴比羅神社とあわせてお参りすると、四国の金刀比羅宮と岡山の喩伽大権現・蓮台寺の「両参り」と同じご利益となるそうです。
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【写真 上(左)】 宝幢寺
【写真 下(右)】 宝幢寺の御朱印
御朱印は開山日は境内観光案内所で敷島神社と田子山富士塚の2体の書置御朱印が授与されます。志木市商工会でもいただけるようですが現況の詳細不明。
水宮神社では敷島神社は常時授与されているようですが、田子山富士塚については不明です。
よって、2体拝受されたい向きは、開山日の参拝が確実です。なお、開山日でも御朱印授与は15時で終了となるので要注意です。
■ 水宮神社(富士見市水子1762)の御朱印もUPしておきます。
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【写真 上(左)】 書置御朱印
【写真 下(右)】 直入御朱印
※ 週末はタイミングにより書入御朱印拝受可の模様
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境内の摩訶山 般若院 六蛙堂の御朱印
2.舘氷川神社
埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県埼玉県志木市柏町3-6
御祭神:須佐之男大神(素戔嗚尊)、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:家内安全
旧社格:村社、旧舘之郷(舘村・引又村・中野村・針ケ谷村・北野村)総鎮守
元別当:地王山 宝幢寺(志木市柏町)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:舘氷川神社 直書(筆書)
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江戸時代には舘之郷(舘(たて)村・引又村・中野村・針ケ谷村・北野村)の総鎮守として重きをなしたとされる神社。
創祀史料は明らかでないですが、志木市のWeb資料などによると以下のとおりです。
延暦年間(782-808年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐に向かう途中、この地で賊と戦いになり苦戦に陥りました。
そこで田村麻呂は武蔵國総鎮守の大宮氷川神社に出向き、戦勝を祈願しました。
祈願ののち、田村麻呂の軍勢は鈴なりに実をつけた椋の木をみつけ、田村麻呂はこの実を疲れた兵士たちに食べさせました。
すると兵士たちはたちまち鋭気を取り戻し一気に賊を平らげたため、これを氷川様のご加護と信じた田村麻呂は、この椋の木のそばに一社を祀ったのが当社の創祀とされます。
また、境内由来記などによると、時の郡司藤原長勝が自らの城(「柏の城」)内に大宮氷川神社を分祀勧請し貞観年間(859-877年)に創建とあります。
社号や地名に「館」ではなく「舘」がつかわれるのは、これを裏付けるものとされています。(「舘」は高貴な身分の方の居館をさす。)
藤原長勝については、いろいろと伝承が伝わっているので少しく寄り道してみます。
志木市のWeb資料によると、長勝は「柏の城」のそばの大蛇ヶ淵を埋めて水田にしようとしたところ、淵の主の大蛇の怒りに触れて工事は滞りました。
そこで長勝は日頃から尊崇篤い家宝の弘法大師お筆の不動明王に祈願したところ、夢枕で二本の矢を伝授され、長勝はこのうちの一本で大蛇を射たものの一本は射損じて窮地に陥りました。するとどこからともなく白衣の若者があらわれて、格闘の末に大蛇の首をはねました。
長勝の手柄で広大な水田を得たので人々は長勝を田面(たのもの)長者と尊称しました。
長勝には皐月の前(さつきのまえ)というすぐれて美貌の息女がおりました。
在原業平が東下りの折に当地に逗留し、皐月の前と恋におち、ある晩二人して「柏の城」から出奔しました。
長勝は家来に捜索を命じましたが、草深い武蔵野のこととて容易にみつからず、長勝は窮余の策として野に火を放ちました。
猛火は二人の身に迫りましたが、皐月の前が「むさしのは今日はなやきそ若草の つまもこもれり我もこもれり」という一首を詠み出すと、たちまちに火勢は収まり二人は「柏の城」に連れ戻されたとのことです。(志木市Web史料より)
このとき二人がかくれた場所が平林寺境内の「業平塚」とされ、「野火止」の地名もこの逸話にちなむものとされています。
伊勢物語にも、このくだりが記されています。(出所は →こちら(『伊勢物語』と業平伝説/近藤さやか氏 2016年))
<東下り・東国章段 第十二段>
「むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、ぬすびとなりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかに置きて、逃げにけり。道来る人、『この野はぬすびとあなり』とて、火をつけむとす。女、わびて、~ 武蔵野は今日はな焼きそ若草の つまもこもれりわれもこもれり ~ とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。」
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【写真 上(左)】 平林寺の業平塚
【写真 下(右)】 平林寺の御朱印
なお、かつて当地は「亭(ちん)の台」と呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説もあって、在原業平とのゆかりが強い土地柄に思えます。
藤原長勝の存在は史料からは裏付けられていないようですが、この地に「柏の城」があったことは確かで、中世には荏柄氏、二階堂氏、大石氏などが拠ったともされ、境内由来記によると当社神域は「柏の城」の大手門にあたり城の守護神であったといいます。
明治40年(43年とも)に字久保の村社白山社、城山八幡社など15社を合祀していまに至ります。
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柏の城配置図(行屋稲荷境内掲示物より)
志木第三小学校前にある「柏の城跡」、長勝院内の「柏の城西の曲輪跡」説明板によると、柏の城は、木曾義仲の子孫で関東管領山内上杉家の重臣大石氏が室町中期に築いた居館で、当地に伝わる『舘村旧記』によると、現在の志木三小に本曲輪(本丸は校庭のほぼ中央)、その東側に二の曲輪、市道をはさんだ南側に三の曲輪が、そして志木三小西側の長勝院境内に西の曲輪があったとされています。
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【写真 上(左)】 柏の城跡
【写真 下(右)】 柏の城西の曲輪跡(長勝院)
戦国期の当主は大石越後守直久で北条氏に属し、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に豊臣勢に攻められて落城。
徳川家康の江戸入府にともない、家臣福山月斉が地頭としてこの城地に居住したとされます。
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【写真 上(左)】 長勝院旗桜
【写真 下(右)】 長勝院旗桜の花
西の曲輪跡と伝わる真言宗智山派(石神井村三寳寺末)の蓮華山 無量寿寺 長勝院は「長勝院旗桜」(ちょうしょういんはたざくら)で知られていますが、現在堂宇は残っていません。
(堂宇は昭和60年に解体されましたが、本堂廊下に掛けられていた版鐘は志木市の指定文化財に指定されています。)
4番、宿氷川神社のすぐそばにある「道興准后歌碑」の道興准后があらわした東国巡遊の紀行文『廻国雑記』には下記の記載があります。
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『廻国雑記』(大月隆 著)/国会図書館DCより引用
「ある時、大石信濃守といへる、武士の館に、あそびにまかりて、あそび侍るに、庭前に高閣あり矢倉などを、あひかねて、侍りけるにや、遊景すぐれて、数千里の江山、眼の前につきぬ、とおもほゆ、あるじさかづきを、とりいだして、くれすぐるまで遊覧しけるに
一間乗興●登樓 遠近江山分幾州
落雁呌霜風颯々 白沙翠竹斜陽幽
十玉か坊にて、人々に、二十首歌よませ侍るに(以下略)」
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【写真 上(左)】 長勝院付近からの柳瀬川
【写真 下(右)】 柳瀬川から西側のながめ
「柏の城西の曲輪跡」の説明板に、「このあたりは、かつて亭の台(ちんのだい)とも呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説もあり(中略)また、館村八景(江戸時代の舘村の景勝地)の一つに『亭の下の夕照』とあり、この付近は、秩父連山から富士山まで眺望できる景勝の地としても有名なところでした。」とあり、武蔵野台地の突端に位置するこの眺望の地が、すでに室町時代に歌に詠まれていたことがわかります。
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【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居
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【写真 上(左)】 鳥居扁額
【写真 下(右)】 拝殿
戸建て住宅立ち並ぶ一画にありなかなかわかりにくいですが、たどり着いてみると思いのほか広い境内。
銅板葺?の立派な両部鳥居で「氷川神社」の扁額。
参道左手は野火止用水の跡で、その手前に手水舎。右手に社務所、左手の建物は志木市の武道館です。
参道に石灯籠二対、拝殿前に狛犬一対。
左手の「氷川大明神」の石標には、「五箇村総鎮守 別當寶幢寺」の添書きがあります。
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【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額
拝殿は入母屋造銅板葺平入り流れ向拝で、水引虹梁、蟇股、雲形の木鼻、海老虹梁、手挟、「氷川神社」の扁額などを備えています。
回縁に朱塗りの組高欄をまわし、どっしりとした印象の拝殿です。
本殿は切妻造平入りで拝殿と接続しています。
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【写真 上(左)】 社殿
【写真 下(右)】 本殿
境内由来記や掲示によると、養老元年作の素戔嗚尊の御神体と供人の木像二体を安置。
市内唯一の図像板碑(阿弥陀如来御来迎図、文明十八年(1476年)銘、志木市指定文化財)も伝わりますが、これはもとは志木第三小付近にあった城山八幡社の御神体として祀られていたもので、城山八幡社が当社に合祀されたことにより移されたとのこと。
また、境内の「舘氷川神社修復記念碑」(志木市指定文化財)は、江戸時代の一般庶民が苗字をもっていたことを示す貴重な文化財とされています。
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【写真 上(左)】 境内社
【写真 下(右)】 富士塚?の石碑
境内社は数多く、頂上に木花佐久夜姫命、天孫彦穂瓊々杵命、大屋満津見命が祀られ、「志木宿講社中」の銘がある富士塚らしきものがあります。
境内案内図によると参道向かって右手の稲荷社は「境松稲荷大明神」とのことです。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
3.(羽根倉)浅間神社
埼玉県神社庁Web
志木市Web資料
「猫の足あと」様
埼玉県志木市上宗岡4-27-20
御祭神:木花開耶姫大神
御利益:子授安産
旧社格:村社
元別当:観音寺
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:浅間神社 直書(筆書)
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荒川にかかる羽根倉橋のたもとに鎮座し、「羽根倉橋の浅間様」として崇敬される浅間神社。
境内説明板などによると、建久四年(1193年)、源頼朝公が富士の裾野で巻狩りを催した際、宗岡の住民は勢子役を課せられ、その代償として年貢が免ぜられたのでこれを記念して字大野の地に祠を建てて富士浅間社を祀りました。
富士山から距離のあるこの地の住民が勢子役を課せられたのは不思議な感じがしますが、『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』によると、ここからほど近い難波田の地の武士、難波田(金子)高範は頼朝公が初めて京に上った折の随兵として選ばれ、奥州征伐にも加わるなど武蔵武士の中では重きをなしていたため、その支配下にあった宗岡の村民が使役されたのだろう、ということです。
(難波田(金子)高範については「■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3」の24.(羽根倉)浅間神社をご覧くださいませ。)
その後、長禄年間(1457-1460年)の荒川大洪水で字大野の祠が流され羽根倉(現在の羽根倉橋上流)に流れ着いたので、これを神意と考えこの地に社殿を建立。
明治維新後、荒川の改修工事にともない字蓮田に移転、字十人野の稲荷杜、字大野の浅間社、字蓮田の稲荷社、字東前の八幡社の無格社四社を合祀して村社に列格。
昭和48年(1973年)、県道浦和所沢線の建設のため当地へご遷座しています。
ご遷座と羽根倉富士嶽(富士塚)の関係は、境内案内版によると下記のとおりです。
明治13年(1880年)、現在の堤外地(荒川河川敷)に高さ約10mの塚が築かれ、昭和4年(1929年)頃、河川改修により堤内に移転、昭和45年(1970年)、県道改修事業のため現在地に移転しました。
なお、「明治五年から同十三年の九年間を要して境内に富士塚が築かれた。」というWeb情報もあります。
昭和40年代の県道改修による移転では先に富士塚が移転、のちに浅間神社がご遷座ということになります。
この羽根倉は、南北朝時代の「観応の擾乱」の際、足利尊氏方の高麗常澄と直義方の難波田九郎三郎が激闘を繰り広げた「羽根倉の合戦」の地としても知られています。
リーフレットによると、本殿の御祭神は木花開耶姫大神。冨士塚の御祭神は、国常立大神、大山祇大神、木花開耶姫大神とのことです。
富士塚を築いたのは上宗岡の丸藤(まるとう)講で、江戸後期の著名な行者、食行身禄(じきぎょうみろく)の弟子の高田藤四郎(日行青山)の弟子となった高野源次郎が初代先達となって文化二年(1805年)に結成した講で、二度の移転を経ながらも、熱心な信仰によって現在も整然と保たれており、近世からの富士信仰の様子をよく示すものとして説明されています。
もともとの富士塚は丸藤講五代先達池之内政五郎が、十年のあいだ富士登山の度に溶岩を運んで築いたものと伝わります。
境内に現在地に移転の経緯を記した「浅間神社移転記念碑」がありましたので、抜粋引用します。
「わが浅間神社は建久の昔から 我等の祖先が代々崇敬して来たが 嚮に(以前に)国の荒川改修工事のため此所に遷祀された 然るに未だ幾何もないのに県道改良工事に当り 再び移転の止むなきに至った 神社役員等は再三その筋に計画変更方を願ったが許されず 遂に昭和四十四年八月境内地(中略)買収に応じた。よって氏子一同相謀り 社殿擬岳は移転して古容を残し(中略)社殿を修理し(中略)昭和四十五年十一月竣工した。」
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【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 境内
南に羽根倉通、西に浦所バイパスの築堤、北に荒川の堤防を控えた立地ですが、境内には富士塚が整然とそびえ、右手の社殿の日当たりもよく、高燥なイメージがあります。
境内には参拝者用の駐車場もありました。
社頭に石造の明神鳥居で「浅間神社」の真新しい扁額が掲げられています。
参道左手に手水舎。神使の猿像一対と石灯籠二対。
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【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 向拝
拝殿は正面からみると入母屋造銅板葺平入りですが、背後に石の間と本殿を連結しています。
本殿はおそらく方一間の切妻造平入り(神明造?)で、屋根に千木、堅魚木、小狭小舞を置く端正なつくりです。
拝殿に向拝柱や水引虹梁はなく、向拝正面は下部連子、上部格子で見上げに「冨士浅間大神」の扁額が掲げられています。
主祭神の木花開耶姫命の御神像は六十年に一度の御開帳とのこと。
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【写真 上(左)】 拝殿扁額
【写真 下(右)】 石の間と本殿
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【写真 上(左)】 本殿裏は荒川の堤防
【写真 下(右)】 羽根倉富士塚
拝殿向かって右に羽根倉富士嶽(富士塚)。(志木市Web資料)
こちらは志木市の有形民俗文化財に指定されています。
高さ約5m、直径約17m。
平成24年に崩落防止のためコンクリート補修されているものの、黒ボク(富士山の溶岩)は残り、胎内穴も残る本格的な富士塚です。
頂上の白い岩には「浅間大神」と刻まれています。
丸藤講の奉納とみられる石碑もありました。
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【写真 上(左)】 胎内穴
【写真 下(右)】 丸藤講?の石碑
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【写真 上(左)】 頂上
【写真 下(右)】 境内社
境内社は富士塚左手に八幡神社と稲荷社。
羽根倉通側に稲荷社とお社(御嶽神社か?)と覆堂のなかに立像の石仏。
如来を思わせる面差しの石仏は、薬壺を両手で抱えられた薬師如来にも思えましたが、石仏の薬師如来立像はめずらしいですし、通常薬壺は左手の持物なので、宝珠を抱えられた地蔵菩薩かと思われます。(『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』の境内図にも、この位置に「地蔵」とあるので間違いないかと思います。)
露仏の青面金剛も御座されていました。
御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。
■ 志木開運・招福七社参り-2へつづきます。
【 BGM 】
■ ただ泣きたくなるの - 国分友里恵
■ 風と花と光と - 世理奈
■ Hello,my friend - 松任谷由実
■ 滴 - 今井美樹
■ 夏空の下 - やなわらばー
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