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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
文字数オーバーしたので、Vol.2をつくりました。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1から
今回、この記事を書いていて感じたのは、史料・物語の扱いのむずかしさです。
鎌倉幕府草創期関連のメジャー史料として『吾妻鏡』があり、メジャーな軍記物語として『平家物語』(源平盛衰記)、『義経記』などがあります。
多くの人はこの時代について、これらの書物が合体した内容でイメージされているのではないでしょうか。(「鎌倉殿の13人」も『吾妻鏡』をベースに構成されているらしい。)
筆者は歴史を専攻したわけでも、歴史家でもないので、「史学」の外からなんのしがらみもなく眺めることができるのですが、「歴史」がわかりにくく、堅苦しくなっている理由のひとつに、”史料批判”あるいは”一次資料原理主義”があるのでは? と感じています。
”史料批判”の定義からして何説かありそうですが(笑)、まぁ、史料の正統性(信頼性)や妥当性について吟味評価すること、あるいは歴史にかかわる論述がこのような「正統な史料」にもとづいてなされているかを評価(批評)すること、というほどの意味ではないでしょうか。
なので、”一次資料”にもとづかない説は、それが卓越した内容を含んでいても、学問の世界では「根拠の正統性に欠ける」として顧みられない、あるいは”(学説ではなく)単なる歴史小説”として揶揄される傾向があるように感じています。
ふつう”一次史料”とは、当事者がリアルタイムで遺した手紙、文書、日記、あるいは公文書などで、後日や後世の編纂が入っていないものをいいます。(この時期でいうと『玉葉』(九条兼実)や『明月記』(藤原定家))
(”一次史料”は史料的価値が定まっているので使いやすいのだと思う。でも、手紙や日記には筆者の個人的主観が入っているので、かならずしも100%史実ではないような気もするが・・・。)
※ ご参考→「図書館司書のための歴史史料探索ガイド」(土屋直之氏/PDF)
『吾妻鏡』は二次史料(後世の編纂書物)とされ、異本もあるので「研究・解釈」する余地が多くあり「『吾妻鏡』の解釈・研究」についての研究があるほどです。
なので、ひとつの記述について、複数の解釈があることはめずらしくありません。
江戸期くらいになると一次資料はふんだんにありますが、鎌倉時代あたりではどうしても『吾妻鏡』などの二次(編纂)史料を使わざるを得ない(一次史料だけでは論理構成できない)、という背景もあるようです。
『吾妻鏡』は”史料”で、『平家物語』『義経記』は”物語”ですから、”史料批判”の立場からするとこれらの物語の記述などはとるに足らないものかもしれませんが、これらが人々に植え付けてきた”源平合戦”のイメージは否定できないものがあるかと。
じっさい、現地掲示板などでは、”史料”と”物語”混在の内容がけっこうみられたりします。(現地案内板は、それを読む民間人にとってはある意味「史実」。)
これらを整合して書こうとすると膨大な労力と時間がかかり、さらに対象となる御家人が150人近くもいるとなるとキリがないので、あくまでもWebや現地案内板などでメインとなっている内容(事実上の通説?)をかいつまんで、概要的にさらっとまとめていきたいと思います。
と、愚にもつかない言い訳をしつつ(笑)、さらにつづけます。
14.稲荷山 東林寺 〔工藤氏・伊東氏・曾我氏〕
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆・伊東観光ガイド
静岡県伊東市馬場町2-2-19
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩(阿弥陀三尊とも)
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:葛見神社(伊東市馬場町)
他札所:伊豆八十八ヶ所霊場第27番、伊豆二十一ヶ所霊場第17番、伊豆伊東六阿弥陀霊場第2番、伊東温泉七福神(布袋尊)
授与所:庫裡
藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。
東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようですが、これがはっきりしないと菩提寺である東林寺の縁起や『曽我物語』の経緯がわかりません。
いささか長くなりますが整理してみます。
工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)
伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)
一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。
工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。
娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。
なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。
工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すものの効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。
安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。
伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため当寺に入って出家、自らの法名(東林院殿寂心入道)から東林寺に寺号を改めたといいます。
なお、当寺は久安年間(1145-1150年)、真言宗寺院として開かれ、当初は久遠寺と号しました。
天文七年(1538年)に長源寺三世圓芝春徳大和尚が曹洞宗に改宗しています。
治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。
以後、東林寺は伊東家累代の菩提寺となりました。
また、伊東氏の尊崇篤い葛見神社の別当もつとめていました。
河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。
祐泰の末子は祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していましたが曾我兄弟の仇討ちの後、これに連座して鎌倉・甘縄で自害しています。
(なお、平賀氏は清和(河内)源氏義光流の信濃源氏の名族で、源氏御門葉、御家人筆頭として鎌倉幕府草創期に隆盛を誇りました。
この時期の当主は平賀義信とその子惟義で、惟義は一時期近畿6ヶ国の守護を任されましたが、以降は執権北条氏に圧され、惟義の後を継いだ惟信は、承久三年(1221年)の承久の乱で京方に付き平賀氏は没落しました。)
工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。
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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内
伊東市街の山寄りに鎮まる旧郷社・葛見神社のさらに奥側にあります。
伊豆半島の温泉地の寺院は路地奥にあるものが多いですが、こちらは比較的開けたところにあり、車でのアクセスも楽です。
伊東氏の菩提寺で、伊東温泉七福神の札所でもあるので観光スポットにもなっている模様。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額
山門は切妻屋根桟瓦葺、三間一戸の八脚門で、「東林寺」の寺号板と「稲荷山」の扁額。
山内向かって左手に鐘楼、正面に入母屋造桟瓦葺唐破風向拝付きの本堂。
大がかりな唐破風で、鬼板に経の巻獅子口。刻まれた紋は伊東氏の紋としてしられる「庵に木瓜」紋です。
兎の毛通しの拝み懸魚には立体感あふれる天女の彫刻。
水引向拝両端には正面獅子の木鼻、側面に貘ないし像の木鼻。
中備には迫力ある龍の彫刻を置き、向拝上部に「東林禅寺」の寺号扁額が掛かります。
本堂には御本尊のほか、伊東祐親・河津祐泰・曽我兄弟の位牌や伊東祐親の木像、頼朝公と祐親の三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の木像を安置しているそうです。
本堂向かって右の一間社流造の祠は伊東七福神の「布袋尊」です。
堂前に樹木は少なく、すっきり開けたイメージのある山内です。
河津三郎の墓、曽我兄弟の供養塔は鐘楼左の参道上にあり、東林寺の向かいの丘の上には伊東祐親の墓所と伝わる五輪塔(伊東市指定文化財)があるそうです。
御朱印は右手の庫裡にて拝受しました。
【写真 上(左)】 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 伊東七福神(布袋尊)の御朱印
→ ■ 伊東温泉 「いな葉」の入湯レポ
→ ■ 伊東温泉 「湯川第一浴場・子持湯」の入湯レポ
15.葛見神社 〔伊東氏〕
伊豆・伊東観光ガイド
静岡県伊東市馬場町1-16-40
御祭神:葛見神、倉稲魂命、大山祇命
旧社格:延喜式内社(小)論社、旧郷社
元別当:稲荷山 東林寺(伊東市馬場町、曹洞宗)
葛見神社は伊東市馬場町に御鎮座の古社で、東林寺にもほど近いところにご鎮座です。
創建は不詳ですが延長五年(927年)編纂の延喜式神名帳に記された式内社「久豆弥神社」とされているので、社暦はそうとうに古そうです。
境内由緒書には「伊東家守護神、往古、伊豆の東北部を葛見の荘と称し、当神社はこの荘名を負い、凡そ九百年の昔、葛見の荘の初代地頭工藤祐高公(伊東家次・・・伊東家の祖)が社殿を造営し、守護神として京都伏見稲荷を勧請合祀してから、伊東家の厚い保護と崇敬を受けて神威を高めてきました。」とあります。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 拝殿
平安時代から当地に拠った工藤氏、伊東氏の崇敬篤く、伊東氏の菩提寺・東林寺はその別当でした。
主祭神は葛見神。伏見稲荷大社の分霊を勧請合祀しています。
伊豆屈指の名社で、明治初頭に郷社に列格しています。
【写真 上(左)】 大樟
【写真 下(右)】 御朱印
延喜式内社だけあり、境内はさすがに神さびた空気が感じられます。
境内の大樟は樹齢千数百年ともいわれ、治承四年(1180年)、石橋山の戦いで破れ窮地におちいった頼朝公が根本の空洞で身を隠したとも伝わり国指定天然記念物に指定されています。
御朱印は社務所にて拝受しましたが、常時授与されているかは不明です。
16.飯室山 大福寺
〔浅利冠者義遠(義成)〕
浅利与一没後800年 特設ページ(山梨県中央市)
山梨県中央市大鳥居1621
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩(創立御本尊は不動明王)
札所:甲斐国三十三番観音札所第11番、甲斐百八霊場武州八十八霊場第49番
浅利与一は、『平家物語』の源平合戦最後のハイライト、壇ノ浦の戦いで「遠矢」を放った弓の名手として知られています。
源平合戦で与一を名乗り「三与一」と賞された3人の武将は、佐奈田(真田)与一、那須与一、そして浅利与一(余一)で、いずれも単なる「弓の名手」ではなく、れっきとした武家の統領とみられます。
浅利与一の正式な名は浅利(冠者)義遠(義成とも)。
清和源氏義光流の逸見清光の子とされ、兄弟には逸見光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定など、錚々たる顔ぶれの甲斐源氏が揃います。
源平合戦では富士川の戦いから壇ノ浦の戦いまで転戦し、奥州出兵にも参加、↓で板額御前が捕えられた建仁元年(1201年)の城氏の乱にも出兵しています。
有名な「遠矢」の場面については→こちら(中央市Web史料)をご覧ください。
また、義遠は越後の豪族城氏の女傑、板額御前を娶ったことでも知られています。
板額御前については→こちら(中央市Web史料)でくわしく紹介されています。
二代将軍源頼家公治世の建仁元年(1201年)、城小太郎資盛の反乱で弓の名手として活躍した資盛の叔母、板額御前は敗戦後捕らえられ鎌倉に送られました。
剛勇だけでなく美貌も謳われた板額御前は、頼家公以下御家人居並ぶなかに引き出されましたが、いささかも臆することなく毅然たる態度を崩さなかったそうです。
その翌日、義遠はこの板額を嫁に貰い受けたい旨を頼家公に願い出て許され、板額は義遠の室となって甲斐に居住し、浅利氏の跡継ぎを設けたと伝わります。
木曽義仲の側妾・巴御前と並ぶ女傑として賞され、「巴板額」(ともえはんがく)ということばが伝わります。
鎌倉幕府草創期、安田義定、一条忠頼、逸見有義、板垣兼信、秋山光朝など甲斐源氏の主要メンバーがつぎつぎと排斥されていくなかで、御家人中枢の立場を守り抜き、しかも敵将の息女の貰い受けを将軍に直訴するとは、甲斐源氏の一員としての微妙な立場を考えると、ある意味際立った立ち回りともいえます。
義遠は壇ノ浦の勲功もあってか奥羽比内郡地頭職を拝領しており、浅利氏は比内地方(秋田県北部)にも定着しました。
また、子孫の浅利信種は戦国期に活躍、奉行、箕輪城の城代、西上州への侵攻と勤め、後北条氏との三増峠の戦いで討死。
家督は嫡男の昌種が引き継ぎ、のちに浅利同心衆は土屋昌続に仕えて、昌続が天目山の「片手千人切り」で奮戦戦死したのち、嫡男の土屋忠直は大名に取り立てられ土屋家は明治まで大名家として存続しました。
浅利氏の本拠は甲斐国八代郡浅利郷(いまの山梨県中央市(旧増富村))で、義遠の墓所は浅利山 法久寺および飯室山 大福寺とされ、大福寺は御朱印を拝受しているのでこちらをご紹介します。
【写真 上(左)】 大福寺の本堂
【写真 下(右)】 大福寺本堂の扁額
大福寺は天平十一年(739年)行基の開創とされる古刹。
あたりは浅利義遠の舘で、建暦元年(1211年)、浅利家の菩提寺として伽藍を再建、寺領を寄進したとも伝わります。
甲州武田家の祖・武田信義の孫(義遠の甥)、飯室禅師光厳の再興ともいいます。
シルクの里公園に隣接し、本堂と観音堂は点在気味に離れてややとりとめのない印象ですが、かつては七堂伽藍を整えたという名刹です。
平安期作とされる「木造聖観音及び諸尊像」および「木造薬師如来坐像」は県指定有形文化財。
義遠の墓所とされる「浅利与一層塔」も県指定有形文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 大福寺の観音堂
【写真 下(右)】 大福寺の薬師堂
本堂は朱塗り柱が印象的な近代建築で扁額は山号寺号。
観音堂は入母屋造銅板葺妻入りとみられ、妻方向に桟瓦葺の向拝を付設するいささか変わった形状ながら、観音霊場札所らしい華やいだ雰囲気をまとっています。
御朱印は本堂よこの庫裡にて拝受できますが、ご不在の場合もあるようです。
【写真 上(左)】 甲斐国三十三番観音札所の御朱印
【写真 下(右)】 甲斐百八霊場武州八十八霊場の御朱印
17.金色山 吉祥院 大悲願寺
〔平山左衛門尉季重〕
東京都あきる野市横沢134
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所:多摩新四国八十八ヶ所霊場第59番、東国花の寺百ヶ寺霊場第10番、武玉八十八ヶ所霊場第1番、秋川三十四所霊場第21番、武蔵五日市七福神(大黒天)
源平合戦での活躍で知られる鎌倉武士をもう一人。平山左衛門尉季重です。
鎌倉殿の御家人には、「武蔵七党」と呼ばれる武蔵国を中心とした同族的武士団の面々も多くみられます。
諸説ありますが「武蔵七党」とは、おおむね横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)、私市党、綴党などをさすようです。
平山季重は西党(日奉氏)に属した武将で、多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山周辺)を領したといいます。
保元元年(1156年)の保元の乱で源義朝公、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝公の長男義平公に従い平重盛軍と対峙しました。
義朝公敗死後は平家方となりましたが頼朝公挙兵に呼応し、富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍し戦功を挙げています。
源平合戦では宇治川の戦い、一ノ谷の戦いでは義経公配下として奇襲に加わり、勝利のきっかけを作ったとされます。
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも奮闘して武名を高めましたが、戦後、後白河法皇の右衛門尉任官に応じたため頼朝公の怒りを買い、公から罵られたという記述が残っています。
しかし、大事には至らず筑前国原田荘の地頭職を拝領、奥州合戦でもふたたび戦功を挙げて鎌倉幕府の中枢に入りました。
建久三年(1192年)の源実朝公誕生の際には、”鳴弦”の大役を務めています。
【写真 上(左)】 日野宮神社
【写真 下(右)】 日野宮神社の御朱印
西党の党祖、日奉宗頼は高皇産霊尊の子孫といわれ、日野市の日野宮神社に御祭神として祀られています。
このような家柄、そして源平合戦での華々しい戦歴から「弓の弦を強く引き鳴らして魔を祓う儀式」、鳴弦(めいげん)の役を命じられたのかもしれません。
【写真 上(左)】 宗印寺の山門
【写真 下(右)】 宗印寺の本堂
【写真 上(左)】 宗印寺の御本尊(武相卯歳四十八観音霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 宗印寺の日野七福神(布袋尊)の御朱印
季重の墓所は日野市平山の大沢山 宗印寺とされますが、ここでは開基に頼朝公も絡んだとされる、あきる野市の金色山 大悲願寺をご紹介します。
【写真 上(左)】 大悲願寺の本堂
【写真 下(右)】 大悲願寺の仁王門天井絵
大悲願寺は聖徳太子が全国行脚の際、この地に一宇の草堂を建てたのが草創という伝承もありますが、建久二年(1191年)源頼朝公が檀越(施主)となり、僧澄秀を開山として平山季重が創建とされます。
関東管領足利基氏・氏満父子から寺領二十石の寄進、徳川家康公からも二十石の御朱印を受け、近隣に末寺32ヶ寺を擁したという寺歴をみても、源頼朝公の関与があった可能性があります。
『新編武蔵風土記稿』の多磨郡小宮領横澤村の項には「開基ハ右大将賴朝ナリトイヘド タシカナル證迹ハナシ サレド貞治ノ頃平氏重(平山季重?)カ書寫シテヲサメシ大般若アルヲモテ フルキ寺ナルコトシルヘシ」
山林を背に伽藍が壮麗な並びます。
本堂は元禄年間の築で、入母屋茅葺型銅板葺。説明板には「書院造り風の方丈系講堂様式」で「内部は六間取形式」とあります。
名刹の本堂にふさわしい堂々たる構えで都の指定有形文化財。
【写真 上(左)】 大悲願寺の観音堂
【写真 下(右)】 大悲願寺観音堂の向拝上部
向かって左奥の観音堂は寛政年間の築で、寄棟造茅葺型銅板葺に復原され、彫刻類も新たに彩色が施されて見事です。
とくに正面欄間の地獄極楽彫刻が見どころとされます。
堂内の「伝阿弥陀如来三尊像」は平安末期~鎌倉の作とみられ、国指定重要文化財に指定されています。
他にも仁王門格天井の天井絵、中門(朱雀門)、五輪地蔵、梵鐘など多くの見どころがあります。
【写真 上(左)】 大悲願寺の多摩新四国霊場の御朱印
【写真 下(右)】 大悲願寺の東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印
御朱印は雰囲気ある庫裡で拝受できます。
複数の霊場の札所ですが、現在は多摩新四国八十八ヶ所と東国花の寺百ヶ寺の2種類が授与されている模様です。
18.古尾谷八幡神社/寳聚山 東漸寺 灌頂院
〔源頼朝公・古尾谷氏〕
別記事、■ 源頼朝公ゆかりの寺社をみると、源頼朝公ゆかりの寺社は鎌倉・三浦半島を中心に相当数みられます。
ところが神奈川県外となると、その数はぐっと少なくなります。
埼玉県に至っては、ほとんどWebではヒットしません。
埼玉県内には、比企氏、畠山氏、熊谷氏、河越氏、武蔵七党など有力御家人が多く、寺社の創再建はこれらの武家たちが担っていたからかもしれません。
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ところが、再建ながら頼朝公が直々に関与したと伝わる寺社が、埼玉県川越市にあります。
古尾谷八幡神社と、その別当、寳聚山 灌頂院です。
古尾谷八幡神社
埼玉県川越市古谷本郷1408
御祭神:品陀和気命、息長帯姫命、比売神
旧社格:県社、旧古尾谷庄総鎮守
元別当:寳聚山 東漸寺 灌頂院(川越市古谷本郷、天台宗)
寳聚山 東漸寺 灌頂院
埼玉県川越市古谷本郷1428
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:古尾谷八幡神社(川越市古谷本郷)
札所:小江戸川越古寺巡礼第4番
ともに川越市古谷本郷の地に隣接してあります。
〔 古尾谷八幡神社 〕
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 拝殿
拝殿前配布の由来書には下記のとおりあります。
「創建 貞観四年(863年)比叡山延暦寺第三代坐主円仁来り法を修するの時、神霊を感じ神社を建て、これを天皇陛下に申し上げ石清水八幡宮の分霊を奉じ来たりてお祀りした。(略)当時、古尾谷庄は石清水八幡宮の荘園であった。」
「再建 元暦元年(1184年)源頼朝公古尾谷八幡神社に来り霊場を見、旧記を聞き、祭田を復し祭典を興した。文治五年(1190年)奥羽征伐の際陣中守護を当社に祈り鎮定の後社殿を再建した。」
『新編武蔵風土記稿』の入間郡古谷本郷の項には、「当社ハ元暦元年源頼朝勧請シ玉ヘルヨシ」とあります。
『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)には「古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。」とあります。
『入間郡誌』にも「元暦元年源頼朝祭田を復し、祭典を起し、文治二年奥羽征討の際来て祈願する所あり。凱旋後大に宮殿を造立せり。それより弘安元年、藤原時景と云ふ者、暫く此地を領し、社殿の頽廃を復し、梵鐘を鋳て社頭に掲げたり」
さらに、古尾谷八幡神社旧本殿(川越市Web)には、「古尾谷八幡神社は、貞観年間(859から877)に、石清水八幡宮の分霊を祀ったのがはじまりと伝えられ、古尾谷庄13か村の総鎮守として古くから崇敬されてきた。文治5年(1189)源頼朝が社殿を新たに造営し、弘安元年(1278)に藤原時景が復旧」とあり、ここでも頼朝公の関与が明記されています。
〔 寳聚山 東漸寺 灌頂院 〕
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
『新編武蔵風土記稿』の入間郡古谷本郷の項には、「(八幡社)別当灌頂院 天台宗 上野國世良田長楽寺ノ末 寳聚山東漸寺ト号ス、開山ハ聾義法印トノミ記シアリ(略)本尊彌陀ヲ安ス」とあります。
『入間郡誌』にも「慈覚大師、東国に来り、此地に於て灌頂修行し、此寺を立て其開山となり傍に八幡祠を立つ。(略)元暦四年頼朝堂宇坊舎を再興し」とあります。
また、『平成小江戸川越 古寺巡礼』(百瀬千又氏編)には「天長年間(824-833年)慈覚大師円仁の開創といわれ(略)源頼朝の手によって再建されたという。文治五年(1189年)の頃である。正応年間には古谷の地頭といわれた藤原時景によって再建となった。」とあります。
藤原時景と古尾谷氏の関係がどうもはっきりしないのですが、世の中には奇特な方がおられて、古尾谷荘について現地調査をふまえた詳細な記事をまとめられているので一部引用させていただきます。(出典はこちら(何となく古谷?それぞれの古尾谷氏…⑤))
「藤原時景が古尾谷左衛門尉時景だと分かったのは埼玉県名字辞典の古尾谷氏の項です。〔辞典からの引用:古尾谷 内藤氏流古尾谷氏 入間郡古尾谷荘より起る 内藤系図に『関白道長-(略-左衛門尉時景(弘安八年卒))』〕
上記から、藤原時景=古尾谷左衛門尉時景(御家人として、『吾妻鑑』に記載あり)であることがわかります。
『平成小江戸川越 古寺巡礼』(百瀬千又氏編)には「古尾谷八幡神社、灌頂院、そしてその塔頭などは地理的条件も含め古谷の豪族であった古尾谷氏の領地で、また、それをつかさどっていた別当寺の長官職は、藤原時景だったのではないかと推定され、広大な土地を所有し、頼朝の信任が厚かった古尾谷荘の地頭藤原氏と思われてくる。」とあります。
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頼朝公が武蔵の一地方の社寺の再建にかかわった(とされる)理由について、
1.古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園であったこと。
2.古尾谷八幡神社は、石清水八幡宮からの勧請であること。
3.領主の藤原時景(古尾谷氏)が頼朝公から信任を得ていた可能性があること。
などが想定されますが、この時期、頼朝公の関心が大きく川越に向いていたことも背景にあるのかもしれません。
有力御家人、河越重頼の動静です。
河越氏は桓武平氏良文流で坂東八平氏のひとつに数えられる名族。
秩父平氏の宗家筋とされ、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有していたとされます。
鎌倉幕府草創期の当主は河越重頼で「武蔵国留守所総検校職」に任じられ、妻は頼朝公の乳母・比企尼の次女(河越尼)で頼家公の乳母。
しかも義経公に娘(郷御前)を嫁がせていたという、きわめてデリケートな立場でした。
血筋からも、立場的にも武蔵国の武将たちに大きな影響力をもっていたと考えられ、頼朝公にとって目をはなせない存在であったことは容易に想像できます。
〔 河越重頼関連年表 〕
永暦元年(1160年)
・河越氏、所領を後白河上皇に寄進し荘官となる。上皇は京の新日吉山王社へ寄進し新日吉社領河越荘と称される。
治承四年(1180年)8月
・頼朝公挙兵。重頼は畠山重忠、江戸重長ら武蔵国武士団とともに衣笠城を攻め、頼朝公方の三浦義明を討ち取る。
治承四年(1180年)10月
・頼朝公武蔵国入国を受け、畠山重忠・江戸重長らとともに頼朝公配下となる。
寿永三年(1184年)8月
・義経公とともに後白河法皇から任官を受け、重頼と弟・重経も頼朝公の怒りを買う。
寿永三年(1184年)9月
・頼朝公の命により、娘(郷御前)が京に上って義経公に嫁ぎ舅となる。
文治元年(1185年)
・義経公が後白河法皇から頼朝公追討の院宣を受け、舅の重頼も頼朝公から敵対視される。
文治元年(1185年)
・義経公の縁戚であることを理由に伊勢国香取五カ郷を没収。その後、重頼は嫡男重房と共に誅殺され、武蔵国留守所惣検校職は畠山重忠に移る。
文治三年(1187年)10月
・頼朝公は重頼誅殺を悼み、河越氏本領の河越荘を後家の河越尼に安堵。
頼朝公の古尾谷八幡神社・灌頂院への関与は元暦元年(1184年)~文治五年(1190年)とみられるので、上の年表からもみてきわめてデリケートなタイミングといえます。
古尾谷氏の舘は川越市古谷上の現・善仲寺にあったとされ、河越氏の館(川越市上戸、現・常楽寺附近とされる)とはさほど離れていません。
これはまったくの憶測ですが、頼朝公、河越氏、古尾谷氏を巡ってなんらかの交渉があり、それが古尾谷八幡神社・灌頂院の再興となってあらわれたのかもしれません。
記事が長くなったので、両寺社のご紹介は控えますが、いずれも長い歴史と格式が感じられるたたずまいです。
御朱印については、灌頂院は不授与。古尾谷八幡神社については通常無人で、タイミングに恵まれれば拝受できるかと思います。
【写真 上(左)】 灌頂院の御朱印不授与掲示
【写真 下(右)】 古尾谷八幡神社の御朱印
19.超越山 来迎院 西光寺
〔葛西三郎清重〕
東京都葛飾区四つ木1-25-8
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番、荒綾八十八ヶ所霊場第34番、(京成)東三十三観音霊場第31番、新葛西三十三観音霊場第14番
葛西氏は桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流。
鎌倉幕府草創期の豊島氏の当主、豊島清元(清光)の三男、三郎清重は葛西御厨を継いで葛西氏を称しました。
治承四年(1180年)、源頼朝公の旗揚げには父・清元とともに隅田川で参陣。
この時点での秩父氏一族の動静は複雑で、江戸重長は頼朝公の参陣要求になかなか応じず、公は江戸重長の所領を召し上げて同族の葛西清重に与えようとしました。
これに対して清重は「一族(江戸氏)の所領を賜うのは本望ではなく、他者に賜るように」と頼朝公に言上したといいます。
これを聞いた頼朝公は怒りをあらわし清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」ときっぱり拒絶しました。
頼朝公は清重の毅然たる態度に感じ入り、これに免じて江戸重長を赦したといいます。(以上『沙石集』より)
この逸話の背景については諸説ありますが、おおむね頼朝公の葛西清重に対する信頼をあらわすもの、また、葛西清重が頼朝公と秩父一族の融和に奔走したことを示すものとみられています。
常陸国の佐竹氏討伐の帰途、頼朝公は清重の館に立ち寄り、清重は丁重にもてなして頼朝公とのきずなを強め、清重は頼朝公寝所警護役に選ばれています。
元暦元年(1184年)夏の平氏討伐には源範頼公に従軍。
九州で活躍し頼朝公から御書を賜り、文治五年(1189年)には奥州藤原氏討伐に従軍し、阿津賀志山の戦いで抜け駆けの先陣を果たし、さらに武名を高めました。
奥州討伐後、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など奥州の地に所領を賜り、奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任されています。
のちに奥州で勢力を伸ばした葛西氏は清重の流れと伝わります。
以後は鎌倉に戻り幕府の重臣として職責を果たしましたが、奥州総奉行も兼務。頼朝公からの厚い信任は以後もかわらず、幕府内の立場を確かなものにしています。
頼朝公没後は北条氏と歩調を合わせ、北条方からも信任を得て壱岐守にも任じられています。
有力御家人の粛清、失脚あいつぐなかで一貫して時の権力者から信任を得、存在感を保ったことは、清重のただならぬ政治力を示すものかと思われます。
晩年、清重は関東教化で訪れた親鸞聖人に帰依して出家しました。
嘉禄元年(1225年)、親鸞聖人が渋江郷の清重の館(現・西光寺とされる)に立ち寄られた際に雨が降り止まず、聖人は五十三日間も足止めされ、その間に清重は存分に聖人の教えを受けて発心し、聖人に帰依して西光坊定蓮と改め、居館を雨降山 西光寺と号したとされます。
親鸞聖人は清重に阿弥陀如来の絵像を与え、清重(西光坊)自刻の聖徳太子像の像内には親鸞聖人御作といわれる阿弥陀如来像が入っているそうです。
西光寺は草創時は真宗でしたが、のちに戦火や水害で寺運衰退し、寛永年間(1634-1643年)に天台宗の僧が再興、山号を超越山と改めたとされますが、天台宗改宗後も親鸞聖人ゆかりの報恩講式という法要が毎春催されているそうです。
なお、墨田区東向島にある曹洞宗 晴河山 法泉寺も葛西清重ゆかりの寺院で、清重が両親供養のために建立したとされています。(戦国時代に真言宗から曹洞宗に改宗)
【写真 上(左)】 法泉寺本堂
【写真 下(右)】 法泉寺の御朱印
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荒川の流れにもほど近い葛飾区四つ木。
下町らしい入り組んだ路地のなかに、それでもかなりの寺域を保ってあります。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
山門は本瓦葺きの重厚な四脚門。門の横には「葛西三郎清重の遺跡(居館跡)」の説明書がありました。
正面の本堂も入母屋造本瓦葺流れ向拝の堂々たる構えで、向拝には「超越山」の山号扁額が掲げられています。
本堂向かって右手奥には南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番の大師堂があり、お大師さまが大切に供養されていました。
【写真 上(左)】 清重稲荷社
【写真 下(右)】 清重稲荷社の扁額
山門をくぐって右手の地主神とみられる稲荷社の扁額には「清重稲荷」とありました。
また、西光寺から少しはなれた住宅地のなかに「清重塚」があり、こちらは清重夫妻の墓所という言い伝えがあります。
葛飾区の古刹は複数の霊場札所となっている例が多いですが、こちらも4つの霊場の札所となっています。
霊場の御朱印は不授与のようですが、庫裡にて御本尊の御朱印が授与されています。
【写真 上(左)】 本堂の扁額
【写真 下(右)】 西光寺の御朱印
20.龍ヶ崎鎮守 八坂神社
〔下河辺氏・下河辺四郎政義〕
公式Web
茨城県龍ヶ崎市上町4279
御祭神:建速須佐鳴神、奇稲田姫神
旧社格:龍ヶ崎鎮守
元別当:
下河辺氏(しもこうべ し)は、藤原北家秀郷流で下野国の有力豪族、小山政光の弟行義が下総国葛飾郡下河辺荘を本貫地として独立し、下河辺を名乗ったのがはじまりとされます。
鎌倉幕府草創期の下河辺氏は「下河辺庄司」とも呼ばれ、現在の茨城県古河市・境町・五霞町・坂東市、埼玉県加須市まで広がる下河辺荘の庄司として勢力を張りました。
下河辺荘は鳥羽院から美福門院、そして鳥羽帝の皇女、八条院暲子内親王と引き継がれ、のちに大覚寺統の主要な経済基盤になったとされる「八条院領」の一画をなし、上方との関係がふかいところでした。
下河辺荘が「八条院領」となった経緯については、在地領主の下河辺氏が美福門院ないし八条院に寄進したともいわれ、諸説あるようです。
清和源氏の嫡流、摂津(多田)源氏の源(馬場)仲政は下総守に任ぜられ、その子(源三位)頼政も一時期任地の下総に下向したとされ、そのときに頼政と下河辺氏が主従関係を結んだともみられています。
以降、頼政と行義の主従関係はつづき、治承四年(1180年)、行義は上方で頼政とともに以仁王挙兵に呼応したとされます。
『平家物語』巻四には頼政が敗死したのち、頼政の首を「下河辺藤三郎清親」が隠したとあり、この「下河辺藤三郎清親」は下河辺行義(行吉)とみられています。
茨城県古河市の頼政神社には、頼政の郎党、あるいは下河辺行義が頼政の首をこの地に葬ったとする伝承があります。
また、茨城県龍ヶ崎市にも頼政神社があり、龍ヶ崎市の資料には「頼政は自害する際に家臣・下河辺行吉に自分の首を東国へ運んで葬るように命じました。鎌倉時代になって下河辺が一族の守護神として、頼政神社を建てたと伝えられています。」と記されています。
源頼朝公は行義の子・行平をはじめ、下河辺一族を優遇しましたが、下河辺氏が源三位頼政や八条院領とふかいつながりをもつことも、その背景にあったかもしれません。
また、下河辺荘は利根川、隅田川、荒川に挟まれた関東有数の低湿の地にあり、低湿地や河辺の戦いに長けた下河辺衆は鎌倉軍にとって貴重な存在だったのかもしれません。
下河辺行平は源平合戦で華々しい戦功をあげ、頼朝公から「日本無双の弓取」と称賛されて、准門葉(源氏一門に準ずる扱い)ともされたという有力御家人でしたが、行平ゆかりの寺社がどうにも判然としません。
行平の弟、下河辺四郎政義は龍ヶ崎の八坂神社を草創と伝わるので、まずは龍ヶ崎八坂神社をご紹介とします。
下河辺政義は寿永二年(1183年)、小山氏一門、兄・行平とともに野木宮合戦(頼朝公と志田義広党の戦い)に参加して凱旋。
その後、頼朝公の近臣として仕え、合戦の功と頼朝公への忠勤により常陸国南部を与えられたともいわれます。(諸説あり)
源平合戦では行平とともに範頼軍に属し、九州で活躍しました。
よく知られているのが、吾妻鑑にある鹿島神社神主中臣親広との御前対決です。
『吾妻鑑. 上』の文治元年(1185年)八月大廿一日辛未の項には以下のとおりあります。
「鹿島社神主中臣親廣與下河邊四郎政義、被召御前遂一决、是常陸國橘郷者、被奉寄彼社領訖、而政義以當國南郡惣地頭職、稱在郡内、押領件郷、令譴責神主妻子等、剩可從所勘之由取祭文之旨、親廣訴申之、政義雌伏、頗失陳詞、爲眼代等所爲歟之由稱之、仍停止向後濫妨、任先例可令勤行神事之趣、神主蒙恩裁、退出之後、政義猶候御前之間、仰云、政義向戰塲殊施武勇對、親廣失度歟、尤●之云々、政義申云、鹿島者守勇士之神也、爭無怖畏之思哉、仍雖有所存、故不能陳謝云々」
常陸国橘郷(現在の小美玉市付近)は鹿島神宮社領でしたが、下河辺政義は常陸国南郡の総地頭職なので、この地は郡内にあるとして年貢を取り立て郷民に労働を強要しました。
鹿島神宮神主の中臣親広はこれを頼朝公に訴え、公の御前で中臣神主と下河辺政義の対決となりました。
政義に弁明の言葉はなく、これを受けた頼朝公は今後は(政義に)横領を止めさせるので、神事に励むよう裁決を下しました。
中臣神主が退出した後も政義は御前に留まっていたので、頼朝公が「政義は戦場では並みはずれた武勇を奮うのに、神主に対しては神妙であったな。」と笑うと、政義は「鹿島神宮は武勇の士を守られる神様なので、武士の私がこの神と争うとは畏れ多いこと。私にも言い分はありますが、あえて申し述べませんでした。」と応えました。
ここから、頼朝公が政義を「並みはずれた勇士」と認めていたことがわかります。
また、武勇の士、政義といえども、鹿島神の神威の前ではなすすべがなかったことを物語っています。
文治元年(1185年)秋、源義経公謀反の際、義経公に娘を嫁がせた河越重頼は誅殺されましたが、政義は河越重頼の娘を妻としていた関係から連座して領地を没収されています。
その後も史料に御家人としての活動がみられることから、赦免され復帰したものとされますが、往時の勢力は保てず、下河辺荘は北条氏の支配下に入ったとみられています。
『寛政重修諸家譜』などによると、下河辺政義の子・小川政平の末裔は大和国長谷川に住んで長谷川氏を名乗り、今川義元に仕えたのちに高田藩家臣、徳川家の旗本として存続。
『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られる火付盗賊改の長谷川宣以(平蔵)は、この流れと伝わります。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 境内
龍ヶ崎の鎮守、八坂神社は下河辺政義の草創と伝えられます。
社伝(公式Web)には「当神社は源頼朝の家臣下河辺政義公が、文治2年(1186年)に領地龍ヶ崎市貝原塚の領民を引き連れ、沼沢の地であった根町を干拓した際に、貝原塚の鎮守神社である八坂大神の分御霊を祀ったのが草創と伝えられます。」と明記されています。
【写真 上(左)】 鳥居と拝殿
【写真 下(右)】 社号提灯
龍ヶ崎の中心部に御鎮座。地域の中核社らしく、どことなく華やいだ境内です。
本殿の華麗な彫刻は元禄文化の粋をあらわすものとされ、市の文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 拝殿の彫刻
【写真 下(右)】 八坂神社の御朱印
祇園祭で有名な神社で、月替わり御朱印やオリジナル御朱印帳を頒布されるなど、御朱印授与にも積極的です。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3へ。
〔 関連記事 〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ True Companion - The Rippingtons
■ Somethin' - Lalah Hathaway
■ "Stay Awhile" & "Still They Ride" Steve Perry- Journey
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1から
今回、この記事を書いていて感じたのは、史料・物語の扱いのむずかしさです。
鎌倉幕府草創期関連のメジャー史料として『吾妻鏡』があり、メジャーな軍記物語として『平家物語』(源平盛衰記)、『義経記』などがあります。
多くの人はこの時代について、これらの書物が合体した内容でイメージされているのではないでしょうか。(「鎌倉殿の13人」も『吾妻鏡』をベースに構成されているらしい。)
筆者は歴史を専攻したわけでも、歴史家でもないので、「史学」の外からなんのしがらみもなく眺めることができるのですが、「歴史」がわかりにくく、堅苦しくなっている理由のひとつに、”史料批判”あるいは”一次資料原理主義”があるのでは? と感じています。
”史料批判”の定義からして何説かありそうですが(笑)、まぁ、史料の正統性(信頼性)や妥当性について吟味評価すること、あるいは歴史にかかわる論述がこのような「正統な史料」にもとづいてなされているかを評価(批評)すること、というほどの意味ではないでしょうか。
なので、”一次資料”にもとづかない説は、それが卓越した内容を含んでいても、学問の世界では「根拠の正統性に欠ける」として顧みられない、あるいは”(学説ではなく)単なる歴史小説”として揶揄される傾向があるように感じています。
ふつう”一次史料”とは、当事者がリアルタイムで遺した手紙、文書、日記、あるいは公文書などで、後日や後世の編纂が入っていないものをいいます。(この時期でいうと『玉葉』(九条兼実)や『明月記』(藤原定家))
(”一次史料”は史料的価値が定まっているので使いやすいのだと思う。でも、手紙や日記には筆者の個人的主観が入っているので、かならずしも100%史実ではないような気もするが・・・。)
※ ご参考→「図書館司書のための歴史史料探索ガイド」(土屋直之氏/PDF)
『吾妻鏡』は二次史料(後世の編纂書物)とされ、異本もあるので「研究・解釈」する余地が多くあり「『吾妻鏡』の解釈・研究」についての研究があるほどです。
なので、ひとつの記述について、複数の解釈があることはめずらしくありません。
江戸期くらいになると一次資料はふんだんにありますが、鎌倉時代あたりではどうしても『吾妻鏡』などの二次(編纂)史料を使わざるを得ない(一次史料だけでは論理構成できない)、という背景もあるようです。
『吾妻鏡』は”史料”で、『平家物語』『義経記』は”物語”ですから、”史料批判”の立場からするとこれらの物語の記述などはとるに足らないものかもしれませんが、これらが人々に植え付けてきた”源平合戦”のイメージは否定できないものがあるかと。
じっさい、現地掲示板などでは、”史料”と”物語”混在の内容がけっこうみられたりします。(現地案内板は、それを読む民間人にとってはある意味「史実」。)
これらを整合して書こうとすると膨大な労力と時間がかかり、さらに対象となる御家人が150人近くもいるとなるとキリがないので、あくまでもWebや現地案内板などでメインとなっている内容(事実上の通説?)をかいつまんで、概要的にさらっとまとめていきたいと思います。
と、愚にもつかない言い訳をしつつ(笑)、さらにつづけます。
14.稲荷山 東林寺 〔工藤氏・伊東氏・曾我氏〕
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆・伊東観光ガイド
静岡県伊東市馬場町2-2-19
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩(阿弥陀三尊とも)
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:葛見神社(伊東市馬場町)
他札所:伊豆八十八ヶ所霊場第27番、伊豆二十一ヶ所霊場第17番、伊豆伊東六阿弥陀霊場第2番、伊東温泉七福神(布袋尊)
授与所:庫裡
藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。
東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようですが、これがはっきりしないと菩提寺である東林寺の縁起や『曽我物語』の経緯がわかりません。
いささか長くなりますが整理してみます。
工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)
伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)
一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。
工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。
娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。
なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。
工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すものの効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。
安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。
伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため当寺に入って出家、自らの法名(東林院殿寂心入道)から東林寺に寺号を改めたといいます。
なお、当寺は久安年間(1145-1150年)、真言宗寺院として開かれ、当初は久遠寺と号しました。
天文七年(1538年)に長源寺三世圓芝春徳大和尚が曹洞宗に改宗しています。
治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。
以後、東林寺は伊東家累代の菩提寺となりました。
また、伊東氏の尊崇篤い葛見神社の別当もつとめていました。
河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。
祐泰の末子は祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していましたが曾我兄弟の仇討ちの後、これに連座して鎌倉・甘縄で自害しています。
(なお、平賀氏は清和(河内)源氏義光流の信濃源氏の名族で、源氏御門葉、御家人筆頭として鎌倉幕府草創期に隆盛を誇りました。
この時期の当主は平賀義信とその子惟義で、惟義は一時期近畿6ヶ国の守護を任されましたが、以降は執権北条氏に圧され、惟義の後を継いだ惟信は、承久三年(1221年)の承久の乱で京方に付き平賀氏は没落しました。)
工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。
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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内
伊東市街の山寄りに鎮まる旧郷社・葛見神社のさらに奥側にあります。
伊豆半島の温泉地の寺院は路地奥にあるものが多いですが、こちらは比較的開けたところにあり、車でのアクセスも楽です。
伊東氏の菩提寺で、伊東温泉七福神の札所でもあるので観光スポットにもなっている模様。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額
山門は切妻屋根桟瓦葺、三間一戸の八脚門で、「東林寺」の寺号板と「稲荷山」の扁額。
山内向かって左手に鐘楼、正面に入母屋造桟瓦葺唐破風向拝付きの本堂。
大がかりな唐破風で、鬼板に経の巻獅子口。刻まれた紋は伊東氏の紋としてしられる「庵に木瓜」紋です。
兎の毛通しの拝み懸魚には立体感あふれる天女の彫刻。
水引向拝両端には正面獅子の木鼻、側面に貘ないし像の木鼻。
中備には迫力ある龍の彫刻を置き、向拝上部に「東林禅寺」の寺号扁額が掛かります。
本堂には御本尊のほか、伊東祐親・河津祐泰・曽我兄弟の位牌や伊東祐親の木像、頼朝公と祐親の三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の木像を安置しているそうです。
本堂向かって右の一間社流造の祠は伊東七福神の「布袋尊」です。
堂前に樹木は少なく、すっきり開けたイメージのある山内です。
河津三郎の墓、曽我兄弟の供養塔は鐘楼左の参道上にあり、東林寺の向かいの丘の上には伊東祐親の墓所と伝わる五輪塔(伊東市指定文化財)があるそうです。
御朱印は右手の庫裡にて拝受しました。
【写真 上(左)】 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 伊東七福神(布袋尊)の御朱印
→ ■ 伊東温泉 「いな葉」の入湯レポ
→ ■ 伊東温泉 「湯川第一浴場・子持湯」の入湯レポ
15.葛見神社 〔伊東氏〕
伊豆・伊東観光ガイド
静岡県伊東市馬場町1-16-40
御祭神:葛見神、倉稲魂命、大山祇命
旧社格:延喜式内社(小)論社、旧郷社
元別当:稲荷山 東林寺(伊東市馬場町、曹洞宗)
葛見神社は伊東市馬場町に御鎮座の古社で、東林寺にもほど近いところにご鎮座です。
創建は不詳ですが延長五年(927年)編纂の延喜式神名帳に記された式内社「久豆弥神社」とされているので、社暦はそうとうに古そうです。
境内由緒書には「伊東家守護神、往古、伊豆の東北部を葛見の荘と称し、当神社はこの荘名を負い、凡そ九百年の昔、葛見の荘の初代地頭工藤祐高公(伊東家次・・・伊東家の祖)が社殿を造営し、守護神として京都伏見稲荷を勧請合祀してから、伊東家の厚い保護と崇敬を受けて神威を高めてきました。」とあります。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 拝殿
平安時代から当地に拠った工藤氏、伊東氏の崇敬篤く、伊東氏の菩提寺・東林寺はその別当でした。
主祭神は葛見神。伏見稲荷大社の分霊を勧請合祀しています。
伊豆屈指の名社で、明治初頭に郷社に列格しています。
【写真 上(左)】 大樟
【写真 下(右)】 御朱印
延喜式内社だけあり、境内はさすがに神さびた空気が感じられます。
境内の大樟は樹齢千数百年ともいわれ、治承四年(1180年)、石橋山の戦いで破れ窮地におちいった頼朝公が根本の空洞で身を隠したとも伝わり国指定天然記念物に指定されています。
御朱印は社務所にて拝受しましたが、常時授与されているかは不明です。
16.飯室山 大福寺
〔浅利冠者義遠(義成)〕
浅利与一没後800年 特設ページ(山梨県中央市)
山梨県中央市大鳥居1621
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩(創立御本尊は不動明王)
札所:甲斐国三十三番観音札所第11番、甲斐百八霊場武州八十八霊場第49番
浅利与一は、『平家物語』の源平合戦最後のハイライト、壇ノ浦の戦いで「遠矢」を放った弓の名手として知られています。
源平合戦で与一を名乗り「三与一」と賞された3人の武将は、佐奈田(真田)与一、那須与一、そして浅利与一(余一)で、いずれも単なる「弓の名手」ではなく、れっきとした武家の統領とみられます。
浅利与一の正式な名は浅利(冠者)義遠(義成とも)。
清和源氏義光流の逸見清光の子とされ、兄弟には逸見光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定など、錚々たる顔ぶれの甲斐源氏が揃います。
源平合戦では富士川の戦いから壇ノ浦の戦いまで転戦し、奥州出兵にも参加、↓で板額御前が捕えられた建仁元年(1201年)の城氏の乱にも出兵しています。
有名な「遠矢」の場面については→こちら(中央市Web史料)をご覧ください。
また、義遠は越後の豪族城氏の女傑、板額御前を娶ったことでも知られています。
板額御前については→こちら(中央市Web史料)でくわしく紹介されています。
二代将軍源頼家公治世の建仁元年(1201年)、城小太郎資盛の反乱で弓の名手として活躍した資盛の叔母、板額御前は敗戦後捕らえられ鎌倉に送られました。
剛勇だけでなく美貌も謳われた板額御前は、頼家公以下御家人居並ぶなかに引き出されましたが、いささかも臆することなく毅然たる態度を崩さなかったそうです。
その翌日、義遠はこの板額を嫁に貰い受けたい旨を頼家公に願い出て許され、板額は義遠の室となって甲斐に居住し、浅利氏の跡継ぎを設けたと伝わります。
木曽義仲の側妾・巴御前と並ぶ女傑として賞され、「巴板額」(ともえはんがく)ということばが伝わります。
鎌倉幕府草創期、安田義定、一条忠頼、逸見有義、板垣兼信、秋山光朝など甲斐源氏の主要メンバーがつぎつぎと排斥されていくなかで、御家人中枢の立場を守り抜き、しかも敵将の息女の貰い受けを将軍に直訴するとは、甲斐源氏の一員としての微妙な立場を考えると、ある意味際立った立ち回りともいえます。
義遠は壇ノ浦の勲功もあってか奥羽比内郡地頭職を拝領しており、浅利氏は比内地方(秋田県北部)にも定着しました。
また、子孫の浅利信種は戦国期に活躍、奉行、箕輪城の城代、西上州への侵攻と勤め、後北条氏との三増峠の戦いで討死。
家督は嫡男の昌種が引き継ぎ、のちに浅利同心衆は土屋昌続に仕えて、昌続が天目山の「片手千人切り」で奮戦戦死したのち、嫡男の土屋忠直は大名に取り立てられ土屋家は明治まで大名家として存続しました。
浅利氏の本拠は甲斐国八代郡浅利郷(いまの山梨県中央市(旧増富村))で、義遠の墓所は浅利山 法久寺および飯室山 大福寺とされ、大福寺は御朱印を拝受しているのでこちらをご紹介します。
【写真 上(左)】 大福寺の本堂
【写真 下(右)】 大福寺本堂の扁額
大福寺は天平十一年(739年)行基の開創とされる古刹。
あたりは浅利義遠の舘で、建暦元年(1211年)、浅利家の菩提寺として伽藍を再建、寺領を寄進したとも伝わります。
甲州武田家の祖・武田信義の孫(義遠の甥)、飯室禅師光厳の再興ともいいます。
シルクの里公園に隣接し、本堂と観音堂は点在気味に離れてややとりとめのない印象ですが、かつては七堂伽藍を整えたという名刹です。
平安期作とされる「木造聖観音及び諸尊像」および「木造薬師如来坐像」は県指定有形文化財。
義遠の墓所とされる「浅利与一層塔」も県指定有形文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 大福寺の観音堂
【写真 下(右)】 大福寺の薬師堂
本堂は朱塗り柱が印象的な近代建築で扁額は山号寺号。
観音堂は入母屋造銅板葺妻入りとみられ、妻方向に桟瓦葺の向拝を付設するいささか変わった形状ながら、観音霊場札所らしい華やいだ雰囲気をまとっています。
御朱印は本堂よこの庫裡にて拝受できますが、ご不在の場合もあるようです。
【写真 上(左)】 甲斐国三十三番観音札所の御朱印
【写真 下(右)】 甲斐百八霊場武州八十八霊場の御朱印
17.金色山 吉祥院 大悲願寺
〔平山左衛門尉季重〕
東京都あきる野市横沢134
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所:多摩新四国八十八ヶ所霊場第59番、東国花の寺百ヶ寺霊場第10番、武玉八十八ヶ所霊場第1番、秋川三十四所霊場第21番、武蔵五日市七福神(大黒天)
源平合戦での活躍で知られる鎌倉武士をもう一人。平山左衛門尉季重です。
鎌倉殿の御家人には、「武蔵七党」と呼ばれる武蔵国を中心とした同族的武士団の面々も多くみられます。
諸説ありますが「武蔵七党」とは、おおむね横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)、私市党、綴党などをさすようです。
平山季重は西党(日奉氏)に属した武将で、多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山周辺)を領したといいます。
保元元年(1156年)の保元の乱で源義朝公、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝公の長男義平公に従い平重盛軍と対峙しました。
義朝公敗死後は平家方となりましたが頼朝公挙兵に呼応し、富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍し戦功を挙げています。
源平合戦では宇治川の戦い、一ノ谷の戦いでは義経公配下として奇襲に加わり、勝利のきっかけを作ったとされます。
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも奮闘して武名を高めましたが、戦後、後白河法皇の右衛門尉任官に応じたため頼朝公の怒りを買い、公から罵られたという記述が残っています。
しかし、大事には至らず筑前国原田荘の地頭職を拝領、奥州合戦でもふたたび戦功を挙げて鎌倉幕府の中枢に入りました。
建久三年(1192年)の源実朝公誕生の際には、”鳴弦”の大役を務めています。
【写真 上(左)】 日野宮神社
【写真 下(右)】 日野宮神社の御朱印
西党の党祖、日奉宗頼は高皇産霊尊の子孫といわれ、日野市の日野宮神社に御祭神として祀られています。
このような家柄、そして源平合戦での華々しい戦歴から「弓の弦を強く引き鳴らして魔を祓う儀式」、鳴弦(めいげん)の役を命じられたのかもしれません。
【写真 上(左)】 宗印寺の山門
【写真 下(右)】 宗印寺の本堂
【写真 上(左)】 宗印寺の御本尊(武相卯歳四十八観音霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 宗印寺の日野七福神(布袋尊)の御朱印
季重の墓所は日野市平山の大沢山 宗印寺とされますが、ここでは開基に頼朝公も絡んだとされる、あきる野市の金色山 大悲願寺をご紹介します。
【写真 上(左)】 大悲願寺の本堂
【写真 下(右)】 大悲願寺の仁王門天井絵
大悲願寺は聖徳太子が全国行脚の際、この地に一宇の草堂を建てたのが草創という伝承もありますが、建久二年(1191年)源頼朝公が檀越(施主)となり、僧澄秀を開山として平山季重が創建とされます。
関東管領足利基氏・氏満父子から寺領二十石の寄進、徳川家康公からも二十石の御朱印を受け、近隣に末寺32ヶ寺を擁したという寺歴をみても、源頼朝公の関与があった可能性があります。
『新編武蔵風土記稿』の多磨郡小宮領横澤村の項には「開基ハ右大将賴朝ナリトイヘド タシカナル證迹ハナシ サレド貞治ノ頃平氏重(平山季重?)カ書寫シテヲサメシ大般若アルヲモテ フルキ寺ナルコトシルヘシ」
山林を背に伽藍が壮麗な並びます。
本堂は元禄年間の築で、入母屋茅葺型銅板葺。説明板には「書院造り風の方丈系講堂様式」で「内部は六間取形式」とあります。
名刹の本堂にふさわしい堂々たる構えで都の指定有形文化財。
【写真 上(左)】 大悲願寺の観音堂
【写真 下(右)】 大悲願寺観音堂の向拝上部
向かって左奥の観音堂は寛政年間の築で、寄棟造茅葺型銅板葺に復原され、彫刻類も新たに彩色が施されて見事です。
とくに正面欄間の地獄極楽彫刻が見どころとされます。
堂内の「伝阿弥陀如来三尊像」は平安末期~鎌倉の作とみられ、国指定重要文化財に指定されています。
他にも仁王門格天井の天井絵、中門(朱雀門)、五輪地蔵、梵鐘など多くの見どころがあります。
【写真 上(左)】 大悲願寺の多摩新四国霊場の御朱印
【写真 下(右)】 大悲願寺の東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印
御朱印は雰囲気ある庫裡で拝受できます。
複数の霊場の札所ですが、現在は多摩新四国八十八ヶ所と東国花の寺百ヶ寺の2種類が授与されている模様です。
18.古尾谷八幡神社/寳聚山 東漸寺 灌頂院
〔源頼朝公・古尾谷氏〕
別記事、■ 源頼朝公ゆかりの寺社をみると、源頼朝公ゆかりの寺社は鎌倉・三浦半島を中心に相当数みられます。
ところが神奈川県外となると、その数はぐっと少なくなります。
埼玉県に至っては、ほとんどWebではヒットしません。
埼玉県内には、比企氏、畠山氏、熊谷氏、河越氏、武蔵七党など有力御家人が多く、寺社の創再建はこれらの武家たちが担っていたからかもしれません。
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ところが、再建ながら頼朝公が直々に関与したと伝わる寺社が、埼玉県川越市にあります。
古尾谷八幡神社と、その別当、寳聚山 灌頂院です。
古尾谷八幡神社
埼玉県川越市古谷本郷1408
御祭神:品陀和気命、息長帯姫命、比売神
旧社格:県社、旧古尾谷庄総鎮守
元別当:寳聚山 東漸寺 灌頂院(川越市古谷本郷、天台宗)
寳聚山 東漸寺 灌頂院
埼玉県川越市古谷本郷1428
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:古尾谷八幡神社(川越市古谷本郷)
札所:小江戸川越古寺巡礼第4番
ともに川越市古谷本郷の地に隣接してあります。
〔 古尾谷八幡神社 〕
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 拝殿
拝殿前配布の由来書には下記のとおりあります。
「創建 貞観四年(863年)比叡山延暦寺第三代坐主円仁来り法を修するの時、神霊を感じ神社を建て、これを天皇陛下に申し上げ石清水八幡宮の分霊を奉じ来たりてお祀りした。(略)当時、古尾谷庄は石清水八幡宮の荘園であった。」
「再建 元暦元年(1184年)源頼朝公古尾谷八幡神社に来り霊場を見、旧記を聞き、祭田を復し祭典を興した。文治五年(1190年)奥羽征伐の際陣中守護を当社に祈り鎮定の後社殿を再建した。」
『新編武蔵風土記稿』の入間郡古谷本郷の項には、「当社ハ元暦元年源頼朝勧請シ玉ヘルヨシ」とあります。
『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)には「古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。」とあります。
『入間郡誌』にも「元暦元年源頼朝祭田を復し、祭典を起し、文治二年奥羽征討の際来て祈願する所あり。凱旋後大に宮殿を造立せり。それより弘安元年、藤原時景と云ふ者、暫く此地を領し、社殿の頽廃を復し、梵鐘を鋳て社頭に掲げたり」
さらに、古尾谷八幡神社旧本殿(川越市Web)には、「古尾谷八幡神社は、貞観年間(859から877)に、石清水八幡宮の分霊を祀ったのがはじまりと伝えられ、古尾谷庄13か村の総鎮守として古くから崇敬されてきた。文治5年(1189)源頼朝が社殿を新たに造営し、弘安元年(1278)に藤原時景が復旧」とあり、ここでも頼朝公の関与が明記されています。
〔 寳聚山 東漸寺 灌頂院 〕
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
『新編武蔵風土記稿』の入間郡古谷本郷の項には、「(八幡社)別当灌頂院 天台宗 上野國世良田長楽寺ノ末 寳聚山東漸寺ト号ス、開山ハ聾義法印トノミ記シアリ(略)本尊彌陀ヲ安ス」とあります。
『入間郡誌』にも「慈覚大師、東国に来り、此地に於て灌頂修行し、此寺を立て其開山となり傍に八幡祠を立つ。(略)元暦四年頼朝堂宇坊舎を再興し」とあります。
また、『平成小江戸川越 古寺巡礼』(百瀬千又氏編)には「天長年間(824-833年)慈覚大師円仁の開創といわれ(略)源頼朝の手によって再建されたという。文治五年(1189年)の頃である。正応年間には古谷の地頭といわれた藤原時景によって再建となった。」とあります。
藤原時景と古尾谷氏の関係がどうもはっきりしないのですが、世の中には奇特な方がおられて、古尾谷荘について現地調査をふまえた詳細な記事をまとめられているので一部引用させていただきます。(出典はこちら(何となく古谷?それぞれの古尾谷氏…⑤))
「藤原時景が古尾谷左衛門尉時景だと分かったのは埼玉県名字辞典の古尾谷氏の項です。〔辞典からの引用:古尾谷 内藤氏流古尾谷氏 入間郡古尾谷荘より起る 内藤系図に『関白道長-(略-左衛門尉時景(弘安八年卒))』〕
上記から、藤原時景=古尾谷左衛門尉時景(御家人として、『吾妻鑑』に記載あり)であることがわかります。
『平成小江戸川越 古寺巡礼』(百瀬千又氏編)には「古尾谷八幡神社、灌頂院、そしてその塔頭などは地理的条件も含め古谷の豪族であった古尾谷氏の領地で、また、それをつかさどっていた別当寺の長官職は、藤原時景だったのではないかと推定され、広大な土地を所有し、頼朝の信任が厚かった古尾谷荘の地頭藤原氏と思われてくる。」とあります。
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頼朝公が武蔵の一地方の社寺の再建にかかわった(とされる)理由について、
1.古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園であったこと。
2.古尾谷八幡神社は、石清水八幡宮からの勧請であること。
3.領主の藤原時景(古尾谷氏)が頼朝公から信任を得ていた可能性があること。
などが想定されますが、この時期、頼朝公の関心が大きく川越に向いていたことも背景にあるのかもしれません。
有力御家人、河越重頼の動静です。
河越氏は桓武平氏良文流で坂東八平氏のひとつに数えられる名族。
秩父平氏の宗家筋とされ、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有していたとされます。
鎌倉幕府草創期の当主は河越重頼で「武蔵国留守所総検校職」に任じられ、妻は頼朝公の乳母・比企尼の次女(河越尼)で頼家公の乳母。
しかも義経公に娘(郷御前)を嫁がせていたという、きわめてデリケートな立場でした。
血筋からも、立場的にも武蔵国の武将たちに大きな影響力をもっていたと考えられ、頼朝公にとって目をはなせない存在であったことは容易に想像できます。
〔 河越重頼関連年表 〕
永暦元年(1160年)
・河越氏、所領を後白河上皇に寄進し荘官となる。上皇は京の新日吉山王社へ寄進し新日吉社領河越荘と称される。
治承四年(1180年)8月
・頼朝公挙兵。重頼は畠山重忠、江戸重長ら武蔵国武士団とともに衣笠城を攻め、頼朝公方の三浦義明を討ち取る。
治承四年(1180年)10月
・頼朝公武蔵国入国を受け、畠山重忠・江戸重長らとともに頼朝公配下となる。
寿永三年(1184年)8月
・義経公とともに後白河法皇から任官を受け、重頼と弟・重経も頼朝公の怒りを買う。
寿永三年(1184年)9月
・頼朝公の命により、娘(郷御前)が京に上って義経公に嫁ぎ舅となる。
文治元年(1185年)
・義経公が後白河法皇から頼朝公追討の院宣を受け、舅の重頼も頼朝公から敵対視される。
文治元年(1185年)
・義経公の縁戚であることを理由に伊勢国香取五カ郷を没収。その後、重頼は嫡男重房と共に誅殺され、武蔵国留守所惣検校職は畠山重忠に移る。
文治三年(1187年)10月
・頼朝公は重頼誅殺を悼み、河越氏本領の河越荘を後家の河越尼に安堵。
頼朝公の古尾谷八幡神社・灌頂院への関与は元暦元年(1184年)~文治五年(1190年)とみられるので、上の年表からもみてきわめてデリケートなタイミングといえます。
古尾谷氏の舘は川越市古谷上の現・善仲寺にあったとされ、河越氏の館(川越市上戸、現・常楽寺附近とされる)とはさほど離れていません。
これはまったくの憶測ですが、頼朝公、河越氏、古尾谷氏を巡ってなんらかの交渉があり、それが古尾谷八幡神社・灌頂院の再興となってあらわれたのかもしれません。
記事が長くなったので、両寺社のご紹介は控えますが、いずれも長い歴史と格式が感じられるたたずまいです。
御朱印については、灌頂院は不授与。古尾谷八幡神社については通常無人で、タイミングに恵まれれば拝受できるかと思います。
【写真 上(左)】 灌頂院の御朱印不授与掲示
【写真 下(右)】 古尾谷八幡神社の御朱印
19.超越山 来迎院 西光寺
〔葛西三郎清重〕
東京都葛飾区四つ木1-25-8
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番、荒綾八十八ヶ所霊場第34番、(京成)東三十三観音霊場第31番、新葛西三十三観音霊場第14番
葛西氏は桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流。
鎌倉幕府草創期の豊島氏の当主、豊島清元(清光)の三男、三郎清重は葛西御厨を継いで葛西氏を称しました。
治承四年(1180年)、源頼朝公の旗揚げには父・清元とともに隅田川で参陣。
この時点での秩父氏一族の動静は複雑で、江戸重長は頼朝公の参陣要求になかなか応じず、公は江戸重長の所領を召し上げて同族の葛西清重に与えようとしました。
これに対して清重は「一族(江戸氏)の所領を賜うのは本望ではなく、他者に賜るように」と頼朝公に言上したといいます。
これを聞いた頼朝公は怒りをあらわし清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」ときっぱり拒絶しました。
頼朝公は清重の毅然たる態度に感じ入り、これに免じて江戸重長を赦したといいます。(以上『沙石集』より)
この逸話の背景については諸説ありますが、おおむね頼朝公の葛西清重に対する信頼をあらわすもの、また、葛西清重が頼朝公と秩父一族の融和に奔走したことを示すものとみられています。
常陸国の佐竹氏討伐の帰途、頼朝公は清重の館に立ち寄り、清重は丁重にもてなして頼朝公とのきずなを強め、清重は頼朝公寝所警護役に選ばれています。
元暦元年(1184年)夏の平氏討伐には源範頼公に従軍。
九州で活躍し頼朝公から御書を賜り、文治五年(1189年)には奥州藤原氏討伐に従軍し、阿津賀志山の戦いで抜け駆けの先陣を果たし、さらに武名を高めました。
奥州討伐後、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など奥州の地に所領を賜り、奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任されています。
のちに奥州で勢力を伸ばした葛西氏は清重の流れと伝わります。
以後は鎌倉に戻り幕府の重臣として職責を果たしましたが、奥州総奉行も兼務。頼朝公からの厚い信任は以後もかわらず、幕府内の立場を確かなものにしています。
頼朝公没後は北条氏と歩調を合わせ、北条方からも信任を得て壱岐守にも任じられています。
有力御家人の粛清、失脚あいつぐなかで一貫して時の権力者から信任を得、存在感を保ったことは、清重のただならぬ政治力を示すものかと思われます。
晩年、清重は関東教化で訪れた親鸞聖人に帰依して出家しました。
嘉禄元年(1225年)、親鸞聖人が渋江郷の清重の館(現・西光寺とされる)に立ち寄られた際に雨が降り止まず、聖人は五十三日間も足止めされ、その間に清重は存分に聖人の教えを受けて発心し、聖人に帰依して西光坊定蓮と改め、居館を雨降山 西光寺と号したとされます。
親鸞聖人は清重に阿弥陀如来の絵像を与え、清重(西光坊)自刻の聖徳太子像の像内には親鸞聖人御作といわれる阿弥陀如来像が入っているそうです。
西光寺は草創時は真宗でしたが、のちに戦火や水害で寺運衰退し、寛永年間(1634-1643年)に天台宗の僧が再興、山号を超越山と改めたとされますが、天台宗改宗後も親鸞聖人ゆかりの報恩講式という法要が毎春催されているそうです。
なお、墨田区東向島にある曹洞宗 晴河山 法泉寺も葛西清重ゆかりの寺院で、清重が両親供養のために建立したとされています。(戦国時代に真言宗から曹洞宗に改宗)
【写真 上(左)】 法泉寺本堂
【写真 下(右)】 法泉寺の御朱印
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荒川の流れにもほど近い葛飾区四つ木。
下町らしい入り組んだ路地のなかに、それでもかなりの寺域を保ってあります。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
山門は本瓦葺きの重厚な四脚門。門の横には「葛西三郎清重の遺跡(居館跡)」の説明書がありました。
正面の本堂も入母屋造本瓦葺流れ向拝の堂々たる構えで、向拝には「超越山」の山号扁額が掲げられています。
本堂向かって右手奥には南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番の大師堂があり、お大師さまが大切に供養されていました。
【写真 上(左)】 清重稲荷社
【写真 下(右)】 清重稲荷社の扁額
山門をくぐって右手の地主神とみられる稲荷社の扁額には「清重稲荷」とありました。
また、西光寺から少しはなれた住宅地のなかに「清重塚」があり、こちらは清重夫妻の墓所という言い伝えがあります。
葛飾区の古刹は複数の霊場札所となっている例が多いですが、こちらも4つの霊場の札所となっています。
霊場の御朱印は不授与のようですが、庫裡にて御本尊の御朱印が授与されています。
【写真 上(左)】 本堂の扁額
【写真 下(右)】 西光寺の御朱印
20.龍ヶ崎鎮守 八坂神社
〔下河辺氏・下河辺四郎政義〕
公式Web
茨城県龍ヶ崎市上町4279
御祭神:建速須佐鳴神、奇稲田姫神
旧社格:龍ヶ崎鎮守
元別当:
下河辺氏(しもこうべ し)は、藤原北家秀郷流で下野国の有力豪族、小山政光の弟行義が下総国葛飾郡下河辺荘を本貫地として独立し、下河辺を名乗ったのがはじまりとされます。
鎌倉幕府草創期の下河辺氏は「下河辺庄司」とも呼ばれ、現在の茨城県古河市・境町・五霞町・坂東市、埼玉県加須市まで広がる下河辺荘の庄司として勢力を張りました。
下河辺荘は鳥羽院から美福門院、そして鳥羽帝の皇女、八条院暲子内親王と引き継がれ、のちに大覚寺統の主要な経済基盤になったとされる「八条院領」の一画をなし、上方との関係がふかいところでした。
下河辺荘が「八条院領」となった経緯については、在地領主の下河辺氏が美福門院ないし八条院に寄進したともいわれ、諸説あるようです。
清和源氏の嫡流、摂津(多田)源氏の源(馬場)仲政は下総守に任ぜられ、その子(源三位)頼政も一時期任地の下総に下向したとされ、そのときに頼政と下河辺氏が主従関係を結んだともみられています。
以降、頼政と行義の主従関係はつづき、治承四年(1180年)、行義は上方で頼政とともに以仁王挙兵に呼応したとされます。
『平家物語』巻四には頼政が敗死したのち、頼政の首を「下河辺藤三郎清親」が隠したとあり、この「下河辺藤三郎清親」は下河辺行義(行吉)とみられています。
茨城県古河市の頼政神社には、頼政の郎党、あるいは下河辺行義が頼政の首をこの地に葬ったとする伝承があります。
また、茨城県龍ヶ崎市にも頼政神社があり、龍ヶ崎市の資料には「頼政は自害する際に家臣・下河辺行吉に自分の首を東国へ運んで葬るように命じました。鎌倉時代になって下河辺が一族の守護神として、頼政神社を建てたと伝えられています。」と記されています。
源頼朝公は行義の子・行平をはじめ、下河辺一族を優遇しましたが、下河辺氏が源三位頼政や八条院領とふかいつながりをもつことも、その背景にあったかもしれません。
また、下河辺荘は利根川、隅田川、荒川に挟まれた関東有数の低湿の地にあり、低湿地や河辺の戦いに長けた下河辺衆は鎌倉軍にとって貴重な存在だったのかもしれません。
下河辺行平は源平合戦で華々しい戦功をあげ、頼朝公から「日本無双の弓取」と称賛されて、准門葉(源氏一門に準ずる扱い)ともされたという有力御家人でしたが、行平ゆかりの寺社がどうにも判然としません。
行平の弟、下河辺四郎政義は龍ヶ崎の八坂神社を草創と伝わるので、まずは龍ヶ崎八坂神社をご紹介とします。
下河辺政義は寿永二年(1183年)、小山氏一門、兄・行平とともに野木宮合戦(頼朝公と志田義広党の戦い)に参加して凱旋。
その後、頼朝公の近臣として仕え、合戦の功と頼朝公への忠勤により常陸国南部を与えられたともいわれます。(諸説あり)
源平合戦では行平とともに範頼軍に属し、九州で活躍しました。
よく知られているのが、吾妻鑑にある鹿島神社神主中臣親広との御前対決です。
『吾妻鑑. 上』の文治元年(1185年)八月大廿一日辛未の項には以下のとおりあります。
「鹿島社神主中臣親廣與下河邊四郎政義、被召御前遂一决、是常陸國橘郷者、被奉寄彼社領訖、而政義以當國南郡惣地頭職、稱在郡内、押領件郷、令譴責神主妻子等、剩可從所勘之由取祭文之旨、親廣訴申之、政義雌伏、頗失陳詞、爲眼代等所爲歟之由稱之、仍停止向後濫妨、任先例可令勤行神事之趣、神主蒙恩裁、退出之後、政義猶候御前之間、仰云、政義向戰塲殊施武勇對、親廣失度歟、尤●之云々、政義申云、鹿島者守勇士之神也、爭無怖畏之思哉、仍雖有所存、故不能陳謝云々」
常陸国橘郷(現在の小美玉市付近)は鹿島神宮社領でしたが、下河辺政義は常陸国南郡の総地頭職なので、この地は郡内にあるとして年貢を取り立て郷民に労働を強要しました。
鹿島神宮神主の中臣親広はこれを頼朝公に訴え、公の御前で中臣神主と下河辺政義の対決となりました。
政義に弁明の言葉はなく、これを受けた頼朝公は今後は(政義に)横領を止めさせるので、神事に励むよう裁決を下しました。
中臣神主が退出した後も政義は御前に留まっていたので、頼朝公が「政義は戦場では並みはずれた武勇を奮うのに、神主に対しては神妙であったな。」と笑うと、政義は「鹿島神宮は武勇の士を守られる神様なので、武士の私がこの神と争うとは畏れ多いこと。私にも言い分はありますが、あえて申し述べませんでした。」と応えました。
ここから、頼朝公が政義を「並みはずれた勇士」と認めていたことがわかります。
また、武勇の士、政義といえども、鹿島神の神威の前ではなすすべがなかったことを物語っています。
文治元年(1185年)秋、源義経公謀反の際、義経公に娘を嫁がせた河越重頼は誅殺されましたが、政義は河越重頼の娘を妻としていた関係から連座して領地を没収されています。
その後も史料に御家人としての活動がみられることから、赦免され復帰したものとされますが、往時の勢力は保てず、下河辺荘は北条氏の支配下に入ったとみられています。
『寛政重修諸家譜』などによると、下河辺政義の子・小川政平の末裔は大和国長谷川に住んで長谷川氏を名乗り、今川義元に仕えたのちに高田藩家臣、徳川家の旗本として存続。
『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られる火付盗賊改の長谷川宣以(平蔵)は、この流れと伝わります。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 境内
龍ヶ崎の鎮守、八坂神社は下河辺政義の草創と伝えられます。
社伝(公式Web)には「当神社は源頼朝の家臣下河辺政義公が、文治2年(1186年)に領地龍ヶ崎市貝原塚の領民を引き連れ、沼沢の地であった根町を干拓した際に、貝原塚の鎮守神社である八坂大神の分御霊を祀ったのが草創と伝えられます。」と明記されています。
【写真 上(左)】 鳥居と拝殿
【写真 下(右)】 社号提灯
龍ヶ崎の中心部に御鎮座。地域の中核社らしく、どことなく華やいだ境内です。
本殿の華麗な彫刻は元禄文化の粋をあらわすものとされ、市の文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 拝殿の彫刻
【写真 下(右)】 八坂神社の御朱印
祇園祭で有名な神社で、月替わり御朱印やオリジナル御朱印帳を頒布されるなど、御朱印授与にも積極的です。
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