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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-3

Vol.-2からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第9番 古碧山 龍厳寺
(りゅうげんじ)
渋谷区神宮前2-3-8
臨済宗南禅寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:
司元別当:(青山熊野権現/旧 浄性院)
授与所:庫裡

御府内霊場中、唯一の非真言宗寺院の禅刹(臨済宗南禅寺派)です。
『ルートガイド』には「弘法大師が関東を巡った際に開創され、かつては真言宗の寺院であったと伝わります。開創時の札所は青山熊野神社の別当・状(ママ)性院でしたが、明治七年の神仏分離で廃寺となり、弘法大師開創の伝承を有することから、龍厳寺が札所を引き継いだといわれています。」とあります。

たしかに江戸八十八ヶ所霊場第9番は「三光山 宝厳寺 浄性院(港区青山)」とあり、江戸期は浄性院が御府内霊場第9番札所であったとみられます。

旧9番浄性院は真言宗寺院で、新9番龍厳寺は臨済宗南禅寺派。
第9番が旧番のまま真言宗であれば御府内霊場の札所はすべて真言宗寺院で完結するのに、あえて新第9番を臨済宗南禅寺派とした理由があったのでしょうか。

まずは青山熊野権現元別当の浄性院から当たってみました。

『江戸名所図会』7巻 [8]の熊野権現社の項には「熊野権現社(略)南紀の熊野権現と同じく三社あり 青山の鎮守(略)別当ハ真言宗浄性院と号す」とあります。


【写真 上(左)】 (青山)熊野神社
【写真 下(右)】 (青山)熊野神社の御朱印

『寺社書上』(国立国会図書館)にも浄性院が収録されています。
熊野社と錯綜気味ですが、浄性院(寺院)に関連するとみられる記述を書き出します。
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本寺京知積院末 武州豊嶋郡原宿村 熊野権現別当 三光山 真(ママ)義真言宗 浄性院
開山法印清範明暦二年(1656年)寂 中興法印快圓宝暦十二年(1762年)寂
五百羅漢 十六善神 不動尊 愛染尊 
本地堂 熊野三社本地 (中)十一面千手観音 (右)薬師如来 (左)彌陀如来
金胎大日如来 石洞稲荷社 聖天堂本尊歓喜天 同本地十一面観世音
(相殿)江州浅井郡竹生島 本尊弁才天(旅宿社?) 訶梨帝母立像
護摩堂 本尊不動尊立像 厨子入不動尊坐像 愛染明王坐像 如意輪観音坐像 弘法大師坐像 右勧請●立年月不知
延享二年(1745年)二月十二日社殿●不残焼失仕 安永八年(1779年)正月十●日自火●亦ハ焼失 不知●記縁●●焼失仕寺記並開基亦●由来相不知
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『寺社書上』によると浄性院は京知積院末の新義真言宗で開山は法印清範(明暦二年(1656年)寂)。

浄性院(相殿)の弁才天は、江州浅井郡竹生島ゆかりのようです。
琵琶湖の竹生島は弁才天の聖地で、竹生島弁才天は江島(与願寺)・ 厳島(大願寺)とならんで「日本三大弁天」のひとつに数えられます。
竹生島にある巌金山 宝厳寺は真言宗豊山派で御本尊は大弁才天。
観音堂は西国三十三所第30番札所となっています。

宝厳寺の公式Webには「弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。」とあり、弘法大師の「御請来目録」を所蔵されています。

「御請来目録」は「(弘法大師)空海が唐から請来した新旧訳経、梵字真言、論疏章、曼荼羅、道具などの目録」(国立情報学研究所)で、日本密教上きわめて重要な文献です。

「御請来目録」には3つの写本があるとされます。
施福寺(大阪府和泉市槙尾山町)の「施本」、東寺所蔵の「東寺本」、そして竹生島宝厳寺所蔵の「竹生島本」です。
(参考:「『御請来目録』の書誌学的研究(甲田宥吽氏/PDF)」

「施本」は「請来目録上表草稿」ともいわれる請来目録残巻で、ほぼ弘法大師の御眞蹟と断定されていますが、「東寺本」、「竹生島本」が御眞蹟であるかについては、従前から数々の議論がなされ未だ結論を得ていない模様です。

ただし、「弘法大師御請来目録の原本について」(眞保龍敞氏/PDF)によると、宝厳寺所蔵の「弘法大師御請来目録」(竹生島本)は「(弘法大師)空海によって上表された原本に相違ない、と考えられる」とされています。
また、筆者は「竹生島本」と他の弘法大師御眞蹟とで精緻な比較をされた結果、「竹生島本は、筆蹟の上からも空海自筆たる特徴を充分に具え、弘法大師の御眞蹟と認定し得るもの」とされています。

つまり竹生島宝厳寺は弘法大師御眞蹟の「御請来目録」を所蔵されている可能性があり、浄性院の弁才天はこの竹生島(宝厳寺)弁才天系なので、この流れから浄性院と弘法大師霊場(御府内霊場)のつながりが出てきたのかもしれません。

一方、護摩堂の不動尊は「目黄不動尊」として信仰を集めたといい、「江戸五色不動」の一尊に数えられることもあったようです。(ご参考→「江戸五色不動の御朱印」

護摩堂には弘法大師坐像が御座され、山内に祀られる聖天様、愛染明王、稲荷神はいずれも真言宗寺院で多く祀られる尊格で、浄性院が保守本流の真言宗寺院であったことを裏付け、弘法大師霊場(御府内霊場)としての資格を充分に備えていたことがうかがえます。
『江戸名所図会』の絵図には、はっきりと「弘法大師 不動 あいせん」と載っています。)

龍厳寺の参拝時、本堂の御本尊と大師堂を礼拝した記憶があり、たしかこの「目黄不動尊」は大師堂内の御座だったかと思います。
となると、浄性院ゆかりの尊格は龍厳寺の大師堂に奉安されている可能性もあります。
御府内霊場の御朱印には「黄金目不動明王」の揮毫があるので、浄性院の「目黄不動尊」つながりで御府内霊場の札所となったのかもしれません。

また、たしか龍厳寺の大師堂前には宇賀神系の弁財天石仏が御座していました。
もともとの龍岩寺の地主ノ神である辨天様か、浄性院からの竹生島(宝厳寺)系弁才天かはわかりませんが、大師堂前御座から考えると後者かもしれません。

いずれにしても、青山熊野権現は『江戸名所図会』に載るほどの名所。
そしてその祭礼の華やかさは有名で、「青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿の山車」という俗謡が伝わります。
浄性院はその著名な熊野権現の別当。その点からも弘法大師霊場の資格をもっていたかと思われます。

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つづいて龍岩寺(龍厳寺)です。

臨済宗で本寺は多磨郡由井領山田村(現八王子)の兜率山廣園寺。
当初は名主半右衛門の屋敷の鎮守に辨天社があり、そばに小庵を建て喚室という僧を招聘し、慶長七年(1602年)に喚室を開山として創建といいます。

「やさしいお坊さん」Web(LDT株式会社)によると、喚室(峻翁令山禅師)は、武蔵國秩父郡出身で寂後に勅号(天皇よりの法名命名)を賜り法光円明国師と呼ばれた名僧で、本山兜率山廣園寺、児玉郡威音山光厳寺、深谷常興山國済寺などを開山されたといいます。

原宿村の一名主がこれほどの高僧を自邸の一庵に招聘できたのは不可思議で、『寺社書上』には「鐘銘ニ拠ハ(家康公)御入國(天正十八年(1590年))以前ヨリノ寺ナリト載ス」ともありますが、2度にわたる火災で寺伝を焼失し詳細は不明のようです。

御本尊は釈迦如来。
境内に祀る弁天社は「地主ノ神」といい、もともとの半右衛門屋敷の鎮守神とみられます。
以上をみても龍岩寺に密寺色はうすく、むしろ純然たる禅刹のイメージがあります。

【史料】
『寺社書上』(国立国会図書館)
武州八王山田廣園寺末 禅宗臨済派 古碧山龍岩寺
開闢 慶長(1596-1615年)トモ●傳 開山 喚室和尚元和八年(1622年)遷化 中興開山 青山和尚宝永八年(1711年)遷化 開基 相知不申候 中興開基 元禄五年(1692年)死去 俗名山崎半右エ門 当村名主作太郎先祖也
本尊 釈迦如来 脇立 文殊 菩薩 

『新編武蔵風土記稿』(同上)
龍岩寺 禅宗臨済派古碧山ト号ス 多磨郡由井領山田村廣園寺末 本尊釋迦 脇士文殊 普賢ヲ安ス 相傳フ 境内昔ハ名主半右衛門カ屋敷ニテ鎮守辨天社アリ 側ニ小庵ヲ建テ喚室ト云僧ヲシテ住セシメシカ 慶長七年(1602年)遂ニ宅ヲ捨テ寺トス 依テ喚室ヲ開山トスト寺傳ニイヘリ 鐘銘ニ拠ハ 御入國以前ヨリノ寺ナリト載ス 何レカ是ナルヤ喚室ハ元和八年(1622年)寂ス

辨天社 地主ノ神ナリ
天満宮 往古ハ木立像ナリシト(略)源義家此所ニテ出陣ノ連句ヲ催シ社前ニ納ム 依テ句寄ノ天神ト号スト 稲荷ヲ合祀セリ
日吉山王社 (略)往古ハ当村千駄谷村境榎樹ノ下ニ勧請アリシヲ 寛永中(1624-1644年)当寺第三世明叟ノ時ココニ移スト云
圓座松 砌下ニアリ囲モ四尺許 根上一尺許ヲ隔テ四方ヘ蟠延ス 大サ東西七間餘南北六間半 其状圓坐ヲ敷タル如クナレハ此名アリ

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とまぁ、いろいろ調べてみましたが、どうして廃寺後の浄性院の寺跡が、札所も含めて臨済宗の龍厳寺に引き継がれたかのはっきりとした答えは見いだせませんでした。
明治七年、神仏分離を受けた浄性院の廃寺の際にはかなりの混乱があった模様なので、なにか記録に残されていない複雑な経緯があったのかもしれません。

【 龍岩寺と熊野権現社(浄性院)の位置関係 】

『江戸切絵図/青山渋谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載


ただ、ひとつ気になる事柄があります。

多摩エリアの弘法大師霊場に「多摩新四国八十八ヶ所霊場」があります。
こちらはすべての札所が真言宗寺院です。
また、「多摩新四国八十八ヶ所霊場」をベースに開創といわれる「多摩百八ヶ所霊場」の札所もすべて真言宗寺院です。

ところが「多摩新四国八十八ヶ所霊場」には番外札所があって、それが八王子の廣園寺(こうおんじ)だというのです。
公式ガイドやWeb上の札所一覧情報には載っていませんが、一部のWebに記載があり、Wikipediaにも「多摩八十八箇所番外札所」と明記されています。


【写真 上(左)】 廣圓寺
【写真 下(右)】 廣圓寺の御朱印

兜卒山廣園寺は八王子市にある臨済宗南禅寺派の寺院で、龍厳寺の本寺です。
つまり、本寺・廣園寺は番外ながら唯一禅宗で「多摩新四国八十八ヶ所霊場」の札所、末寺・龍厳寺は「御府内霊場」唯一の禅宗の札所で、本末揃って禅宗で弘法大師霊場の一画を占めていることになり、なんとなく偶然の符合とは思えないものがあります。

ただし、Webから追えたのはここまでで真相は霧のなかです。

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最寄りは都営大江戸線「国立競技場前」駅ですが、メトロ銀座線「外苑前」駅からも歩けます。
「外苑前」駅からだと青山熊野神社の前を通り、神社から龍厳寺に向かう坂道を「勢揃坂」といいます。
現地掲示板によると、永保三年(1083年)に八幡太郎義家公が奥州征伐(後三年の役)に出陣の際、ここで軍勢を揃えたといわれ、当地の豪族渋谷氏の祖・秩父十郎武綱も参陣と伝わります。
また、龍厳寺山内の天満宮は義家公が出陣の際に連句を催し、社前に句を納めたとされ「句寄の天神」ともいうそうです。

 
【写真 上(左)】 勢揃坂
【写真 下(右)】 参道

國學院高のちょうど西側で、敷地じたいは外苑西通りに面していますが、山門は1本奥まった枝道からさらに入ったところにあり、神宮前とは思えない静寂に包まれています。

路地から伸びるゆったりとした石敷きの参道。
あたりは都心としては奇跡的に?高い建物がなく、陽光が降りそそいで明るいです。

 
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山門-1

山門前に寺号標。上部には「御府内第九番御札所 弘法大師霊場」と刻まれています。
正面の山門は切屋根桟瓦葺妻の薬医門で、両脇に桟瓦葺の板塀を延べています。

主門には木柵が置かれ、右手通用門横には「檀信徒以外の出入りをお断り申す 合掌」の掲示があって一瞬ひるみますが、「御府内霊場巡拝者はたぶん信徒だよな~」と気をとりなおして通用門をくぐり山内に進みます。
(たしか通用門を開けるといきなり鈴が鳴って、これまたびびった記憶が・・・(笑))

 
【写真 上(左)】 山門-2
【写真 下(右)】 門外からの山内

こちらは山内の撮影禁止なので撮影はしておりませんし、山内のご案内も控えます。
草木が茂ったほの暗い山内で、堂宇も趣きがあり、とても神宮前の一画とは思えません。
山内には石佛が点在していましたが、画像がないのでよくわかりません。

従前、山内にあった「圓座の松」は江戸の名木のひとつとして知られ文化十年著の『十万庵遊歴雑記』などで取り上げられています。

御朱印は庫裡にて拝受。敷居が高く謹厳なイメージがありますが、御朱印対応はご親切でした。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は釋迦如来のお種子「バク」ではなく、なぜか阿弥陀如来・如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」(蓮華座+火焔宝珠)。揮毫は「本尊 釋迦牟尼佛」「弘法大師」「黄金目不動明王」で右上に「第九番」の札番揮毫。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
「釋迦牟尼佛」の御朱印は禅刹では一般的ですが、御府内霊場では唯一と思われます。   


■ 第10番 観谷山 福聚院 聖輪寺
(しょうりんじ)
渋谷区千駄ヶ谷1-13-11
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第10番、東京三十三所観世音霊場第13番、近世江戸三十三観音霊場第20番、大東京百観音霊場58番
司元別当:
授与所:庫裡

御府内霊場中、もっとも歴史が古いとされる古刹です。
『観谷山聖輪寺観音略縁起/寺社書上』によると、神亀二年(725年)5月の頃、行基菩薩が北越遊行された折に当地で休息されたとき、谷の中から光りが射して如意輪観世音菩薩が出現しました。
観音様は「我はこの地に因縁あり、汝(行基菩薩)が我の相を彫刻すれば末世の衆生に結縁せしめて広く利益をなさん」と告げられて、大きな朽木のもとでお姿を消されました。

行基菩薩は感じ入り、この枯木を加持して御長三尺五寸の尊像を刻み奉り石上に安置して持念されました。
観音様は御双眼より金色の光りを放たれたため観谷山、寺号を聖輪寺として本山を開創されたと伝わります。
神亀二年(725年)開創とすると、実に千三百年もの寺歴を有することになります。

明和九年(1772年)刊の『江戸砂子温故名蹟誌』には、江戸にて千年以上の霊場は浅草寺と当寺と記されています。

御本尊は行基菩薩の御作と伝わる如意輪観世音菩薩。
山内掲示によると、この地の豪族・渋谷氏一門はこの尊像を深く信仰し、そのご利益あってか一門は栄え、人々は「黄金長者」と呼んだといいます。

天正の頃(1573年)には、御本尊が疱瘡から里人を救われ、観音様の大悲護念を謝してこのときから御本尊を閉扉し秘仏として崇め奉ったとのことです。

慶長の頃には観音像の双眼が黄金であると聞いた賊が忍び込み、玉眼を鑿で取ろうとしたところ、冥罰に当り、自らの鑿で貫かれて死んでしまいました。
人々はこれも観音様の霊験と畏れ、信仰をいっそう篤くしたと伝わります。

このときより「千駄谷観音」「目玉の観音」とも呼ばれ、近世江戸三十三観音霊場第20番の札所ともなって人々の信仰を集めました。

慶安四年(1651年)には奈良・長谷寺の末寺となり、真言宗豊山派の名刹としていまに至っています。

【史料】
『寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考』
新義真言宗 紀州初瀬小池坊末 千駄ヶ谷町
起立之儀古来●当地有之候得共、年数不分明
開山 法印宥光(明暦三年(1657年)遷化)
中興 法印宥仙(元禄七年(1694年)示寂)
本尊 如意輪観音 木座像丈三尺五寸 神亀二年(725年)行基菩薩作
前立 如意輪観音 両脇立 不動毘沙門 四天王 護摩壇本尊不動 両童子 聖天
鎮守社 諏訪明神 秋葉権現 稲荷明神
大師堂 弘法大師 厨子入座像 長二尺三寸
※鎮守の稲荷明神は「庄九郎稲荷」ともいわれ、往古は村の鎮守とも伝わります。

(観谷山聖輪寺観音略縁起)
抑当寺本尊聖如意輪観世音者 行基菩薩乃御作也 神亀二年(725年)五月の頃 行基北越遊行乃時 此所に暫く休息し(略)谷乃中より光りさし如意輪観音出現しぬ 告て宣く●此地ハ我に因縁あり汝よろしく●我相を彫刻し 末世の衆生に結縁せしめて廣く利益をなさんとて 大なる朽木の本ニ失給ふ 行基感涙肝に銘し(略)其枯木を採て御衣木とし加持して御長三尺五寸の尊像を刻み奉り 石上に安置し持念したまふ 御双眼より金色乃光りを放ち●故に 本山を観谷山といひ 寺を聖輪寺と号す
(以下、山内掲示の縁起書に概要記載あり)
  
『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [5]』(国立国会図書館)
観音 千駄ヶ谷 観谷山 聖輪寺 真言 和州長谷末
開山行基菩薩 本尊如意輪 眼玉の観音と云●り 賊来りて本尊の玉眼黄金なりとて ぬき出し(略)おのれを害して死
江府にて千余歳の霊場ハ浅草寺と当寺  

【 江戸期の聖輪寺周辺 】

『江戸切絵図/内藤新宿千駄ヶ谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載


『江戸名所図会 7巻 [9] 千駄谷観音堂』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)


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【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所標

国立競技場の西側にあり、「国立競技場」駅、「千駄ヶ谷」駅、「北参道」駅の3駅から徒歩でアクセスできます。
「観音坂」と呼ばれる坂の途中に位置しています。
入口は門柱。門前には御府内霊場の札所標、門扉には真言宗の宗紋門「五三の桐」。

 
【写真 上(左)】 五三の桐
【写真 下(右)】 入口

 
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 庚申塔

山内はさほど広くはありませんが、よく手入れされて落ち着いた参拝ができます。
鐘楼堂まわりには八十八カ所踏み石参拝所が設けられています。
塀ぎわには二童子を従えた身守不動尊と六地蔵。
渋谷区教育委員会の説明書がある庚申塔、桃?を持たれたかわいいお地蔵さまも御座。

 
【写真 上(左)】 身守不動尊
【写真 下(右)】 六地蔵

 
【写真 上(左)】 地蔵尊
【写真 下(右)】 本堂

本堂は近代建築で向拝上部に山号扁額、その上に真言宗豊山派の宗紋「輪違い紋」を掲げています。

 
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額

墓域には真田氏の流れで『明良洪範』を著した、甲州流の兵学者増譽法印の墓があります。

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
  
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は三寶印。揮毫は「本尊 如意輪観音」「不動明王」「弘法大師」で右上に「第十番」の札所印。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第11番 光明山 真言院 荘厳寺
(しょうごんじ)
渋谷区本町2-44-3
真言宗室生寺派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来・不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第11番
司元別当:(幡ヶ谷)氷川神社(渋谷区本町)
授与所:不動堂札所(授与所)

「幡ヶ谷不動尊」としても知られる真言宗室生寺派の寺院。
『新編武蔵風土記稿』によると、開山は宥悦法印(天文二年(1533年)寂)。
寺院御本尊は薬師如来ですが、御府内霊場の御朱印には不動明王も揮毫されているので、札所本尊は薬師如来・不動明王両尊と思われます。

不動明王は智証大師(円珍)が三井寺開基の際に自ら彫刻し本尊とされた尊像と伝わり、天慶二年(939年)、承平天慶の乱で藤原秀郷が戦勝を祈願して御持佛とし、戦勝ののち下野国小山郷に安置と伝わります。
三井寺から遷られた経緯については『江戸名所図会』に「(天慶年間)平貞盛、及び藤原秀郷等、東国に発向す。其時三井寺より此本尊を奉持して、陣中に移し奉り、戦の勝利を祈誓」とあり、承平天慶の乱の際に東国に遷られた旨が記されています。

永禄年中(1558-1570年)、武田信玄が甲州七覺山(右左口の七覚山円楽寺?/真言宗)に遷して崇敬し、後に北条氏政がこれを奪って相州筑井縣地勝院(相州津久井城西麓?)に奉安、天正十八年(1590年)北条氏没落の後には徳川家康以下代々の武将が崇敬して多磨郡宅部村三光院(東大和市/真言宗)に遷られ、延享四年(1747年)9月、霊夢のお告げにより当山に安置と伝わります。

このお不動様を尊崇した武将は藤原秀郷、武田信玄、北条氏政、徳川家康という錚々たる面々で、相模原市の城山地域史研究会資料には「有名武将が競って崇敬した不動明王」と記されています。

以降「幡ヶ谷不動尊」として広く信仰を集め、「江戸近郷の三不動(成田山、光明山、高幡山)の一つとして広く尊崇を集めた。」というWeb記事もみつかりました。

立地は府外ですが、開創時から御府内霊場札所であったとみられ、これは『江戸名所図会』にも載せられた著名な「幡ヶ谷不動尊」の存在が大きかったのかもしれません。

江戸期には(幡ヶ谷)氷川神社(渋谷区本町)の別当も司っていました。


【写真 上(左)】 幡ヶ谷氷川神社
【写真 下(右)】 幡ヶ谷氷川神社の御朱印

【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
新義真言宗 江戸大塚護國寺末 光明山真言院ト号ス 開山宥悦 天文二年(1533年)5月15日寂 本尊薬師
不動堂 木佛立像長三尺三寸 智證大師作 縁起ニ云 智證大師三井寺開基ノ時 自此不動ヲ彫刻シテ彼寺ノ本尊トセシカ 天慶二年(939年)平貞盛 藤原秀郷等平将門追討ノ時 秀郷此不動ニ祈誓ヲコメ 陣中マテ守リ行テ渇仰怠リ無ク 果シテ勝利ヲ得タリシカハ 凱陣ノ頃下野國小山ノ郷ニ安置セリ 其後遥星霜ヲ歴テ 永禄年中(1558-1570年)武田信玄甲州七覺山ニ移シ崇敬セシヲ 北條氏政奪テ相州筑井縣地勝院ニ納ム 然ルニ天正十八年(1590年)北條氏没落ノ後 東照宮代々ノ武将崇敬アリシ像ナル事ヲ聞シ召レテ 多磨郡宅部村三光院ニ移シ給ヒ 延享四年(1747年)9月霊夢ノ告アリテ当寺ニ安置スト云 稲荷社
(幡ヶ谷村)氷川社 村ノ鎮守ナリ荘厳寺持


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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 不動堂


【写真 上(左)】 不動堂向拝
【写真 下(右)】 「幡ヶ谷不動尊」の尊号板

場所は初台の新国立劇場の北側で最寄りも「初台」駅、山手通りから1本なかに入った住宅地にあります。
南側の「ふどう通り」は、かつて幡ヶ谷不動尊の参道であったとも。
入口に「幡ヶ谷不動 荘厳寺」の寺号標。その先の門柱の右手奥が幡ヶ谷不動堂。

堂前は催しができる広めのアスファルト敷のスペースで、著名な仏堂によくあるかたち。
入母屋造本瓦葺流れ向拝の端正な不動堂で、向拝まわりの意匠は比較的シンプルです。

向拝柱に「幡ヶ谷不動尊」「厄除不動」の掛板。向拝見上げに「不動明王」の扁額。
向かって右手に札所(授与所)があり、御朱印はたしかこちらでいただいたかと思います。


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 山門

不動堂の向かって左奥、狛犬一対の先に構える山門は、切妻屋根本瓦葺で手前左右の控柱に切妻屋根が掛かっているので高麗門かと思います。
山門柱に重厚な筆致の寺号板。


【写真 上(左)】 山門の寺号板
【写真 下(右)】 馬頭観音像

山門をくぐって左手に大師堂。堂前を直角に折れると正面が本堂。
緑が多く風情ある山内で、引き締まった像容の馬頭観世音菩薩像など見どころが多いです。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂扁額

大師堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で「遍照殿」の扁額を置いています。
同前に御府内霊場の札所碑もありました。


【写真 上(左)】 札所碑
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、その下に銅板葺の屋根を張りだしてやや変わった意匠です。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
向拝正面硝子格子扉のうえに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

向拝身舎柱に「本尊 薬師如来」とあり、札所本尊のお薬師さまはこちらに御座。
本堂向かって右には修行大師像が御座。
なので、御府内霊場巡拝の拝所は、不動堂、大師堂、本堂、修行大師像の4ヶ所となります。

御朱印揮毫は薬師如来、不動明王、弘法大師の三尊。雄渾な筆致で見ごたえがあります。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は宝珠印。揮毫は「本尊 薬師如来」「不動明王」「弘法大師」で右上に「御府内 第拾壱番」の札所印。左下には山号寺号揮毫と寺院印が捺されています。



■ 第12番 明王山 無動院 宝仙寺
(ほうせんじ)
公式Web
中野区中央2-33-3
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:弘法大師
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第12番、関東三十六不動尊霊場第15番、真言宗(関東)七箇寺
司元別当:和田村八幡(大宮八幡神社)、(中野村)氷川社
授与所:本堂向かって右手の大書院

公式Web、山内掲示、『新編武蔵風土記稿』によると、寛治年間(1087-1094年)、八幡太郎源義家公が奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中、陣中で護持されていた不動明王像を安置するため建立・創建。
旧地は、父・頼義公が祀った八幡社のある阿佐ヶ谷で、造寺竣成にあたり地主稲荷神が出現されて義家公に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である 是を以って鎮となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と告げられたため、その地を寺地とされたと伝わります。

往時は和田村八幡(大宮八幡神社)の別当と伝わり、『新編武蔵風土記稿』には「((中野村)氷川社)村内寶仙寺ノ持」とあります。


【写真 上(左)】 大宮八幡宮
【写真 下(右)】 大宮八幡宮の御朱印


【写真 上(左)】 (中野)氷川神社
【写真 下(右)】 (中野)氷川神社の御朱印

鎌倉時代には相模國大山寺の願行上人が当寺を訪れ、御本尊の不動明王像をご覧になられて霊貌の凡常でないことに驚かれ、尊像を厨子の奥に秘蔵され、別に御前立の不動尊を刻して安置されました。

室町時代には、当寺中興第一世聖永(永享三年(1431年)寂)が現地に寺基を遷しました。
寛永十三年(1636年)には三重塔が建立されて庶民にも親しまれ、歴代将軍の尊崇篤く御鷹狩りの休憩所としても使われました。
徳川将軍家は清和源氏新田氏流を名乗り、その始祖は八幡太郎義家公です。
その義家公ゆかりの不動尊奉安の寺院となれば、歴代将軍の尊崇もなるほどうなづけるものがあります。

江戸期には「末寺三十二ヶ寺 門徒二十六ヶ寺ヲ統ヘ司トレリ」(『新編武蔵風土記稿』)という名刹です。


【史料】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
往還ノ内小名中宿下宿ノ境ニアリ 明王山聖不動院ト号ス 新義真言宗 無本寺ニテ(略)
傳へ云 昔堀河院ノ御宇寛治年中(1087-1094年)鎮守府将軍源義家 奥州ノ夷賊ヲ征伐シ御利運アリシカハ 凱陣ノ後当寺ヲ建立シ給フト云 サレト往古ノ事ナレハ其詳ナル●ヲシラス 当寺昔シハ和田村八幡(大宮八幡神社)ノ別当ナリシカ 社地ヘノ路程ヘタゝリテ不便ナレハ 末寺ニソノ職ヲユツレリト云 サレハ八幡鎮座ノ時 当寺ヲ起立シテ別当ニ附ラレシニヤ 中興開山ヲ聖永トイフ 永享三年(1431年)2月24日示寂ス 末寺三十二ヶ寺 門徒二十六ヶ寺ヲ統ヘ司トレリ(略)
本堂 御成ノ時御膳所ナリ 本尊ハ不動ノ坐像ニテ長一尺七寸五5分 良弁ノ作 外ニ四大明王ノ四体ヲ安ス 木ノ立像ニテ長二尺三寸五分 願行ノ作ト云 古位牌一基アリ 碑面ニ云将軍頼義公信信海将軍義家公信了ト彫リテアリ(以下略)
(塔頭 玉泉寺)
境内東南ニアリ 本尊弘法大師木ノ坐像ニテ長二尺五寸 願行ト云ヘル作 什物 弘法大師畵像二軸 愛染明王ノ畵像一軸 右三軸トモ弘法大師ノ筆スル所ナリト云
(三重塔)
当寺ヨリ二町ホト東ノ方ニアリ三間半四面高サ五丈三尺五智如来ノ木像ヲ安ス
((中野村)氷川社)
村内寶仙寺ノ持


『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫) 中野寶仙寺』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)


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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門-1


【写真 上(左)】 山門-2
【写真 下(右)】 寺号標

東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅からほど近い職住学混在エリアに広大な山内を構えています。
青梅街道の「宝仙寺前」交差点から北に向けてまっすぐ伸びる道は、かつての参道だったのでは。

周囲を占める宝仙学園の創立者は宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正で、昭和10年東京では初めての仏教系の保育者養成校・仏教保育協会保姆養成所(現・こども教育宝仙大学)が創始です。
公式Webには「弘法大師の『綜藝種智院』を模範に大師の思想を教育の根底におきました。」とあります。

山門は切妻屋根本瓦葺三間一戸の八脚門で、両脇間に迫力の仁王尊像を安置。
山門からしてすでに名刹の風格をただよわせています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 見返り地蔵&六地蔵

境内案内は公式Webにも掲載。
山門の先左手に寺号標、鐘楼、中野町役場跡碑、見返り地蔵&六地蔵、石臼塚、八十八大師塔、三重塔、御影堂とならびます。


【写真 上(左)】 石臼塚
【写真 下(右)】 三重塔

石臼塚は蕎麦挽きの石臼の供養塚。
そばを流れる神田川には江戸期水車が置かれて蕎麦粉が挽かれ、一大消費地・江戸に向け盛んに玄蕎麦が送られて、この地の蕎麦粉は「中野蕎麦」と呼ばれ名を馳せたとの由。
機械化で使われなくなった大量の石臼を見られた当山第50世住職富田敦純大僧正が「人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべき」として建立されたものです。

当山の三重塔は、寛永十三年(1636年)に塔ノ山の飛び地境内(現・区立第十中学校(中野東中学校))に建立され、戦災で焼失した三重塔を平成4年に飛鳥様式で再建したもので、高さは約20メートル。
堂内には大日如来を中心とした胎蔵界五佛が奉安されています。

『新編武蔵風土記稿』には「(三重塔)当寺ヨリ二町ホト東ノ方ニアリ三間半四面高サ五丈三尺(約16m強)五智如来ノ木像ヲ安ス」とあり、区立第十中学校(中野東中学校)は当山からほぼ二町(約220m)ほどにあるので、この三重塔を再建とみられます。
ただし、風土記稿三重塔奉安の五智如来(=金剛界五佛/大日如来・阿閦如来・薬師如来・宝生如来・観自在王如来(ないし阿弥陀如来)、不空成就如来(ないし釈迦如来)に対し、こちらの三重塔は胎蔵界五佛(大日如来、宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来の奉安となっています。

なお、『江戸名所図会』によると、中野周辺は「中野七塔」と呼ばれ、塔が多いことで知られていたようです。


『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫) 中野塔』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載)


【写真 上(左)】 御影堂
【写真 下(右)】 日輪弘法大師

御影堂は三間四方の宝形造本瓦葺身舎柱朱塗りの整った堂宇で、堂宇御本尊の日輪弘法大師座像の高さは後背まで入れると約3メートル。
堂前説明書には「脱活乾漆という漆と麻布で作られておりこの技法でこのような大きな佛像は壱千年以上も絶えて作られておりませんでした。」とある稀少な尊像です。
御影堂は開扉されている時とされていないときがあり、21日は開扉されていたのでご縁日(月御影供)のみの御開扉かもしれません。

『新編武蔵風土記稿』には「(塔頭 玉泉寺)境内東南ニアリ 本尊弘法大師木ノ坐像ニテ長二尺五寸 願行ト云ヘル作 什物 弘法大師畵像二軸 愛染明王ノ畵像一軸 右三軸トモ弘法大師ノ筆スル所ナリト云」とあります。
宝仙寺塔頭玉泉寺の御本尊は伝・願行作の弘法大師坐像ですが、御影堂の日輪弘法大師坐像とは像高が異なるので、別個の尊像かと思います。
ただ「弘法大師畵像二軸 弘法大師ノ筆スル所ナリト云」というただならぬ記載があり、もともとお大師さまとゆかりのふかい寺院であったことがうかがえます。

立地は府外ながら弘法大師や八幡太郎源義家公ゆかりの名刹で、その流れから御府内霊場札所に迎えられたのでは。


【写真 上(左)】 弘法大師碑
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は入母屋造本瓦葺で大棟に金色の鴟尾を置き、身舎の柱梁は朱塗りで華々しいイメージ。
向拝柱はなく、向拝見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 修行大師像と本堂


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

こちらには御本尊の不動明王を中心に五大明王が奉安され、関東三十六不動尊霊場第15番札所となっています。

本堂向かって右手は大書院で、御朱印はこちらで拝受できます。
大書院裏手の白玉稲荷は、寺号の由来となった宝珠を祀った祠とのことです。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 鐘楼

山門右手の近代建築は大師堂で、教化活動のお堂とのこと。

御朱印は御府内霊場、関東三十六不動尊霊場、そして日輪弘法大師の3種類が授与されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は弘法大師のお種子「ユ」(蓮華座)。揮毫は「日輪弘法大師」で右上に「府内八十八ヶ所 第十二番」の札所印。左下には寺号揮毫と寺院印が捺されています。
御府内霊場中5つしかない貴重なお大師さまの単独揮毫御朱印のひとつです。

〔 関東三十六不動尊霊場第15番の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

〔 日輪弘法大師の御朱印 〕


 
以下、つづきます。
(→ Vol.4


【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina


■ 桜 - 中村舞子


■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
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