設楽原古戦場巡り
今回、紹介するのは
大宮前激戦地にあたる「丸山砦」
ここは、もともとは、織田軍の佐久間信盛の軍勢約六千が陣を敷いていた場所…
長篠の戦い前夜、武田軍の武将、馬場信房は、長篠城を見下ろす大通寺砦をにいたが、織田・徳川連合軍が設楽原に布陣すると…
武田勝頼の命で武田軍の北端に布陣する…丸山砦の北東に
そして、武田軍の馬場信房は手勢七百の少数部隊で攻撃し、ここを攻め占拠…
その時点では、勢いついてた武田軍
その後、この勢いに乗じて、土屋昌次 らが馬防柵の第一柵を突破
そんな長篠・設楽原の決戦へと繋がっていったこの丸山砦…
遠くから眺めると、古墳のようでもあります…
近くに行けば…ものすごくコンパクトにまとめて記載されている説明板
私??
それは
もちろん…
バカは高いところに登りたがる!!
そのとおりの性格なので…さっそく砦の頂上に…
先 佐久間信盛 後 馬場信房 陣地の石碑…
登ってみた感想…
確かに決戦地は上から眺めれて戦況はよくわかるものの、
狭っ!!!
武田軍の馬場信房の手勢七百…で取り囲んだ図を想像しただけでも「密」
ましてや、織田軍の佐久間信盛の軍勢約六千…もう、当時に新型コロナウイルスが蔓延してたら、みんなカンセンでしょうな…
噂では、どんどん、この丸山砦、削られていて、当時はこの2倍は、あったそうだけど…それでも狭っ!!って思ってしまいました!!
さてさて、この川は、武田軍と織田・徳川軍が対峙した連吾川
その川のところに立て看板が…
なんでもここで上州産の矢立硯が発見されたとのことで…上州出身の武将がもっていたのではないか…と
主に武士たちが陣中において使い、手紙をしたためたりしていた、その時に使っていたと思われる矢立硯…
この場所、大宮前激戦地で上州出身の真田信綱・昌輝が討死したとのこと…
さらには、連吾川を超えて、織田・徳川陣営だったと思われる
山のふもと、上記の写真の中央奥には…
高森恵光寺の塚が
徳川軍の陣地に攻め入っての討死だったのでしょうか???
馬防柵から正面突破ではなく、横から侵入したところでの討死だったのかも知れないな…
左側の墓石に、名が刻まれています
右側の墓石にも薄く刻まれています…
討死した武田軍武将の中で、織田信長が首実検した記録の中に「高森恵光寺」の名があるとのことで、案内板にあるような「謎の武田武将」ではなくて、そこそこは、正体がわかっている武将のようで…
「いけ!いこう!!じゃまだー!!(織田軍が)」
そんな攻め入ってるときの、「けいこうじ(恵光寺)」武将の声が聞こえてきそうで…!!…苦笑
さてさて、最後にもう一度、高森恵光寺の塚の前から、丸山砦を眺める…
敵がせ…まる山砦
敵をやっつけ気分がたか…まる山砦
火縄銃で狙いがき…まる山砦
馬防柵にこ…まる山砦
馬防柵に思わず…とど…まる山砦
このオヤジギャグに…は…まる山砦…(笑)
そんなオヤジギャグは…ほっ砦(ほっといでー)…苦笑