設楽原古戦場巡り
今回、紹介するのは
戦いのメインである長篠・設楽原合戦の決戦地
織田軍30,000人、徳川軍8,000人という大軍がこの地にやってきて、そこには、織田・徳川連合軍が、連吾川の西岸に南北およそ2km、3重の馬防柵を築いたそうで、それが再現されている…
連吾川沿いにある水田は、まるで沼地のように足をとられてしまう場所であったよう…
1575年5月21日の早朝、織田・徳川連合軍による鳶ケ巣山への奇襲攻撃で戦いが始まり…鳶ケ巣山に陣をはってて、生き残ったものが一緒に合流して武田軍は馬防柵に向かって突撃を繰り返した場所…
織田軍は、馬防柵から火縄銃の鉄砲隊を三列で準備するという戦法…最前列が火縄銃を撃ち放つと、二列目と入れ替わり、二列目が撃つと、次はまた三列目が撃つ…それを繰り返す…
武田軍の中には、馬防柵までたどり着き、柵を突破した武将も多くいたとか…
織田・徳川連合軍も多くの兵が討死したが、その何倍もの死者を出したのは武田軍…
武田軍の武将が次々と討死…
武田軍の、その中の一人である甘利信康公の碑が…馬防柵のある長篠・設楽原合戦の決戦地から東に500メートルほど、武田軍の陣営であったところに…ぽつんと…
長篠・設楽原の戦いで、甘利信康は、武田軍では新しい戦法である鉄砲隊の隊長として、戦闘に加わり、敵の第一柵まで奪取し、さらに第三の柵をも破る勢いであったが、天王山の麓までじりじりと押し戻され、弾丸が尽きたため鉄砲を捨て抜刀し、織田・徳川軍を斬りつけていくも、傷つき力尽きて「この柵さえなければ…」と立ったまま無念の切腹をとげたとか…あまりにも壮絶な死だったとか…「あまり(甘利)」だけにね…
ではでは、甘利信康公の碑があるところからみえる…
長篠・設楽原合戦の決戦地である
西にある馬防柵へと…
向かう途中に長篠・設楽原合戦屏風絵図の看板が…
教科書でよく見かける図ですね!!
武田軍は騎馬で戦ったけど、織田・徳川軍は新兵器である鉄砲を使ったから勝った…
これが、「長篠・設楽原合戦」の、この図をみて気付いたところを答えなさい的なテスト問題での模範解答であったような…
あ、それ、私が中学生の頃のウン十年前の記憶だから、今となっては、誤答かも知れないけど…
おお、再現されてる馬防柵
リアルにきっと、こんな感じだったのでしょう!!
この木はえんえんと岐阜から担いでもってきたそうで
武田軍の武将、土屋昌次は、馬防柵を超え、二重の柵をも突破したところで射撃を受け戦死…この辺でお亡くなりになったんでしょうと
それを示す、歴史の感じる石碑が柵の中に…
柵の二段目、三段目と、火縄銃を撃つのを待っている場所は、土塁ができていて、身を隠すことができるようになってます!!
それを名和式「鉄砲構え」といって
乾堀と馬防柵と銃眼付きの身隠し(土塁)の三段構えであったとのこと
1575年5月21日にも早咲きの紫陽花は咲いていたのか…
最後に、この馬防柵から武田陣営を覗けば…
単騎で武田軍の残党が…
「やられたぁ…」
なんか、小学生でも思いつきそうなオチでスミマセン!!
馬防柵…きた甲斐がありました…
武田軍にちなんで…(笑)…ね!