設楽原古戦場巡り
今回、紹介するのは
新城市立東郷中学校周辺…西門近くにある中学校よりやや高いところにある弾正山と呼ばれる丘
徳川家康は、武田軍に包囲され籠城した長篠城を救援するため設楽原に出陣…
もともとは八剱神社が鎮座していたこの場所に、陣を構えていたとのこと…
叢に覆われている…歴史を感じる
「徳川家康本陣址」の石碑…
案内看板
武田軍に包囲された長篠城を救援するために、家康は織田信長とともに設楽原に出陣…家康は、ここ弾正山に本陣をおき、これより東約300m南北に流れる連吾川沿いに馬防柵を作り、武田軍を迎え撃つ陣を構えた場所…
鳥居と八剱神社の扁額
もう拝殿は閉ざされていましたが、この地に、徳川家康が、時空を超えて立っていたんだなと思うと…と妄想歴史マニアにはタマラナイ…
伊勢神宮崇拝所の石碑は残されていました
末社もいくつかあったようです…
ちなみに家康の家臣
本多重次は、ここで、「日本一短い手紙」
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
を書いたとのこと…
福井県にある「一筆啓上 日本一短い手紙の館」のブログをリンクしておきますので、ついでにどうぞ!どうぞ!!
「一筆啓上 日本一短い手紙の館」に行く!!
戦いが始まると、東郷中学校の…東門近くに、徳川家康は移動したとのことらしいので…
徳川家康気分で弾正山山中を歩いてみる…
なんとなく…家康公が眺めていた光景とさほど変わりがないような…
東郷中学校の…東門近く…
そこは、「家康公物見塚」と呼ばれていて「断上山古墳」でもある場所…
「設楽原いろはかるた」の立て看板には
「ひ」…「日は悲し 一五七五ぞと 武田七九」
1575年に起きたこの「長篠・設楽原の戦い」で
「一期ない」(もう会えない)と「1575」
「武田泣く…」もしくは「武田亡く…」を「武田七九…」と表現
まるで暗号のようで、さらに、このブログのようにオヤジギャグを微妙に絡めてあって、この「設楽原いろはかるた」難しいぞ!
丘の上には「長篠設楽原決戦場」の石碑があり、その高さからして、まさに徳川家康が戦況を見つめていたと思われる連吾川が見下ろせる場所でありました…
織田軍と意気とうごうし…東郷(とうごう)中学校だけにね…馬防柵を乗り越えることができずに、武田軍がやられていく姿をみて、ここで高笑いしていたのかも…
打倒、ゴー!!!…だ、とうごー!!…なんて言ってね???
絶対、「GO!」は、英語だから言わなかったと思うけど…汗