2024年
NHK大河は「光る君へ」、当然ながら、街の観光も滋賀県、京都を中心に「光る君へ」一色ですが
未だに2023年大河「どうする家康」を引きずってる私
その中で、岡崎に…細田佳央太さんが演じた家康の長男、松平信康の首塚があるというので
この目に焼き付けて、手を合わせておきたいと思って
松平信康は、1567年、織田信長の娘・徳姫と、お互い9歳の時に結婚し、家康が浜松城に移った1570年、11歳の時に岡崎城主になる…、
織田信長は、信康の母・築山御前が今川方の出身であり、武田方と内通しているとの理由で、築山御前と信康の処断を家康に迫り、松平信康は、1579年、遠江の二俣城で「我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ」と言い残し、21歳の若さで自刃した…
そんな松平信康の首塚があるのは
岡崎にある若宮八幡宮
御祭神は仁徳天皇と
もちろんこの方、岡崎三郎信康公
石標とその奥に、さほど大きくはない
石鳥居
でも、ここよりも石段をあがる立派な境内への入り口がありました…
この石段を上ったところにある鳥居
こちらが第一鳥居であるよう
ご由緒書きの説明板…
「当神社の創立年月日不詳であるが 往古より名栗天神と言い仁徳天皇を奉斎する神社であった。その後天正7年(1579)9月15日 徳川家康公の御長男岡崎三郎信康公は織田信長の御口難により 遠州二股城にて御時21才を此の世の果と御自害され 御首は信長方へ實験の上岡崎へ御差戻しとなった いかに戦国の世とは言へ 子を失った親の気持は計り知れない 家康公は涙をこらへ 清水万三郎に仰せ付け 当地に奉埋する その後岡崎城内には種々の怪異変化が度び重なり 諸人等は恐れ入り 信康公の御霊を当神社に合祀する 当時は信長の権力により 公には出来ず社名を菅生八幡宮と改める その後若宮八幡宮と改め明治5年村社となる」
「種々の怪異変化」とは信康の怨霊のことでしょうか…
母親である瀬名こと築山殿は、岡崎城から浜松城へと向かう途中、殺害され、その首は織田家に送られ、当時の岡崎城主、石川数正はその首を岡崎に持ち帰り、祐傳寺に首塚を作って弔い、隣に築山神明宮という築山殿を祭神とした神社を勧請したそうな…
また、信康も二俣城で自刃…その後、織田家に送られ、岡崎に戻された信康の首
家康の特命を受けた清水万三郎によって信康が初陣祈願したという根石原観音堂の横に、葬られたそうな…これが現在の若宮八幡宮にある信康の首塚
築山殿と信康の死後、岡崎で疫病が蔓延して多数の死者を出したり、岡崎城に不審火があったり、これらは築山殿や信康の怨霊の仕業だと噂されたとか
そこで、石川数正公がもともと仁徳天皇を祀っていた菅生八幡宮を移築、信康を合祀して若宮八幡宮に改称したそう
口を開けている獅子と
閉じている狛犬
そして拝殿
元、岡崎城主の首塚を伴う神社なのに、あまりにも質素すぎる感じが…
それだけ、織田勢力が強かったということか…
それにしても、信長没後であれば、家康も天下をとったときに、息子なんだから、もうちょっと絢爛豪華な拝殿に改築してもよかったのではないだろうかと、いらぬお節介を口にしたくなっちゃうほど、質素…社殿も、住宅地の中にぽつんとあるし
おそらく岡崎観光が盛り上がっていた去年でも、この信康の首塚を訪ねる人は少なかったのではないだろうか
二礼二拍手一礼
拝殿、向かって左側
信康の首塚と対をなすように、境内社があって
反対側、向かって右側にあるのが、信康の首塚
左側の石塔が、首塚
首塚は柵と塀で囲まれておりそばには寄れません…
合掌…
自刃した松平信康が
満開、いや少しずつ散りつつある桜と被ってみえました
境内に桜の木もたくさんある訳でもなく…
それが、また切なさを助長させるように
参拝客は私以外、誰もおらず…ただただ、ひっそりと…
とか言いながらも、時折聞こえる、主幹道路を走るエンジン音が聞こえ
なんか、それらを含めて、無念だった信康公の世界観が、ここに凝縮されているような気がしました…
なので、絢爛豪華な拝殿ではなく
このように質素…の方が、信康公も穏やかに眠られているのかもね…
合掌…
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