クリスマス・イブは友人と喫茶店で話し込む。
友人はジョセフ・キャンベルの「神話と力」はよかったという。
私はレヴィ=ストロースと比べて大衆的でコマーシャルなところが気になって放置していた。
ジョセフ・キャンベルは神話の広告マンだと思った。
だが、友人もあれほど言うのだから再読してみようかという気になり
本の山をかき分けて見つけ出した。
友人はreligionの語源はなんでしたっけと聞いたので言い澱んでしまったが、ユングが「ヌミノースを凝視すること」だと言っていたのを後で思い出した。友人が語源サイトで調べたところ、「神と人をふたたび結びつける」という意味で理解されていたという。そっちのほうがほんとうみたいだ。
友人は慈悲と智慧はぎりぎりのところでは一体で、その世界を見ているのが涅槃だと喋る。
なかなか参考になる意見である。
友人は独学で我が道を行く。
私みたいに判断中止をしないのである。
私は石橋を叩いて渡る方だが、友人は独立独歩で思考実験する。
その旺盛な好奇心と吸収力と突破力、見習いたいものだ。
今日やっと内田光子のシューベルトピアノソナタ集届いた。
今、繰り返し聞いている。
内田光子のシューベルトは内向的で内省的である。
その孤独な打鍵はシューベルトの人懐っこい孤独と共鳴する。
夕飯は無印のパラック・チキンカレーを食べた。
内省的なシューベルトを聞いてクリスマスに突入した。
カール・ベームのsymphonies、ヘルマン・ヘッセも聞いたというエドウィン・フィッシャーの平均律、加えて内田光子のシューベルトピアノソナタ集でクリスマスは万全である。
遠き日の聖なるものを凝視して神と人との結びつきを思う