昨日書いたことの大意はこのようなことだ。
原古社会は神話的な祖型を繰り返し生きる。
この祖型に外れるような、例外的な災難を受け止めるのが
苦手である。聖なる時を定期的に経験するのは長けているが、
歴史的に降りかかってくる災難を意味づけるのが難しい。
そこで災厄の原因を神の怒りや知人の悪意、儀礼の過ちに
見て、天の神などに容赦してもらえるように祈願する。
原古社会の時間は周期的、円環的であり、一回性の歴史的な事件への
耐性がない。
日本で言えば、加持祈祷で乗り切ろうとする鎮護国家のような対処法。
俗的な歴史への対処法に行き詰る。聖なる時こそ本来的な時間で、
俗的な歴史の出来事に抵抗して生きるのが原古社会である。
ユダヤ・キリスト教では、歴史的な不幸はやがて来る救済のために
必要なこととして耐え忍ばれる。それでも救済のあと歴史は解消される
と考えるため、これも一種の反歴史的な態度と言える。
私たちの社会は、このヨーロッパの学問からみて
どうなのか、私には答えがない。
だから、災厄に対して宗教人がどう意味づけてきたかと考えてみても、
人の身に立って納得の行く答えは、正直わからない。
私にとって、スピノザの言うように、すべては神・自然の必然であり、
出来事を必然と受け止めることで、神仏に怒ることもなく、
人の仕打ちに怒ることなく、永遠の相のもとで運命を生きるのが
精一杯という考えがいちばん腑に落ちると言えるだけだ。
大きな問題を、頭で片付けるのは、一種の罪である。
原古社会は神話的な祖型を繰り返し生きる。
この祖型に外れるような、例外的な災難を受け止めるのが
苦手である。聖なる時を定期的に経験するのは長けているが、
歴史的に降りかかってくる災難を意味づけるのが難しい。
そこで災厄の原因を神の怒りや知人の悪意、儀礼の過ちに
見て、天の神などに容赦してもらえるように祈願する。
原古社会の時間は周期的、円環的であり、一回性の歴史的な事件への
耐性がない。
日本で言えば、加持祈祷で乗り切ろうとする鎮護国家のような対処法。
俗的な歴史への対処法に行き詰る。聖なる時こそ本来的な時間で、
俗的な歴史の出来事に抵抗して生きるのが原古社会である。
ユダヤ・キリスト教では、歴史的な不幸はやがて来る救済のために
必要なこととして耐え忍ばれる。それでも救済のあと歴史は解消される
と考えるため、これも一種の反歴史的な態度と言える。
私たちの社会は、このヨーロッパの学問からみて
どうなのか、私には答えがない。
だから、災厄に対して宗教人がどう意味づけてきたかと考えてみても、
人の身に立って納得の行く答えは、正直わからない。
私にとって、スピノザの言うように、すべては神・自然の必然であり、
出来事を必然と受け止めることで、神仏に怒ることもなく、
人の仕打ちに怒ることなく、永遠の相のもとで運命を生きるのが
精一杯という考えがいちばん腑に落ちると言えるだけだ。
大きな問題を、頭で片付けるのは、一種の罪である。