日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

一緒にたべよ!

2015-11-20 21:40:00 | 発達応援
 2日連続で、祝い事でもないのにケーキを食べました。
ケーキって、子どもの頃は特別だったよなぁ~と思いながら、ぱくぱく。

 気のいいいとこが、チーズケーキにハマって、
「世の中にこんなうまいものはない!」と、毎週土曜日に買ってきて、
私にも毎回、分けてくれたなぁ~とか思い出しながら、ぱくぱく。

 贅沢な時代じゃ。

 今日はフォイヤーシュタインの日でした。
1時間半の遊びやら勉強やらが終わって、保護者の方が私にお茶を出してくださいました。

 それと同時に、パックに入った芋餅というものも
「家でゆっくり食べてください。」と言って、くださいました。

 すると、一緒に勉強していた子どもさんが
「食べたい!」といい、同じものをまた、保護者の方が出してきてくださいました。

 私が保護者の方と話しをしながらお茶を飲んでいると、
「ねー、ねー、まゆたんも食べて!おいしいよ!」と話しかけてきました。

 保護者の方は私に気を使われて
「お土産だから、まゆたんはお家で食べるんだよ。」と言ってくださいました。

 それでも、「ねー、食べて、食べて!」とかわいらしい顔がこっちを見てきます。
それで、私も頂いた分を開けて食べてみました。

 きな粉がたっぷりで、お芋の味と餅のもちもちでとてもおいしい!

 「おいしいね、きな粉たくさんで!」というと、
「でしょう!」とドヤ顔で「もう1個たべよ!」と食べています。

 自分がおいしいな、と思ったものを人にも食べて欲しいと思う気持ち。
しかも、せっかくなら、一緒に食べたいな、と思う気落ち。

 これって、コミュニケーションだなぁ~と思うことでした。

 これからも、だれかとおいしいね、って食べたい気持ちを大切に、
こういうところから、色々な方面へできることやだれかと分かち合いたいという気持ちを育んでいけたらな、と
思いながら、芋餅を頬張ることでした。



ため息の読書。

2015-11-19 22:03:49 | 発達応援
 バイクの慣らしがてら、仕事帰りは遠回りして帰っています。
すると、「健昌城跡」の文字。

 むむ?と思ったものの、通り過ぎてしまいました。
家に帰って、地図やら見ると、縄文の頃から人が住んでいた気配のする場所。

 近くにこんなとこあるんだ~と、思いましたが、
古代に思いを寄せる想像力がイマイチないので、へぇ~と思ったまで。

 気が向いたら、寄ってみようと思います。

 『学びの物語』という本を読んでいます。



 この本の中では、バーバラ ロゴフの『文化的営みとしての発達』という本の内容を引用しながら、
子どもの発達というものには、その子の暮らす地域やその子が属する文化によって、
予想を上回る大きな多様性がある、というような件があります。

 そこでは、コンゴのイトゥリの森に暮らす生後11ヶ月の赤ちゃんが、
身の丈半分を超える長い鉈(なた)を巧みに操って果実を割っている例が挙げられています。

 その子は特別能力が高い訳ではなく、コンゴのイトゥリの森の赤子たちは、
みんな同じように1歳前後で鉈を使いこなしはじめるそうです。

 そんなことが可能になるのは、自分でうろうろと探索をはじめる6ヶ月頃から、
興味深げに鉈に近づく赤子を注意深く見守る大人たちが居るからだそうです。

 この大人たちはもっと小さな鉈を与えたり、
手を添えたりして、赤子の活動を援助し、割りやすい大きさの果実を与えたりして、
一歩先を見越した足場作りをした上で、注意深く見守っているに違いない、と記されています。

 そして、そのことが次のように書かれています。

 (自分より有能な他者である)大人との共同作業によってはじめて人間は発達していくのです。
ある年齢段階に達することによってその内部に能力が進展してくるという
「個体発生的発達」だけをみているだけでは、発達の真の姿は見えてきません。
赤ちゃんの「関心」に共感を寄せ、その「力強さ」に期待を寄せる大人が、
一歩先にある課題ーより有能な他者との共同・援助によってはじめて達成することのできる「発達の最近接領域」ー
を見通しながら、赤ちゃんが活躍できる「足場」を広げ高めるよう適切に援助することによって、
鉈を扱う能力が獲得されていったのです。


 そして、この地域では鉈という道具が、
生産、衣食住、厳粛な儀式など生活のあらゆる場面で大活躍する必需の道具で、
家族や大人が頻繁に使い、大切にしている道具であることを赤ちゃんもよく知っていると記され、
そんな道具だからこそ、社会活動への意欲的な参加、大人からしてみれば遊びのようでも、
そこから始まって、使用方法や操作性が広がり、
赤ちゃんから子どもへ、少年、青年と繋がって、活動の範囲も豊かになっていく、
そんなようなことが書かれていました。

 これは、この本のほんの最初の一部の内容に過ぎませんが、
私は、共感もし、とても考えさせられもしたのです。

 というのは、私が子どもたちと学んでいる、と思っていることは、
どれほどの文化基盤があるものなのかな、ということを考えたからです。

 また、子どもをコンゴのイトゥリの森の大人たちほどに、
注意深く見守り、彼らの関心や意欲に基づいたところに気がつけているのかな、と思い、
それも、うーーーーん、と考えずにはいられなかったからです。

 今の私たちの生活の基盤になる文化って、なんだろう。
スマートフォンで、かちゃかちゃ器用にこなすこと?
ほとんどの子どもたちは、大人の見よう見まねで、そんなことはできています。
そう、コンゴのイトゥリの鉈を使う11ヶ月の赤ちゃんと同じように。

 よいしょ、と座るのがやっとの赤ちゃんでも、
画面をいじって自分のお気に入りの画面を出せているのを何度も見たことがあります。

 きっと、私たち大人の必需品と知って、子どもたちも使いこなせているんですね。

 子どもの他の部分の発達を思うならば、
私たちが他のものに心から真剣に取り組んでいれば、子どもも真似したくなるんでしょうか。

 そして、子どもの小さな関心の芽に気づき、見守る力があるのか?
なんだか、ため息の出る、読書のはじまりとなったのでした。

 

 

 

大人こそ、からだを動かそう!

2015-11-18 17:51:08 | 発達応援
 新品のバイクなのに、バイクカバーをかけているとはいっても濡れ放題。
勤務先でも、屋根のない駐車場なので濡れ放題、こちらはカバーもなく。

 新品のバイクには、「濡れてもはしる、それがバイクだ。がんばるのだぞ。」と言い聞かせ。
車の持ち主には考えられない、バイク乗りの感覚かと思います。

 飼い猫に、愛の原泉掛け流しの猫可愛がりの感じと似てると思います。
…余計、わかりにくいかしら…。

 今日は、トランポリン教室でした。
体を使うというのは、やはり、発見があり、楽しいことですね。

 今日の発見は、準備運動でのでんぐり返し。
前回のとき、首をぎゅっと入れたつもりでも、首が立ったようなでんぐり返しになったので、
今日は、首をぎゅううっっと折り畳むような気持ちででんぐりが返しをしました。
すると、とてもすんなり回ることができて、改心のでんぐり返し。
やればできるじゃないか!ととても嬉しくなりました。

 しかし、次の後ろまわりです。
どうやっても、左の方へズレていきます。
指導の方から、「左手をまったく、使っていませんよ。」との助言があり、
意識してみると、びっくりすることに左手はマットにもついていないようなありさまです。

 もう一回しながら、意識して使いましたが、
左手をちゃんとついているのに、ものすごい違和感があります。

 それで、気がついたのは、私の体の使い方の癖で、左の手とか腕もお留守な状態なのですね。
これは熊本でのコンディショニング講座で栗本さんに言われた、
「左の足、使っていませんよ。」というのと繋がって、
どれだけ、私は左側使えていないんだーーー!と再認識することとなりました。

 また、昔はできた回転が、一回転すらできずに、練習してもまっすぐ立てず、
右に傾いて右足だけで着地するということにも気がつきました。

 その他、自分の体の使い方の癖やらリズム感のなさやら、
気がつくこと山の如しの1時間のトランポリンでした。

 体の使えなさに愕然とするトランポリンですが、
トランポリンをした後は、いつも重い右足がとても軽くて、両足を使って立っている、という感覚が増します。

 自分の体の感覚がわからない子どもたちの中に、トランポリンが好きな子どもがいますが、
この「両足でたっているぞ!」という感覚を得られるというのも、
もしかしたら、トランポリンが好きな理由かもしれないな、と思うことでした。

 大人の私たちは、自分は動かずに子どもの体の動きの不自然さに目がいって、
ああだ、こうだと、どうにかしないとと、子どもを動かしてどうにかしようとしがちです。

 でも、自分が動いて、自分の体のへんてこな動きに気がつくと、
子どもの体も見方が変わるのではないかな、とトランポリンをしながら思います。

 大人だって頭と口ではなく、体を動かすの大事かもよー、と、
ちっちゃい声ですが、言ってみたくなった今日のトランポリンでした。

 みなさん、とりあえず、でんぐり返ししてみてください。
まわれる?まわれない?おそろしいことになった?どうでしょう。

 …ただし、自己責任でお願いしますね。

 

 

まっすぐなありがたさ。

2015-11-17 15:26:47 | 日記
 今日は、ふと、飼い猫のちぃの顔を見ると、白々としています。
「寒いの?具合悪いの?」と声をかけて、撫でると、
珍しく、穏やかに撫でられています。

 猫飼いでない方々は、毛で覆われている猫の顔色なんて、
ぷぷぷー、と思われるかもしれませんが、
毎日、毎日接していると、
毛並みがつやつやで元気そうだ、よしよし!とか、
なんだか、ぼんやりしていて顔が白んでいるな、とか、
いつもより落ち着かないな、どっか痛いかね、とか
猫の様子で体調やら気分やらを推察する力が付きます。

 たぶん、親御さんが我が子の様子であれっ?と気がつくのと一緒だと思います。

 飼い主の勝手な妄想、思い込みかもしれませんが、
うちの猫たちは特別な病気持ちさん以外は15歳オーバーまで生きているので、
まぁ、そんな方法もアリかな、と自分ちの猫に関しては思うことです。

 友人に漫画を借りて昨夜は深夜まで読み耽りました。

 

 漫画家になりたくて、美大を目指し、
美大受験をする過程で出会った、絵画教室の日高先生。
裏のない、まっすぐな絵描きの日高先生。
当たり前だけど、自分のことだけの主人公。
2015年の漫画大賞も取っている漫画なので、筋書きはそちらに任せます。

 人の思いを感じながらも、そうはできない心のざら~っとする感じや
裏切れないから曖昧にしてして、フェードアウトできたらラッキー、思い出さないふりしておこうという感じや
ものごとを曖昧にするやさしさの残酷さとか、
やだなー、でも、あるっちゃ、あるのよねーと、
深夜にもやもやした気持ちとぐさっとする感じなど感じつつ読みふけりました。

 この漫画を読みながら、主人公が
「何を描けばいいのか」と筆が止まり、頭が真っ白でというような場面がありました。
そして、日高先生が「描け。余計なこと考えんでいいから描け。」というのです。

 いっぱい、余計なこと考え過ぎるのよね、そうなのよ。
自分にいわれているようで、そうなのよー、そうなのよー、と見入ってしまいました。

 そして、私にもこういう風にまっすぐに、損得何もなく、
意見を言ってくれる人がいたな、ということを思い出し、
なかなか、それは幸せなことだったんだな、と思い直すことでした。

 それにしても、漫画って瞬きしないで一気に読むから、どっと疲れますね。
疲れ目が、読書、パソコンの比ではなかった今日の午前中でした。

 

発達の流れの中で。

2015-11-16 18:19:23 | 発達応援
 新しいバイクで初出勤。
エンジンがキャブレターではなく、インジェクションになったので、
外気温に振り回されることなく、一発でかかります。
しかも、静か。

 単気筒の独特のドルル~ンっという音と共に走り出します。
帰りもちょっと遠回りして帰りました。

 パワーがないので、マメにギアチェンジをしないといけないこと、
スポーツバイクなので慣れずに、気がつくと腕に体重がかかること。
ちょっと、腹筋背筋に気を配った乗り方を心がけること。

 そんなことを思った新しいバイクでの出勤でした。

 気がつけば、昨日来てくれた子どもさんとは1年以上一緒に勉強しています。

 来てくれた、その日、その日を見ていると、
「おーい、そこはそれでいいんかい?。」とか、「こら、そこのドアは開けないの!」とか、
「ちゃんと聞いてないからじゃ!」とか、注意していることもあるにはあるのです。

 でも、毎週来てくれている点を線でつないでみると…。

 座って勉強している姿が当たり前になりました。
15分おきの気分転換はいらなくなりました。
「あと何分?」の確認タイマーはいらなくなりました。
できたりできなかったりの問題ができるような感じになってきています。
新しい問題には抵抗していたのに、とりあえず、神妙な顔で取組むようになりました。
ひとりで積み木を高く積み上げていたのに、積み木ロボットをお客さんに見立ててラーメン屋の大将になっています。
休憩中、別の部屋に行かなくても一緒に過ごしてくれるようになりました。

 他にも、たくさんの変化が点を結んだ線の中にあったのだなぁ、と思いました。

 この1年とちょっとで、きょろきょろすることもあるし、
なんだか、動きたそうだなぁという部分はもちろん感じるのですが、
私の見る限りでは、動から静へと変化している感じがします。

 空を見るのが好きでよく、
「見て、きれいな空。晴れたねぇ。」と窓の外を指差す感性の人です。

 そういうところを大切にしながら、
子どもの目に色々なものが映り、意味あるものになっていってくれるように、
私も良いものが提供できるようにがんばらないとな、と思うことです。