荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

叔母の家

2017年07月24日 | 散文
母の妹の嫁ぎ先は大きな農家です。
50数年振りですが、迷う事なく訪問できました。
場所の記憶だけは確かでした。
敷地の中を小川が流れます。


母屋と作業小屋の間を流れる清流です。
作業小屋と言っても、普通の民家くらいに大きくて立派です。

作業小屋の土地は田んぼだったように思います。

大きな納屋の向こうには長男(私の従兄弟)のいわゆる新宅があります。
この辺り全部叔母夫婦の所有地です。
この辺りでは珍しい2世帯専業農家です。
ここも田んぼだったので、随分と景色が変わっています。

向こうに笠松山が見えます。
ビニールハウスにはトマトとスイカと葱と蜜柑が植わっています。

小川脇に「田神さん」が祀られています。


数年前に、叔母夫婦が所有している田んぼの各所に分散してあったのを、ここに纏めて祀っているのだそうです。


そんなこんなを見ても、どうも記憶に霞が掛かったようで、もやもやと気持ち悪る感があります。
小川に朽ちかけた水路が掛かっています。


水路の先に行ってみます。


あっ!
思い出しました。
「掘」です。

降水量の少ない故郷には各地に溜池が沢山あるのですが、叔母の住んでいる地域だけこのような堀があるのです。

ここからポンプで水を汲み上げて、この水路で田んぼに給水していました。


堰を設けて、小川にも流していました。


記憶が鮮やかに蘇りました。
小さい頃、この堀で泳いだのです。

覗き込むと、夜店の金魚掬いの密度で、鮒と鯉が泳いでいます。
今泳いだら魚の中に入ったようで気持ち悪いでしょうね。
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「桜井の史跡と伝説」-10/医王山

2017年07月24日 | 散文


10.医王山
医王山には、焼き物にする土と薪が多くあって、瓦や土器類が製造され縄文時代には、菖蒲谷の住民が利用していたと思われる。


医王山は、天智天皇の時代(660年)に百済よりの帰化人により、漢方薬の原料となるセブリやボテン、桔梗の根外の採集ができるので医王山と称していた。


こちらの記事で紹介します。

<筆者>
この山は、白村江の戦いに日本との連合軍として唐と新羅の連合軍に敗れた百済の亡命貴族の指導により、南隣の永納山と連携して城郭を構築した古代山城である事が昭和52年に発見されています。
作者が知っていれば当然その旨の記載がある筈です。
従って、この冊子の作成はそれ以前になされたものと推察します。
百済の帰化人の存在を記載しているのが興味深いところです。

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