寝たきり患者さんの中には所謂植物人間に等しい方も居られる。僅かに痛み刺激で表情が少し変わる程度で、そのほかには全く反応がない。鼻や胃から管を通して流動食を投与し、下はオムツか膀胱に管を入れ管理されている。
それでもあたかも話が理解できるように話しかけて面倒を看ておられる家族が多い。義務感や責任感からやられておられる感じの家族もおられる。こうしたことは医者が忖度すべきことではないかもしれないが、特に気を付けて観察しなくても分かるものだ。
時々本人はどう思っているのだろうかと考えることがある。特に調子が悪くなった時、果たして全ての治療を試みて欲しいのだろうかと逡巡する。もし生前に延命処置を拒否すると宣言されておれば、自然に任せることができるのだが。
これによく似た現象が行政にある。判断しにくい(したくない)から判断を停止し、とにかく一律の方針が個別の吟味なく機械的に取られてしまう。その中には、良識や合理性を持ち込めば区別が可能で、不要な手続きや仕事を省くことができる場合がある。医療に比べれば公にしやすく、議論もしやすく実行可能なはずだ。
責任の追及を避けるためだけの判断停止と結果だけで責任を追及するまやかしの正義の両面によって作られたこの仮想の不可侵地域に踏み込むことが必要だと思う。そうすれば大きな節約ができる。
能力不足の証明があるのに責任能力があるかのように叫ぶ人には一度退いてもらい、どこまでできるかは大いに疑問ではあるが、一度選手を交代させなければ、不可侵域に踏み込み変化をもたらすことはできないと、町医者は自分の仕事から敷衍して考えている。
それでもあたかも話が理解できるように話しかけて面倒を看ておられる家族が多い。義務感や責任感からやられておられる感じの家族もおられる。こうしたことは医者が忖度すべきことではないかもしれないが、特に気を付けて観察しなくても分かるものだ。
時々本人はどう思っているのだろうかと考えることがある。特に調子が悪くなった時、果たして全ての治療を試みて欲しいのだろうかと逡巡する。もし生前に延命処置を拒否すると宣言されておれば、自然に任せることができるのだが。
これによく似た現象が行政にある。判断しにくい(したくない)から判断を停止し、とにかく一律の方針が個別の吟味なく機械的に取られてしまう。その中には、良識や合理性を持ち込めば区別が可能で、不要な手続きや仕事を省くことができる場合がある。医療に比べれば公にしやすく、議論もしやすく実行可能なはずだ。
責任の追及を避けるためだけの判断停止と結果だけで責任を追及するまやかしの正義の両面によって作られたこの仮想の不可侵地域に踏み込むことが必要だと思う。そうすれば大きな節約ができる。
能力不足の証明があるのに責任能力があるかのように叫ぶ人には一度退いてもらい、どこまでできるかは大いに疑問ではあるが、一度選手を交代させなければ、不可侵域に踏み込み変化をもたらすことはできないと、町医者は自分の仕事から敷衍して考えている。