駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

踏み込んで妥当なことを

2009年08月02日 | 世の中
 寝たきり患者さんの中には所謂植物人間に等しい方も居られる。僅かに痛み刺激で表情が少し変わる程度で、そのほかには全く反応がない。鼻や胃から管を通して流動食を投与し、下はオムツか膀胱に管を入れ管理されている。
 それでもあたかも話が理解できるように話しかけて面倒を看ておられる家族が多い。義務感や責任感からやられておられる感じの家族もおられる。こうしたことは医者が忖度すべきことではないかもしれないが、特に気を付けて観察しなくても分かるものだ。
 時々本人はどう思っているのだろうかと考えることがある。特に調子が悪くなった時、果たして全ての治療を試みて欲しいのだろうかと逡巡する。もし生前に延命処置を拒否すると宣言されておれば、自然に任せることができるのだが。
 これによく似た現象が行政にある。判断しにくい(したくない)から判断を停止し、とにかく一律の方針が個別の吟味なく機械的に取られてしまう。その中には、良識や合理性を持ち込めば区別が可能で、不要な手続きや仕事を省くことができる場合がある。医療に比べれば公にしやすく、議論もしやすく実行可能なはずだ。
 責任の追及を避けるためだけの判断停止と結果だけで責任を追及するまやかしの正義の両面によって作られたこの仮想の不可侵地域に踏み込むことが必要だと思う。そうすれば大きな節約ができる。
 能力不足の証明があるのに責任能力があるかのように叫ぶ人には一度退いてもらい、どこまでできるかは大いに疑問ではあるが、一度選手を交代させなければ、不可侵域に踏み込み変化をもたらすことはできないと、町医者は自分の仕事から敷衍して考えている。

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潜在看護力

2009年08月02日 | 医療
 自宅で寝たきりの患者さんを常時15名くらい往診している。やがて20年になるから、もう百人以上の患者さんを自宅で看取ってきた。
 脳梗塞や認知症からの廃用症候群では残念ながら回復の見込みは殆どない、ないと言い切った方が正確かもしれない。
 患者さんは自分では何も出来ないから、全面的介助を必要とする。現在は介護保険が導入されケマネージャー訪問看護婦さんヘルパーさんの援助があるのだが、それでも、介助や看護の主体は家族だ。
 それがどんなことかと言えば、家族の誰かが専従になって介護と看護を担うということだ。状態が安定していれば数時間留守にすることは可能であっても、24時間拘束されてしまう。文字通り24時間でなくても、何時起こされるか分からない心理的負担は拘束に等しい。ほぼ9割は女性(妻、嫁、娘)がその仕事をされている。
 幸い今は、状態が安定していればショートステイといって、何日か預かってくれる施設に頼んだり、経済的余裕があれば老人病院に入院させることも可能ではある。しかし、いろいろな援助の利用が可能になったとは言っても、寝たきりの老人を家庭で看ることは本当に大変なことだ。殊に、できるだけ他人に頼みたくないという心理が働く介護者が多く、つらくても自分で引き受けて仕舞われる例が多い。
 寝たきり老人を抱える家庭の対応は千差万別で、概ね家族全体の支援と介護者の熱意献身を目の当たりにするが、そうでないこともある。
 介護や看護には知識、経験それに技術が必要なのだが、多くの介護者は訪問看護師、ケアマネージャー、医師などの指導で短期間に技術を学び取られる。男性介護者も例外ではない。えっこの人がと思われる人がきちんとやられるので、人間には元々介護や看護の内在能力があるのではないかと感じる。
 定められた時間、例えば10日間であれば、寝たきり患者の面倒をみることはさほど大変なことではないかもしれない。凄いのは、いつ果てるとも知れない仕事を黙々と、時には笑顔を交えてやって行かれる方が多いことだ。勿論、中には愚痴をこぼす人、できるだけ端折ろうとする人も居るのだが。 
 そうして世話をする人の形に表れた気持ちは、患者さんが長く持つ(嫌な言い方だが)ことに具現される。半年かなと思った患者さんが二年三年と頑張られることは珍しくない。
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