駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

甘い約束

2009年08月09日 | 世の中
 長く患者さんを診てきてわかるのだが、君子は豹変しても、普通の人はなかなか変われない。時々、見違えて神妙に生活習慣改善に取り組むようになる人が居るが、それは深刻な体験の結果(ちょっと手遅れ)であるのがほとんどだ。
 毎月、何人もの医療機器のセールスマンにお会いする。立て板に水で自社製品の優れた点をお話しされるが、いざ購入するといつの間にか選手交代、口の重い技術系の人がのっそり現れることが多い。もう慣れているから腹も立たないが、売るための話はお客の気持ちを読んで上手にこちらの意向に合わせてくる。それは当然でセールスの係の人は売ることが至上命題、無節操などという批判はどこ吹く風だ。こちらも、買い物のプロになってきているので、ははあとわかるが、最初の頃はなるほどと乗せられることが多かった。
 マニフェストなどというものは融通無碍、顔色を伺って適宜調節してあるので、特に後出しの物は、話半分に読むべきだ。一番大事なのは前回のマニフェストがどれだけ守られたかだ。普通の人はそう簡単に変われない、まして政治家の変身宣言など眉に唾をつけて聞きたい。
 まあ誰しも、口車に乗せられたことはあるはずで、たとえ何千万分の一でも、じわり効いてくる、唯一の物言う機会を慎重に生かそうと思っている。
 
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原爆慰霊祭に感ず

2009年08月09日 | 世界
 広島原爆慰霊祭のニュースを見ていたら、市民が原爆の落ちた時間に黙祷を捧げていた。今までも何回か見た光景のはずだが、今回はいつもと少し違う感情が湧き出てきた。
 なぜ自分は黙祷を捧げていないのだろうか。自分は広島生まれでもなく肉親に被爆者もいないのだが、傍観者のように見ていてよいのだろうかと感じた。
 物事を解決してゆくには悲劇を回避するには当事者精神が欠かせない。自分には今の社会を生きる当事者精神が少し足りないようだし、本当に正直に言えば被爆者の痛みをさほど自分の痛みと感じていない。
 それはおそらく、私の年代が現代史を学んでいないことと少し関係があると思う。歴史はそれを学ぶ人に、今を生きる子孫の一人として今を担う多数の一人として当事者精神を呼び起こす力がある。残念ながら私の年代では、歴史の授業は昭和に入ると時間切れになるように仕組まれていた。そのうち分かるように教師は嘯いていたが、還暦過ぎた今も、大学教育を受けインテリの範疇に入る私にあるのは断片の知識だけだ。
 現在はどのように教えられているのだろうか。
 歴史とは、はいかにも難しいし、歴史をどう教えるかも難しい。学問教育として難しいだけならまだしも狂信的な自分流が正しいと譲らない人達が彼方此方に居るので、実際の方法内容となると余計に難しいだろう。
 勿論、それは教えることを回避する理由にはならない。正面に向き合い厚みのある視野の広いそして生きた人々の息吹が感じられる歴史を教えていただきたいと、一市民として願う。
 悲惨の歴史を目の前にして、当事者精神と共に欠かせないものがもう一つあると思った。それは智慧だ。私も含めて人間はあれこれ愚かしい。愚かな悲劇を辛くも凌ぐには智慧がいる。智慧は学力とは違い誰にも身に付けられるものだと思う。それなのに、今の日本には智慧が払底してきている。
 オスラーに習い、原爆慰霊祭では Listen to the deceased, they are telling you the way to go.と申し上げたい。
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