今の母親は何と教えているだろう。どうも教える力が弱くなくなっているような気がするが、口が上手い男を迂闊に信用しないように教えてきたはずだ。
そうした男が、もうやりませんと謝り誓うのは、心底反省しているというよりは、そうすれば許しが得られると計算しているからだ。えー又と怒り心頭、もうしないと言ったじゃないと言えば、新たな良い女が出現したので、新判断をしたと言い逃れるだろう。
間違っても間違ったと言わずに済む方法を念入りに画策し、微かに呟いたことをはっきりと言ってあったと開き直る男は信用出来ないと思うけれども、言葉の魔力は侮れない。上手くゆかないのは他人のせいにして、変更とか取り消しとは言わず新しい判断と言う。誠に言葉は便利だ。
誇張して戯画化するのは、感じの良い方法ではないかも知れないが、隠れている背景を明らかにできる。一番の問題は手法にあると考えるからだ。勿論、まやかされる方にも何某かの責任があると思う。
この頃、家が壊され平地になってゆく場所をしばしば見かける。景気が良いせいか悪いせいかよく分からないが、元々の住人には懐が暖かくない人が多そうだ。
患者さんを診ていると、一年以上先のことは考えても始まらない、自分が世の中を変えることなどできっこない、政治家の言うことなど信用できないと三ない思考に陥っている人も多いように感じる。まあしかし、今朝の日経の見出しではないが、次の世代よりも次の選挙で良いのだろうか。