駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

生涯の楽しみ

2009年01月27日 | 小験
 コマーシャルで一日楽しむには本を読み・・・、一生楽しむには家を建てましょうとかいうのがあったと記憶する。これは少し私の印象と違う。家は一生に一回建てられれば良い方なので、こんなはずではと一生心の奥で後悔している人があちこちに居そうだ。。
 どうですかと聞かれれば、高望みすればきりがないので分相応と受け止め、まあ満足と答えられる方は多いだろう。何事にせよ自分の物となれば愛着がわき気に入ってゆかれる方も少なくないだろう。しかし、心の奥底で思ったより・・・で、違ったなあと忸怩たるものがある方も多いはず。
 気に入った家は3回目に建てられると言われても、そんなことができる人はほんの一握りで例外だ。
 私の家は10年前に思い立ち、8年前に建てたのだが、80点のできと思っている。女房はやや辛く75点くらいらしいのだが、気に入らない箇所は違う。収納にやや難ありは一緒なのだが、彼女は何だかいろいろ仕舞って置く場所が足りないらしい。私は本を置く場所が手狭になってきた。もっとも設計士は要らない物は捨てればいいんですよ。これだけあれば十分ですよと宣わったものだ。
 台所にパソコンを使うスペースが欲しいようだが、9年前にはインターネットを頻繁に使うとは思わなかったらしい。設計士が同年配と比較的高齢で、住み心地への配慮という点では良かったのだが、ITに強くなくそちら方面の取り回しが不足していた。
 どうも話はそこに行き着くのだが、平均的なサラリーマンの方よりはずいぶん恵まれているといっても資金には限度があり、あきらめた部分もいくつかある。床暖房は快適なのだが風呂場の脱衣所と寝室の二カ所だけになった。これは実に奇妙な気分にさせられる配分で、もっと多くの場所を床暖房にすれば良かったなあと冬になると思う。
 しかしまあ総合点としては合格だ。やはり設計士に頼んで良かったと思う。経験からそれは止めた方がよいと素人の妙な希望は修正してくれること、こちらの構想を形に変える能力を持っていること、工務店を指示できることなど、設計料に十分見合うものを与えてくれた。
 家のようにやり直しのきかない大きな買い物は十分な時間をかけて断行することだ。五年準備したって長すぎることはない。生涯の後悔でなく、生涯の楽しみにしたいからだ。
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日曜日には旨い物を

2009年01月26日 | 身辺記
 日曜日なのと、誰かの誕生月なので地域では知る人ぞ知るらしい海辺のフレンチレストランへ出かけた。60km位ある。一時間強で着くつもりだったが、例によって奥方の出足が遅い。いつも30分くらい身支度に掛かるので、早めに声を掛けるのだが10分は遅れる。あきらめの心境とは言っても、待たされるのは楽しくない。
 初めての所なので、余裕を持って着きたかったのだが、日曜のせいか車の流れはあまりスムースでない。運良く最終日曜日で、はかま満緒の日曜喫茶室をやっていたので、聞きながら走る。聖路加の日野原先生が出てきて朝昼粗食が長寿の秘訣などと生憎のことを話している。予約時間を10分ばかり過ぎて近傍まで到着。確か、このあたりのはずと海岸通りを目を皿にして進むが、見つからない。明らかに通り過ぎたので、電話を掛ける。どうも100mくらい行き過ぎたようで、マダムの説明通り、釣具屋の向かいの白い建物と唱えながら戻る。なるほどこれか、看板が出ていない。入り口に小さくS・・・と書いてあるだけだ。知らない人にはレストランとはわからないなあ。
 予約のみのせいか空いている。我々を含めて2組だけだ。目の前が海で明るい。風が強く僅かに白波が立っている。マダムはどうも小学校の先生風で、きっちり丁寧だが、あんまりフランス風の洒落た感じはない。
 前菜に鯵のマリネ、山鳥とフォアグラのパテ。スープは蕪のポタージュ。メインはムツと蝦夷鹿。デザートはミカンのアイスクリームとプリン(本格本式)。全て美味しくコーヒーと紅茶で締める。なんというか本格的で軽くない、しっかりした調理で*(星一つ)は付く。少しコートドールに似ている。お値段は三分の二。最後に御主人のコックがご深みのあるバリトンで御挨拶、五十がらみ中肉中背でいかにも職人風。帽子は勿論、上っ張り前掛けズボンがぱりっとしてほとんど汚れていない。
 「また来ますよ」。「ありがとうございます」。
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御輿が肩に食い込む医師不足

2009年01月26日 | 医療
 昨日は今年初めての地域の胃腸疾患勉強会があった。会終了後ささやかな立食パーティがあり、総合病院の部長クラスと懇談した。「いやあ、先生逃げ遅れた」。痛ましい火災事故のあとで、表現にドキっとしたが、病院を辞めるタイミングを失したということらしい。もはや彼の勤める公的総合病院は沈み行く泥船で、総合病院の体をなさなくなりつつあると言う。
 「開業の先生前に外来なんて言うたらなんなんですけど、外来なんか減らしてもろても、たいして楽にならんですわ」。「私らが研修医だった20年前はこんなん平気だったんですけど、今の若いのんはすぐ文句を言ってきますからね。24時間対応を5人で回すのはもう限界ですわ」。「そうか、そんなんか。えらいこっちゃ」。と40年前研修医だったS先生はびっくりしている。幸い、私がよく患者さんをお願いする総合病院は機を見るに敏な院長のおかげか人員が確保され、きちんと機能している。山一つ向こう、川一つ向こうは大変のようだ。
 産科小児科は患者への影響が目に見えやすく、医師不足が騒がれているが、本当は総合病院の屋台骨の内科医(一人前)が払底してきているのだ。重症患者を抱えての24時間対応、会議、教育、患者のクレーム、事務長から赤字の話・・・、逃げ出して町医者になった方が身のためと一人前の医者がいつの間にか居なくなり、気が付くと独立の準備が不十分で残った部長副部長クラスにずっしり負担がかかっている。ひどいところは部長が居なくなり、呼吸器科のない病院、腎臓内科のない病院・・・が続出している。
 もう新しい研修医制度が始まって5年になろうとしている。第一期生はそろそろ一人前になっているはずだが、「一体、どこへ行ってしまったんでしょうかね」。と顔を見合わせ異口同音に訝った。
 どうも自由競争の弊害がもろに出てきたようだ。自分の時間がもてて、そこそこ収入がある診療科、子弟の教育環境に恵まれ楽しめる大都会の近傍、ブランド大学医学部大学病院への偏在。自由であれば自らを利する動きに走るのが人間なのだろうか。勿論原因はこれだけではないが、こうした動きが大きな要因なのは間違いない。
 厚労省の施策のようにただ医者の数を増やしても、うまくゆくとは思えない。それに医者が一人前になるには十年かかる。なんだかオバマの知恵までを借りたくなる。
 それが簡単に良いこととは言えないが人生の断面に、しばらく前までは教授が見込んだ男を呼んで「悪いがおまえ斜里へ行ってくれ」。などと言うことがあった。教授の命で僻地へ赴任、何十年の風雪の年月を振り返るY先生の皺深い横顔、忘れられない。
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愛読書その一

2009年01月24日 | 
 愛読書というのは何度も読む本というのが私の定義だ。
 氏より育ちとは言うが、人間の行動原理がどの割合で氏と育ちに由来するのかよく分からない、まあ半々というところかなと思う。科学的な観察研究は膨大だろうが、結論は単純ではなさそうだ。この年で思い返せば、こういうところは父に似ているなあ、これは母譲りかなと思い当たる節がいくつかある。それにしても、それが氏か育ちか容易には分かちがたい。
 これはたぶん、広い意味では氏に入るのだろう、男であるところから来ていると思うが、放浪願望が今も微かに残っている。妻子を持った、それを捨てて旅に出るほどの勇気?無責任さ?は持ち合わせず、定住し定職に就いてここまで来た。
 その願望を叶え癒すのが、束の間の旅であり、山小屋の集いであり、本の世界だ。
 野田知佑という人が居る。彼の本が好きで、時々拾い読みする。彼といっても大兄いというか先輩にあたる。どういう偶然で野田さんの本(魚眼漫遊大雑記)を手に取ったか、よく覚えていないが、24,5年前だったと思う。
 氏の本をたぶん二十冊以上持っている、ユーコン漂流など、昼休み時々拾い読みする。登場するガクなどは友達みたいなものだ。惜しい奴を亡くした、息子を残したが不肖の息子と聞く。どうも初代の厳しい野生体験がなく、ちょっと甘いらしい。
 野田さんはたった一人でユーコンをカヌーで下る。真の闇の中に眠り、自分の命を我が手に生きるフルライフを我が道とする。群れるのは嫌いだが人間嫌いとは違う。英語を自家薬籠中の物とし、文学の素養も深く腕力もある。何だか教養ある大草原のカーボーイというかカリブの海賊というか北欧のバイキングみたいな人だ。まあちょっと我が儘だが、これはそうしたものだ。まだ誰も指摘していないと思うがちょっとオトカムにも似ている。
 あの英語通訳を凡庸と決めつけた米原万里さんと氏を会わせたかった。意気投合したような気がする。編集者も機転が利かないなあ。
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マイクロチェンジ

2009年01月23日 | 世の中
 いい年をして女子高生の服装に興味を持つ変態爺と思われては心外だが、この半年、一年で僅かに女子高生の服装がおとなしくなった印象がある(特別興味を持って観察しているわけでなく、通勤時自然に目にはいるだけ?!)。男から見れば、犯罪的な大根腿露出と派手な化粧が僅かに減ったように思う。これが事実だとすれば、その意味するところはなんだろう。ただ思いついたことを聞き手の顔色を見ながらもっともらしく話すコメンテーターでなく、社会学者にデータに基づいた分析をして貰いたい。今では人間が地球に与える影響も無視できなくなったので、風潮や流行と社会規範や道徳観が、単に社会的な要因だけでなく、生物的あるいは環境的な要因で動く面もあるかもしれない。しかしまあそれは、長いスパンの世界的な変化だろうから、今回の変化(事実とすれば)にはあまり利いていないだろう。もし私の観察が事実とすれば、社会不安や不景気が影響しているような気がする。自己の生命保全は最優先の本能的な指令だろうから、それに沿った行動変化ではないか。ティーンエイジャーのキイパーソンは誰か知らないが言葉にならない指令(有利な行動パターン)が浸透し始めているのだろうか。たぶん、こうした単純な合目的的な解釈では不十分で、専門家が本腰を入れて研究すればもっと示唆に富んだ解釈が出てくるだろう。
 それにしても戯言と言われようと、あるいは千年の昔から繰り返し言われてきたことかもしれないが、私には何という格好だという若者が減ることは良いことに感じられる。
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