駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

正直の頭に

2013年08月21日 | 世の中

                     

 今朝は六時前に目が覚めたので三十分ほど早く家を出た。僅かだが、はっきりと朝夕涼しくなっている、とはいうものの医院に到着した時には汗ばんでいた。  

 子供の頃、正直の頭に神宿ると諭された記憶がある。そろそろ正直に本当の事を話したらどうなんだろう。東京電力の課長程度の人が幾ら頭を下げた所で、覆水は盆に返らない。

 正直に放射能漏れは東京電力の手に負えません、実は**くらい漏れてしまっているんです。これからも物凄く漏れるでしょう。現在までとこれからの損失を計上すれば、今回の原発事故の損失で消費税を5%上げて得られる税収は吹っ飛んでしまいますと広く国民に報告したらよいと思う。

 頭を下げたのでは済まない解決しないということを正直に、損失額が莫大でそれを電力料金に上乗せすれば原子力発電ほど高いものはないことを正直に、荒廃した福島浜通りの現状を正直に、どのような人々が放射能汚染地域で実際に働いているのかを正直に・・・公表しなければ、日本に神は宿らないだろう。

 精一杯やできる限りという政治家の言葉は虚しい。それは唯頭を下げるのに似ている。被害は下げた頭の上を通り過ぎては行かない、覆い被さってくる。逆に今こそ、頭を上げて正直に現状を認識公表して進むよりないと思う。気が付かないうちにナチの手口でなどと考えていれば日本に悪魔が宿るだろう。

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人は聞いた耳が八割

2013年08月20日 | 世の中

                       

 確か「人は見た目が九割」という本があった。読んではいないが、多分似たような理屈なのだろうと思う。

 人間は他人を判断するのにさほど時間を掛けない。友達と呼べるのは数人から数十人で、よく歩いているのを見かけるとか、時々言葉を交わす程度の人もせいぜい数百人が普通だろう。大部分の人とは街ですれ違ったり、店で二言三言言葉を交わす程度だと思う。現代ではこの他にテレビラジオを通じて知っている一群の人達が居る。

 遠い昔、我々の祖先は瞬時ないし短時間でどんな人かを判断しなければならなかったのだろう。それが遺伝子に残り、他者を見た目と聞いた耳で判断する仕組みが脳に組み込まれているようだ。というのは人をどんな人か判断する時、慎重に時間を掛けてと思っても否応なく心の中で瞬時に判定が出来上がってしまうからだ。勿論、思い違いというか瞬時の判断が間違っていることも時にはあるので、訂正修正の余地を残して置くのが一般的と思う。

 なぜ聞いた耳が八割と思ったかというと、選挙の応援演説や政治討論会を聞いていて、話が上手く聞こえる人が支持を集めたからだ。安倍さんと橋下さんは淀みなくしゃべる才能があり、声の通りもいい。渡辺さんも訥弁から長足の進歩を見せた。志位さんは当然ながら(共産党でもぞもぞ話す党首は記憶にない)立て板に水で声も悪くない。海江田さんはまあまあのしゃべりだが、声の通りが悪く鈍重に聞こえる。遂に消された小沢さんは口下手で言いたいことに口が追い付いていない。

 どうも話の内容は二割程度で、話し方話す速度言葉づかいそして声の通りで八割方の判断がされているように思えた。

 とはいっても優れた弁舌も滑って本音を出して失敗することはある。橋下さんは、調子に乗って?本音を口にし過ぎた。マスコミにもてはやされても好かれてはいないようで、大々的に取り上げられてしまった。

 そう云えば、どちらかと言えば患者さんの多い医院の院長は話が上手い傾向があるように思う。但し、例外は結構ある

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兄の居ない故郷

2013年08月19日 | 身辺記

                

 八月のお盆には里帰りをする。両親の墓参りをするのだが、新しく彫られた兄の名前がある。やがて三年になるのだが、未だに信じられない。

 「おー、よう来た」。と出てきそうな気がしてならない。そう思う間に兄によく似た甥が「おじさんようこそ、ゆっくりして下さい」。と出てくる。

 「似てきたな」。

 と言うと微苦笑しながら「息子が来年大学受験ですわ、どこぞ入いってもらわな」と言う。

 「大丈夫、なんとかなるよ」と言おうとして、未だ中学性くらいに思っていたので、びっくりして声が擦れてしまう。

 お茶と御菓子を頂きながら、兄嫁や姪達とひとしきり話をして、お暇する。

 毎年少しずつ、故郷の街は変わって行く。もう二十年前からアパートに変わっているのに、いつも三角通りの曲がり角に来ると確か自転車屋があったはず、おじさんがいつも自転車を店先で修理していたのにと、帰らぬ昔を思い出す。

 自分は変わらないようなつもりでいるのだが、変わっているのだ。いつまでもはないと思い知りながら、それでもいつも墓参りをすると、自分と自分の家族の無事をお願いしてしまう。

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気分でない日本国憲法

2013年08月18日 | 小考

                   

 半藤一利さんが新聞に人類が歴史から学ぶことは人類が歴史から何も学ばないということであると引用したくなると書いておられた。

 半藤さんはあたかも臭いもの?に蓋のように語られてこなかった昭和前半の日本史を正面から語り始めた文人で、この半年ほどで何となく漂ってきた復古調に、ムードで動いてしまう日本に危惧を持たれてこうした引用をされたのだろうと思う。

 本当に、戦争や弾圧そして差別や排除の絶えない世界を見れば、歴史の悲劇から何も学ばない度しがたい人間像が浮かび上がる気がしてくる。

 愛や平和を口にするのは簡単だけれども、分け合えば足りない資源や食料を目の前にすれば、分捕り合戦になるのを避けるのは極めて困難なのが現実というものだろう。

 しかし、歴史から全く何も学んで来なかったかといえば、それは違うと思う。学んだ結晶のひとつが憲法なのだ。日本国憲法では異なる意見を力で抑え排除するのを避けているのが、読んでみればよく分かる。日本国憲法は三十分もあれば読める短い文章だ。勿論、きちんと理解するには何時間もかかるだろうし、解説が必要だ。私も全部ちゃんと分かったかと言われると心許ない。

 憲法は人間が歴史から学んで考え出したもので、犬や猿には憲法はない。考え出したものだから、気分や空気とは違い、好き嫌いも排除されている。気分や空気そして好き嫌いで動く危険のある集団心理や武力暴力による訴える勢力のブレーキになっている。

 日本国憲法はアメリカに押しつけられたものだからけしからん、だから変えなければならないという論法があるが、ここには二つ詳らかにすべき問題がある。一つは憲法成立の経緯をきちんと知らなければならないということ。もう一つは押しつけられた?ことと憲法の内容は別のことなので、内容の何処に不備があるかを明確に指摘する必要があることだ。「冷蔵庫からマヨネーズを持ってきてくれ」。と頼んで嫁が持ってきたから気に入らない、娘が持ってきたら宜しいといった気分の問題ではない。

 気分で多くの命が失われることがあってはならないと思うけれども、気分で人類が存続してきたのも事実で、どうしたものか私の手に余る問題のようだ。

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助手席に座る

2013年08月17日 | 身辺記

                          

   駅までタクシーに乗ったのだが孫達が居たため、助手席に身を屈めて座った。

 「狭いでっしゃろ、椅子を下げてもいいでっせ」。

 「あー」。

 「背もたれを倒してもいいですよ、そこは鞄持ちの人が座るところですんで」。

  「いや、いい」。と答えながら、医院では院長なんだが、家じゃ鞄持ちですよと声に出しそうになった。

   

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