駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

看護と介護、ちょっと違う

2015年02月18日 | 小験

                   

 看護も介護も身近にしながら、どう違うかを簡潔には表現できない。介護は看護に含まれるという考え方もあるようだが、実感としては違いがあり、僅かではあるが異なる視点からの仕事と感じている。

 介護とはなんぞやなどといった考察は私の手に余るので、身近での素朴な感想を少し書いてみよう。私だけでなく恐らく多くの医師が介護現場からの声に戸惑いながらも、動かされていると思う。

 介護では視点が患者から手を差し伸べる介助側にいくらか移っており、扱いやすさ簡便さが優先される傾向がある。例えば認知症患者の周辺行動に関しては、とにかく大人しくなるようにして欲しいという要望が多い。それは決して介護者が優しくないということではなく、大部分の介護者は優しくとても私の様な者では耐えられない仕事をされている、限られた手数でいつ終わるとも知れない介護業務の中からの切実な要望なのだ。

 勿論、現場には技術や人手の差があり一概には言えないのだが、昼夜逆転や暴言の患者さんを薬によって調整して欲しいという要望に、100%の賛成はできないと思いながらも処方をしてきている。これからもするだろう。

 看護と介護は実は僅かではあるが異なる視点に立っており、両者に関わる医師は時に戸惑いながら対応しているのが現実と思う。実際にさほど問題にならないのは、看護から介護へ患者さんが受け渡されてしまう為だろう。そしてそれは病態予後から妥当なことかも知れない。唯、どちらにも顔を出す私の様な医師は戸惑いを憶えることがあると申し上げたい。あるいは私はナイーブに過ぎるかも知れない。揶揄しているように響くかも知れないが、戸惑いなどどこ吹く風、さあいらっしゃいという先生も居られるのだから。

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安陪首相の言葉を聞く

2015年02月17日 | 政治経済

             

 野党党首の質問に対する安陪首相の言葉が放映された。一部分ではあるが報道陣がポイントと判断した言葉だ。

 某新聞では世論調査では格差が拡大したとは捉えられていないと答弁したとされているが、実は大切な形容詞「格差が許容範囲を超えているとは」が抜けている。世論調査の問題点は答えた人達の中身と質問の設定にあり、解釈は難しい。

 努力した人が報われる社会を目指すと答弁されたが、どういう意味かを検証してみる必要があろう。どういう人を報われたというのかは難しいが、経済的視点から例えば年収一千万以上で持ち家に住んで居る人に聞けば、恐らく十人に九人が努力したと答えられるであろう。では大多数の年収五百万円以下の人に努力して報われているかと聞けば過半数が報われていないと答えられるのではないか。

 こうした質問にはテクニックがあって、いくらかでも報われているあるいは十分に報われているといった形容詞を付けることで結果は大違いになるだろう。

 注意しなければならないのは努力して報われるの裏側に、報われていないのは努力していないあるいは努力が足りないという視点が隠されていることだろう。格差だけではなく差別に繋がる萌芽も隠れているように見える。相対的な視点をおだまり控えなさいと用いるのが得意な女性作家が居られるが、赤貧の人がどこそこに溢れている、あなたは恵まれている、努力が足りないんではないのといわれても、なんだか違うような気がする。

 これは一つの例に過ぎない。格差が固定化して拡大していないか、努力すれば報われる社会だろうかは、情報を集め自分でよく考えないと分からないと思う。

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どうして車の運転が上手かというと

2015年02月16日 | 人物、男

          

 Mさんは数ヶ月前から通院を始めた八十八歳のお爺さんだ。年齢に比して歩き方もしっかりしているし、話もまとまりがある。どこか飄々としておられ、なんだか仙人のような不思議な印象を与える人だ。午後は暇だったので、少し雑談をした。

 高血圧の薬を飲み始めてもう二ヶ月になるのに、診察室の血圧は160/90くらいで高めだ。

 「まだ、ちょっと高いですね」と言うと、

 「さっき体育館で測った時は138の74だったよ」と言う。

 「体育館て、西丸の」。

 「ええ、そうですよ」。

 「あれ、ここまでどうやって来たの」。

 「車ですよ」。

 「車って、まだ運転できるの」。 暫く時間をおいて、にやっと笑って

 「パイロットだったんだよ」と言う。

 「えー、飛行機の」。

 「そうですよ」。

 どうもあこがれだった飛行機のパイロットなどと聞くと、恐れ入るというか感心してしまい、「あー、そうでしたか」と最敬礼してしまう。八十八歳で車が運転できることとパイロットだったことが、どう関係しているかというと、つまり乗り物を運転する才能があるんですということらしい。

 おつむの方も良いんでしょうねと言うと、破顔一笑、いいえ全然と手を横に振られ「関係ないですよ」。

 別に謙遜という風でもない、まあ成績はともかく地頭が最高級品なのは間違いなさそうだ。

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どこにもない場所、東京

2015年02月15日 | 小考

                 

 誰しも心の奥にかけがえのない場所を持っているだろう。故郷、出会い或いは別れの場所だったり縁はさまざまと思う。一方数多くの日本人に他にはない場所というのは東京と京都、なかんずく東京だろうと思う。歴史の都、京都よりも東京というのは、大都会世界に冠たるメトロポリタンの東京に新旧渾然一体の中、政治経済の中心として躍動する息吹を感じるからだ。

 なんとか東京に対抗しようと喚く橋本さんが居る大阪や、トヨタを擁しノーベル賞受賞者を輩出する名古屋があるけれども、東京に取って代わることはできないと思う。いろいろ異論はあるだろうが、地の利そして長たる気質があると感じる。

 地方再生とか創生といわれるけれども、鍵は東京との交流だろうと思う。孤立して地方の活性化はあり得ない。東京というか首都圏とのつながりが欠かせないと観測する。まあ、これは四谷から高輪までのタクシーの中から、周囲を見渡して心に浮かんだ感興に過ぎないのだが。

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使うのを止めたい呼称

2015年02月14日 | 町医者診言

              

 年末くらいから頻繁にイスラム国という言葉を聞くようになった。新しい国が出来たのかと思っていたら、そうではなくイスラム教を歪曲して解釈した目的のためには手段を選ばない暴力集団をそう呼んでいるらしいことがわかった。なんだか世界中から社会に不満を持つ若者を戦闘員として取り込んでいるらしい。

 そこに今回の日本人人質殺害という卑劣残虐な事件が起き、言語道断の悪辣集団であるのが明白になった。しかしイスラム国という呼称はそうした背景を反映していない。言葉の持つ力は非常に強く、イスラム教の国の様な印象を与えてしまう。これではまっとうなイスラム教信者までも潜在的な卑劣な暴力教徒のような印象を与えてしまう。それにイスラム国は国の体を為していない上に、どの国も国として承認していない。

 もっと適切な呼称を生み出すのがジャーナリストの使命だと思う。北アラビアテロリスト集団(北アラテロ団)などはどんなものか。

 私ごときが、呼称の持つ重みをジャーナリストに説くまでもないこと、強く検討を促したい。

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