現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

大塚英志「「行きて帰りし物語」に身を委ね「主題」の訪れを待つ」物語の体操所収

2019-02-12 09:02:12 | 参考文献
 ここで筆者は今回の主題から離れて、平野啓一郎の「日蝕」にふれて、彼と大塚の生徒たちの作品の差は、物語の構造にあるのではなく(どちらもサブ・カルチャー的としています)、「学力(東大生の平野と偏差値45以下(大塚の言葉)の専門学校生」の差にあると述べています。
 筆者はよほど学歴にコンプレックスがあるのかもしれませんが、平野と生徒たちの作品の差は「学力」の差に起因するのではなく、「教養」の差に起因するものだと思われます。
 東大生でも「教養」のない学生はたくさんいますし(いやむしろ受験勉強の勝利者である彼らは「教養」に割ける時間は限定されているので、一般の人たちよりも不利かもしれません)、高学歴でなくても「教養」のある人はたくさんいます(おそらく筆者の生徒たちの中にもいたのではないかと思います)。
 確かに、平野の小説には、1970年ごろに終焉したと言われる「教養主義」(詳しくは「教養主義の没落」の記事を参照してください)のしっぽみたいなものが感じられます。
 そして、こういった「教養主義」の匂いは、筆者の生徒たち、いや筆者自身の作品にも感じられないのかもしれません。
 さて、本題に戻って、再び村上龍の「五分後の世界」の「世界観」をもとに生徒が「創作」したプロットには、「行きて帰りし物語」の物語構造があると解説しています。
 ここで、筆者が引用しているように「行きて帰りし物語」とは、トールキンの「ホビッとの冒険」(2012年に「指輪物語」と同じ監督が映画にしましたが、「ロード・オブ・ザ・リング」のようにはヒットしませんでした)の副題であり、その本の訳者である瀬田貞二の「幼き子の文学」の中で、小さい子どもにもわかる原初的な物語構造であるとされています。
 そして、筆者はこの基本的な物語構造に基づいて創作すると、「主題(この場合は成長物語など)」が自然と出てくると述べています。
 おそらく筆者は、「主題」などは初めから考えないでも基本的な「物語構造」をなぞって「創作」すれば、「主題」はおのずから現れると言いたいのでしょう。
 それは確かにそうかもしれませんが、その時の主題は前にも述べたように非常に古くて基本的なものでしかありません。
 もしそれで良しとするならば、「創作」を新しい「主題」のもとに創造するものではなく、お仕着せの「主題」で「創作」するルーチンワークに堕してしまいます。
 「ブルーカラーの物語作者」を養成して金もうけをしようとしている筆者はそれで構わないかもしれませんが、教えられる生徒の立場に立てば暗澹たる思いがします。

物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫)
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エリック・カール「1,2,3 どうぶつえんへ」

2019-02-12 08:59:13 | 作品論
 「かずのほん」と銘打たれた一種の知育絵本です。
 ただ、そんな堅苦しいことは抜きに、鮮やかな色彩と見事な造形を楽しめます。
 1から10までの数字以外に、いっさい文字はありません。
 子どもたちの大好きな蒸気機関車に引かれた貨車には、ゾウ、カバ、キリン、ライオン、クマ、ワニ、アザラシ、サル、ヘビ、トリが、それぞれの数字の数だけ描かれています。
 そして、すべてが揃うとできあがるのは?(それは読んでのお楽しみ)
 動物好きの子どもならば、繰り返し何度でも楽しめます。

1,2,3どうぶつえんへ (文字と数のほん)
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偕成社
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古田足日、鳥越信、神戸光男「日本児童文学を斬る」

2019-02-12 08:56:31 | 参考文献
 2003年に行われた同名の公開鼎談を、翌年に出版したものです。
 非常に刺激的なタイトルですが、率直に言えば、「羊頭を掲げて狗肉を売る」といった印象を受けました。
 古田先生と鳥越先生は早大童話会の出身で、私の大先輩にあたる方々です。
 お二人は、いわゆる「少年文学宣言」とその後の議論で現代児童文学のスタートに大きく貢献し、古田先生は主に創作と評論で、鳥越先生は研究と評論を中心に、五十年以上にわたって日本児童文学を牽引されてこられました。
 個人的にも、鳥越先生には、大学時代にサークルの例会に先生の研究室を使わせていただくなど、大変お世話になりました。
 また、古田先生には、1984年に私が児童文学活動を再開するために参加した日本児童文学者協会の合宿研究会で、全体の討論をまとめる時の先生のお話の明晰さに敬服しましたし、その後創作活動するための同人誌も紹介していただきました。
 しかし、両先生ともに1920年代のお生まれで、この鼎談の時には七十代の半ばになっていらしたと思います。
 さすがに、最新の日本児童文学の状況を語るのには、お年を召されていたのではないかと思われます。
 両先生にまだ語っていただけばならないほど、現在の日本児童文学界は人材が払底しているのでしょうか。
 また、司会役の神戸氏は、長年、児童文学の出版や読書運動に携わってこられた方ですが、両先生とほぼ同年齢で鳥越先生とは早稲田で同級生ということもあり、さながら同窓会の雰囲気になってしまっています。
 もっと若くて現在の児童文学に精通した人(例えば、佐藤宗子、宮川健郎、石井直人など)を司会役にすれば、両先生からもっと有益なお話が聴けたと思います。
 案の定、前半は、「少年文学宣言」のころの昔話に終始してしまい、その後も、課題図書、読書運動、戦争児童文学、海外の作品など、あちこちに話が飛び、けっきょく時間切れで尻切れトンボに終わってしまいました。
 本が売れる売れないとか、子どもが本を読む読まないといった話でなく、なぜ現在の日本児童文学にいい作品が生まれないのかについて、もっと両先生の議論を深めていただきたかったと思ったのは、私だけではないはずです。
 2013年になってから、日本児童文学学会を通じて、鳥越先生の訃報に接しました。
 また、古田先生も2014年にお亡くなりになりました。
 心より両先生のご冥福をお祈りいたします。

日本児童文学を斬る―鼎談/古田足日・鳥越信・神戸光男
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せせらぎ出版
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