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れくす先生の歴史授業9  周王朝の成立

2025年02月05日 15時41分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございました。

れくす先生の歴史授業、の続きです。


前回から中国の歴史(中学生で習う範囲)
始めました。

前回は殷王朝の時代をお話しました。

今回は、周(しゅう)王朝です。


1 はじめに

周については、中学では、
ほとんど習いません。

しかし、周王朝、
さらに、春秋&戦国時代を
理解することが

中国史、さらに、日本史の
全体がより鮮明に理解しやすくなります。



それはどうしてか?というか、
殷王朝までは宗教と、かなり大きく
結びついた王朝でしたが

周王朝からは、「人間」同士の
結びつきで歴史が動いていきます。
 

そして、王朝の政治形態、そして、
春秋時代戦国時代で生まれた
政治形態や、
政治思想&哲学(諸子百家の考え方)、
などが
秦の時代以降の歴史の基礎を作っていきます。

さらに、のちの日本でも
春秋時代、戦国時代に生まれた
諸子百家の考え方が大きく影響して
歴史が作られていきます。


諸子百家の考え方の中で
「儒学(儒教)」は、日本で多大な
影響を与えています。

儒学をベースにした漢王朝から
日本は中国の王朝に大きく影響して
いきます。
中国の王朝は、漢王朝から儒学ベースの
王朝と見ることもできるため、
日本はその後の中国王朝を手本に
国の政治をつくっていくので
かなり「儒学(儒教)」は重要です。
かなりあとの歴史、たとえば、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、
徳川綱吉の政治、なども
儒教について知っていると
歴史の流れが理解しやすくなります。


さて、話を周王朝に戻します。





2 殷王朝滅亡と周王朝の成立

まずは、殷王朝のおさらい。
(↓画像を参考してください。)


殷でも周でも、同じことが言えますが

殷という、1つのまとまりで
すべての地域が殷の王様が直接支配している、というわけでなく、
各地域にその地域の首長(トップ)がいて
その各首長が各地域をまとめます。

ただ、あらゆる地域の首長が、
殷の首長(トップ)を首長のトップとして
まとまることにした形です。

つまり、殷の王が、トップの
トップとしての
役割を果たさなくなったとき、
他の地域のトップが、
殷グループから
離脱しよう、
でも、それを殷はゆるさない、
そして、最終的には
殷を倒さなければ、
解決しない、という形になり、
戦争がおこり、
最終的に殷は滅亡し、
別の地域のトップだった周が
他の地域のトップのトップに
なって、まとめていきました。

いわゆる「地方分権」という
やりかたです。

下の図に書いてみました。
(イラストのイメージはあくまで
地方分権の説明イメージで、
周王朝そのものの王を
表しているわけではありません。)



そして、地方分権で、
各地域の土地は、
その土地のトップの土地として
保証されます。

このように、
その地域のトップが
その地域の「土地」を領有したまま
地域をまとめ、
各地域のトップ(諸侯)が、
従うのは王
という形のことを
封建制度と言います。

諸侯(しょこう)というのは、
地方のトップで、
土地を領有してその地域の政治を
している役目(身分)の名称、

というのは、
各地域のトップ(諸侯)を
まとめている役目(身分)
と思ってください。


周王朝成立時、
諸侯は、地方ごと(国ごと)にいるため
多く存在しますが、王は一人です。
その王に就くのが、周の国の人だった、
ということです。


このような形は、
細かな違いはありますが
日本の封建時代
(鎌倉時代から江戸時代)
でも同じです。

封建制度を完全理解するのは
難しいのですが
ここを自分の中で
ある程度、理解しておくと
あらゆる歴史の流れが
わかりやすくなります。


画像にもまとめました。↓↓





このように、紀元前11世紀ごろに
地方分権でまとまった周王朝
でしたが、紀元前8世紀ごろから
王の力が衰えてきます。

そのため、諸侯たちが周の王の意見を
聞かなくなります。
そして、諸侯たちで権力争いがおこるのが
春秋時代です。

春秋時代には、まだ周王朝そのものは
存在しています。

では、春秋時代、戦国時代は
どういう時代だったのか?は
次回説明します。


ご覧いただき、ありがとうございました。


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