教師を30年した。そこで勉強ができる子、できない子を見つづけてきた。ひじょうにはっきりした決まりがそこにあった。それって、何だろうか?
実にシンプルな目安だ。勉強が(知的なことを意図的に学ぶことが)好きか、または好きになれないか、ということ。好きな子は(めったにいないが)、必ず秀でて来た。このような子には、頭の回転が早そうな子、塾や環境が整っている子も、最終的には勝てなかった。好きなんだから、ホンモノの関心と意欲が備わっている。当然だ。
18才の時、それまで本の虫で「青成り瓢箪」だった私は、一大決心をしてテニス部に入った。よほどスポーツをやるような者に見えなかったのだろう、三日続けて部室に顔を出して、どうやら部屋を間違ったのではないことがわかってもらえた(笑い)。そんな具合だから、同期に比べるとまるで一昔前のロボットのような、「お気の毒」的な動きしかできなかった。だから同期生を越えて、選手には決してなれない、そう思ったものだ。
しかし私はテニスにはまりにはまり、三度の飯より好きになった。毎日、大学の建物相手に壁打ちを1時間以上続けても、まったく飽きなかった。何年か経ったら、私は中・高時代にテニスをしていた同期に混じってレギュラーになるという、超不思議なことが起こった。卒業時にはNo1だった。43年後の今も、好きは変わらない。
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クリスチャンホームの子が、親の願いにかかわらず、クリスチャンにならない。なかには、親よりもさらに進んで「牧師」「宣教師」になる子もいる。どこにその違いがあるのだろうか?この答えも実にシンプルだと思う。
第一に神の召しである。しかし第二に、親の信仰がホンモノかどうかである。真に(自分の命以上に)神を愛し、神に従いたいと願っているのか。喜び感謝がほんとうなのか?教会員の目は誤魔化せても、我が子は誤魔化せない。主はすべてをご存じである。「好きこそものの上手なれ」は、「神を愛する者こそ、祝福される者」に通じる。神を愛する者には、世も、何ものをもってしても、これに勝てない。
ーー高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。ーー(ロマ 8:39)
ケパ