「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とはエリがヘブル語、レマ・サバクタニがアラムで「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と聖書(マタイ27:46)に書かれている。しかしこれに、つまづく人が多いようだ。
若い頃だから、同じキリスト教でも今の教会とはかなり信仰の内容が違う教会でのことだ。正確な記憶ではないが、社会人青年会の席で、あるクリスチャンがこう言った。
「聖書をすべて信じるのは誤りだ。その決定的な箇所はここ(マタイ27:46)なんだ」と。神はキリストを見捨てた。だから神は愛なる神ではないし、キリストの死は捨てられた死だ」と。すぐさま反論ができなかった。その口惜しい経験が、聖書を学ぶ心に火をつけた。
反論できなかったものの、この人は「クリスチャンと自称しているが、実はクリスチャンとしての実質がなく、どうして教会へ来続けているのか」と不思議に思った。
今週くしくも私はメッセージでこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を「これこそ(人間への)神の愛の極みである」と語った。
なぜなら、被造物に過ぎない人間を、自らの罪を救うことの出来ないあわれな人間を、神は愛されるあまり自分の独り子キリストを身代わりに殺されたのだ。神であるキリストおひとりの価値は、その被造物である全人類の価値よりはるかに高いので、身代わりとしてはべらぼうである。たとえて言えば、千円の値の買い物に千億円払うような、あきれるべらぼうさである。だからキリストひとりで十分なのだ。
想像してほしい。キリストのこの「神よ、どうして私を見捨てられたのですか」は、真実これがべらぼうなことであるからこその言葉である。そして神は「そうだ、わが子よ、人間の罪の身代わりとして死ぬのだ。それがお前の使命だ。わたしの意思だ」とされたのだ。
キリストを信じるとは、自分の罪の身代わりにキリストが死んでくださったと信じることだ。クリスチャンは罪が赦された、帳消しにしていただいた恵みの人のことであり、罪がない人だけが行ける天国行きの切符を手にした人という意味でもある。だからクリスチャンにとっての死は、天国への凱旋であり、喜ばしいことなのだ。切符はこれしかない。あなたも信じ、死の怖れから解放切符を手にされてほしい。 ケパ