童話で「あらしのよるに」(木村裕一)というものがあって、今晩のような似た状況で、時に思い出す。
オオカミと山羊が嵐の夜に、互いの素性(食うものと食われるものという関係)が分からぬまま、意気投合し、友情を結ぶという話である。嵐の夜、洞窟に難を避け、暗闇で姿が見えず、冷たく冷えたため、互いの鼻も効かなかったという設定だった。で、朝になって初めて友達の素性が分かる・・・・
まぁこれが、ロミオとジュリエット風に展開していくのだが、私は申し訳ないが、こういうわざとらしい設定が苦手である。しかも相手は自分の餌!食べる!と言うのは、さらに極端である。こういう関係設定は、家畜を屠る文化のないこの国独特のものだと思うし、先がメェメェ過ぎる。だから現役の時には、決してこの童話は読み聞かせには選ばなかった。「花さき山」とともに。
私は子供の時から作家になるのが夢だった。「自分だったら・・・」という視点があるし、ヒットしていれば妬み?感情も混じっているのかも知れない。それでこんな容赦のない感想を持つのだと思う。しかし三浦綾子に続きたい願いは、今だに持っている。
誰もが自然に感じ、かつ人間の真実(罪と救い)に迫れるストーリー作りというもの、これは神様からのみ与えられる。自分の力ではなく。 ケパ

まぁこれが、ロミオとジュリエット風に展開していくのだが、私は申し訳ないが、こういうわざとらしい設定が苦手である。しかも相手は自分の餌!食べる!と言うのは、さらに極端である。こういう関係設定は、家畜を屠る文化のないこの国独特のものだと思うし、先がメェメェ過ぎる。だから現役の時には、決してこの童話は読み聞かせには選ばなかった。「花さき山」とともに。
私は子供の時から作家になるのが夢だった。「自分だったら・・・」という視点があるし、ヒットしていれば妬み?感情も混じっているのかも知れない。それでこんな容赦のない感想を持つのだと思う。しかし三浦綾子に続きたい願いは、今だに持っている。
誰もが自然に感じ、かつ人間の真実(罪と救い)に迫れるストーリー作りというもの、これは神様からのみ与えられる。自分の力ではなく。 ケパ