ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

ピアノを再び弾くようになるまで

2015年05月28日 | 生活
この1週間、悩みに悩んだピアノ(と言ってもキーボードタイプのもの)の選定を終え、やっと発注した。
と言っても、ピアノを人前で弾く、なんて五年ぐらい前までは「あり得ない」展開だった。なぜなら確かに私は幼少期に習い、高校生でも習ったが、役に立ったのは教員採用試験の実技テストと、パソコンのキーボードでブラインドタッチを覚える時ぐらいだった。教職時代には音楽専科に頼り、居ない学校ではCDのカラオケで伴奏させていた。逃げていたというか、要するにピアノ弾けない先生で通した。

ところが船橋で開拓伝道し、主日に礼拝をしようとすると伴奏者が居ない。「じゃあどうする?」となり、そこであくまで間に合わせということで私が弾くということになった。慌てて派遣前の教会の某姉妹に教えを請い、コードでジャンジャンと弾くギターのような伴奏を覚えた。これで数年は持った。
しかし待てど暮らせど伴奏者が来ない中、自分のあまりにも拙さに、次のように祈るようになった。「神様、一刻も早く伴奏者が来ますように」「またもし時間がかかるなら、どうかしもべがもう少し恥ずかしくない程度に、弾けるようになりますように!」と。

その祈りの結果だろうか、不思議な仲介でピアノ教室に通うようになり、そこでまたまた、ちゃんと練習するにはちゃんとした楽器、つまりタッチと響きのある楽器がいるこ痛感させられた。本物のピアノの前で、その違いに立ち往生し、何度も弾けなくなった。
ちゃんと弾けるピアノを持っていればと思う反面、それは贅沢ではないかと思って祈ってみると、意外に《ゴーサイン》の示しが続いた。思い返してみれば、その時は「弾けないんだから」と楽器を軽んじ、ただ鳴れば良い楽器(路上用には向いているかも)を間に合わせで買っていたのである。
祈っていると「賛美の霊で、あなたに開くことがある」との示しもあった。そこでいよいよ、選定に悩むことになった。機種決定にはネットで済ませるのではなく、銀座のショールームまで出かけて指弾して決めた。不思議なことに、多くの機種に触れても「コレっだ」と思う機種は、あらかじめ導かれていた本命の1機種しかなかった。私はインターネットでこの群れに導かれたが、神はインターネットを通しても、御心の情報を求める者にお伝えになれるのである。

改めて思うことは、キリストの神を信じる者にとって、人生に無駄な事は何一つない、という事だ。子どもの時のピアノはこの一つの例にすぎない。家庭が崩壊し、先の妻が亡くなるなど、絶望し、どん底の不幸と思えた事柄は、今では「あれがなかったら今の私はない」と天に飛び上がれるほどの喜びと感謝に変わった。
さて今日待ちに待っていた本体が届くと、なんと初期不良品で交換、またまた数日の時間を要することになってしまった。一見苦し紛れの「カッ、カ、感謝しまーす」になりそうだったのだが、しかし見方を変えれば、私は超安く買ったこの機種の、最新版の本体をゲットすることになるはずだ。 ケパ

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