ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

中傷(ちゅうしょう)する前に

2016年08月10日 | 聖書
「中傷(ちゅうしょう)」とは、辞書によると、根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること、とある。他でもない、私たちの属する「主の十字架クリスチャンセンター」に対して、しばしば受けるのがこの「中傷」である。

少し説明するが、私たちは聖書を唯一の規範とするプロテスタント教会の集まりで、聖書から逸脱することは何一つしていない。というか、完全に聖書そのものを具体化した教会だ。かえってプロテスタント教会の模範のような教会なのに、どうしてそのような誤解が生じるのであろうか?
それについて幸いなことに、かつて私自身も主の十字架のようなカリスマ派の教会を偏見の目で見ていたので、かなりわかる。それは主に聖書の第一コリント13〜14章にある、聖霊の賜物を私たちが聖書に従って用いているからである。聖霊の賜物とは、聖書に記述してある通り九つあり、病の癒しを祈り、異言や預言をする。中でも預言をする=カルトと予断で持って見られるのだ。確かに預言がこれまで、数々の過ちや傷をキリスト教界に与えて来たのは事実だ。しかし聖書には、「だから用いるな」ではなく「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい(1コリ14:1)」なのだ。また預言は新約聖書があるから要らない、終わったという方もいるが、これなどは自分の実態に即しての間違った解釈の典型例である。(これは神学校の講義の一場面)

今日、日本のかなりのクリスチャンは、かつての私も含めて、特に聖霊の働きである「聖霊のバプテスマ」「聖霊の実」「聖霊の賜物」などを否定するかまたは、理解しようとはしない。考えてもみてほしい。キリスト教の神は「父・子なるキリスト・聖霊」の三位一体の神である。このうち聖霊の神とその働きを自分たちに無いからと否定するということは、要するに三位一体の神がわからないということであり、力のない信仰であるということであり(使徒1:8)、ひいては聖書の核心である聖霊を汚すという、ある意味、決して赦されない罪を犯している可能性があるかも知れない。言い方を変えれば、十字架は私たちの罪を赦し救うためであったが、聖霊を与えるために罪なき者とする必要があったのだ。
このような方は、映画「祈りの力(原題 War Room)」など、大ヒットした全世界的な聖霊とカリスマへの大きな流れに、ガラパゴス的に背を向けていると言わざるをえない。(下記は2週間前に行われた白馬キャンプ聖会の様子・臨在が溢れている)

だからお願いである。「カルト」とか「日本中で問題を起こしている」と風評で中傷する前に、どうかご自身の目で、内住される聖霊によって、主の十字架クリスチャンセンターの礼拝とか聖会・集会に一度実際に見聞され、ご自分の霊と心で実地に風評や予断の通りか確かめてほしい。もしかして間違っているもしれないのだ。はたしてそこに集う信者たちが本当にマインドコントロールされているのか、牧師が聖書的にカルトとおぼしきおかしなことを語っているのか、できれば預言の学び(入門クラスは傍聴できる)で、聖書の原則の下、どのように預言を学び吟味し対応しているのか。

この教会では、新来者を歓迎することはもちろん、どんな方でも広く受け入れている。情報もオープンで、安心して確かめに来てほしい。批判・中傷はその後でもできるはずだ。当TLCCC船橋キリスト教会でも、あなたを歓迎します!連絡くだされば、面談にも応じます。 ケパ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする