この映画について、付け加えたいことがあった。
一つには映画のラストシーンで、つまり主人公ロドリゴ(岡田三右衛門)の火葬シーンにおいてであるが、その遺体の両手のひらの中には、秘かに生涯握りしめていた十字架があった。このシーンは原作にはないもので、最後の最後にスコセッシ監督のはっきりした意図が込められている。
ドルカスが「あれはどう言うことか?」と後で聞いてきたので、「本人が握りながら死んで行ったのか、さもなくば女房が握らせたのだろう」と私は答えた。映画では意図的に無感動に女房が描かれていたが、おそらくそれは、合わせられた手の中の十字架がバレないための偽装ではないかと察せられた。
原作では次のようになっている。
ーーーもうこの国には聞いてくれるパードレが他にいないと、告解を求めるキチジローに対し、「・・・・安心していきなさい」とそれを与えたところからである。
自分は不遜にも今、聖職者にしか与えることができぬ秘跡をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を激しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国今でも最後の切支丹司祭なのだ。ーーー
これをスコセッシ監督が映像化させると、この十字架を握りしめての火葬シーンということになる。このことは、何を意味しているのだろうか。
「どんなに迫害やその拷問で信仰を強制し、成功したかに見えても、心の中の信仰を奪うことまではできない」
というメッセージになるのではないか。
十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十
二つに目は「自分のためには死を恐れない」が、「自分が転ばないために、すでに転んだ元信徒が長い時間、穴吊りの刑で死ぬまで苦しめられる」ので、彼らの命を救うために不本意でも転ぶべきかどうか」である。これは究極の選択とでもいうべきものである。
もしこれが「転んでいない信徒」であったなら、苦しめられようと共に天国を目指そうと、耐えることができるかもしれない。励ましあえるかもしれない。そういう意味では心の痛みをあまり感じないかもしれない。しかし転んだ信徒の場合はどうなのだろうか。これは難題である。
結論から言えば、血肉の人間は最後には必ず死ぬのである。血肉の体を失った霊のいのちとその行き先は、それよりさらに、はるかに重要である。とは言っても、血肉の命以上の価値を持っていなかった、信仰を失った元信徒たちにそれが届くかどうかは、大いに疑問である。
わざわざ宣教師に一定の期間、捕らえられた信徒を牢内で司牧させ、心の結びつきを与えた上での奉行イノウエサマの差配は、宣教師の使命である【愛】を逆手にとって棄教を迫る、実に狡猾な高等戦術である。血肉の命と霊のいのち、【愛】とは、どのようにして現され、伝えられていくのか?
「ただ形だけのことよ、軽く踏むだけでよい。そうすれば皆の者の命が助けられるのじゃ」役人のこの問いかけが、映画を観る者の心に迫って来る。神を知らず、神の裁きを恐れない血肉の命がすべての国だからこそ、目的のためには他の人の命をも利用して構わない発想が‥‥出て来る‥‥ことに、同じ日本人の末裔として心からの嫌悪を覚える。
このようなサタンの手に陥らないよう、全クリスチャンは前もって祈って行かなければならない。先ずもって、フェレイラが棄教のいい訳に利用した、「この国の民は、自分の命以上の価値を神に見出さない」‥‥確かにこの国のクリスチャンは未だにこの状態だと思われるので、そうならないように、信仰の油注ぎ、引き上げを祈りたい。主の十字架の信仰が大きく用いられること、これがポイントである。
ケパ
一つには映画のラストシーンで、つまり主人公ロドリゴ(岡田三右衛門)の火葬シーンにおいてであるが、その遺体の両手のひらの中には、秘かに生涯握りしめていた十字架があった。このシーンは原作にはないもので、最後の最後にスコセッシ監督のはっきりした意図が込められている。
ドルカスが「あれはどう言うことか?」と後で聞いてきたので、「本人が握りながら死んで行ったのか、さもなくば女房が握らせたのだろう」と私は答えた。映画では意図的に無感動に女房が描かれていたが、おそらくそれは、合わせられた手の中の十字架がバレないための偽装ではないかと察せられた。
原作では次のようになっている。
ーーーもうこの国には聞いてくれるパードレが他にいないと、告解を求めるキチジローに対し、「・・・・安心していきなさい」とそれを与えたところからである。
自分は不遜にも今、聖職者にしか与えることができぬ秘跡をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を激しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国今でも最後の切支丹司祭なのだ。ーーー
これをスコセッシ監督が映像化させると、この十字架を握りしめての火葬シーンということになる。このことは、何を意味しているのだろうか。
「どんなに迫害やその拷問で信仰を強制し、成功したかに見えても、心の中の信仰を奪うことまではできない」
というメッセージになるのではないか。
十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十十
二つに目は「自分のためには死を恐れない」が、「自分が転ばないために、すでに転んだ元信徒が長い時間、穴吊りの刑で死ぬまで苦しめられる」ので、彼らの命を救うために不本意でも転ぶべきかどうか」である。これは究極の選択とでもいうべきものである。
もしこれが「転んでいない信徒」であったなら、苦しめられようと共に天国を目指そうと、耐えることができるかもしれない。励ましあえるかもしれない。そういう意味では心の痛みをあまり感じないかもしれない。しかし転んだ信徒の場合はどうなのだろうか。これは難題である。
結論から言えば、血肉の人間は最後には必ず死ぬのである。血肉の体を失った霊のいのちとその行き先は、それよりさらに、はるかに重要である。とは言っても、血肉の命以上の価値を持っていなかった、信仰を失った元信徒たちにそれが届くかどうかは、大いに疑問である。
わざわざ宣教師に一定の期間、捕らえられた信徒を牢内で司牧させ、心の結びつきを与えた上での奉行イノウエサマの差配は、宣教師の使命である【愛】を逆手にとって棄教を迫る、実に狡猾な高等戦術である。血肉の命と霊のいのち、【愛】とは、どのようにして現され、伝えられていくのか?
「ただ形だけのことよ、軽く踏むだけでよい。そうすれば皆の者の命が助けられるのじゃ」役人のこの問いかけが、映画を観る者の心に迫って来る。神を知らず、神の裁きを恐れない血肉の命がすべての国だからこそ、目的のためには他の人の命をも利用して構わない発想が‥‥出て来る‥‥ことに、同じ日本人の末裔として心からの嫌悪を覚える。
このようなサタンの手に陥らないよう、全クリスチャンは前もって祈って行かなければならない。先ずもって、フェレイラが棄教のいい訳に利用した、「この国の民は、自分の命以上の価値を神に見出さない」‥‥確かにこの国のクリスチャンは未だにこの状態だと思われるので、そうならないように、信仰の油注ぎ、引き上げを祈りたい。主の十字架の信仰が大きく用いられること、これがポイントである。
ケパ