ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

2013年10月13日 | 祈り

久しぶりにコールを車に一緒に田舎へ向かいます。実はは、明日から一泊二日で行く予定で、コールはお留守番でした。礼拝が終わりお昼はいつもの様にImageおにぎりで準備中。実家の兄から電話。嗚咽して、言う。「お袋、息がなあ、ねえよ。」と。兄は家にいる時は必ず昼御飯に声を掛ける。そして確認していた。今日も息してる。よかった。と先月帰省した時そのように話してた。

母と入浴し様子見た時、ベットで寝るまでそばにいる時、
神様に祈った。

「神様。母のこの身体の終わりが近い事感謝します。どうか朝、痛くもなく、苦しくもなく、起きたら天にいることに気がつく様に、私たちの前から去らして下さい。」その通りに母は逝きました。神様ありがとうございます。 ドルカス

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愛用のこれ

2013年10月12日 | PC モノ 便利

ケパさん愛用のこれ?? iPadが、一週間ぶImageりで戻って来ました。

 

今神学校の学びを終え、しばしの休息中
ですがせっせと開いて作業中です。

 

私たちの年齢から言ったらこちらの方が随分と見やすいし、使いやすいよね。

 

さあ、もうお終いにして、船橋に戻り
明日の準備しましょ。ドルカス

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眼科に来てます

2013年10月11日 | 健康・スポーツ

ケパさんの目薬が終わるので、眼科へ来Imageてます。

と、行っても近くに新しい眼科を見つけこちらへきたのですが、ついでに私も検診を受けます。

その眼科の素敵な待合室ですが、受付の後にあるのは、「大きな目」

よく見ると時計です。ビックリ。これがそのまま医院のロゴになってるみたい。

新設された医院は、すべて衛生的で気持ちが良い。眼科医特有の混雑さがないので、ホッとしながら待ってます。

開業されてまだ数ヶ月らしくこの状態ですが、きっと直ぐに口コミで、患者さんが増えてくるのでしょうね。 ドルカス


 

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アルツハイマーと母

2013年10月10日 | 随想

 先週、広島の実家に行って、家の片付けをしていると、ドルカスがタンスの中から母の手紙を見つけ出した。1
 「書いて置く大切に・・・母」と題した手紙は、なんのことはない、雨の日の着物用のレインコートのようなもので、一見すると腰巻き風のものと一緒にはさんであった。
 「(平成)12年10月8日」とあるので、今から13年前。ちょうど私が、アルツハイマーの介助のため、母と同居しようとしていたころのものだ。おそらく自分が自分であることの認識ができる最後のころのものだろう。
 「ちょっと捜し物をしていて、これが見つかった。着物の良いものを着た時、雨に降られるといけないので必ず持参すること・・・・」とある。

 

 アルツハイマー症は、今となってはずいぶん有名だが、まさか母がその病を発症しようとは夢にも思っていなかった。そしてその兆候はずいぶん前からあったのだが、ほんとうは受け取りたくない事実であり、「まさか」という衝撃と「なるほどそれで、いろいろトラブルがあったのか」と言うのが正直なところだろう。

 

 介助をするために共に3年暮らしたが、最初は近所との母の激しい感情のやりとりに苦慮した。時にその近所の人々たちからの苦情や抗議をお詫びしながら受け取らねばならなかった。また同時に老人相手のたかり商人たちとも、激しく戦わねばならなかった。

 そんなこんなをしていて、やがて1年すると症状が進行し、おとなしくなったものの、見知らぬ家の草抜きをして回ったり(後でお礼を言われて判明)、自宅に戻れぬことも何度か続くようになった。さらに3年目になると母は子どものようになり、どこへ出かけるにも私の腰に指をかけ、息子の行くところでないとどこにも行こうとはしなくなった。このころヘルパーさんの来宅を激しく拒絶するようになって、自宅介護がだんだん困難になってきた。

 

 母と暮らした三年間は、「アルツハイマー症にだけはなりたくない」と心底思わされたものだった。自分が自分でなくなっていく、自分である記憶を喪失していく過程がアルツハイマー症なのだ。「お母さん、僕はあなたの息子であって、父ではないんだけど」と子どものようになった母の手を引きながら、よく思ったものだ。母から見れば、この手紙の時期、自分の忘却状態に怖れを抱いてどんなに不安に襲われていたことだろうか、そう気づくのだ。それが激しい怒りとなり、近所とのトラブルになっていたと想像するのだ。

 この度また施設の母と会ってきて、もう私の顔を見ても思い出せないことへのショックはなく、ただ確かに生きてはいても、母の心はすでに遠くの彼方に行ってしまった、そんな母の名残りを見る感じで接してきた。あたたかい母の手を握り、母のために神に祈る。
「主よ、感謝できなかったこの病を、今は感謝できることをありがとうございます。どうか母はイエス様、あなたを信じることなくこの病になりましたが、すべてを感謝します。主よ、私と同様あわれんでください。私を世に送り出すために母をあなたが選ばれたのですから。」  ケパ

 

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フィリピンのお菓子

2013年10月09日 | 生活

 上階に住んでる方が、いつもお会いできまImageせんでした。と、挨拶に来られて、それだけでも嬉しかったのに、

 

なんとご主人のお土産を頂きました。
フィリピンのお菓子です。コーヒーと頂きました。日本のお菓子とはまた違って、なかなかいいね。味も良いです。

 

なんと、主の十字架クリスチャンセンターから、今週フィリピンチームが派遣されます。これは偶然でも何もありません。全て神様の、ご計画のうちと、私は信じてますが、

 

ケパさんが、以前フィリピンチームに参加したこたがあり、このご夫婦に、ダバオへ行きました。と話しますと、さらにとても親しげに笑顔になられました。これからきっと良いおつきあいができるのではと、思わされるご夫妻です。

 

感謝しました。ハレルヤ!   ドルカス

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30年来のほしかった本を

2013年10月08日 | 聖書

 いつかは願いが叶う時がある。「聖書外典・偽典」全9巻(教文館)だ。はじめこの本を知ったのは、30年前、ある教会の中の牧師室であった。その時、金色に輝くこの本を「何としてでも自分もほしい」そう思ったものだ。Photo
 そして再び見つけたのは、その町のメイン商店街にあった古本屋でだった。喜んで釘付けになって棚を見上げてため息をついた。とても手が出る金額ではなかったからだ。それから信徒であっても、このうえない聖書の奥深さを手ほどきしてくださった某兄も所持していると聞き出した。エノク書についてなど、詳しかったからだ。
 古本屋がつぶれたと聞いて、(とても正価で買う気はなく)半ばあきらめていたのだが、何と高円寺の古本屋で見つけたときは興奮した。しかし新たな問題が生じた。このわずかなと言うなかれ、置くところがないのである。また、そうそう使うものでないが、聖書の講解の必要に応じて「あればすごく助かる」という類いのものである。そうしているうちに船橋に引っ越し、半年がたった。たまに高円寺に行っては店をのぞき、「まだある」と帰っていた。

 

 しかし今日という今日は、なんだか思い留まらせる「ブレーキ」が壊れたようにほしくて仕方なかった。値段も最初に出会った古本屋に比べ半額以下に下がっている。躊躇して、いったんは帰ろうとして近くのマックに寄って吟味した。別に学者になりたい訳ではないが、頻繁に外典などを引用している聖書箇所を見るにつけ、知らなければお話にならないではないか?そう思ったので、ついに!もう一度店に戻って、<買ってしまった>。最初に出会ってから30年の年月が経っている買い物だった。  ケパ

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金木犀の香り

2013年10月07日 | 自然

広島から帰って、気がついたこと。Image

「金木犀の香りがしてるわぁ」

教会まで行く途中、金木犀の並木道がある。一本でも香りが良いのに、その香りがずっと続いているのです。

自転車でスーと通りすぎるのが楽しみ。今日は歩いたのでさらに香りが漂います。思わず「秋がきた」と思う。

先週味覚の広島の秋を届けましたが、あちらではまだキンモクセイの香りはなかった。ほんの少し季節感がちがいました。Image_2

下の写真は、広島の可部に姉さんが開いている 茶房「金木犀」の二階にあるギャラリー。

もちろんこの「金木犀」も庭にはキンモクセイがありました。週末には香りが漂うでしょか^^

今回は、女性陶芸家の作品が展示されていました。たぶん今月中訪れたら見ることができるでしょう・・・ドルカス


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すべてに時がある

2013年10月05日 | 

 すでに何度もドルカスがお知らせしたように、実家の庭1に栗の木が数本あって、ちょうど時期らしく実が実っていた。はじけ落ちて、実を散らしているもの。同じようにはじけて、今まさに樹上から落ちようとしているもの。木を揺らすと時期が来たためだろう、簡単にドサッドサッとあちこちに落ちていく。
 この時期にこれまで来たことのないドルカスは、思わぬ収穫に大喜びだった。少々トゲが痛かったが、夢中になって集めてみると、ちょっと集めただけでもバケツいっぱいの量である。今度はこのたくさんをどのようにしようか、贅沢な悩みをかかえることになってしまった。

 

 ところで収穫していて気づくのだが、鹿の糞が点々とある。先ほどは、親子連れれらしい鹿が三匹いたと聞いた。鹿は稲の収穫時期に見ることはあったが、この時期に庭先まで来たとは驚きだ。ひょっとして、この豊かな時期にも関わらず、山はあまり食べ物が無いのかもと、少々心配になった。それとも鹿が人里を恐れぬようになったのかも。どちらにしても互いにあまりいいことではない。2

 

 鹿も人も時期にならなければ、この恵みには決してあずかれない。自然界の厳然たるルールには何人も逆らえない。二枚目の写真は実家の近くのダム風景を撮ったものだが、一日の内でこのように反射した湖面を撮れるのは、わずかなタイミングでしかない。自然に従い、時がある。
 私たちは恵みにあずかり従うのみである。それは何事にも時があり、時には逆らえないことをも教えてくれる。人間世界に対して神の為されることも同様であって、神が語られ、為されることにも全て時があり、それが調和がとれて、万事完全であることを思い知らされる。必要なのは神を信じて待ち望む信仰と忍耐である。それが自分中心に世界が回っているかのような高慢な人間には、できないことだけなのだ。秋の恵み、収穫はそのような謙虚さを教えてくれる。   ケパ


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この実は。その2

2013年10月04日 | 

この大きな実は何かな。この葉は確かツバキImage_2なのだけど、
そうかなぁと、先程の黄色の実と二つの実は、私を惑わしてます。

 

植物の実の見分けでこんなに翻弄されるのだから、さらに祈っていろいろな事や、起こるでえろう問題の見分けは慎重にしなければ、と思わされます。広島は、ケパさんの実家の庭でのこと。  ドルカス

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この実は?その1

2013年10月04日 | 

黄色のこの実で・・・Image

この時期に咲かないはずのこの花は、香りから言ったら、私の記憶では木瓜の実なんだけど卵ほどもある。ちがうかなぁ。

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