元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「野蛮人のように」

2022-02-13 06:16:03 | 映画の感想(や行)
 85年作品。封切り時は正月映画の目玉として公開され、事実それなりの興行成績を上げたのだが、実はそれは併映の那須博之監督の「ビー・バップ・ハイスクール」のおかげである。当時テレビで興行評論家の黒井和夫が“7対3の割合で「ビー・バップ~」が引っ張っている”と言っていたらしいが、観客の反応を見ていればそれは明白だった。とにかく何とも形容しようのないシャシンで、評価出来る余地はない。

 主人公の有楢川珠子は15歳のとき作家デビューして早々に頭角を現したものの、20歳になった今ではスランプ気味だ。アイデアが浮かばない夜、彼女は気晴らしに仕事場である海辺のコテージを飛び出し、六本木まで車を走らせる。一方、六本木の風俗店の用心棒を務める中井英二は、兄貴分の滝口から突然電話で呼び出される。

 中井が指定された場所に出かけてみると、滝口は誰かに撃たれて負傷しており、そばには彼が属する山西組の組長の死体が転っていた。実はこれは滝口の偽装殺人だったのだが、彼は中井に“犯人は組長の情婦で、水玉のブラウスに白いパンツを着ていた”とデタラメを吹き込む。ところが、六本木にやってきた珠子は偶然にも同じ服装をしていた。これまた偶然に珠子と遭遇した中井は、彼女ともども事件をもみ消そうとする組織の連中から追われることになる。

 話自体はかなり剣呑で、流血沙汰も少なからずあるのだが、陰惨な印象は受けない。ならばポップな線を狙っているのかというと、それにも徹し切れていない。何とも煮え切らないシャシンだ。展開は行き当たりばったりで、作劇のテンポはかなり悪い。キャラクター設定もいい加減で、珠子はとても作家には見えないし、中井はカッコ付けただけのチンピラだ。

 ヒロインたちが悪漢どもと攻防戦をやらかすのは海辺の小屋なのだが、いかに危機突破のためとはいえ、仕事場を爆破して笑っていられる作家なんていないだろう。斯様な不手際を回避するには、攻防戦の場所をどこか別の場所に変えることで容易に達成するのだが、作者にはその程度の配慮も見られない。また、単純娯楽編という触れ込みのはずだが、カメラワークは不自然に凝っているあたりも痛々しい。

 監督と脚本担当は川島透だが、当時の彼には才能は感じられなかった(その後いくらか持ち直したが、今は何をやっているのか不明)。珠子に扮した薬師丸ひろ子はこれが角川事務所を辞めてからの第一作だが、どうやら作品の選定を間違えたようだ。相手役の柴田恭兵をはじめ、河合美智子に太川陽介、清水健太郎、ジョニー大倉、寺田農とキャストは多彩だが、上手く機能していない。ただ、音楽担当が加藤和彦であるのは、多少の興味は覚えた。
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「由宇子の天秤」

2021-11-08 06:31:28 | 映画の感想(や行)
 これは、先日観た吉田恵輔監督の「空白」とよく似たタイプのシャシンだ。つまりは、作者が無理なシチュエーションを仕立て上げ、登場人物たちを迷路に放り込んだ挙句に、何か問題提起をした気になっている。手練手管を弄しただけの筋書きに、観終わって暗澹とした気分になってきた。もっとスマートな作劇が出来なかったのだろうか。そもそも、プロデューサーは何をやっていたのだろう。

 ドキュメンタリーディレクターの木下由宇子は、3年前に北関東の地方都市で起こった女子高生イジメ自殺事件の真相を追っていた。テレビ局の意向と衝突することも珍しくはないが、それでも自らの筋を通すために毅然とした態度で職務に当たっている。一方、彼女は父親の政志が経営する学習塾を手伝っていたが、新しく入ってきた高校生の小畑萌が妊娠していることが発覚し、成り行きでその面倒を見ることになる。そして何と、萌の相手は政志らしい。由宇子は自分の仕事と身内の不祥事との間で揺れ動くことになる。



 ヒロインはディレクターと学習塾の講師を“掛け持ち”しているのだが、昼夜問わず取材に追われるテレビの番組製作スタッフが、仕事の片手間に塾講師や塾生の世話が出来るほどの時間を取れるとは、とても思えない。教え子に手を出したと言われる政志の内面は理解出来ないし、だいたい素人相手に避妊の手立ても講じないとは、呆れるばかりだ。

 萌の父親は定職に就いておらず、公共料金や社会保険費も払えないほどの貧乏暮らし。しかし、なぜか娘を(月謝が高いはずの)学習塾に通わせている。くだんのイジメ自殺事件は、さんざん深刻さをアピールした挙句に、腰砕けするような“結末”しか用意されていない。由宇子(及びその仲間)と対立する局の責任者も、描写が通り一遍で訴求力不足。

 結局はマスコミの独善もイジメ問題の根深さも、社会的格差や教育問題も、何ら深く突っ込まれることなくエンドマークを迎えてしまう。しかも、2時間半という長尺だ。キャラクター設定を見直してエピソードを整理すれば、あと30分は削れたのではないか。脚本も担当した春本雄二郎監督の仕事ぶりは感心せず、ここ一番の盛り上がりに欠ける。

 主演の瀧内公美は相変わらずの熱演を見せるが、筋書きが要領を得ないので独り相撲の印象しかない。あと関係ないけど、彼女は全編地味なセーターと地味なアウターに身を包んでいるが、何か意味があったのだろうか。光石研に川瀬陽太、丘みつ子、松浦祐也、河合優実ら脇の面子のパフォーマンスは良好ながら、作品自体が低調なので効果が上がらず。とにかく、社会派作品を撮りたいのならば、もっと真摯に題材に向き合えと言いたい。
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「ヤクザと家族 The Family」

2021-02-14 06:55:22 | 映画の感想(や行)
 前半は、そこそこ楽しめる。だが後半は完全に腰砕け。全体として、要領を得ない映画になってしまった。有名原作に頼らないオリジナル脚本である点は認めるが、現時点でヤクザものを撮る必然性を、もっと煮詰める必要がある。舞台設定や時代背景にも、かなり問題がある。

 99年、静岡県の地方都市。覚醒剤がらみのトラブルで父親を失った山本賢治は、その日暮らしの荒んだ生活を送っていた。そんなある時、彼は地元の暴力団である柴咲組の組長、柴咲博の命を救う。これが切っ掛けになり、賢治は柴咲組に入る。2005年、無鉄砲だが侠気のある賢治は組の顔役にまで上り詰めていた。また、由香という恋人も出来た。しかし、対立する組織との抗争が再発した際、幹部の身代わりになって服役することになる。

 ここまでが前半で、後半は14年後の2019年、賢治が出所するところから始まる。組に復帰したものの、組員の多くは去り、残っているのは老幹部だけ。おまけに組長の柴咲は病気で余命幾ばくもない。賢治は昔の仲間のツテを頼って、由香を探すことにする。

 前半部は昔のヤクザ映画(70年代の実録路線)にも取り上げられたようなネタと筋書きで、新しさは希薄だが、いわばこのジャンルの定番という感じで“安心”して観ていられた。しかし、後半部はいただけない。そこで描かれるのは、法律や条令で締め上げられて思うような活動が出来なくなったヤクザ組織や、代わりに台頭してきた半グレ集団、そしてSNSの普及による弊害で当事者が苦しめられるという、いわば誰でも考えつくようなモチーフばかりなのだ。しかも、その扱いは通り一遍で何の捻りも無い。

 さらによく考えてみると、映画の序盤の時制である99年には、いわゆる暴対法はすでに存在していた(92年施行)。この時点ですでに往年のヤクザ映画とは勝手が違うはずなのに、大昔の“ヤクザは任侠道で男を磨き”などというスローガンを性懲りも無く披露している。舞台が一地方都市の縄張り争いだというのも、いかにも大時代的だ。

 要するに、後半部での主人公および柴咲組の逆境は、ヤクザである自分たちが呼び込んだにも関わらず、本作はそれを“社会のせいだ”と言い募っているに過ぎない。どうしてもそれを主張したいのならば、賢治がヤクザにならざるを得なかった社会的状況の方をテンション上げて描くべきではなかったか。

 藤井道人の演出は個々の描写には力はあるものの、全体として作劇がまとめきれていない。さらに、前半と後半とではスクリーンサイズが違うのだが、効果が上がっているとは思えない。主演の綾野剛をはじめ、舘ひろしに尾野真千子、北村有起哉、市原隼人、磯村勇斗、寺島しのぶら各キャストは熱演だが、映画の内容が斯くの如しなので評価は出来ない。
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「夜叉」

2021-01-24 06:02:01 | 映画の感想(や行)
 85年東宝作品。製作当初は“高倉健の俳優生活の集大成”というキャッチフレーズが付いていたらしいが、なるほど映画の佇まいには惹かれるものがある。しかし、内実は全然大したことが無い。何が良くないかというと、まず脚本だ。そして次に非力な演出。キャストはけっこう豪華で、皆頑張っているのに惜しい話である。

 若狭湾に面した小さな港町で漁師として働く北原修治が、この地で暮らし始めて15年になる。妻の冬子と3人の子供、そして冬子の母うめとの静かな生活だ。あるとき、大阪ミナミから螢子という子連れの女が流れてきて飲み屋を開く。螢子の色っぽさもあり、店は繁盛するようになる。数ヶ月後、螢子を訪ねて矢島という男がやってくる。矢島はヤクザで螢子のヒモだった。



 矢島は漁師たちに覚醒剤を売りつけるなど、早速あくどいことをやり始める。しかし矢島は所属する組に払う上納金を滞納したため、追っ手に捕まりミナミに連れ去られる。螢子は修治に矢島を助けて欲しいと懇願する。実は修治は、かつてミナミで“夜叉”と呼ばれ恐れられた凄腕の極道者だった。修治は大阪に舞い戻り、矢島を拉致した組織に対して殴り込みを敢行する。

 主人公のキャラクター設定が曖昧だ。まずは螢子と妻という2人の女の間で揺れ動く修治の心理を描出しないと、後半の彼の言動が説明出来ないはずだが、それが成されていない。いくら高倉健が“不器用”だといっても(笑)、態度で示す手段があったと思うのだが、演出にはそのあたりが網羅されていない。そもそも、どうして修治が螢子に惚れたのか分からないし、わざわざ矢島みたいなヒモ野郎を救ってやる義理は無いはずだ。

 修治だけではなく、他の登場人物たちも“挙動不審”で、主人公をミナミでの刃傷沙汰に駆り立てるためだけの“手駒”にすぎないと思えてくる。かと思えば、都会へ出て行く少年に主人公の若き日をオーバーラップさせたり、キャバレーでホステスと踊ったりと、無駄なモチーフも目立つ。かつて高倉が演じた、人情に厚く正義のためならば危険も顧みないという共感度の高いキャラクターたちとは大違いの、場当たり的に行動する卑俗な人物にしか見えないのは辛い。

 降旗康男の演出は詰め込みすぎたエピソードを片付けるのに精一杯で、キレもコクもない。螢子に扮する田中裕子をはじめ、いしだあゆみに乙羽信子、ビートたけし、田中邦衛、小林稔侍、大滝秀治、寺田農と配役は贅沢だが、機能していない。ただし、木村大作のカメラがとらえた日本海の荒涼たる風光と、佐藤允彦とトゥーツ・シールマンスの音楽、そしてナンシー・ウィルソンの主題歌は見事だ。その意味で、観る価値無しとまでは言えない。
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「鑓の権三」

2020-07-12 06:23:59 | 映画の感想(や行)
 86年作品。篠田正浩監督のこの頃の代表作である。原作は近松門左衛門の世話浄瑠璃「鑓の権三重帷子」だが、単なる古典の映画化ではなく、見事に現代にも通じるテイストを獲得している。キャストの仕事ぶりや映像も申し分ない。その年のキネマ旬報ベスト・テンでは、6位にランクインしている。

 江戸時代中期、出雲・松江藩士である笹野権三は槍の使い手で美男、城下町で歌にまで持て囃されるほどの人気者だった。江戸詰の夫の留守宅を守っている妻おさゐは、権三を娘の婿にと望んでいるが、心のどこかで“私だって、一緒になりたいくらいだ”と思っていた。権三は茶の湯で立身出世を狙っており、茶道の師匠でもあるおさゐの夫から秘伝書を見せてもらう交換条件に、娘との結婚を承諾する。



 ところが、権三には別に付き合っていた女がおり、それを聞いて怒ったおさゐは深夜、権三を問い詰める。そのことを偶然知った権三の同僚の伴之丞は、てっきり2人が不倫していると思い込み、街中にそのことを触れ回るのだった。窮地に立たされた権三とおさゐはやむなく逐電するが、おさゐの夫市之進がその後を追う。

 確たる証拠も無いのに、一部のアジテーターの物言いだけでデマが広がり、当事者たちが辛酸を嘗めるという図式は、まるで今の管理社会と同じだ。そんな無責任な言説が一人歩きしてゆく様子は、本作が撮られた80年代よりもSNSが普及した現在の方が最終的なダメージは大きくなる。そういう事例が多発している昨今だ。

 本来、恋愛関係には無かった2人であったが、破滅への道行きの間に思わず心を通わせる。建前だけの生活を送ってきた権三とおさゐは、初めて人間らしい生き方を模索するのだ。残念ながらこのあたりはもっとパッションを盛り上げて欲しいと思うが、クールな持ち味の篠田監督はそこまで踏み切れなかったのかもしれない。

 権三を演じているのは郷ひろみで、当時は意欲的に映画に出ていた。本作では演技が少し硬いところがあるが、主人公の造型としては万全だろう。おさゐに扮する岩下志麻はまさに“横綱相撲”で、安心してスクリーンに対峙出来る。火野正平に田中美佐子、加藤治子、大滝秀治、竹中直人、浜村純など、脇の面子はかなり豪華。武満徹の音楽、そして当時は朝日賞を受賞したばかりの宮川一夫の、深みのあるカメラワークは素晴らしい。
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「夜が明けるまで」

2020-03-30 06:30:57 | 映画の感想(や行)

 (原題:OUR SOULES AT NIGHT )2017年9月よりNetflixにて配信。実に味わい深いヒューマンドラマであり、鑑賞後の満足感は大きい。また、ロバート・レッドフォードとジェーン・フォンダというスターを配していながら、どうしてネット配信の扱いで終わってしまったのか解せない。全国拡大公開は無理でも、このクォリティならばミニシアター系での粘り強い興行は可能だったと想像する。

 コロラド州の田舎町に住むルイス・ウォーターズは、妻を亡くしてから一人で老後の日々を送っていた。ある日の晩、近所に住む未亡人のエディーが彼を訪ねてくる。彼女もまた夫に先立たれてから長らく一人で暮らしていた。エディーはルイスに“ときどき、うちに来て一緒に寝てくれないか”と頼むのだった。もっとも、それはあくまでプラトニックな関係で、孤独を癒すために語り合う相手が欲しかったらしい。唐突な申し出に面食らうルイスだが、結局はその提案を受け入れる。だが、周囲の者は2人が懇ろな関係になったのではないかと、いらぬ詮索をするのだった。

 ある日、エディーの息子ジーンが7歳になるジェイミーを連れてくる。彼は妻に逃げられ、慣れない育児に窮しており、母親に助けを求めたのだ。エディーはジェイミーを預かることにするが、ルイスも子守を担当する。だが、エディーとルイスの関係を知ったジーンは、すぐさまジェイミーを引き取りに来るのだった。ケント・ハルフが2015年に上梓した小説の映画化だ。

 主人公2人の逢瀬は、単に“独居老人同士が、たまたま近くに住んでいたので急接近してみた”という下世話なレベルの話ではない。エディーとルイスには、それぞれ拭いきれない過去への悔恨がある。そして今も家族に対する屈託を抱えている。一人きりでは押し潰されてしまうような懊悩の中で、価値観を共有する“仲間”を求めた結果なのだ。過去及び家族に今一度向き合い、何とか残りの人生を乗り切るためのモチベーションを見つけるため、2人はあらためて困難な道を歩み出す。その見事な決意表明には感服するのみである。

 印象的なシークエンスはいくつもあるが、その中でもエディーとルイス、そしてジェイミーがキャンプに出掛けるくだりは素晴らしい。心を閉ざしていたジェイミーが自然の中で自分を取り戻し、祖母たちと新たな関係性を見出すシーンは、美しい映像も相まって大いに共感した。もちろん、これはレッドフォードとJ・フォンダという華のあるスターが演じているからこそ説得力があるのだが、たとえ一般の市井の者でも年を取ってから斯くの如き“転機”を迎える可能性があるのではないかと思い至り、観ていて表情が緩んでしまう。

 主演の2人は言うこと無し。老いても存在感は失っていない。マティアス・スーナールツやジュディ・グリア、ブルース・ダーンといった脇のキャストも手堅い。エリオット・ゴールデンサールの音楽とスティーヴン・ゴールドブラットの撮影は見事だ。監督のリテーシュ・バトラは現時点で40歳そこそこだが、それでいて人生のベテランたちを動かす術に長けているのには感心する。演出力も「めぐり逢わせのお弁当」(2013年)の頃よりもアップしているようだ。
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「雪の断章 情熱」

2019-11-01 06:33:20 | 映画の感想(や行)
 85年作品。ストーリー展開はそれほど特筆できるものは無いが、大胆極まりないカメラワークと優れた人物描写により、見応えのある作品に仕上がった。相米慎二監督としても、キャリア中期の代表作と言っても良い。

 迷子になった7歳の孤児・伊織は、親切な青年・広瀬雄一に救われる。やがて伊織は北海道の那波家に引き取られたが、そこで虐待を受けていたことが発覚し、雄一は彼女を保護して自分で育てる決心をする。17歳になった伊織の住む雄一のアパートに、那波家の長女である裕子が引っ越して来る。



 アパートの住人たちによって開かれた裕子の歓迎会の後、彼女は自室で謎の死を遂げていた。何者かが毒を盛ったらしい。伊織は重要容疑者として警察にマークされ、家政婦からは“雄一は伊織がひとりの女として成長する時を待っている”と告げられ、大きなショックを受ける。佐々木丸美原作の「雪の断章」の映画化だ。

 相米監督といえばワンシーンワンカット技法がトレードマークだったが、その手法は83年製作の「ションベン・ライダー」の冒頭“360度長回し”が最高傑作だと思っていた。しかし、本作の序盤はそれを超えている。何と“18シーンワンカット”だ。しかも、オールセットの風景で幻想的な雰囲気を横溢させている。改めてこの頃の相米の才気を感じずにはいられない。

 さらにはヒロインの心境を鮮やかに表現する場面がいくつもあり、そのたびに感心した。たとえば裕子と再会して相手の容赦ない物言いに傷つきながらも、彼女の蠱惑的なインド舞踊に魅せられていくシークエンスは目を奪われる。伊織が服のまま川に入って泳ぐシーンを、ロングショットで捉えたパートも強烈だ。また、伊織が電話でのやり取りで雄一に向かって“偽善者!”と叫ぶ場面は、他の相米作品とも共通する人間不信のモチーフが見て取れる。

 主演は斉藤由貴で、演技の幅の狭さばかりが感じられる昨今の彼女とは大違いの、瑞々しくもエッジの効いたパフォーマンスを披露していて圧巻だ。相手役の榎木孝明や岡本舞、寺田農、世良公則といった脇の面子も良い仕事をしている。五十畑幸勇による撮影も確かなものだ。なお、主題歌「情熱」は斉藤の歌唱によるが、いかにもアイドルっぽいその歌い方に“(尖がった外観にもかかわらず)これは一応アイドル映画だったのだ”ということに初めて思い当たる。80年代の邦画には、こういう意表を突いた(?)コンセプトの映画が少なくなかったようだ。
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「よこがお」

2019-09-02 06:31:58 | 映画の感想(や行)

 題名通り、正面から見ているだけでは分からない、人間の“横顔”を容赦なく暴き立てた快作だ。その手法には幾分強引な部分があるが、作者は力業で押し切っている。キャストの仕事ぶりも万全で、これは本年度の日本映画の収穫だと思う。

 訪問看護師の白川市子は、その確かな手腕で顧客からも仕事仲間からも信頼されていた。私生活では医師との結婚も控え、充実した毎日だ。彼女は訪問先の大石家の長女で介護福祉士志望の基子のために勉強まで見てやっていたが、ある日、次女のサキが誘拐されるという事件が起きる。サキは間もなく解放されるが、犯人は市子の甥の辰男だった。その事実がいつの間にか明るみになり、市子は職場を追われて婚約も破棄される。数年後、市子はリサと名を変え、基子の交際相手である美容師の和道に接近する。

 結局、他人を正面からしか見ていなかったのは市子だけで、周囲の人間は上辺とは違う“横顔”を持っていたという皮肉。アクシデントによってそのことに気付き、今度は市子自身が巧妙な“横顔”をフィーチャーして“復讐”に乗り出すという、倒錯した構図が面白い。また、基子は市子に対して同性愛的な感情を抱いており、その恋愛ベクトルがほんの少しズレだだけで、どんどん自分が追い込まれてゆくというディレンマの描出も見上げたものだ。

 深田晃司監督の前作「淵に立つ」(2016年)は“策に溺れた”という感があって評価出来なかったが、本作はそのニューロティックな演出が冴え渡る。異なる時制を巧みに同時進行させ、登場人物の裏表を容赦なく暴く。インターフォンや横断歩道、そしてラスト近くのクラクションなど、サウンドの扱いが実に効果的だ。

 中盤での市子を追いかけるマスコミの扱いには無理があり、市子と婚約者との関係はどうもぎこちないが、そういう瑕疵が気にならなくなるほど、本作の“後ろ向きの”求心力は強烈だ。市子を演じる筒井真理子は、ハッキリ言って凄い。何もかも放り出したような、まさに捨て身の怪演で、彼女が邦画界屈指の実力者であることを強く印象付けた。

 基子役の市川実日子、和道に扮した池松壮亮、こちらも目を見張るパフォーマンス。吹越満に大方斐紗子、若手の小川未祐など、脇の面子も良い。根岸憲一のカメラによる清澄でキレの良い映像、小野川浩幸の音楽も効果的だ。
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「夢の祭り」

2019-06-14 06:32:03 | 映画の感想(や行)
 89年作品。ひょっとしてこれは、デミアン・チャゼル監督の「セッション」(2014年)と似た構造の映画なのかもしれない。もちろん「セッション」ほどのヴォルテージの高さは無いが、日本映画で音楽の何たるかをこれだけ追求した作品というのは珍しいと思う。

 昭和初期の津軽の農村。小作人の息子の健吉は大の津軽三味線のファンで、いつか隣村の地主の息子である勇造に祭りの三味線競争で勝つこと夢見ていたが、家は貧しいので三味線も持っていなかった。ある日畑仕事に精を出すことを条件に、父親から三味線を買ってもらう。喜び勇んだ健吉は、津軽で屈指の三味線の名手に教えを請いつつ、猛練習を重ねる。ところが祭りの当日、勇造は事前に盗み聴きした健吉のアドリブのフレーズを使って先に演奏してしまう。動揺した健吉は敗れ去り、恋仲であった幼馴染みのちよも勇造に奪われてしまう。



 健吉は失意のうちに師匠と修行の旅に出かけるが、途中で師匠は死去。すると健吉は、当代一の達人である津村信作を訪ねて弟子入りを志願する。信作のレッスンは超ハードだったが、健吉は何とか食らいつく。そして再び祭りの三味線競争の日がやってきた。直木賞作家の長部日出雄が自身の原作を元に監督も出掛けている。

 ハッキリ言って、筋書きは上出来ではない。雪山の奥深くに隠遁生活を送る津軽三味線の名人と、彼に寄り添って暮らすナゾの女に関する詳細な描写は存在せず、名人はどうして一度は三味線を捨てたのかはまるで不明。主人公とちよとの仲も扱い方が中途半端。そして何より、健吉がなぜ津軽三味線に傾倒していたのか、その理由もハッキリしない。

 だが、観ていてそれほど違和感を覚えないのは、本作が紛れもなく音楽映画だからだ。主人公(および名人)の三味線に対する度を越した執着は、通常のドラマツルギーをなぎ倒してしまうパワーがある・・・・という作者の達観(≒決めつけ)が横溢している。まさに“矛盾点が残るだけ合戦は盛り上がるのだ”と言わんばかりだ。さらにラストの強引さには、呆れるより前に感心してしまった。

 主演の柴田恭兵は熱演。有森也実に佐野史郎、馬渕晴子、宮下順子、佐藤慶、加賀まりこ等、キャストはけっこう豪華(明石家さんままで顔を出している)。また、三味線大会の勝敗の付け方も興味深かった。
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「ゆりかごを揺らす手」

2018-12-09 06:21:17 | 映画の感想(や行)
 (原題:The Hand That Rocks The Cradle)92年作品。カーティス・ハンソン監督といえば「L.A.コンフィデンシャル」(97年)を皮切りに、2016年に世を去るまで秀作や佳編を次々と世に問うた作家だが、その昔は本作のような“お手軽な”映画も手掛けていた。もちろん、凡百の演出家とは違う張りつめたタッチはこの映画でも見受けられるものの、作品自体のアピール度はそれほどでもない。

 シアトルの高級住宅地に住むクレアは、は2人目の子供を身籠ったため、産婦人科へ診療に訪れる。だが、医師のモットは診察するふりをしてワイセツな行為に及んだ。怒ったクレアは警察に通報するが、この一件がマスコミに大きく取り上げられ、しかも“被害者”はクレア一人ではないことが判明する。



 窮地に追いやられたモットは自ら命を絶つ。それを目の当たりにしたモットの妊娠中の妻ペイトンは、ショックを受けて流産。それが元で子供が出来ない身体になってしまう。一方クレアは無事に男児を出産するが、そこにペイトンが身分を隠しベビー・シッターとして接近。クレアとその家族に対しての復讐を画策する。

 自殺したモットに対して同情は出来ず、逆恨みで凶行に走るペイトンは処置なしだ。しかし、クレアが清廉潔白なのかというと、そうではない。自身の告発によって産婦人科医を自殺に追いやっているにも関わらず、そのことを気にしている様子は無い。それどころか、使用人のソロモンを当然のことのように邪険に扱う。主要キャラクターが感情移入出来ない者ばかりであるため、早々に観る気が失せる。

 ペイトンに扮するレベッカ・デモーネイの狂気を帯びた演技や、ロバート・エルスウィットのカメラによるハードでクールな画面造型は見応えがあるが、基本線が通俗的なサスペンス・ホラーであるため、取り立てて評価する意味を見出しにくい。それにしても、彼の国の“山の手”は日本のように無闇に塀が建てられておらず、見通しが良くてクリーンだ。防犯上どうかと思う点もあるが、居心地に関しては心惹かれるものがある。
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