(原題:The Taking of Pelham 123)観ている間は退屈しないが、劇場を後にすると忘れてしまうような映画である。もっとも、それが悪いわけではない。観ているときには楽しませて終わったら後味スッキリというのが娯楽映画の王道パターンである。ましてや監督がトニー・スコットだ。後々尾を引くような作劇の深さとは無縁なのは仕方がない(笑)。
74年に作られた「サブウェイ・パニック」のリメイクだが、前作は私は観ていない。だから“前と比べてこう違う”なんてことは言えないが、単体としてはまとまった出来だと思う。ニューヨークの地下鉄が乗っ取られ、巨額の身代金を要求される。たまたま犯人からのメッセージを受信した運行担当者が、最後まで事件に付き合わされることになるが、まず考えられるオチとしては“この地下鉄職員は犯人とグルではないのか”ということだ。しかし、劇中の警察もそれを疑うものの、実はそうではなく単純な追跡劇だったというのは芸がない。
犯人はかつてバブル期に大儲けした金融マンという設定ながら、それが犯行にどう結びつくかというと、実はそのあたりは練られていない。さらに期限内に身代金を持ってくることが困難であることが予想されているにもかかわらず、ヘリコプターで運ばずに車を使用するなんてのも噴飯ものだ。
だが、これらの不手際をカバーすべくこの監督は徹底して映像ギミックを挿入する。観客がチラチラとした画面に気を取られている間に、脚本の詰めの甘さは忘れてもらおうという作戦らしい(爆)。また、今回はそれが功を奏しているのだから面白い。不運な地下鉄職員に扮するデンゼル・ワシントン、屈折した犯人役のジョン・トラボルタ、両キャラクターとも内面描写はほとんどされていないが、役者の面構えで乗り切ろうとしたようだ。終盤にもう一捻りした展開を望みたかったが、これはこれでまあ許せる。
ストーリー面で興味深かったのが、ワシントン演じる職員が業務上収賄を疑われていること。車両の調達に関してメーカーから賄賂を貰ったのではないかと、内部調査が行われているのだが、この業者が日本の企業で、しかも他の調達候補もすべて国外なのである。いつからアメリカは地下鉄の車両ひとつ作れない“製造業後進国”に成り下がってしまったのだろうか。産業の空洞化とマネーブローカーの暗躍。何やら米国の明るくない将来を象徴しているようである。