元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「スピード・レーサー」

2008-07-21 06:49:12 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SPEED RACER )観ている間“これでいいのか?”という疑問が頭を離れることがなかった。往年の日本のTVアニメーション「マッハGoGoGo」(作:吉田竜夫)のハリウッド版実写映画化だが、登場人物以外はすべてデジタル処理。これでは最近次々と作られているCGアニメと変わらず、そもそも“実写”という謳い文句に偽りがあるのではないか。

 元ネタの「マッハGoGoGo」はリアルタイムでは見ていないが、再放送は何度か目にしており、その荒唐無稽な作品世界に見入ったものだ。レースに命を賭けた主人公と彼をバックアップする家族が、数々の難敵に打ち勝っていくという筋書きは、レース場面こそ波瀾万丈で“何でもあり”という展開なのだが、作品の根幹にあるものはホームドラマであり、彼らの家業は普通のレース屋だ。舞台も現代で、テレビで中継されるようなカーレースが主な活躍の場。ただし彼らは時々“常軌を逸したレース”に参戦するハメになるというだけの話である。

 つまりは通常のクルマ屋稼業(日常)とヤクザなレース(非日常)とのギャップが「マッハGoGoGo」の魅力の一つであったように思うのだ。しかしこの映画版は、舞台は未来でレースは正式・非正式問わず全て“常軌を逸している”。書き割りのようなセット(?)と目が痛くなるような色遣い、チャラチャラしたメカの動きと遊園地の絶叫マシンのようなコースの連続。最初から最後まで“非日常”の連続で、ドラマが完全に宙に浮いている。見始めて20分も経たないうちに目と肩が痛くなってくるような、困ったシャシンなのだ。

 ウォシャウスキー兄弟の演出も完全に“サッと流した”というレベルで、気合いが入っていない。実写にするならCGにおんぶに抱っこの状態ではなく、本当の意味での“実写”にすれば数段良かっただろう。主人公役のエミール・ハーシュは別に可もなく不可も無し。ヒロインのクリスティーナ・リッチは、正直言って彼女じゃなくてもいいような役柄。両親役にジョン・グッドマンとスーザン・サランドンまで起用しているのに、さほどの見せ場は無し。さらに真田広之とRAIN(ピ)をアジアから招いていながら扱いは実に低調だ。

 同じCG仕立てのレース映画ならばディズニーの「カーズ」の方がずっと上。アメリカでの不評ぶりも納得できるような体たらくである。元ネタに準拠したテーマ音楽も虚しい。
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最近購入したCD(その15)。

2008-07-20 07:09:07 | 音楽ネタ
 今回は女性ヴォーカル三題。まず紹介したいのが、ハンガリーの若手ジャズ歌手ハルチャ・ヴェロニカの2枚目になるアルバム「ユー・ドント・ノウ・イッツ・ユー」。最近買ったディスクの中では間違いなく一番インパクトが高い。実は彼女がこの前に出したアルバムデビュー作「スピーク・ロウ」も聴いているが、スタンダード曲をずらりと並べて分かりやすさを狙ったつもりが凡庸なアレンジとノリの悪さは如何ともしがたく、見事にハズしてしまった。今回はそれを反省(?)してか、全編彼女の作詞作曲による完全オリジナル作品で勝負しているが、何とも素晴らしい出来だ。



 ジャンルとしては一応ジャズなのだが、あらゆる分野の音楽からの影響が窺われる。もちろん各ジャンルからの“モチーフの寄せ集め”では決してない。東欧的なエキゾチシズム、特にジプシー音楽にも通じる深くダークな、それでいて情熱的な盛り上げ方には屹立したオリジナリティが感じられる。どこかジャニス・ジョプリンの面影を残す重量感を伴ったハスキーな声(しかし、可憐な一面も感じられる)で、驚くべき旋律展開の自在さに乗せて聴き手を挑発してゆくような大胆さは、どこかビョークやケイト・ブッシュ、ニナ・ハーゲンあたりの異能女流アーティストを思い出させてしまう。ジャケット写真や彼女自身のホームページに載っているポートレートなどで見られるような、まるでグラビア・アイドルみたいな容姿とサウンドとのギャップも凄く、本当に要注目のミュージシャンであると思う。奥行きのある録音も良好だ。

 マンハッタン・トランスファーのメンバーであるシェリル・ベンティーンは以前からソロ活動が目立っていたが、今回リリースした“彼女自身がスタンダードだと考える楽曲”のカバー集である「ソングズ・オブ・アワ・タイム」は、万人にアピールできるクォリティの高い作品だ。すでに数多くのジャズ系ミュージシャンが取り上げているカーペンターズの「マスカレード」や「クロース・トゥ・ユー」、シンディー・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などのお馴染みの曲が続く。サザンの(レイ・チャールズ版を元にした)「いとしのエリー」のカバーまで入っている。



 通常これだけポピュラーなナンバーばかりを集められると、いきおい“お買い得感”は増すが、ムード音楽のような“お手軽感”も募り、結局は飽きてしまうことも考えられるのだが、そこはベテランの味、噛めば噛むほどテイスティーな興趣が滲み出てくる。奇を衒うようなアレンジも出てこない代わりに、正攻法に曲自体の魅力を訴えるスタンスは徹底しており、柔らかく滑らかな声質と共に、何とも言えないリラックス感が漂う。特筆すべきは録音で、厚い低音を基調にしたピラミッド型の帯域バランスであり、とても聴きやすい。オーディオ装置のチェック用にも適している。

 フィラデルフィア出身の若手ジャズ・シンガーソングライター、メロディ・ガルドーのデビュー・アルバム「Worrisome Heart 」(邦題:夜と朝の間で)はすでにCDショップなどで前面にプッシュされているので、ジャケット写真ぐらいは目にした音楽ファンも多かろう。内容も大々的にプロモーションされるに相応しい充実作だ。オリジナル曲中心で、これが本当にメロウで甘い。仕事に疲れて帰宅した夜、寝る前に心身を落ち着かせるのにピッタリだ。



 基調はフォークやブルースで、声はややハスキーながら高音が伸びて心地良い。押しの強さこそないが、いつまでも聴いていたくなるような魅力を持つ。ショップでは“ちょっと大人っぽいノラ・ジョーンズ”みたいな惹句が付いているものの、はっきり言ってN・ジョーンズより実力は上だ。ガルドーはまだ20代前半の若さで、今後が楽しみな人材である。なお、フル・アルバムながら収録時間は30分強ほどしかなく、そのため値段も千円ちょっとだが、昔のジャズのLPはたいていこの程度の長さしかなかったのだから、それを考えるとかなりコスト・パフォーマンスは良好であろう。録音も堅実で、広く奨められる一枚だ。
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「告発のとき」

2008-07-05 07:26:09 | 映画の感想(か行)

 (原題:In The Valley of Elah )シャーリーズ・セロン扮する女刑事のキャラクター設定に感心した。とにかく底抜けに無能なのだ。市民からの申告をマジメに聞かず、適当にあしらって放置した結果、事件が起こってしまう。容疑者を追跡する場面では段取りの悪さで取り逃がしそうになる。極めつけは、重要証拠が封入されている資料を送られてきた時点でチェックせず、翌日ようやく中身を読んでみて事の重大さに気付くシーン。要するに彼女は“使えない奴”なのだが、プライドだけは救いようがないほど高く、そのため職場の連中からは完全に敬遠されている。ダンナに逃げられたのも当然だ。

 どうしてこういう人物をドラマの主要ポジションに置いたのかというと、このキャラクターにアメリカの一般市民のスタンスを投影させているからだと思う。視野が狭く、先が読めず、大事なものを見落とし、何かあればそれまでの自分を棚に上げて正義漢を装う。イラク戦争を傍観している米国民の内面は、こんなものなのだろう。

 対して現場で戦う軍関係者はどうなのか。トミー・リー・ジョーンズ演じる軍警察を定年退職した主人公は、昔気質の軍人だ。軍隊そして国家に敬意を払い、日常生活も実直そのものである。ズボンを椅子に何度もこすりつけて折り目をピシッと付ける場面に代表されるように、骨の髄までジェントルマンである。

 しかし、イラクに行った息子が帰国直後に謎の死を遂げてしまい、その事件をくだんの女刑事と一緒に探るうちに、とんでもない真相にブチ当たる。もはやアメリカの軍隊は彼自身が籍を置いていた頃から完全に様変わりし、尊敬されるどころか軽蔑される存在に成り果てている。

 ただ、軍隊がそんな風になってしまったのは、明白な理由があるのだ。一般市民は例の女刑事のように部外者を装い、軍に入り(好きでもないのに)前線に送られた連中は非人間的な扱いに甘んじている。格差社会が昂進して中流階級が姿を消し、下流にいる者は軍隊ぐらいしか行く場所がない。一方が一方を論難しても何も事態は好転しない。その間に偉ぶった連中は我関せぬ事を決め込み、私腹を肥やすことに余念がない。

 この不条理な状況に監督と脚本を担当したポール・ハギスは精一杯の抗議を試みる。私はオスカーを受賞した「クラッシュ」をまったく評価しないが、ハギスの第二作目になるこの映画は演出力が格段にアップし、普遍的な支持を得るだけの求心力がある。イラク戦争の是非は後世の歴史家が判断することだろうが、少なくとも今は確実にアメリカ社会を蝕んでいることは確かであろう。観る者を瞠目させる米国映画の秀作だ。
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「愛の新世界」

2008-07-04 06:31:53 | 映画の感想(あ行)
 94年作品。本作の原作はルポライターの島本慶が風俗嬢64人たちの生の声をもとに書き上げた文章に、荒木経惟による写真を挿入したもの。出来そのものの評価は高く、94年のキネマ旬報ベストテンにもランキングされている。監督は「獅子王たちの夏」(92年)などの高橋伴明。

 アングラ劇団に所属するレイ(鈴木砂羽)は、劇団員の男ども全員の性欲を処理してやるかたわら、アルバイトとして渋谷のSMクラブで“女王様”をやっている。ホテトル嬢のアユミ(片岡礼子)はレイの友人。毎晩様々な男の相手をしながらも、平凡な結婚を夢見ているらしい。映画はこの2人を中心に、レイが属する劇団の新作公演までを描く。

 主人公の2人の関係は、以前感想を書いたフランス映画「ミナ」でのヒロインと友人の関係と比べてみれば面白い。「ミナ」では、女性同士の麗しい“友情”など存在せず、あるのはエゴの発散のみだと断定し、それだけに作者の内面描写の厳しさも印象的だった。対して「愛の新世界」の2人は一見何も屈託がない。似たような商売やってるし、男なんて屁とも思わず周囲の白い目も関係なく、ただタフに今を生きていく。

 まず、やはり単純に“若い2人はいいなあ”と感心する。2人が夜明けの街を荒木一郎の往年のヒット曲「今夜は踊ろう」(歌っているのは山崎ハコだ!)に乗って、全力疾走する場面を延々とカメラの横移動のワンカットで捉えるシーンは本当に素敵。2人の関係はベタベタしていない。実にあっさり、軽やかだ。主演の鈴木のふてぶてしい表情もいいが、脱いだときの圧倒的なワイセツさは見ものである。実にエッチでスケベだ。モデルのような肢体の片岡も、ちょっと影が薄くなる。

 さて、一見爽やかな青春映画のようで肌触りはいいこの映画。実はそこが少し不満な点でもある。いくら屈託のない女性同士の友情といっても、けっこう物理的にシビアな生活を送っているからには、屈託のないはずがないのだ。それでもかけがえのない友情があると言うならば、そこには同類相憐れむといった低次元の感情とは別の重い何かがあって当然だが、映画はそこまで描かない。レイと客との関係にしても物足りない。自ら痛い思いして“女王様”に会いに行く客たちに、切迫したものが感じられない。ここでのSMプレイは文字通りの“プレイ”でしかなく、いくらヒロインが頑張っても、漫然とした時間が流れるだけである。SMの淫媚さやみっともなさ(経験ないので具体的には知らないけど ^^;)をジリジリ描き出してほしかった。

 その代わりにあるのは、ヒロインの自宅のアパートの造形に代表されるように、いたずらに気取った意匠と映像である。イメージ・フィルム的で観ていて心地よいが、どこか違う気がする。萩原流行や武田真治、杉本彩ら脇のキャラクターも、外見は面白いけど、真に中から“立って”いない。

 感じはいいが、薄味で物足りない映画ということになるだろうか。この作品がもしピンク映画3本立ての中の1本だったら、意外な掘り出し物に喜々として感想を書いただろうが、封切館の1本立てとなるとそうはいかないのだ。
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「ミラクル7号」

2008-07-03 06:52:28 | 映画の感想(ま行)

 (原題:長江七號)チャウ・シンチーの転機になると思われる作品だ。彼もすでに40歳代後半。今までのように脳天気なアンちゃんを演じ続けるのはキツイだろう。本作の主役は宇宙から来た謎の生物と仲良くなる小学生で、チャウ・シンチーはその父親役、いわば脇に回っている。おバカなギャグは息子とその周囲の連中に任せ、自分はしっかりとした“大人”の役回りに徹している。

 とはいえ、この父親の設定はいささか常軌を逸している(笑)。廃墟のような家に住み、学歴もスキルもなく、妻はいない(先立たれたのか、あるいは出て行ったのか、説明はない)。工事現場で働いて日銭を稼いでいる境遇にありながら、息子を私立の名門小学校に通わせている。学のない自分だが、せめて子供には良い教育を受けさせてやりたいという親心であろう。

 しかし、どう考えても無理なシチュエーションで、これが終盤近くの事故に繋がるのだが、あまり違和感を覚えないのはチャウのキャラクターと一番大事な役作りの勘所を押さえているためである。それは、彼らが極度の貧乏でありながら健全な親子関係をしっかりと維持している点だ。息子は父の立場を理解し、どんなにイジメられようが意地になって学校に通い続ける。そして“しっかりと勉強して世の中の役に立つ人間になれ”という父の薫陶を正面から受け止めている。

 もちろん、息子は子供なりの狡猾さや我が侭さを見せ、父親や教師を困らせる。特に玩具店でオモチャの犬を買ってくれと父にせがむ場面は、前半のハイライトだ。息子はいじめっ子の金持ちの御曹司がこのオモチャの犬(ミラクル1号)を皆に見せびらかして自慢しているのが羨ましくてたまらない。でも、そんなものを買ってもらえる可能性はゼロだということも知っている。しかし、父親に自分の気持ちを伝えずにはおられない。一歩間違えればヒネたガキと頑迷な親との掴み合いのような殺伐とした展開になるところだが、観ていて切ない感動を受けるのは、内面描写を怠らなかった作者の手柄だろう。

 さて、犬のような姿になる緑色の宇宙生命体「ミラクル7号」は、この映画では“オマケ”に過ぎない。可愛いけど役立たずで、時によって主人公の足を引っ張ったりする困りもの。もちろんラスト近くには“大活躍”を見せるのだが、スペクタキュラーなシーンとはほど遠い。

 でも考えてみればこれでいいのかもしれない。非日常的な異分子により主人公達が良い方向に変わってゆくという設定ならば、それがいなくなれば元の木阿弥だ。対して本作は、宇宙生命体を主人公達のドラマの小道具として扱っているだけ。SF・ファンタジー映画のマニアにとっては物足りないかもしれないが、これはこれで理性的な作劇である。男女逆転のキャスティングなど、相変わらずクサイ仕掛けで迫るチャウ監督だが、土台がしっかりしているので、笑って済ましてしまう。観る価値有り。
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「愛と死の間で」

2008-07-02 06:37:57 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Dead Again)91年作品。記憶喪失の女性の身元調査を依頼された主人公の私立探偵。次第にお互い魅かれていく2人だったが、調査が進むうち、彼女は40年前、作曲家である夫に殺された女性の生れ変りではないかとの疑惑が生まれる。しかも主人公の前世が、死刑になったその夫らしいことが判明するに及んで、事件は超現実的な様相を帯びてくる。

 「ヘンリー五世」(90年)の監督・主演で一躍脚光を浴びたイギリス演劇界の若手実力派ケネス・ブラナーのハリウッド進出第一弾で、今回も演出と主演を担当している。史劇からうって変わったラブ・サスペンスで、この作家の娯楽映画に対する資質を試される作品である。

 結論から先に言うと、別にどおってことのないサスペンス劇で、ガッカリした。脚本が下手である。設定としては悪くなく、40年前の場面がモノクロで、現在の場面がカラーで描かれ、話の展開によって、その二つが頻繁に入れ替わるあたりは工夫の跡が見受けられるが、輪廻転生が本当にあるのかどうか結局はわからずじまいで、仰々しい前振りはいったい何だったのかと文句を言いたくなる。

 導入部こそ期待を持たせるが、中盤の、2人が愛し合うようになるあたりの展開がまだるっこしく、退屈だ。どうでもいいような登場人物が多く、新聞記者役のアンディ・ガルシアなど、わざわざ彼を起用する必要があったのかと思うほど、描写がズサンである。ラストのアクション場面は、さすが「ヘンリー五世」でのすさまじい戦闘シーンをこなしたブラナー監督だけあって、凡百の演出家とは一味も二味も違うパワーを見せるが、終わってみれば、それがどうしたという感じだ。

 ヒロイン役のエマ・トンプソンは、当時はブラナー監督の妻でもあったが、これがあんまり魅力がなく、画面がちっとも弾んでこない。本作に限らず、ブラナー監督作品に出ているトンプソンは画面に映えないのだ(他の監督作ではそうでもないのだが)。まるで、往年のチャールズ・ブロンソン&ジル・アイアランド夫妻みたいである(←手練れの映画マニアにしかわからない表現だ ^^;)。
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「奇跡のシンフォニー」

2008-07-01 06:44:15 | 映画の感想(か行)

 (原題:August Rush )音楽の持つ素晴らしさをこれほど見事に表現した映画は稀であろう。麦畑を吹き渡る風が一大シンフォニーとなって主人公の耳に届く圧倒的なファーストシーンをはじめ、街中を埋め尽くすあらゆる音が壮大な狂詩曲となり画面を横溢する場面、それぞれ別の場所で演奏される主人公である少年の母親のチェロと父親のエレキギターとが絶妙のハーモニーを形成するくだりなど、まさに“音楽の映像化”たる画面の求心力に感服する。

 何より瞠目すべきは、音楽が一部の限られたミュージシャンやコンポーザーの頭の中およびその周囲の環境だけに存在しているわけではなく、この世界は音楽で満ち溢れており、耳を澄ませば誰でも音楽が降り注ぐことを感じることが出来るという、その強靱とも思えるポジティヴな“信念”である。

 残念ながら、こういう映画は日本では作れない。もちろん、我が国でも天才音楽家を主人公にした作品は散見される。最近では「神童」がそうだし、テレビドラマの「のだめカンタービレ」もある。しかしそれらは主要キャラクターも物語の舞台も一般ピープルから乖離した特定の領域に留まっている。音楽(特にクラシック)をやる人間なんて、少数の選ばれた者達に過ぎない・・・・そういった認識が製作する前から既成事実化しているような印象を受ける。

 このブログでも時折書いているが、私はオーディオファンの端くれである(まあ、所有している装置は大したものではないが ^^;)。オーディオシステムでの音色を左右するのはスピーカーだ。今まで数多くのスピーカーに接してみて分かることは、日本製のスピーカーは音が暗く、反対に欧米ブランドは音が明るいという点である。当然、どちらが聴いて楽しいかといえば、欧米の製品に軍配が上がる。この差はどこから来ているのか、本作を観るとその理由が分かる。

 アチラの国々では音楽は演奏家や作曲家の周りだけにあるものではなく、日常の一部である。普段の生活のすぐ隣に、驚嘆するような音楽のワンダーランドが控えているという絶妙な図式。日本にはそれがない。

 さて、福祉施設を抜け出した天才音楽少年が両親を探すというストーリー自体は、さして面白味のあるものではない。ハッキリ言って凡庸な御都合主義に終始している。主人公役のフレディ・ハイモアは今回も達者な演技だが、予想の枠内に収まっているし、指揮をする場面のヘッピリ腰には脱力だ。思わせぶりに登場するロビン・ウィリアムズも頑張っている割には損な役回りだ。

 しかし、前述のようにそれらの瑕疵を忘れさせてくれる魅力がこの作品にはある。カーステン・シェリダン監督の抜群の音楽センス、両親役のケリー・ラッセルとジョナサン・リース=マイヤーズの好演も相まって、観賞後の気分は最高だ。音楽好きは見逃してはならないだろう。
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