元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ウォンテッド」

2008-10-04 06:50:15 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Wanted)退屈することなく観ることが出来た。とはいっても、よく考えたら釈然としない点がある。そもそもこのフラタニティなる歴史的暗殺集団の“能力”の概要がハッキリしない。

 冒頭、向かい側のビルに陣取った刺客たちをメンバーの一人が窓ガラスをぶち破って空中を移動した後に仕留めるシークエンスがある。この“能力”はどう見たってテレキネシス(念動力)だが、不思議なことにこの派手な“能力”を持つのは彼一人しかいないらしい。あとの連中は、せいぜいが弾丸の弾道を少し“曲げる”ぐらいの念力しか持ち合わせていない。

 劇中では弾道をズラすのは“並はずれた動体視力と運動神経による”みたいな説明が成されていたが、身体能力が高いぐらいでは大通りを挟んだビルとビルとの間は飛び越えられない。もうちょっと分かりやすい言及が必要だったのではないか。殺しの指令を出す“はた織り機”の正体も不明だ。何かスーパーナチュラルな存在らしいのだが、もうちょっとそのメカニズムを暗示するような描写が欲しいところである。

 それでも面白く思えたのは、作品が若者の成長物語という普遍的なルーティンを押さえているからだ。主人公はパニック障害の持病を持ちながら職場ではオドオドと振る舞い、私生活でも恋人を簡単に寝取られてしまうようなヘタレ野郎。それが凄腕の殺し屋だった父親の素質を受け継いでいることが分かり、フラタニティに参加すると同時に積極的に人生を歩むようになる。

 ところがこの組織は悪者に天誅を下すという名目はあるものの、立派なカルト系のテロ集団だ。彼はやがてそこから抜け出そうと藻掻くわけだが、つまり構図として(1)ダメな自分(2)努力と才能で有頂天(3)等身大の自分を獲得する、といった鉄壁のドラマツルギーが存在しており、これさえキッチリしていれば少々の荒唐無稽さも許されてしまうのだ。

 今回初のハリウッドでの登板となるロシア出身ティムール・ベクマンベトフの演出はテンポが良く、かつまたアクション場面の切れ味は抜群だ。特に終盤主人公が敵のアジトに単身“突撃”していくシークエンスは、あまりの無茶苦茶ぶりに笑いつつも感心してしまった。主役のジェームズ・マカヴォイはナイーヴさと大胆さを上手に使い分けた妙演で、前の「つぐない」に続いて存在感を発揮している。共演のアンジェリーナ・ジョリーとモーガン・フリーマンは・・・・いつも通りでコメントすること無し(笑)。ともあれ金を払っても惜しくはない娯楽編だ。
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「熱帯魚」

2008-10-03 06:42:54 | 映画の感想(な行)
 (原題:熱蔕魚/Tropical Fish )95年作品。台北に住む中学3年生のツーチャン(志強)は受験生にもかかわらず女の子のことやTVゲームのこと、そして“いつか自分がヒーローになって世の中を救うのだ”という能天気な空想などで頭がいっぱい。ある日、小さな男の子が誘拐されるのを見た彼は、その子を助けようとして、自分も捕まってしまう。ところが元刑事の誘拐犯のボスは身代金を受け取りに行く途中で交通事故死。途方に暮れた手下のアチン(林正盛)は、二人を故郷の漁村へ連れて帰る。身代金をいただいた後、家族揃って台北に引っ越そうという計画を立てるが、ツーチャンが受験を控えていることを知った一家は、何とか合格させようと“特訓”を始めるのだが・・・・。監督はTVドラマ出身でこれがデビュー作の陳玉勲(チェン・ユーシュン)。

 風変わりなコメディで、演出に泥臭い部分もあるのだが、不思議と印象に残る映画である。タイトルの「熱帯魚」は何の暗喩かというと、昔は台湾の近海に山ほどいた熱帯魚が環境破壊で姿を消してしまったことから、せち辛い現代社会の中に埋もれがちなささやかな庶民の夢をあらわしているのだろう。

 主人公の多愛ない空想さえも踏みにじるドライな受験戦争。わが子が誘拐されても平然としているブルジョワ家庭の欺瞞。養殖池を作るために地下水を汲み上げ過ぎて地盤沈下を起こした漁村の中で人生投げたように生きるアチンの一家と、そこに帰らざるを得ないアチン自身。つまらない日常が間抜けな誘拐劇によって揺らぎ始め、スリル満点の非日常の様相を呈してくると、そこに思いがけぬ“夢”を見い出してしまう小市民の悲しさ。

 もちろん誘拐事件は解決し、身代金は手に入らず再び面白くもない日常に帰る登場人物たちだが、ツーチャンと心を通わせる不幸な境遇のアチンの妹をはじめ、すべてにささやかな非日常の夢の甘やかさと、現実に向き合うほんの少しの勇気をもたらして終わる。

 被害者が受験生であることをだけを大仰に取り上げるマスコミとそれに乗って大騒ぎする一般ピープルのアホらしさを尻目に、ちっぽけな小市民の夢が大きな熱帯魚になって台北の空を泳ぐラストは痛快だ。陳監督のライト感覚は見上げたものだ。
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「TOKYO!」

2008-10-02 06:50:00 | 映画の感想(英数)

 ミシェル・ゴンドリー監督による第一話「インテリア・デザイン」のみ面白い。地方から上京してきた駆け出しの映画監督(加瀬亮)とその恋人(藤谷文子)。友人(伊藤歩)の狭いアパートに居候しながら住居を探すが上手くいかない。彼の方は映画を作っているといっても才能のカケラもないのだが、そんな彼が作るカスみたいなフィルムでも興味を持って観に来る客が少なからずおり、果てはお褒めの言葉までもらってしまうという不条理。菓子店のバイトもソツなくこなし、軽佻浮薄な生き方が板に付いてくる彼に対し、正攻法に生活基盤を整えようとするが持ち前の不器用さで行き詰まってしまう彼女の運命は・・・・。

 中身なんかよりも軽いノリで世の中を渡っていく方が何かとお得で、地道に生きようとするとバカを見るという、都会の皮相的な一面をシニカルなタッチで描いた本作。実はその捉え方も“皮相的”なのであるが、観客にその疑問を強く抱かせないだけの語り口で(特にラスト近くのシュールな展開は光る)、最後まで違和感なく付き合える。

 下水道に住む怪人(ドゥニ・ラヴァン)を描いたレオス・カラックス監督の「メルド」はまったく面白くない。展開が冗長で演出にメリハリが皆無。何を言いたいのか分からないし、キャストの演技も遊び半分。そして意味もなく長い。デビュー当時は斬新な映像感覚で評価が高かったこの監督も今や才気の片鱗も見られなくなり、時の流れというものは本当に残酷であると思った。

 ポン・ジュノ監督の「シェイキング東京」は、引きこもりの中年男(香川照之)が10年ぶりに外に出てくる話。これも大したシャシンではなく、そもそも舞台が東京である必然性がまったくない。都合良く地震が起きるのも意味不明。印象的なのはピザ配達人に扮する蒼井優のガーター姿ぐらいだ(笑)。

 こういうオムニバスものは各パートに通じてピシッとしたコンセプトの共有が必要なはずだが、それがほとんど成されていない。ただ“そこそこ有名な監督に、東京を舞台に撮らせてみました”というレベル。とことんダメだった「Jam Films」シリーズみたいなのよりは少しはマシかもしれないが、ハッキリ言って、この程度でカネ取って劇場公開する価値はないと思う。テレビの深夜放映かネット配信ぐらいで十分なネタではないだろうか。
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「アンカーウーマン」

2008-10-01 06:43:43 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Up Close & Personal )96年作品。思うのだが、テレビのニュースキャスターが本番中に“私見”を述べるのは良いことなのだろうか。特定のスタンスをワザとらしく取るアンカーマンは、その行為自体が視聴者に対する“誘導尋問”なのだということに気付いているのか・・・・いや、たぶん知っている。それによって視聴者が喜んで視聴率が上がればいいのだ。この傾向は30年前のNHKの「ニュースセンター9時」の磯村某から始まった。“私事ではございますが・・・・”と前置きして、自己の見解を滔々と述べる態度のデカさに視聴者は驚いたものだ。それまではニュースというものは事実だけをコメントなしで読むだけで、新聞で言う“社説”に当たるものは「ニュース解説」として別の番組としていたものだ(古いなあ、トシがばれるぞ)。

 で、私の考えだが、キャスターのコメントは不要だと思う。特に政治・外交に関する事象に対してのセンチメンタルな論評は百害あって一利なしと確信する。でもそれじゃ誰もニュース見ないし・・・・。だからといって、ニュースをショーとして仕立てなければ見ないような人間など時事問題を語る資格はない、という極論に行き着くのも芸がないし・・・・。

 ともあれ、駆け出しの女性キャスター(ミッシェル・ファイファー)が、敏腕プロデューサー(ロバート・レッドフォード)の助けを借りて全米キー局のアンカーウーマンとして出世していくまでを描いたこの映画、ニュースをショーアップさせるための、なりふり構わぬノウハウが多数紹介されている。アメリカのアンカーマンは大変な高級ポストであることは知られているが、その実、単独のスクープはできず多数のクルーに支えられていることも示される。レッドフォード扮するプロデューサーは“ニュースは正論を言うように”と彼女に指導するが、リベラル派の彼でも、ある一つのスタンスの側からの番組作りをしていることがわかる(つまり、中立ではない)。

 レッドフォードが追求する硬派ネタはボツになるが、偶然に刑務所の暴動に遭遇した彼女の捨て身の取材でそのネタが生きてくるという、映像至上主義の皮肉。キャスターの主義主張より彼女の髪型や服装で白黒付けたがる視聴者のレベル。テレビをめぐる問題は要領良く盛り込まれてはいる。

 でも、映画はロマンティック路線を取っており社会派の鋭さは最後まで見せない。2大スターの共演のラブストーリーのネタのひとつにテレビが取り上げられただけ、という感じだ。レッドフォード自身の監督作「クイズ・ショウ」の切迫さにはとても及ばない。たぶん彼にしても、次回演出作の資金調達のため出たのではないか(おいおい)。

 ジョン・アヴネットの演出は凡庸で、前半なんかアクビが出た。可もなく不可もない映画だが、ファィファーのキュートさとセリーヌ・ディオンによる主題歌だけで入場料のモトは取れるかもしれない。
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