本作を観て愉快になれないのは、一つに登場人物が次々と死んでいくことにある。主人公・真知寿(ビートたけし)の父親は事業に失敗して芸者と心中。義理の母親も自殺。子供時代の真知寿と仲良くなるちょっと変わった男も事故死。芸術学校の仲間はバタバタとこの世を去り、果ては一人娘さえもいなくなる。
別に彼らが退場すること自体がイケナイというのではない。必然性があれば描いてしかるべきだ。しかしこの映画においては、何も作劇上の合理性がない。要するに、キャラクターをスクリーン上に出してはみたものの、扱いきれなくなって無理矢理に消し去ったというのが実情だろう。そんなスタンスで作っている映画が面白いわけがなく、全編これアクビの連続である。2時間がとてつもなく長く感じられた。
真知寿は絵を描くこと以外は何もできない男だが、困ったことに才能のカケラもない。アーティストとしての矜持さえなく、胡散臭い画商のいい加減なアドバイスを真に受けて題材をコロコロ変える始末。また、それについて何の疑問も持たない。つまりは“破綻している人間”なのだが、作者はその“破綻したままの状態”を追うだけで、何ら映画的興趣を醸し出そうと腐心している様子はない。
本来は芸術家の生き方なんて、一般人にとってどうでもいい。それを“どうでもよくなくさせる”ような方法論を提示しないで、こんな映画を撮る意味はない。せいぜいが夫婦漫才のような共同制作の場面や、突如として電撃ネットワークのパフォーマンスが展開される場面で笑いを呼ぶぐらいだ。樋口可南子、柳憂怜、麻生久美子、中尾彬といった共演陣も頑張ってはいるがどこが手持ち無沙汰の感がある。
それにしても、こういう駄作がよくヴェネツィア国際映画祭に出品されたものである。北野武のネームバリューというしかないが、オリジナルな映画作家としての彼の才能は「HANA-BI」で終わっていると言って良い。もちろん本作には彼独自の映像感覚や間の取り方などの個性が感じられる。ただ、もはやそんな技巧だけでは映画にならないのだ。
彼に必要なのは“外から持ち込まれる企画”だと思う。既存のよくできた脚本をたけし映画ならではのカラーで料理する。「座頭市」が成功したのは、それに徹したからだ。大事なのは彼と付き合うプロデューサーの存在であろう。自分勝手なネタを独善的に作ろうとする彼の首根っこを押さえつけ、ちゃんとした商業用劇映画の仕事をさせる製作者が必要だ。それが出来ない限り、今後は彼に映画を撮らせるべきではないと思う。