goo blog サービス終了のお知らせ 

元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

大事なのは、経済対策だ。

2010-05-19 06:48:17 | 時事ネタ
 今のマスコミが主に取り上げる政治ネタは、首相と民主党幹部の“政治とカネの問題”であり、あるいは普天間基地移転問題に対する政府のもたつきを糾弾するといった、いわば一種扇情的なものばかりだ。そうでなければ来るべき参院選に向けての新党ラッシュに関する“政局”の話ぐらいか。国民の興味の方もそれに準拠しているように思う。

 しかしよく考えて欲しい。首相が幾ら小遣いを貰おうが、幹事長がどれほど後ろ暗いカネを扱おうが、国民にとっては何の関係もない。どうせヨソ様のカネだ。普天間の話だって、地元民以外の者にとってはしょせん“他人事”である。いずれにしろ首相の無能ぶりを論って溜飲を下げるには丁度良いかもしれないが、日々マスコミが大々的に報道するようなことではない。

 現時点で最も国民が関心を持たなければならないこと、それは経済政策だ。少なくとも政治家の持ち金や米軍基地の行方よりは一般ピープルにとってはるかに切実な問題である。最近では“景気はリーマンショックの時点よりは幾分持ち直した”という報道も目立つが、それは単に“最悪の事態を脱した”ということに過ぎず、順調な回復とは言い難い。しかも、その景気回復とやらは外需主導である。つまりは必死になって経済を立て直した諸外国の“需要のおこぼれ”を拾っているだけなのだ。

 外需ほど先行き不安定なものはない。しかも、輸出攻勢をかけると将来的には円高圧力になって跳ね返って来るというのが国際金融の常識だ。ハッキリ言って、外需しか景気回復要因が見つからないということは、日本政府が何もやっていないということである。

 いくらマスコミが“不況は一段落した”と言おうと、失業率は相変わらず高い水準にあり、若年層は就職難に喘ぎ、中高年は賃金カットやリストラに怯えるばかり。労働組合系のシンクタンク「連合総合生活開発研究所」が4月に発表したデータによると、世帯収支が赤字の家庭が約4割に達し、400万円未満の収入では6割が赤字になるという。労働者にとって景気回復なんて関係のない話だ。

 そうでなくてもGDPの伸び率は低迷し、平均株価も10年前の水準からはほど遠い状態だ。この危機的状況で呑気に政治とカネの問題や基地問題ばかりを論じているヒマがあるのか。ましてや消費税率アップなんかトンでもない話だ。

 今一番大事なことは、経済問題である。どうすればデフレを脱却できるか・・・・国民の興味の対象はそうでなければならない。経済オンチの政治家など不要だ。次回の選挙の焦点は経済政策に尽きると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」

2010-05-18 06:40:47 | 映画の感想(さ行)

 ゼブラクイーンに扮する仲里依紗を見る映画だ。それ以外には何の存在価値もない。近年台頭著しい我が国の若手女優陣は、大半が“ピュア系”である。2,30年前の若い女優達のように(誰のことだ? ^^;)、下品さや禍々しさを売り物にしてはいない。仲里依紗だってこれまでの作品では可愛らしさを前面に出したパフォーマンスに専念していたはずだ。しかし、本作での彼女は今までのイメージをかなぐり捨てるような毒々しさを見せている。

 彼女が身につける扇情的な衣装は、当然のことながら「ヤッターマン」における深田恭子のドロンジョの二番煎じだ。振り付けだってレディー・ガガあたりのパクリだろう。しかし、モノマネであることは分かっていながらも、本作での彼女は実にヤバい(^o^)。

 北欧人の血を引いているためか、肌が抜けるように白く、しかもお腹から下半身にかけての肉の付き具合が半端ではない。それも決して緩んだ贅肉ではなく、締まったまま盛り上がっている。何しろダンスや立ち回りのシーンでは、腰を振るとケツの肉がプルンプルン震えるのだからたまらない。

 三池崇史の演出もさすが心得ていると言うべきか、下からの仰角ポジションを多用した嘗めるようなカメラワークでエロさを強調。近頃の邦画の中では際立ったワイセツ性を獲得することに成功している。仲里依紗としても今後は“肉体派もこなせる清純派(謎 ^^;)”として独自の路線を極めて欲しい(爆)。

 さて、映画の出来自体は低調もいいとこだ。何しろ前作に引き続き脚本は宮藤官九郎。彼に筋の通った作劇など期待してはならない(笑)。いきなり舞台が西暦2025年に飛ぶのも唐突ながら、いつの間にやら東京は「バットマン」シリーズのゴッサム・シティの劣化コピーみたいなゼブラシティと名を変えていて、朝夕5分間だけ権力者が自由に市民を殺していい「ゼブラタイム」の導入によって治安の向上を図っているという設定自体、何もコメントしたくないほどいい加減だ。

 哀川翔扮する主人公は記憶を失っていて、遠心分離器(大笑)によって抽出された彼の“悪の部分”がゼブラクイーンとして実体化しているといった筋書きも噴飯もの。それでも笑えるネタが多数出てくれば許せるのだが、終盤の不発の下ネタをはじめとして、ことごとくハズしっ放しだ。ラストのオチなんて寒々しい限り。仲里依紗の怪演がなかったら、観る気も起こらないシャシンである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「BROTHER」

2010-05-17 06:05:38 | 映画の感想(英数)
 2000年作品。新作「アウトレイジ」がカンヌ映画祭に出品中の北野武監督によるギャング映画で、日本に居られなくなったハミ出しヤクザがロスアンジェルスに進出し、単発的な成功を収めるものの結局は破滅していくまでを描く。

 あまりにも予想通りの内容なので笑ってしまった。たぶん海外メディアではブライアン・デ・パルマ監督の「スカーフェイス」との類似性が取り沙汰されるだろうが、この映画の主人公はアル・パチーノと違い、金や権力に執着しない。いつかは全てを失うであろう自分を淡々と傍観者的に眺めるだけである。

 この“死ぬ前のわずかな執行猶予をたどる旅”というテーマは北野映画の基調となっているが、今回は世界標準規格(?)を狙う事情もあってか、テーマを盛り込む上で「ソナチネ」みたいな高踏的ケレン味を廃し、平易なドラマツルギーに徹している。このアプローチはまあ納得できるものである。“マンネリ”だとか“ワンパターン”だとかいう批判は本作に限っては聞き流そう。まあ、ヴェネツィア映画祭で大賞を獲得した「HANA-BI」の余勢で作った映画とも言えるのだが。

 たけし以外のキャストでは寺島進が最高。石橋凌も悪くない。ただし、渡哲也が出てくるシークエンスは余計であり、ここだけ映画のリズムが乱れている。大物役者に対して気を遣ったのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「武士道シックスティーン」

2010-05-16 06:59:50 | 映画の感想(は行)

 大して面白くもない。青春映画の名手である古厩智之監督の作品の中でも、出来映えは下から数えた方が早いだろう。敗因はズバリ、剣道を題材に選んだ点にある。剣道は中学・高校の武道の時間にも取り入れられているから、経験した者は多い。少なくとも、硬式野球やテニス等よりも一般ピープルにとって身近な存在であったはずだ。

 しかし、競技としての剣道はマイナースポーツでしかない。名の知られた大会でも、見に行くのは出場者の身内ばかり。この“見るスポーツとして映えない”という事実は、映像化する際の大きなハードルになる。つまり、どうやれば盛り上がるのか、どう撮ればカッコ良く見えるのか、それらを把握するのが困難だということだ。

 いくら剣道の熟達者からすれば素晴らしい技だろうと、それを一般ピープルが見て感心しなければ何もならない。だから映画の作り手は、剣道の技の見せ方を観客のレベルに引き寄せるために、工夫に工夫を重ねなければならなかったのだ。ところが本作は撮影のスケジュールやら何やらで、そこまで練り上げる時間がないままクランクインしてしまったような印象を受ける。これがもしも他のポピュラーなスポーツならば、製作条件は随分とラクになっただろう。

 さて、かつては剣道の中学チャンピオンで武道一筋に生きてきた女生徒と、大会で彼女を“何かのはずみ”で破ってしまったチャランポランな女生徒とが同じ高校に進み、互いに切磋琢磨(?)するという筋書きの本作、演じている成海璃子と北乃きいの実力と存在感もあって、何とか映画が破綻しないだけのレベルには踏み止まっている。

 しかし、前述のように剣道という扱いにくいネタを採用したためか、二人にとって何がどう“成長”したのかほとんど分からない。端的に言えば、冒頭近くの主人公達の力量と、ラスト付近でのパフォーマンスとが、あまり変わらないのだ。

 これではヤバイと思ったのか、説明的なシーンとセリフを山のように挿入するハメになり、結果として上映時間が無駄に長くなった。当然のことながらドラマに締まりが無くなり、冗長な印象しか受けない。これではダメだ。舞台が首都圏の何の変哲もない街に設定されているのも不満で、内容の薄さをカバーするためにもローカル色の強い地域にロケを敢行すべきだったと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「男はつらいよ 寅次郎紅の花」

2010-05-15 07:16:46 | 映画の感想(あ行)
 95年作品。シリーズ第48回目にして最終作。渥美清の最後の主演作であるが、残念ながらつまらない出来だ。本作は寅次郎の甥・満男(吉岡秀隆)と泉(後藤久美子)の恋の顛末を描くパートが半分以上を占めるが、ハッキリ言ってこれが全然面白くない。

 名古屋に住む泉が突然柴又を訪れて、満男に“別の男と結婚する”と言う。満男は彼女が好きなのに“そりゃよかった、おめでとう”と言ってしまう。その日からショックを受けた満男は会社をサボり、泉の結婚式をメチャメチャにし、そのまま奄美群島までフラフラと流れ着き、そこで出会ったリリー(浅丘ルリ子)に親切にされるが、彼女の家にはなぜか寅次郎(渥美清)が居座っていて・・・・、というご都合主義の権化みたいな展開からしてついて行けない。



 だいたい結婚前に以前の男を訪ねて来たってことは、まだ彼女が結婚に踏み切れないという証拠じゃないか。ダメもとで無理矢理口説けばいいではないか。それを何だ? 一応“おめでとう”なんて理解のあるセリフを吐いたあと、家出して式をぶち壊すとは(「卒業」のマネのつもりか?)。こういう優柔不断なヒネクレ野郎がもし近くにいたら、シバいてやるところだよ。さらに泉が奄美に来て、満男と和解(?)するに至っては何をかいわんや。あんたたち勝手にやってなさいという感じだ。

 肝心の寅次郎とリリーの関係はどうなったかというと、いちばん寅次郎と息が合ったマドンナだから(シリーズ通算4回目の登場)、この際一緒になっても全然かまわないと思ったけど、やはりラストは“約束通り”である。二人の描写は不十分で弛緩した演出も目立ち、正直言ってどうでもいい感じだ。

渥美清は寅次郎と一心同体みたいな感があったが、年齢相応の枯れた演技を他の役でもっと見てみたかった。それだけに近作「おとうと」では山田洋次監督の本シリーズへの“想い”が感じられるだけに、より一層そう思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オーケストラ!」

2010-05-14 06:37:52 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Le concert)コメディだと思っていたら、終盤には感動大作の様相を呈してくる。まさに一粒で二度おいしい娯楽編だ。ロシア・ボリショイ劇場で掃除夫をしている主人公は、実は旧ソ連時代はボリショイ管弦楽団の常任指揮者だった。ユダヤ人音楽家を追放する政府方針に異を唱えたことで左遷させられ、何とソ連崩壊後も復職できない。そんな彼が支配人室で手に入れたFAX用紙には、パリのシャトレ劇場からのコンサート依頼が載っていた。彼はこれを盗み出すと、昔の仲間を集めてボリショイ管に成りすまし、パリ公演をデッチ上げようとする。

 前半のメンバー集めのくだりは、かつては一流オケで腕を振るっていた連中が運転手だの闇屋だのといった生臭い職業に身をやつしていて、しかもそれらが板に付いてしまい、ミュージシャンとしての矜持がどこかに飛んでしまっているのが悲しくも可笑しい。

 すったもんだの挙げ句にパリに乗り込むが、ほとんどのメンバーが公演のリハーサルそっちのけで夜遊びとアルバイト(?)に精を出すといういい加減さ。その前に、かつて主人公を追放した元KGBの職員をマネージャーとして引き込むという荒技まで披露しているのだが、そのことも霞んでしまうほどの乱行ぶりだ(爆)。

 パリ公演では売れっ子の若手女流ヴァイオン奏者をソリストとして指名し、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をメイン・プログラムとして設定するが、彼女と主人公、そして彼女の女性マネージャーとの間に因縁話が存在することを匂わせる。面白いのはそれが上手い具合に観客をミスリードしている点で、ラデュ・ミヘイレアニュ監督は多重構造の仕掛けを終わり近くになるまで明かさずに映画を仕上げている。このあたりは感心した。

 さらに、ネタが割れそうになる寸前に実演シーンが始まるのも巧妙な持って行き方だ。旧ソ連時代に何があったのか、主人公と女流ヴァイオリニストとの真の関係とは何か、そして、どうしてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲なのか。それらが演奏と共に示されるクライマックスは素晴らしい。ある意味野村芳太郎監督の「砂の器」を思い起こさせる、音楽とドラマとの見事なコラボレーションだ。正直、個人的にはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲はそれほど好きではない。だが、少なくとも映画を観ている間はこの曲が至高のものに思えてくる。

 主役のアレクセイ・グシュコフは食えないキャラクターを好演。かつての“恋人”に扮したミュウ=ミュウもベテランらしい余裕の演技だ。ヒロイン役のメラニー・ロランは、タランティーノ監督の「イングロリアス・バスターズ」の時とは比べものにならないほど魅力的だ。この点、やはり今のハリウッドはヨーロッパの女優の活かし方をよく分かっていないと思う。とにかく音楽好きはもちろん、コメディや歴史ものが好きな観客も満足させる、なかなかの快作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花様年華」

2010-05-13 06:52:08 | 映画の感想(か行)
 (原題:花様年華 In the Mood for Love)2000年作品。舞台は1962年の香港。新聞記者のチャウ(トニー・レオン)と、商社で秘書として働くチャン(マギー・チャン)は、同じ日に同じアパートへと越してきて隣人となった。ところがある日お互いの伴侶が不倫関係にあることを知ってしまったことから、二人も密会をするようになる。

 隣同士で、しかもそれぞれのパートナーが浮気三昧の状況では、速攻でベッドインしてもおかしくない。そこを“決して一線は越えないぞ”と固執するのは一種のマゾであり、作劇的にはおかしいとも言えるのだが、そこはウォン・カーウァイ監督、相変わらずウソで固めた“見た目だけ”のラヴ・ストーリーの創造に抜かりはない。

 今回はクリストファー・ドイル主導のカメラワークのケレン味を抑え、呼吸の長い演出と撮影に専念している。舞台設定を考えれば当然だろう。トニー・レオンは好演だが、マギー・チャンの存在感が圧倒的。チャイナドレス姿が素晴らしい。内容はそう深くはないが、風格のある“外見”だけで十分堪能できる映画である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「プレシャス」

2010-05-12 06:14:53 | 映画の感想(は行)

 (原題:PRECIOUS BASED ON THE NOVEL PUSH BY SAPPHIRE )主人公の母親を演じるモニークの存在感に尽きる。それ以外は内容が薄い。そもそも、どうして舞台が87年のハーレムなのか分からない。原作がそうだから映画もそれに準拠した・・・・というのならば現時点で映像化する意味はないだろう。87年に特定した社会情勢や風俗の描出によって、現在に通じる(あるいは、今と比較できる)モチーフを提示させないと、作品のヴォルテージは上げられない。

 ヒロインのプレシャスは16歳だが、父親からの性的虐待によって2度も妊娠するハメになり、高校からドロップアウト。身持ちの悪い母親の面倒も見なくてはならず、当然勉強する余裕もなく文盲状態だ。おまけに最初に産んだ子供にはメンタル面の障害がある。

 まさに悲劇の釣瓶打ちだが、監督のリー・ダニエルズはこれを単なるお涙頂戴劇にしたくなかったのか、あえて平易なスタンスを取っている。素材に対して没入せず、手持ちカメラの多用による即物的な効果を狙い、さらにはヒロインの空想シーンに代表されるような明るくポップな映像表現も挿入。

 しかし、勘違いしてほしくないのだが、これらは“単なる手法”に過ぎない。メインのプロットと描写対象の扱いがシッカリした上での“味付け”ならば納得できるが、肝心のドラマ運びが陳腐で主人公及び周りのキャラクターの造型が練り上げられていない状況では、観ていて鬱陶しいだけだ。

 主演のガボレイ・シディベは猛烈な肥満体で見た目のインパクトは大きい。だが、逆に言えば中身の描き込み方の薄さを体型でカバーしているようにも思えて(爆)、何とも愉快になれない。彼女がフリースクールに通い、理解のある教師と友人に恵まれ、何とか立ち直るきっかけを掴むという筋書きは在り来たりで、それを工夫もなく漫然と流すだけでは(テレビで見かけるような)ただの苦労話である。もっと切迫したタッチを前面に出さないと観た後にすぐに忘れてしまう。

 だが、冒頭にも書いたようにモニークの仕事ぶりだけは天晴れである。完全に根性がねじ曲がったような、とことん世の中をネガティヴに捉え、救いようのない被害者意識に凝り固まった人間のクズを、これほど生々しく表現できたケースは稀であろう。オスカー受賞も納得だ。

 教師役のポーラ・パットンは相変わらずキレイだが、取って付けたようなキャラクター設定には閉口した。ちょっとビックリしたのはマライア・キャリーの出演。一曲披露するどころかスッピンに近い姿をさらした地味な役柄だが、このパフォーマンスがどうだというより、彼女を引っ張り出した作者の人脈の広さに感心してしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ペイ・フォワード 可能の王国」

2010-05-11 06:33:47 | 映画の感想(は行)
 (原題:Pay It Forward)2000年作品。自分の手で世界を変える方法として“ペイ・フォワード計画”なるものを思い付いた少年と、周囲の人間模様を描くミミ・レダー監督作。公開当時はヒドイとかツマランとかいう評を聞いていたが、そこそこ良い映画だと思う。ラスト近くのあざとい展開も“どうせハリウッド映画”と割り切ればあまり腹も立たない(ここを“淡々としたタッチ”で終わってしまうと商売にならないのかもしれんね)。

 この“ペイ・フォワード計画”というのは、1人の人間が3人の人間に親切に振る舞い、さらにそれぞれ親切を受けた者が3人に親切をしていくというものだ。いわばネズミ講みたいな善意の押しつけシステムであるが(爆)、それを手放しで賞賛するような脳天気な展開とせず、主人公の微妙な屈託を通して“世の中、そうウマく行ってたまるかい”という作者の冷静さが垣間見える中盤までの持っていき方に納得した。

 舞台を“沙漠の中の人工都市”であるラスベガスに設定したのもテーマと呼応して効果的だ。少年役のハーレイ・ジョエル・オスメントはちょっと小芝居が気になって愉快になれないが、母親役のヘレン・ハントと教師に扮するケヴィン・スペイシーがドラマを引き締めている。

 それにしても、この映画を観て“よしっ、自分も何か人に親切にしよう”と本気で思った人は幸せである。たとえ映画理論なんて知らなくても、小賢しいウンチクを並べる評論家より、はるかに映画を楽しんだのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「息もできない」

2010-05-10 06:35:51 | 映画の感想(あ行)

 (英題:Breathless)切なくも感銘を受ける映画だ。チンピラヤクザと女子高生との交流を描く韓国製インディーズ作品。低予算であり、名の知れた“韓流スター”なんか一人も出ていない。だが、ヴォルテージの高さは凡百のピカレスク映画とはまるで次元が違う。この切迫度は、作者自身が背負う大きな屈託を小細工なしに吐露したことの現れであろう。

 主人公のチンピラはまともに他人とコミュニケートする手段を知らない。暴力によってしか、相手に言いたいことも伝えられない。どうして彼がそうなったのか、その真相に映画は薄皮を剥がしていくようにゆっくりと、しかし着実に迫ってゆく。彼の生い立ち、そして考え方、目を覆わんばかりの悲惨な半生の描出は、まさにそうなる必然をもって強い説得力を獲得している。御為ごかしな部分など微塵もない。

 相手の女子高生は家族愛を知らない。母親はとうの昔に世を去り、父親は精神異常者で弟は社会からドロップアウトしている。苦労しているのは自分だけで、捨て鉢になりそうな、辛い日々だ。

 ただし、この二人がめぐり会う背景には単に“同病相憐れむ”といった連帯感だけがあるのではない。愛し方も愛され方も分からない、でも決して“孤立”を甘受してはいない。きっといつかは他者と理解し合えるようになるはずだという、切ない“希望”が心の奥底に存在している。二人はいわば、外の世界に共に立ち向かってゆく“戦友”同士なのだ。

 しかし、運命は彼らが知り合った時点から悲劇を用意していた。普通ならばもう少し穏やかな結末に繋げるところだが、それまでの前提が激しすぎることから、こうまでしないとドラマを着地できなかったことも十分想像できる。だからこそ、その前段の漢江のほとりで二人が心を通わせるシーンの美しさが映えるのだ。

 主演のヤン・イクチュンは、製作・脚本・監督・編集まで兼ねている。しかも監督としてはデビュー作だ。時制をバラバラにして登場人物の苦悩を炙り出す手法もさることながら、カット割りの鋭さはとても新人とは思えない。なかなかの才能だ。

 ヒロイン役のキム・コッピはそれほどの美少女ではないが、体中から発散される硬質のオーラは見逃せない。ユン・チョンホの撮影、インビジブル・フィッシュの音楽、共に的確な仕事ぶり。韓国映画の新しい流れを確認する意味でも、見逃してはならない作品だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする