コーチkazuの「夢が実現!」 http://www.katch.ne.jp/~k-kami/

コーチ日本1のkazuさんが満を持してブログに登場!教育コーチを日本に広めた第一人者として、東奔西走しています。

子どもは不完全だから発展する

2021-12-30 07:19:45 | Weblog
人間関係の中でも、
もっとも大切なのが
親と子の関係だと思います。
いや、
自分は仕事での人間関係のほうが重要だ、
言う人がもしいても、
また、
自分には子どもがいないから違う、
と思っても、
とりあえずこの話は大切でしょう。
なぜなら、
人間社会の基本が「家族」だからです。
家族なしに社会は成立しません。

社会どころか、
家族がいなくなれば人類そのものも
早晩いなくなるのです。
家族とはそれほど重要なものです。

昨今言われる、「キレる子ども」などは、
社会不安そのものにつながり、
治安の問題になっています。

自分が子どものころ、
どんなことを考えて過ごしてきたか、
どんな人間になろうと考えていたかを
まず考えてください。
たとえば、
多感な時期、中学、高校の頃に、
どんな不安、不満をもち、
どんなことに悩んでいたか。
その上で、
子どもが今、何を思い、悩み、
なぜ関係に問題が発生するのかを
チェックしてみるのです。

たとえば子どもが夜更かしするということ。
自分も夜更かししていたのではないでしょうか。

「でも、自分は親に迷惑はかけなかった」
と言う人もいます。
本当にそうだったのでしょうか。
ご両親は心配しながらも
黙って見守っていたのかもしれません。

たとえば悪い友だちと遊んでいるとか。
自分の友だちは
みんな「いい人」ばかりだったでしょうか。
また、
親の目から見て「いい人」とばかり
つきあっているからといって、
本当に「まじめ」で「健全」でしょうか。
ここでは、
一流大学卒のエリートたちでも
汚職もすれば他の犯罪も犯します。

子どもとの関係でいちばん大切なことは、
「子どもは発展途上」にあるということです。
まさに変化し、
発展する不完全な人間がそこにいるのです。
完成した人格だと考えてはいけません。
それに、
10代の失敗など、
いくらでもあとから挽回できます。

しかも、
自分が知らないうちに
少しばかり心配になるようなことを
していることを発見して、
焦って頭ごなしに
禁止したり叱ったりしたからといって、
言うことを理解するでしょうか。
自分がどうだったか、
胸に手を当てて考える必要があります。


できないことをしようとしていないか?

2021-12-28 07:44:06 | Weblog
毎年、年末が迫るとみんなが忙しくなります
師走。
というくらいで、
お坊さんも走っていくほど忙しいというわけです。

けれども、
年末はなぜ忙しいのでしょうか。
仕事によっても違うとは思いますが、
年末だからといって
仕事そのものが増えるというわけではないのです。

よく考えてみると、
年末には「やるべきこと」が増えるのでしょう。
ふだんやらない、
「御歳暮」にはじまり、
「年末セール」
「クリスマスイベント」
「年末決算」
「忘年会」
「年賀状書き」、
学校なら
「期末テスト」
「成績表記入」
「終了式」
そして、
どこでも
「大掃除」
「仕事納め」となります。

そして、
「やるべきこと」は、
自分が関わる世界・社会の数だけ生まれるので、
職場と自宅のほかに、
地域、PTA、親の家、親戚、趣味のサークル、
ボランティァ組織などに関わっていれば、
その数のぶん「やるべきこと」が発生してしまうのです。
しかも、
会社などは年末数日前までに
それを終わらせようとするのですから、
あらためて考えると、
1年のうちでも12月だけに
これだけのことをやろうとするのが無理というものです。

これと同じで、
「やるべきこと」があったとしても、
必ずしもそれをやってしまうかどうかということは、
それにかかる前に
一度検討したほうがいいでしょう。

たとえば、
人間関係で、
一度に3,4人が関わるような
問題の解決を求められた場合、
2人くらいなら調整できるかもしれませんが、
4人の人間の心をコントロールしようというのは
無理があったりします。

心は物ではありませんから、
当然揺れ動くわけで、
一人がうまく行ったからといって、
翌日も気持ちが変わらないかというと、
そうではないことのほうが多いものです。

手一杯だなと感じたら、
できるところまで手を打って、
「しばらく放っておく」という方法があります。

できないところまでやろうとして失敗すると、
自信を失ってしまうし、
人からの信頼も揺らいでしまいます。

「やるべきこと」だからといって、
無理をせず、
ケースバイケースで判断をするということが
人間関係の改善の基本です。


気がつかないふりをする

2021-12-27 07:24:47 | Weblog
読者の中には、
非常に責任感が強くて、
何とかして家族や職場の問題を
解決してあげたいと考えている人がいるでしょう。

だれでも、
多かれ少なかれ問題を抱えて、
つねに解決方法を求めているのだと思います。

世の中に目を転じると、
不景気をはじめ、
不良債権、
金融不安、
リストラからピッキング窃盗、
ひったくりまで、
これも解決して欲しいことが山積みです。

こういった世の中のすべての問題を
一気に解決しようとしても無理なように、
自分の身のまわりにある問題も、
すぐに全部解決しようとするのは無理があります。
ある程度までは、
人の力も借りて解決していくことができるでしょうが、
手一杯になる一線があるものです。

たとえば、
経済的、
物理的な問題なら
どんどん解決していくことができても、
最後に、
人の心の問題に行き着いたときに、
それ以上は無理に進むというわけには
いかなくなるのです。

心の問題の他に、
人間関係の問題なども、
すぐによくしようというわけにはいかない場合が
ほとんどでしょう。

そんなときに、
「無視する」という方法があります。

まずは、
その問題がそんなに重要かどうかを冷静に考えます。

ひょっとしたら、
さほど重大な問題でもないことに
気づくかもしれません。

また、
緊急性があるかどうかを検討します。
急いで解決しなければならない問題は、
そう多くはないものです。

それまで駆け足でやってきたことも、
もう一押しというところまでくれば、
慌てないほうがいい場合があります。

さほど重大でもない、
緊急性もないという問題は、
しばらく放っておくのです。

そこまできたら
聞こえないふりをするというのは効果的です。

子どものしつけでも、
努力の結果ほぼうまくいって、
もう一歩でできあがりだな、
と思ったら、
気づかないふりをするという方法があります。

子どもは急に自分に関心が向けられなくなって、
ちょっと驚いたり、
不安になるかもしれませんが、
自分の力でゆっくりゆっくり進みます。

そのほうが、
本人のためにもいいのです。


自分が望まれる人間になる

2021-12-24 07:28:50 | Weblog
子どものころ学校では
「みんなと仲良くしなさい」
と言われたはずです。

「特定の子と遊びなさい」とは
決して言われませんでした。

ところが恐らく家では
「友だちは選びなさいね」
と言われたのではないでしょうか。

この矛盾する二つの指示を守るために、
子どもたちは学校ではみんなと遊び、
放課後には特定の友人と遊んでいたと思います。

友人は中学、高校になると限られてきて、
数人の親友と言える友人とつきあうようになります。
それも、
大学進学などでつきあいが薄くなって、
最終的には就職先の職場に
よくつきあう友人ができるか、
相変わらず大学時代の友人と
つきあうというパターンが多いのではないでしょうか。

そういう自分の友人遍歴を見てくると、
恐らく友人の性格などに
共通のものが見つかるでしょう。

遊び仲間であれば、
趣味などが一致する人だし、
自分の性格に合わせてくれる人になるはずです。

友人は自分が選んでいるつもりでも、
相手から見れば自分が選ばれているわけですから、
結局、
自分の性格や趣味、
目標などが一致するといった
一定の条件の人が集まってくることになるのです。

「類は友を呼ぶ」と言いますが、
まさに、「類」なわけです。
ということは、
自分のまわりにどうも尊敬できる友人がいない、
と感じていたら、
残念ですが自分がそういう部分を
持っているということも意味します。

まずは、
自分自身が「そういう人間」にならなければ、
尊敬できる友人も集まってはこないのです。

つきあうことを選択することはできます。
今、
つきあっている友人との時間に価値がない、
と感じているのだったら、
限られた人生なのですから
そういう無駄な時間はカットするべきでしょう。

だらだらと得るものもないのに
飲食やつまらないゴルフにつきあうとか、
ドライブで運転手をやらされるなどと
いったつきあいは、
きっぱりと断るべきなのです。

いわば友人のリストラですが、
ひとつだけ注意が必要です。
それは、
相手もそう思っているかもしれない、
ということです。


ユーモア人間に変身する

2021-12-23 07:32:57 | Weblog
ーモアとは世の中を明るくします。
人間関係にはユーモアがあったほうがいい、
ということに反対する人はいないでしょう。

ユーモアが人の心をやわらかくし、
豊かにする力をもっていることは、
だれでも知っていることだと思います。

それでは一日にいくつくらいのユーモアを発したり、
聞いたりしているでしょうか?

ほとんどゼロだと思います。

家族の中に、
たとえばお父さんが人の顔を見ると駄酒落をいう、
といった「楽しい」家庭を除いては、
街でも、
仕事場でも、
公園でも、
ユーモアに接する機会は少ないでしょう。

とくに都会に住んでいると、
隣人ともほとんど顔を合わせないし、
会ってもすれ違うくらい。
仕事は朝から晩まで忙しくて、
隣の席の同僚と無駄話をするヒマもない、
家に帰れば疲れ切った自分に、
家族は関心も示さない、
という状況でしょう。

昔は、
八百屋のおじさんが
「今日はダイコンのいいのが入ったよ、
奥さんのには負けるけどさ」
とか、
魚屋のおじさんが
「うちの魚は女子高生みたいにピチピチだよ!」
などと今ではセクハラのような
ユーモアを飛ばしていたものですが、
今ではスーパーに取って代わられ、
そこにはそんなことを言う店員もいません。

駅の改札は自動改札になり、
乗り物も無人化が進んで、
どんどん人間的な触れあいが減っているのです。

それでは、
自分が今日からユーモア人間に変身すればどうでしょう。
そうすれば家でも、
仕事場でも、
街でも、
ユーモアを聞くことができるようになります。

最初は「オヤジギャグ」と言われる
駄酒落でもいいでしょう。
はじめから高尚なウッィトに富んだユーモアを
発するのは無理というものです。
たとえば、
「おい、携帯が鳴っているよ。ケータイ警報かな?」とか、
「コンビニができたね。労組(ローソン)はあるのかな?」
「雨が降りそうだね。まあ、ムチが降ってくるよりはいいか」
といったレベルで十分ではないでしょうか。

ひとつだけ気をつけたいことは、
よく言われる使い古されたギャグや
同じことを何度も言わないことです。
それがいちばん嫌われます。

これを実行すると面白いことが起こります。
うまくするとユーモアが返ってくることです。

場を明るくするコミュニケーションとしてお勧めです。


自分より優れた人と会おう

2021-12-22 07:36:13 | Weblog
人間関係でも仕事でも、
勉強においても、
人は自分より優れたところのある人を見て、
マネするところはマネをして
自らのものにして伸びていくという面があります。

つまり、
逆に言うと自分より優れた人に
どんどん出会わなければ、
他の人に置いていかれるということにも
なりかねません。

ところが、
人というものは、
なにしろ自分がいちばんですから、
よほどの必要に迫られない限り
自分より優れた人と会ったり、
いっしょに仕事をしたがらないものです。

これでは、
最初から自分を伸ばすチャンスを
逃しているようなものです。

優れた人といっても
自分よりすべての面で優れているわけではない、
と考えることで、
ぜひともそのチャンスを増やしましょう。

どんな優れた人にも欠点や至らないところがあります。
自分には自分なりに、
自分の いいところ、
セールスポイントがあるはずですから、
それをうまくまとめて、
自分ならこういうことができる、
こういう能力がある、
と整理しておき、
優れた相手とも、
いっしょに対等の立場で
関わる方向を見いだすのです。

その前に、
優れた人というのは、
おしなべて謙虚です。

日本人特有の過剰な謙遜ではなく、
自分がまだまだ発展途上であることを
知っています。

そういうふうに己を知っている人ほど
優れているのです。

ですから、
相手が優れていればいるほど、
相手が一方的にごう慢な態度を取るといったことは
ないことになります。
ごう慢な態度の人とは、
はじめから関わらなくてもいいということさえ
言えるでしょう。
優れた人のすばらしいところ、
謙虚さ、
そしてその能力をつぶさに見て、
自分にできるところから
いっしょに何かをやっていく、
と考えればいいのです。

優れた教師は優れた生徒である、
とも言われるように、
優れた人はかえってあなたから
いろいろなことを学ぶでしょう。

相手があまりにも優れていて、
能力的に自分よりはるかに遠い先に行っている、
というときには、
素直にそう告げて、
「もっと勉強して
いつかごいっしょしたいと思います」
と辞退すればいいのです。

その能力の差が
はっきりとわかっただけでも
価値があり、
目標となるのです。


この世に生きていることに感動しよう

2021-12-21 07:17:34 | Weblog
厳然たる事実なのに、
だれもが目を背けようとしたり、
忘れようと努力していることがあります。
それは、
自分がいつかは死ぬということです。

そんなことわかりきっているから
気にしないのだという反論があるかもしれません。
それでは、
最近購入した自分にとっての高価な宝物は、
いつまでそれを使ったり
楽しんだりできると考えているでしょうか。
明日、
交通事故で死ぬかもしれない、
と考えて、
それを購入したでしょうか。
恐らく、
少なくともあと何年か、
できればあと何十年かは
自分が元気に生活しているという前提で
趣味のものなどを買ったり、
大切に保管していることと思います。

生命保険は、
死亡保障いくらくらいあればいい、
といったことを考慮して加入しますが、
その金額は、
まるで自分が生きて生活しているかのように考えて
決めていないでしょうか。
「今、月に20万円で生活しているから、
4000万円もあれば
子どもが成人するまで暮らしていけるだろう」とか。
ところが、
その20万円には
自分の食費や雑費が含まれているのです。
つまり、
自分が死んだら、
自分の分の食費などが減って、
残された家族は恐らく月に17万円程度で
生活できることを忘れているのです。

もちろん、
いつ死ぬかはわからない、
だからといって毎日、
死について考えようというわけではありません。

その反対に、
毎日、
生があることを感謝し、
感動しよう、
と言いたいのです。

たとえば、
愛車が汚れてきたから
今度の日曜日にゆっくり洗車とワックスがけをしよう、
と考えたとき、
もし、
その次の日曜日には
もう自分が死んでいるかもしれない、
としたら、
日曜日には家族みんなでいっしょに過ごすことを
考えたほうがいいのではないでしょうか。
洗車は金曜日にでも
ガソリンスタンドに依頼しておけばいいのです。
または、
日曜日の朝に軽く水洗いするくらいで、
そのまま家族でドライブにでもいけばいいのです。

日々、
生があること、
愛する家族がいることに感謝し、
そして、
うまく時間を配分すれば、
もっと家族といっしょに
感動を分かち合えることに気づきたいものです。


人生は遊びだ

2021-12-20 07:40:34 | Weblog
子どもたちはいつの頃から
「人生とはつらいことが多い、
大変な苦行だ」
と考えるようになるのでしょう。

徳川家康の
「人生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」
という言葉などを聞かされ、
それを理解できるようになる頃からでしょうか。

または、
両親がいろいろと苦労しているようすを見て、
そう感じるようになるのかもしれません。

お母さんからはいろいろと言い聞かされることでしょう。
「勉強しないとおとなになったときに苦労する」
といったことは一度ならず聞かされているはずです。

そして、
本来なら学ぶ楽しみを知るべき学校に行くことも
「つらいこと」になってしまうこともあるでしょう。
結果として、
その延長線上にある、高校、大学進学や就職も
苦行になってしまうのです。
いろいろな学問を勉強できること、
仕事を持って働けることは、
本来、喜びであるべきことです。
それを、
「イヤだけどやらねばならないこと」
と考えるために「苦行」になってしまうのでしょう。

そこに楽しみを見つければ、
勉強も仕事も、
自分の存在意義を実現する無上の喜びになるはずです。

人生もつらいものと考えるのではなく、
「遊び」と考えてみたらどうでしょう。
「人生ゲーム」いうボードゲームがありますが、
まさに学び、
働き、
不動産を買い、
保険金をもらい、
とじっさいの人生がゲームそのものです。
うまくいくこともあるし、
そうではないこともありますが、
最初からゲームだと割り切っていれば、
つぎにうまくやればいいという発想ができます。
遊びだからといっていい加減にするのではなく
本気で取り組みます。
そこに余裕を持つということです。
余裕ができれば自然体になり、
それまでうまくいかなかったことも
スムーズにいったりします。

子どもたちもそんな親を見ていれば、
勉強や学校を楽しめるようになります。
なにより人生をポジティブに
見ることができるようになり、
さらに可能性が広がるでしょう。

楽しむときも徹底して楽しみ、
仕事の大変さも日常の不運も
いつかよくなると考える遊びの人生のほうが、
豊かなものになるのではないでしょうか。


学歴や肩書きは関係ない

2021-12-17 07:42:23 | Weblog
日本が欧米型の実力社会に
なりつつあるといっても、
いまだに官僚の天下りはあるし、
不良債権の山を作り上げた
大銀行の幹部は莫大な退職金を得て、
さらには、
特殊法人などの理事長や理事たちは
大した仕事もせずに高い報酬を得ています。

ああいった人たちは、
バブル以前の高学歴高収入の時代の名残のようなもので、
恐らくこれからは消えていく特権的階級なのでしょう。

いってみれば、
今は、
収入が限られた給与労働者にとってだけ
厳しい「実力社会」で、
かねてからの特権的階級にとっては、
世間の目からするとまだまだ好き放題に
うまい汁を吸っているといった状態です。

そういう矛盾が蔓延する
社会全体の態勢は批判はできても、
簡単に改革するというわけにはいきませんが、
自分たちの職場で直接行われる差別待遇には
はっきりと反旗を揚げるべきです

とにかく、
学歴が低いからといった理由で、
その人の能力に関わらず、
低賃金、
長時間労働をさせることができる
時代ではないのです。

反対に有名大学卒だからといって
仕事に関して有能だとは
限らないことももはや周知の事実です。

現代社会で求められているのは
鋭い感性と実践力です。
大学卒より、
即戦力になる専門学校の卒業生が
注目されているのもその表れで、
就職率でも現状では
はるかに大学卒を上回っています。

高度情報化され、
個人の感性が発揮されるような場は
減っているようにも思えますが、
機械を使いこなすのはやはり人間なので、
そこでヒトならではの感性が必要になるのでしょう。

なにしろ、
機械は正確に計算することはできても、
途中で他の計算方法を思いつくことはありません。

これだという閃きがヒトならではのものなのです。
言ってみれば、
機械は疲れたり仕事に飽きたりしないので、
「もっとラクな方法はないか」などと
考えないことがヒトとのいちばんの違いで、
効率的・創造的な方法を求めて
人間は発展するのかもしれません。

毎日、
同じことをしているようでも、
その中に何かの可能性を見つけたり、
ちょっと違うことを試したりする、
それが感動の元と言えるでしょう。


自分は天才だと考える

2021-12-16 07:29:11 | Weblog
すばらしい絵画や詩に触れたりすると、
天才的な画家や詩人などは、
どこでこんなインスピレーションを
得ているのだろうと感心します。

天才は、
よく感動する人なのだろうなとも思います。
故岡本太郎氏は、
「芸術は爆発だ!」という名セリフを残し、
きっとあのカラフルな作品のような
爆発的なインスピレーションが湧くのでしょう。
そのインスピレーションが生まれる
きっかけとなるのも、
恐らく心のアンテナが
何を感じ取るかということでしょう。
アンテナの感度が高いかどうかが
天才とそうでない人の違いかもしれません。

アンテナの感度が、
感性を磨き上げることで高まるとしたら、
だれにでも天才を発揮する
可能性があるともいえるのです。
そんな才能ありません、
という人に限って、
いいセンスを持っているものです。

幼稚園やそれ以下くらいの子どもは、
みんな天才的な画家です。
だれも描いたことがないような
抽象的な絵を描いています。
人間の顔が三角形だったり、
太陽が真っ黒だったりと、
ピカソやミロ以上です。
それが、
小学生になるとほとんどの子どもが
どこかで見たような絵を描くようになります。

これは、
先生をはじめ周囲のおとなたちが、
「人の顔は丸でしょ」とか
「お空は青くしましょう」
「お日様は赤にしましょう」
とありきたりの常識を押し付けるためだ
としか考えられません。

太陽が赤いなんて決まっていません。
朝日はほとんどまっ白に近いのです。
それなのに、
既成の概念、
常識という名の強制を押し付けるから、
天才画家だった子どもが
当たり前のものしか描かなくなるのだと思います。

つまりもともと自分は天才なのに、
それが抑圧されているだけだと
考えることもできます。

世の中の規則なんて
表現の上では守る必要はない、
自由に表現するのだ、
と自分を東縛から解放することを
考えてみましょう。

そして絵筆をとってもいいですし、
直に手でペインティングするなどというのも
刺激になっていいものです。
粘土で造形してもいいでしょう。
天才は自分で東縛をはずして
作り上げるものなのです。