風の旅人たち <2000年、夏、ハワイ>

2006年06月15日 | 風の旅人日乗
6月15日 木曜日。
次は、舵誌の2000年10月号に掲載された、風の旅人たち、2000年、夏、ハワイから。
(text by Compass3号)

風の旅人たち《舵2000年10月号》

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

2000年、夏、ハワイ

危機
この夏のハワイには、元ニッポンチャレンジのセーリングチームのメンバーが13人も集まった。ハワイの夏に隔年で開催されるケンウッドカップに参加するためだ。
〈タワーズ〉に脇永、木村、小川、長尾、岡山、〈ファンデーション〉に伊芸、本田、〈ゼネット〉に三好、梅田、〈からす〉に柴田、〈エスメラルダ〉に早福、吉田、そして〈シーホーク〉にぼく、といった顔ぶれだ。
今年2月にニュージーランドでニッポンチャレンジが解散して以来久しぶりに会うメンバーも少なくなかったが、オークランドとは違い、ここハワイでは敵味方に別れてセーリングした。
それぞれ、日本艇に乗っていたり、USAチームに所属していたり、ニュージーランドチームに所属していたりしたが、レースコースですれ違うときは、手を振る代わりにハイクアウトしている足を振りあったり(手を振ると当然スキッパーに怒られるので)、秘密のサインでその日の夕飯の予定を知らせあったりして、結構楽しんだ。
彼らは経験、セーリング技術、肉体、性格に優れた日本人セーラーたちだ。仮に、今回のケンウッドカップで、この13人が戦闘力のある1隻のレース艇に集まって乗ることができたとしたらとても楽しかっただろうし、かなりの成績を残せたことだろう。
しかし今のところ、これらの“元ニッポンチャレンジ”のメンバーが、2003年のアメリカズカップ挑戦のために再びそろって一緒に乗るチャンスはほとんど無い。ニッポンチャレンジが次回のアメリカズカップに挑戦することをやめてしまったからだ。ただし、早福、脇永、谷路の3人は、ピーター・ギルモアがスキッパーになるシアトルのワールドワン・チームに行く道がまだ残されている。
アメリカズカップは大型艇を使ったレースだ。日本人セーラーはアメリカズカップクラスのボートに乗る以外、大型艇のセーリングを経験できる機会が極めて少ない。ぼくは全長67フィートの12メータークラスや70フィートクラスのレース艇でレースをしていた経験がある。しかし、恥ずかしながら告白すると、ニッポンチャレンジに入って、セーリング中のアメリカズカップ・クラスのボートの各部に加わるすさまじい荷重の恐怖から開放されて、セーリングそのものに集中できるようになるまで、数ヶ月以上を要した。自分が大型艇でのセーリングに慣れるために、前回のキャンペーンがもう1年早く始まっていれば、と今でも恨めしく思う。
しかし、元ニッポンチャレンジのバウからグラインダーにいたるセクションのクルーたちは、他のシンジケートの同じポジションのクルーたちにまったく引けをとっていなかった。過去3回の挑戦を通じて、大型艇でのクルーワークのノウハウが選手たちに引き継がれてきたからだ。
次回2003年の挑戦は、これらのベテランクルーたちがそのセーリング技術を次の世代の日本人選手に伝えていく場所になるはずだった。しかし今、ニッポンチャレンジのアメリカズカップ挑戦の歴史は途切れることになり、大型艇でのレースやセーリングを熟知した数少ないベテラン日本人セーラーたちの貴重な技術と経験は、伝えるべき若者たちに伝えることができないまま行き場所を失いつつある。
例えばハワイで〈シーホーク〉や〈ビッグアップル〉に乗ったチームニュージーランドのメンバーの多くは、ケンウッドカップが終わったわずか1週間後には、ニュージーランドで進水したニューマキシボート〈ショックウエイブ〉に乗ってオーストラリアのハミルトンアイランド・レガッタに参加する。
彼らはアメリカズカップ以外にもこういったレースや世界一周レースで、日常的に大型艇でのレースに参加することができる。
一方の日本人セーラーには、アメリカズカップのキャンペーンに加わる以外に、そういうチャンスがほとんど巡って来ないのが現状なのだ。ニッポンチャレンジのアメリカズカップ挑戦中止は、この意味からだけでも日本のレーシングヨット界にとって辛い痛手だ。

ニュージーランドの2連勝

今年のケンウッドカップは、〈シーホーク〉、〈ビッグアップル〉、〈ハイファイブ〉の3艇がチームを組んだニュージーランドチームが前回1998年に引き続いて優勝した。ケンウッドカップの2連勝はこのレガッタが始まって以来のことらしい。
今年は、シドニーホバートレースに優勝した〈YENDYS〉(シドニーの逆さ読み)を旗艦に、無敵のIMSレーティングを持つファースト40.7を2隻も加えたオーストラリアチームがひどく強力だったが、我々ニュージーランドチームは得点が3倍になる最終のモロカイレースでやっとオーストラリアを逆転して、なんとか優勝することができた。
オーストラリアの2隻のファースト40.7のうちの1隻は昨年のハミルトンアイランドレガッタにも優勝していて、ボートのIMSレーティングだけでなくクルーの技量も一流の手強いチームだった。
ニュージーランドチームの3隻には、ロイヤルニュージーランドヨットスコードロンがスポンサーを手配して、ハワイまでの艇の船積み代とクルーのエア・チケット代はスポンサーが負担した。その他、毎日のレースに積み込むミネラルウォーターや表彰式用のユニフォームなどもスポンサーから支給された。
チームを送り出したヨットクラブからはチームマネージャーがハワイに派遣されていた。彼は1998年のケンウッドカップで優勝したニュージーランドチームのうちの1隻のオーナーでもあるのだが、今回はチームのための下働きに徹し、レース前後の諸手続きの一部を担当したり、気象情報を集めたり、毎日のレース後にその日のレースの反省会や各艇間で情報交換しながら3隻のクルーたちが飲むための冷たいスタインラガーとニュージーランド産ワインを手配したりと、クルーがなるべくレースだけに集中できるよう、大活躍していた。
具体的に何が、と特定することはできないが、日本の外洋レース界が一朝一夕には追い着くことが出来ない彼我の差のようなものを、ニュージーランドチームの一員として参加したこの夏のケンウッドカップで、再び見てしまったような気がする。

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