風の旅人たち <高原の温泉にて>

2006年06月16日 | 風の旅人日乗
6月16日 金曜日。その次は、舵誌の2000年11月号に掲載された、風の旅人たち、高原の温泉にてから。(text by Compass3号)

風の旅人たち <<舵2000年11月号>>

高原の温泉にて

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

暑い暑いと不平を言いながらハワイでの仕事を終えてやっと日本に戻ったら、今年の日本の夏の暑さはハワイなんかよりも殺人的だったので驚いた。湿気の多い海岸近くの下界を慌てて抜け出して、山を目指した。
ここ数日間、長野県と岐阜県の県境に近い開田高原の開田村で温泉に入っている。木曽御嶽山のふもとの露天風呂には、ひんやりとした爽やかな高原の風が吹いている。
この高原は冬は雪に閉ざされてしまうが、夏は別世界だ。日本にもこんなにきれいな自然に囲まれた場所がまだ残されているのかと、感動する。村の中を流れているせせらぎに、岩魚の影が走る。

ケンウッドカップでニュージーランドが優勝し、ニュージーランド・チームに所属していたぼくは、生まれて初めてケンウッド杯でシャンパンを飲んだ。1986年に〈瑠璃光〉というボートでバウマンとして参加してから数えると、実に14年かった。それ以前にこのレガッタがパンナムクリッパーカップと呼ばれていた頃の1982年の〈サンバード〉からは18年だ。その年に生まれた赤ん坊はもう大学生ということになる。   
ヨットレースという、世間一般の世界から思い切り外れた、マイナーな夢を追い続けるということは、そのまま、自分の人生に対する忍耐力を試されるということでもあり、覚悟していることではあるが結構辛いことでもある。
 今回は幸運にも、レース艇部門の艇別でも10年振りに勝つことができた。10年ぶりにこの優勝トロフィーを間近で見ていると、10年前にこのキング・カメハメハ・トロフィーを取った時の、〈マテンロウ〉の故・杉山オーナーの嬉しそうな笑顔が鮮やかに蘇ってきた。
別にケンウッドカップばかりに出ているわけではないが、2年毎にこのレガッタのためにハワイにやって来ては、ほとんどいつも悔しい思いを抱えたまま日本に帰る、ということを何度も繰り返してきたことを思い返すと、つい、長いため息が出る。

彼らの実績、自分の実績

ケンウッドカップを終えて次のレース、ビッグボートシリーズに参加する〈シーホーク〉をサンフランシスコに運ぶために、キールを外すことになった。
 元々、キールを外すことを考えて造っていなかったため、このボートのキール・ボルトとステンレス製の分厚い台座は、エポキシ樹脂で船体に強固に固めている。キールを外す作業は、思いがけず大工事になった。
クックソンボートの社長ミック・クックソンと、ミックの親父のテリーがその作業を手伝ってくれることになった。
ハワイの太陽で船ごと焼かれているような暑い船内で汗を流しながら働く、世界有数のカスタムヨット屋2人の仕事を手伝いながら、初めて2人に会った17年前のことを思い出していた。

その頃はテリー・クックソンが造船所の恐い親父としてバリバリの現役で、息子のミックが家業をいやいや手伝い始めたばかりの頃だった。まだ小さかったクックソンボートの工場では、世界で初めてバキューム工法を使ってレーシングヨットの建造が始まっていた。
レーシングヨットを造るときに、バキューム工法は今では当たり前すぎるほど当たり前の方法だが、テリー・クックソンが、ほとんど独自のアイディアを使って、手探りでこの方法を開発した。
例えば、今は誰もそんなことはしないが、フォームと繊維とが接する最初の積層には、テリーはその2つの接着を強固にする目的で、樹脂にマイクロバルーンを混ぜ込んでいた。それはテリー独自のアイディアで、マイクロバルーンと樹脂の混合比はテリーの大秘密だった。2つを混ぜ合わせる作業は従業員にも誰にも見せずに、衝立の裏でいつもテリーが自分でやっていた。ビルダーたちは自分の容器(バット)が空になったら、その衝立の前に並んでテリーに混合樹脂を作ってもらうのだった。
そのとき造られた2隻の姉妹艇はブルース・ファーのレース界復帰第一作として大成功し、その翌年、ケンウッドカップの前身であるパンナムクリッパーカップを楽々とハワイからニュージーランドに持ち帰った。
テリ-の息子のミック・クックソンはその頃、ロサンジェルス・オリンピックのニュージーランド代表選考レースを控えてソリングの練習に夢中で、終業のベルが鳴る午後4時のずいぶん前に工場から姿をくらませて、練習に出かけていた。結局その代表の座はトム・ドッドソンに奪われ、ミックのオリンピックへの夢は叶わなかった。
それが原因でもないだろうが、長い間、トムとミックはお互いにお互いの悪口を言う仲だったが、つい最近になって、2人が協力しあう姿が見られるようになった。今ではトムもミックも、優秀なセーラーであると同時に、世界を代表するようなセール会社とヨットビルダーの経営者だ。 ニュージーランドのアメリカズカップ防衛のために、それぞれセールと艇を製造する重要な立場を担っている。ミックなどは、17年前は造船の知識などほとんどなかったくせに、今では世界をリードするカスタムボート屋の親父として、驚くべき技術と知識、経験を身に付けている。
ふと自分自身を振り返ってみる。 彼らと同じように努力を続けてきたつもりだったのに、彼らが素晴らしい実績を残して確固たる地位を築いているのに対し、一方のぼくは、今まで自分が歩いてきた道に足跡さえ残せないでいる。
ウーム、だなぁ。辛い。
しかし後ろを振り返っている暇はないわけで、次の目標、サンフランシスコ・ビッグボートシリーズに全力を尽くすことにしよう。

鎌倉=カマクラ=太陽が出る処の子供たち

ヨットレース以外の目下の楽しみは、古代ポリネシアカヌーを日本流に再現しようとしている〈カマクラ〉プロジェクトの手伝いだ。これは、鎌倉に住むハワイ人、タイガー・エスペリのアイディアを相模湾岸に住む海関係の日本人たちが協力しあって進めているプロジェクトだ。カマクラというのは、古代ポリネシア語で「太陽が出る処の子供たち」(カマ=子供たち、ク=出る、ラー=太陽)という意味なんだそうだ。
このセーリングカヌー〈カマクラ〉に日本の子供たちを乗せて日本を一周する、というのがタイガーの最初の計画だ。そしてポリネシアへの航海を経て、最終的には南アメリカまでセーリングする、というのが〈カマクラ〉の役目だ。
ポリネシアの人たちにとって、セーリングカヌーというのは神聖なもので、それぞれに存在しなければならない使命があって初めて建造されるものなんだそうだ。だから、船が出来上がってから船の名前を考えるのではなく、船の名前が先にあって、しかる後に建造に取りかかかるものらしい。だから、タイガーは〈カマクラ〉の進水式、各目的地を訪れたときのためのカマクラ独自の“ハカ”(ラグビーのニュージーランド選抜「オールブラックス」が試合開始前に相手に疲労する、「カマテッ、カマテッ、ナーントカ!!」というあの儀式をハカと言います。あれは自己紹介のようなもので、日本の武士が相手と相目見える前に「やあやあ我こそは・・・」と自己紹介しあうようなものらしい)もすでに作っていて、関係者たちは練習もしている。
日本の大人が自分のことばかり大切にして子供たちをどうも大切にしてないのに、伝説のハワイ人サーファー、タイガー・エスペリが日本の子供たちに海を通して何か大切なことを伝えようとしている。
日本人セーラーとして、手伝わないわけにはいかないでしょう。

(無断転載はしないでおくれ)