ホクレア夜話/第一夜~常識は常識でなくなる、ことがある

2006年09月20日 | 風の旅人日乗
ナイノアか、残念。
ナイノアの今回の来日に合わせて、舵に2001年と2003年に書いた、ホクレアとナイノアの記事をブログで連載してくれると嬉しい。
今はもう、頭が、来週からのラッセルクーツ44での激しいマッチレース・モードに切り替わって、私のほうは険しい顔付きになっている。
...と、このブログの主から受けたまわったCompass3号です。

何と、今年、2回も太平洋横断世界最短記録にチャレンジして、その記録を立て続けに手にしたこのブログの主は、その後も、新たなセーリングチームのトレーニングや、葉山セーリングキャンプなど、ほぼ毎日海に出て、セーリングの日々を過ごしていたかと思えば、自宅のボンクを温める間もなく、明日からは、RC44マッチレース参戦に向けて、闘志ムキ出しで、ヨーロッパへ向けて飛び立つところデス。

今回のナイノア・トンプソン氏の来日講演。
内田氏の密度の濃いトークやインタビューも見逃せません。
心理学者のA・マレービアン博士によれば、人が伝達する情報の中で、話し言葉で伝えられる比率は、7%に過ぎないそうで、その他、93%は、顔の表情、声の高低、大きさ、テンポなど、言葉以外の情報伝達(ノンバーバル・コミュニケーション)に頼っているとのこと。
百聞は一見にしかず、ですナ。
九州方面の方は、なかなか巡り合えない機会ですので、是非、参加して、このブログに気軽にコメント入れてみてください。
これを契機に、ブログで伝えたいことが山ほどあるのに、更新も間々ならないとの主の心境を聞くにつけ、メラメラと使命感に燃えるCompass3号であります。

ナイノア氏の生まれたのが1953年、このブログの主、西村先輩の生まれが1954年7月26日、Compass2号ことM谷先輩の生まれが1955年、そしてまたその後輩のCompass3号の生まれが1956年と、妙に続くのも、何かのシンクロニシティなのかも知れません。

さて、星の航海師ナイノア・トンプソン氏来日講演に寄せて、これから一週間にわたって紹介する『ホクレア夜話』の第一夜目は、2001年の舵誌に掲載された『太平洋のセーリング・ルネッサンス』の冒頭から。

台風一過の秋の夜長、暑かった夏の定番フローズン・ダイキリに代えて、泡盛「舞富名(まいふな)」のオン・ザ・ロックスでもチビチビやりながら、縄文時代から脈々とつながる太平洋航海民族の壮大な物語に想いを巡らしてみてください。(text by Compass3号)

『太平洋のセーリング・ルネッサンス』<<舵2001年掲載>>

蘇る太平洋古代外洋カヌー

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

第一部

常識は常識でなくなる、ことがある

昔かわいい小学生だった頃、テスト日の朝学校に行く道を、口の中で呪文のように「すいきんちかもくどってんかいめい、水金地火木土天海冥、…」と繰り返しながら歩いた。太陽系の惑星の、太陽からの順番のことだ。
しかしその後何年かしたとき、この順番は正しくないと笑われた。海王星と冥王星の順が違うらしい。そうだったっけ?と思いながら「・・・冥・海」と覚え直した。ところが何と言うことだ、最近また「海・冥」に戻ったという話を聞いた。
惑星の並び方など変わるわけがないと思っていた。子供の頃常識だと思っていたことが、常識ではなくなることに驚いた。
中学校でサッカー部にいた頃、九州の田舎では、真夏であっても練習中に水を飲むことは厳禁とされていた。運動中に水を飲むと心臓が弱ると説明された。炎天下、あまりの苦しさに水道場でユニフォームを水に浸すふりをしながらユニフォームから水をチュウチュウと吸った。
しかし今や、運動中は定期的に充分な水分を補給しなければならない事は常識として誰もが知っている。でも、その常識だって何時またひっくり返されるか分からないぞ、と密かに思う。科学は現在でもまだ発展途上であるらしいし、常識は時々常識ではなくなることを、おぼろげなが知るようになったからだ。地動説なんて、その当時の人間からしたら到底受け入れられるものではなかっただろう(一生物としては、感覚的には今でも受け入れがたい)。
いま常識だと思っていることは、もしかしたら何年かしたら常識ではなくなっているかもしれない。
これからここに書こうとしている話では、それらの可能性について触れている。
まずは、日本から近い文化圏のひとつ、ポリネシアで起きていることから話を始めようと思う。欧米や東南アジアの方ばかりを見ている現代日本人の視線の後ろには、広大な太平洋が広がり、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの島々がある。視点を転じてみさえすれば、北海道・本州・四国・九州・沖縄をはじめ多くの島々からなるこの国を、ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、イースター島などと同じ、太平洋に浮かぶ島国のひとつとして見ることもできるのだ。そういう視点で見ると、ポリネシアで起きていることは自分たち日本人と関係のないことではない。
その話の後に、日本人は昔、といっても西洋人からセーリングを教わるよりもっともっと昔、独自のセーリング技術や外洋航海術を持っていたのではないか、という仮説について話を進めていこうと思う。

ポリネシアで蘇った、太平洋の伝統航海術

今から30年ほど前のハワイで、ポリネシア航海協会という組織が誕生した。この組織の最初の活動は、ハワイ人の起源に関する当時の新説を確かめるために、ハワイに伝わる古代セーリングカヌーを復元して、自分たちハワイ人の祖先が旅立ってきたとされるタヒチへの回帰航海をすることだった。
人類学者、考古学者、サーファー、レーシング・カヌーイストらで構成されたこの協会は全長62フィートの<ホクレア(幸せの星)>という双胴のセーリングカヌーを造り、古代航海術を持つナビゲーター、マウ・ピアイルグをミクロネシアのサタワル島から招いてタヒチへと向かった。
マウ・ピアイルグは古代太平洋に伝わる航海術を身につけた数少ない航海者だ。この航海術では、コンパス、六文儀はもちろん、星の位置を示す原始的星座図も含めて、一切の航海道具・用具を使わない。すべてをその航海士が伝承で受け継いだ知識と記憶、身体が海から感じ取る感覚だけに委ねる航法だ。星、海のうねりの形、波、鳥、水温などの情報だけで目的地に向かう。祖先から伝承された知識、身体で覚えた海からの感覚、そして経験に頼る航海術。
ミクロネシアには文字文化がなかったため、サタワル島から各島へ向かう海の道は、歌という形で伝承されている。ミクロネシアやポリネシアの島々、そして遠くは小笠原諸島、さらに本州と思われる島までの歌があるらしい。
話は少し逸れるが、先日エベレストに登って世界最年少で7大陸最高峰登頂を達成した石川直樹はサタワル島でマウからこの航海術を学んでいる。彼はこの夏再びサタワル島に渡り、古代航海術をさらに勉強することになっている。
マウ・ピアイルグはこの古代航海術を使って見事に<ホクレア>をタヒチへと導き、この航海は成功した。タヒチからハワイへと渡った祖先の航海から1000年近い時を経て、伝説のカヌーと同じ形のカヌーが故郷タヒチに姿を現したのだ。<ホクレア>を送り出したハワイ側、迎え入れたタヒチ側、それぞれの人々はこの航海の成功に熱狂した。それは、太平洋にキャプテン・クックが登場して以来、忘れ去られようとしていた自分たち独自の文化、アイデンティティーを思い出す重要な端緒になったのだ。

“星の航海師”の誕生

ポリネシア航海協会の次の目標は、ハワイ人ナビゲーターによってタヒチへの航海を成就することだった。そのナビゲーターとして名乗りを上げたのが、ナイノア・トンプソンだ。
ナイノアは直接マウから航海術を学ぶと共に、プラネタリウムに通い、海の上で閃いた自分のアイディアを盛り込み、古くてしかも新しい独自の航海術を確立していった。
ナイノアが伝統航海術を身に付けた後、彼を乗せた<ホクレア>はポリネシア人だけの力でタヒチを目指し、ハワイ出港から31日めにタヒチ・パペーテに無事到着する。現代ハワイ人の“星の航海師”ナイノア・トンプソンの誕生だ。
ナイノアはこの航海の後、ハワイ-タヒチ-ニュージーランド-トンガ-サモア-タヒチ-ハワイという大航海や、ハワイ-イースター島往復などを、伝統の航海術を使って<ホクレア>での航海を成功させている。ナイノア・トンプソンは今や、ポリネシア人の誇りを思い出させた航海師として、知らない者がいないほどの英雄である。
ナイノアのお爺さんは学習院に学び、昭和天皇とは学友でもあった。ナイノア自身も子供の頃近くに住む日本人二世から海を教わった。日本を何回か訪れたナイノアは、日本に何か精神的に共通な部分を感じるのだという。

(第二夜へ続く)