ホクレア夜話/第二夜~<ホクレア>がもたらしたもの

2006年09月21日 | 風の旅人日乗
明日からスロベニア。イタリアのトリエステで開催されるバルコナラ・カップ参戦の準備。
27日からラッセル・クーツと一緒に乗って練習するため、それまでに艇のセッティングを終わらせなければならない。
かなりタイトなスケジュールだけど、楽しそう。

7月の太平洋横断、8月の葉山町の人たち対象のセーリング体験イベント開催とは、またかなり趣の異なるセーリングになりそうです。

このレースのために、10月8日のチームニシムラと帆船日本丸記念財団との共同開催の横浜シーサイドフェスタは西村本人が欠席しなければならなくなったけど、そこは西村が最も信頼する小池哲生がピンチヒッターを務めてくれるから心配はない。

三田オーナーと新生チーム・ビーコムの初戦。結果は気にせず、まずは楽しいレースをやってきたいと思います。

イタリアから帰ったら、2日後に沖縄に行き、サバニ特訓。将来のテレビ映像化がかかるので、スケジュールとしてはきついけど、楽しみ。

沖縄から帰ったら、すぐ、再びヨーロッパへと、続きます。

西村一広

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明日、スロベニア(Slovenija)へ向けて飛び立つ予定。
目指すは、国境に程近い港町、Port Rose(スロベニア語でポルトロッシュ、イタリア語でポルトロゼ)。
詳細は、今年の1月9日のブログ、『スロベニアへの道』でどうぞ。
そのポルトロッシュで、ラッセル・クーツ44の新艇でセーリング。
イタリアでのマッチレース、フリート・レースへの参戦と、怒涛のセーリングの日々が続く。

昨夜に引き続き、『ホクレア夜話』の第二夜目は、2001年の舵誌に掲載された『太平洋のセーリング・ルナッサンス』の中盤から。

太平洋の文化が風下方向に向かって広がったと単純な固定観念で考える陸の学者は、生き続けたいという本能と好奇心とを同時に兼ね備えている人間というものを理解してないのだと思うとの主張は、素直に受け止められる。

新たな世界に希望を見出して、それに挑もうとするならば、ただただ風に身を任せるのではなく、意思を持って風上に逆らって行こうとするのが自然の摂理だ。
新天地に到達した経験のみが遺伝子として代々刷り込まれ、それが何世代にも渡って繰り返されることによって、次第に定着して行ったのだと思う。
(text by Compass3号)

『太平洋のセーリング・ルネッサンス』<<舵2001年掲載>>

蘇る太平洋古代外洋カヌー

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(第二夜から)

<ホクレア>がもたらしたもの

ホクレアのタヒチ往復航海成功後、ハワイ人社会に大きな変化が起き始めた。若い世代が、自分がハワイ人であることの誇りを思い出した。自分たち自身の文化やアイデンティティーを大切にして後世に伝えるべきではないのか、という動きがうねりのように広がっていった。
ハワイの各島で<ホクレア>のような双胴セーリングカヌーの建造が相次ぎ、ポリネシアの他の島に出かけたり、沿岸航海では子供たちを乗せてポリネシア文化の教育に使うようになった。
また、学校では子供たちにハワイ語を教えるプログラムが誕生した。そしてまた、観光用ではない伝統のフラを、正しく復活させようという動きも活発化した。

ナイノア・トンプソンに率いられた<ホクレア>や姉妹艇は、タヒチの後、ニュージーランド、サモア、トンガ、イースター島を訪れた。その航海は即ち、ニューギニアやニューカレドニアにいたポリネシア人の祖先“ラピタ人”が、タヒチやマルケサスを経由して太平洋に広がっていったとされるポリネシアの人と文化の移動経路を辿る旅を意味していた。
以前、西洋人を中心とした学者たちは、ポリネシア文化は海流が流れる方向、貿易風が吹いていく風下、つまり東から西方向に一方通行で伝播したに違いないという固定観念を持っていた。それは自分たち自身が風上に走る性能に劣る横帆の帆船しか持つことが出来なかったということもあったし、この地域の人たちの知能を自分たちと同等かそれ以上だと認めたくなかったという側面もあったのだろう。子供の頃読んで興奮したトール・ヘイエルダール博士のバルサ筏<コンチキ号>による漂流実験もその説を証明するためのものだった。しかしその学説は現在ではほとんど間違った説として扱われている。
ポリネシアの人たちが太平洋上を海流や風に逆らって自由に航海して行き来してきたのかもしれないという仮説を最初に立てたのは、皮肉なことに西洋人の英雄キャプテン・クックだった。彼はこの海域の島々に共通する言葉が多いこと、全長30メートルもの双胴のセーリングカヌーを実際に目にしたことなどからこの仮説を立てた。
そしてその伝説の双胴セーリングカヌーを再現した<ホクレア>とナイノア・トンプソンの古代航海術による数々の航海は、古代ポリネシア人が風上へも走ることができる優れた性能のセーリングカヌーと外洋航海術を持っていて、太平洋をどちらの方向へも自由自在に行き来していた、という現在有力な学説を支えることになった。
セーラーとしての個人的な意見だが、太平洋の文化が風下方向に向かって広がったと単純な固定観念で考える陸の学者は、生き続けたいという本能と好奇心とを同時に兼ね備えている人間というものを理解してないのだと思う。
故郷の島を出て、あるかないかも分からない、見知らぬ目的地に行こうとする人間が、風下にしか走れない船に乗って最初から風下に向かおうとするだろうか?だって、風下に何もなかったらそのまま故郷には帰って来られない。昔の人だってそんなに馬鹿じゃなかったと思う。風上に向かって走れる船や操船技術を手にして、それからのち、風上か風を横に受けて航海に出発して行けるだけ行き、それで何も見つけられなかったら追い風か横風で帰ってこようと考えるのが普通だと思う。

ポリネシア航海協会とナイノア・トンプソンは、ここ2,3年のうちに<ホクレア>で日本を訪問しようと考えている。自分たちの内にある精神的なものが、なぜか日本と響きあうという直感があって仕様がないらしい。日本という国、日本人という人種に自分たちに共通する何かを感じるらしいのだ。
古代ポリネシア語で古事記や日本書紀を読むことが出来るという学者がいる。その学者によれば、日本の太平洋岸の地名には古代ポリネシア語で意味をなすものが少なくないらしい。古代ポリネシア語で「なにわ」とは“美しい河口”、「むつ」とは“その先を切り取られた地”もしくは“終点”という意味を持つのだという。
そしてまた「鎌倉」も古代ポリネシア語で意味をなす。カマは子供、クは昇る、ラーは太陽、つまり「かまくら」は、“日いずる(ところの)子供”という意味になる。
日本語の語源は南インドのタミール語であるらしいことが学習院大学の大野晋氏の研究で明らかになりつつあるが、大野氏の説によれば、タミール語が他の文化と共に日本に入ってくるのは縄文時代の最晩年期のことだ。それ以前の日本はそれとは異なる文化圏と交流していて、地名の一部は古代語のまま残ったと考えることはできないのか・・・。

(第三夜へ続く)