歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

小笠原登の書簡

2005-11-06 |  宗教 Religion
先日の全生園祭の図書館展示より、小笠原登より鈴木重雄(田中文雄)に宛てた書簡を村井澄枝さんより画像にして送って頂いた。鈴木重雄は戦後まもなく、光田健輔の強制収容政策に協力したとして、愛生園の自治会より厳しく批判されたことからも判るように、終戦後しばらくの間まで、小笠原登の考え方を「異端邪説の徒」と考えていたとのことである。その鈴木氏が、退所して社会復帰されたあと、「内心の疑問」を解決するために「小笠原博士に一度あってみたい」との思いに駆られ、昭和38年秋に大阪で初めて小笠原博士に会われたとのこと。当時博士は、水俣病にも深い関心を持ち、調査していたとのことである。昭和42年の「多磨」誌に、「京都大学ライ治療所創設者-小笠原博士の近況」という文を寄稿している。これは、小笠原登について言及するときに良く引用される貴重な資料である。

 鈴木重雄は、光田と小笠原を比較して次のように言っている。
光田先生は、日本のライ学会では、いわば陽のあたる場所を歩き通し、自説の儘に日本のライ管理制度を確立し、運用し、朝日文化賞、文化功労賞、文化勲章など、数々の社会的、国家的の栄誉を受けている。又、先生の業績を伝えるために伝記風の「回春病室」「愛生日記」「癩に捧げた80年」等の刊行も為されている。
 小笠原博士の方は、全く光田先生とは対照的である。即ち、日本ライ学会の主流の外の、陽の当たらない場所で黙々として自説に生き抜いて来たというべきか。
鈴木は、光田先生の論敵として自説を曲げず、政府の救癩政策に抗して通院治療を続けた小笠原に、「気性の激しい、傲岸さが顔にまでもにじみ出ていイカツイ風貌の人物であろう」と思っていたが、実際に、小笠原に初めてあったときに、「仏像のような柔和な微笑を湛えた長身の老人」にあって驚くのである。

晩年の小笠原も、その長年にわたる医療活動が評価されるようになり、藤楓協会その他の団体から表彰されるようになる。甚目寺まで小笠原を訪ねた鈴木への礼状の中で、小笠原は医学振興賞受賞を祝う鈴木の祝詞にたいして謝辞を述べたあとで、受賞時の感慨を次のような詩に託している。
一(もっぱら)ら世恩に委せて俗縁を離る
吾が年八十 烟よりも淡し
朝は来り夕は去って蹤跡なし
光彩何ぞ期せん 地天に満ちんことを

(六月二十五日表彰牌を受く)

無願兼(ま)た無行
何によりてか徳功有らんや
頌詞今手に在り 漸汗南風に冷ややかなり
この詩を詠んだあとで彼は

「世恩に計らはれるがままに無為自然の生を送りたいと念じて居ります」

と、恬淡とした東洋的諦観を述べている。これは彼の詩の中の「無願兼無行」に応じる詞だろう。こういう諦念は、博士の場合は、決して静寂主義に陥るのではなく、むしろ古希を迎える歳に奄美和光園に赴任したこと、そこでの医療奉仕という世俗の活動的生の直後に言われていることに注意したい。無為自然といっても、博士の場合は、多数者の偏見に流されることはなく、むしろその偏見や迷信をズバリと指摘され、臨床医として首尾一貫した実践活動を貫かれたのである。
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