歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

環境と生命 1

2005-11-20 |  宗教 Religion
1987年にアメリカのバークりーで開催された、「仏教徒とキリスト教徒との対話」を主題とする国際会議の主題は、「地球の癒し(Global healing)」であった。 この国際会議において、米国のプロセス神学者の J.Cobb は、現代において仏教とキリスト教が共通に取り組まねばならない緊急の課題として地球の生態学的危機があることを指摘して、次のように述べた。
宗教的な観点から死について語る場合、従来は、ほとんど個人的な次元にとどまっていて、私という個人の死、あるいは、死後の世界はどのようなものであるかという観点から、この問題が扱われた。今日では、我々は、地球全体に死が広がりつつあるという状況に直面している。このことは、もはや、様々な宗教的伝統に属する人間にとって、避けられない問題となっている。
地球全体に「死」が拡がりつつあるということは、あくまでも人間的な比喩、もしくは、神話的象徴によって語られていることであって、科学的事実の客観的な記述ではない言う意見があるかもしれない。普通に我々が理解している自然科学には「病」とか、「死」という語は登場しない。もし、自然科学の最も基底的な言語に、生死(生成と消滅)、価値、目的というような範疇が存在しないならば、自然科学的な事実を根拠として、「病める」地球の「癒し」について語ることはできないであろう。健康であったり、病気であったりするのは、あくまでも人間についていえるのであって、他の生物種や無生物について言うのは無理であるとも思われよう。

しかしながら、「健康」や「病」を人間にのみあてはまる特殊な述語と考えたり、自然そのものを人間の外部に対象化された単なる物質の運動に還元するような自然観そのものが、現在の生態学的危機と密接に結びついているとしたらどうであろうか。

宗教が人間の個人的な内面的生の問題のみに関わり、科学が自然を外部から操作可能な物質の機械論的システムに還元するとき、自然と人間の関わりを問う「環境問題」を、「科学的にかつ宗教的に」語るという道はほとんど閉ざされていたと言ってよい。

筆者が以下でとりあげるのは、地球の生態学的危機を「科学的かつ宗教的に」考察するという課題である。単に科学の立場から、あるいは、単に宗教の立場から、考察するというのではなく、科学と宗教とが、そこにおいては不可分であるような場所で、地球に迫りくる「死」の問題を考察しようというのである。それは、多くの人々が単なる科学の問題として、あるいはヒューマニズムの立場から論じてきた環境問題を宗教的視点から検討を加えることにほかならない。

キリスト教の神学の用語で言い換えるならば、この問題は、現代の自然神学の緊急の課題の一つであり、仏教の立場から言えば、地球の生態学的危機の問題を、原始仏教の古き智恵―四聖諦-による「苦」の克服という視点から考察することに他ならない。

  地球の生態学的危機ecological crisisという問題を、「科学的にかつ宗教的に」考察するためには、少なくとも次の四つの項目が必要である。

(1)近代文明の疾患に他ならぬ地球の生態学的危機の事実を正しく認識する事
(2)近代文明の疾患の真の原因が何であるかを根底から自覚する事
(3)生態学的危機を生まぬ文明の理念を改めて正しく定義する事
(4)生態学的危機を克服するための実践の具体的指針を与える事

この四項目は、原始仏教の教義の一つであった四聖諦-「苦集滅道」の四つの聖なる真理-に学んで、その見地から現代の環境問題を見直したものである。

四聖諦の原点は、自己を含む世界の全体が苦しみの中にあることをあるがままに正しく認識すること(dukkha=苦諦)である。苦を克服することは、苦の現実を正しく認識することなくしてはあり得ない。苦諦とは悲観主義的なイデオロギーを意味するのではない。それは、我々自身に深く関わりを持った事柄であると同時に、経験に基づきそこから帰納された客観的事実でもあり、この事実を率直に認め、そこからものを考えていくことが、「苦からの癒し」を実現するためには必要不可欠であることを意味しているのである。

 さて、原始仏教の救済論の第二項目は、苦の原因を認識すること(samudaya=集諦)にあった。我々が、その中で呻吟している苦しみの原因は一つではなく、多くの原因が集積して生じたものである。この原因を認識せずに、人間が神々に安直に寄り頼み、外部からの奇跡的救済を願望することによって、癒されると言うことは、本来はあり得ない。原始仏教においては、人間が自己自身の外部にたてた神々にたいする信仰は究極的には、人間を救済するものではないから、神々もまたその支配下にある因果の理法を認識することが第一義的な重要性を持つのである。

しかし、言うまでもなく、ここで求められている仏教的な智は、対象認識に限定された科学的な理性ではない。近代人にとっては、理性とは人間の心の機能の一つであるに過ぎず、人間の感情や意志とは独立であり、それらの「非合理的な」機能とは区別されている。対象を分析し支配する分析的理性は、自己と他者を差別する差別知であると同時に、外部から提示された目的を実現する手段にもっぱらかかわる手段知に、自らを限定している。

 これに対して、「智体悲用」という言葉に要約される仏教的な智は、情意的活動のすべてを包摂しそれらを統一する目的知であると同時に、依存的な生起(pratitya samutpada=縁起)の関係にもとづく自我の非実体的性格を正しく認識する無差別知という基本的な性格を持っている。科学的な理性は、手段知としていかに優れていても、仏教的な智の基準からすれば、目的価値の選択に対しても、また自己と他者の依存関係に対しても、甚だしき無智と共存しうるのである。

嘗ては、西欧においても、ソクラテスとプラトンに根ざす伝統の中では、哲学的な理性は、人間の生にたいし単なる手段知以上のものを意味していた。「善を善として認識して、それを行わないことは不可能である」とは、ソクラテスの言葉であるが、その様な「善」の認識は、人間の理性を世俗の次元でのみ捉え、無統制な欲求に奉仕する道具と見る立場からは閉ざされてしまっている。

英国の緑の党のスポークスマンであるサラ・パーキンは、地球の生態学的危機の事実が認識されても人々がそれに応じて適切な対策を講じることができないでいる現状に警告を発して次のように述べている。
我々の、鈍感さ、沈黙、そして、怒りの欠如は、我々が、自己自身の絶滅をつぶさに見届ける唯一の生物種になるかもしれないことを意味している。そのときに小さな墓碑銘が刻まれるだろう。「人類は絶滅の日が近づいているのを知っていた。しかし、それを防ぐだけの知恵を持ち合わせていなかった」と。
 ここで、我々が考えるべきことは、絶滅の日が近づいてくるのを「知って」いながら、それに対して、適切に対処することができないと言う人間の問題である。ここで、無明(avidya)の長き夜に沈んでいるのは人類の全体である。一人一人の人間のではなくて、いわば人類全体の無明ということが問題となっているのである。

この無明が高度に発達した科学技術社会における極度に専門化した知と隣り合わせになっていることが、我々の時代の特徴である。地球の生態学的危機の事実を正しく認識し、その原因がほかでもなく、我々自身にあること、我々自身の無明にあることを自覚することが、この危機を克服するための第一歩である。ここで、「自覚」というもともと仏教に由来する用語を使ったが、その理由は、生態学的危機の問題は、我々自身のことを棚上げして、客観的に操作可能な対象世界の問題として、政治的ないし技術的な手段のみによって解決できるような問題ではないからである。 
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